「インド洋の時代(1)」(2024年08月19日)

インド洋の西にある大きな島マダガスカル島に1千2百年前、ヌサンタラの女たちが足を
踏み入れて、そして現在マラガシ人と呼ばれているマダガスカル島原住民の母親になった。
種々の学術調査研究によってその説の妥当性が認められている。マラガシ人の祖先が東南
アジアに由来しているという説は既に諸方面から認知されているのだ。インド洋が東の端
の住民を西の端に運んだのである。

かの女たちは多分、スリウィジャヤ王国の船乗りたちと一緒にインド洋を越えたのだろう。
どうしてスリウィジャヤの船がそんなところまで航海したのだろうか?マラカ海峡からジ
ャワ海にかけての一帯を中心にヌサンタラからインドシナ亜大陸に至る海上通商路を支配
下に置いただけでなく、スリウィジャヤは東南アジアの海上覇権保持者としてインド洋を
越えてマダガスカル島にまで勢力を広げた。インド洋を航行して渡るのに必要な知識と技
術をスリウィジャヤが持っており、スマトラ島あるいはマラヤ半島の女たちをマダガスカ
ル島まで送り届ける力と条件を備えていた結果がそれだったと考えられるからだ。

スリウィジャヤ船は当時の国際通商において大きな貢献を果たしていた。軍船にしろ商船
にしろ、スリウィジャヤ船は450〜650トンの貨客を運ぶ能力を持っていたと海事史
専門家は語っている。挙句の果てにスリウィジャヤは全長30メートル、運搬能力1千ト
ンの巨船すら作ることができた。

ムシ河の下流デルタ地帯やバンカ島南部、あるいはバタンハリ河デルタ地帯で泥に埋もれ
た古代船が発見されて、世界に類を見ない東南アジアの造船工法が解明された。中国船は
昔から胴の隔壁を補強するのに板と鉄くぎを使っていたが、東南アジアの船はそれを模倣
しなかった。タンブクと呼ばれる四角い出っ張りとアレン椰子の繊維で作った綱で板と板、
板とフレームを接合させ、穴を開けた接合部を補強するために木製の楔を打ち込んだ。

英語でsewn-plank and lushed-lugと呼ばれているその工法で作られた古代船の中に炭素
年代測定で西暦3〜5世紀ごろの建造と判定されたものが見つかった結果、西暦紀元の初
めごろには既にその工法が東南アジアで使われていたのではないかと考える学者もいる。


スリウィジャヤという東南アジアで初めての巨大海洋王国がスマトラ島にできたのは、単
にそんな現象が起こったのだというようなものでは決してないし、そしてまた同時に、も
っと古い時代から蓄積されてきたものとは無関係に、突然変異的にそれが起こったわけで
もないのである。

長い時代にわたってたくさんの漁夫・船乗り・運送人・商人・冒険旅行者から果ては海賊
たちが蓄積してきた海洋文化が花開くことで起こったのがその現象だったとデニス・ロン
バール教授は書いている。現在形成されている統一インドネシアの根底を形成したのがそ
れだったのだ、と。

しかしヌサンタラのひとびとが本質として持っていたその海洋文化をヨーロッパ人の到来
と植民地化の歴史が圧殺し、海をかれらの生き方から疎遠なものに変えてしまった。その
経緯は拙著「海を忘れた海洋民族」をご参照ください。
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-96_Ocean_People.pdf

遠い古代からヌサンタラのあちこちに湧き起こった繁栄はインド洋にできたスパイスロー
ドの賜物だった。インド亜大陸・ペルシャ・アラブ半島・アフリカ東岸とヌサンタラがネ
ットワークで結ばれてその間を物産と文明が往来し、ヒンドゥ教・仏教・イスラム教もイ
ンド洋の波涛を越えて広がった。かつてインドネシアで行われた布教のスタイルは、商売
がらみ、そして結婚を通してのものがマジョリティを占め、強圧的暴力的な布教は一般的
なものにならなかった。[ 続く ]