「インド洋の時代(2)」(2024年08月20日)

インドネシア文化の特徴としてきわめて複合的多面的な様相が見られることは既に定評に
なっている。食べ物・衣服・信仰スタイルなどが示す雑種的な印象は誰の目にも明らかだ
ろう。なにしろインドネシア人自身がさまざまな人種の混じり合った遺伝子を持っている
のだから。

中でもとりわけ、スマトラ島インド洋岸は人種的な雑種文化の色が濃厚な地方だ。インド
系・アラブ系・ペルシャ系・華人系・東アフリカ系・ムラユ系などのプラナカンが複雑に
混じり合ったひとびとが雑種的な文化の相貌を社会生活の中に示している。そのメスティ
ーソ文化が、生活慣習システムを他の地方とはまた別の色合いを感じさせるものにした。

複合的で多様的なインドネシア文化を多かれ少なかれ支えているのがメスティーソ文化だ
と言えるにちがいあるまい。インド洋にできたスパイスロードは海を取り巻く諸民族の混
交を促した。かれらは海の波に乗って他地域の海岸諸港にやってくると、そこで商売し、
生産し、ある期間そこで生活し、中にはその地の土になった者も多数いて、異文化の人間
同士が混じり合う社会を作った。侵略し、征服し、強制し、搾取するというできごとはメ
ジャーにならなかった。

上下関係を作らないエガリテの人間関係を基盤に据えたかれらは、人間にとってのより善
き生き方をその社会の中に実現させようとした。異文化人同士の相互アプローチは侵略的
にならず、協調的になった。背景やアイデンティティが異なっていても、互いの対等性を
ベースに置き、より善きものを偏見なしに目指し、みんながそのより善きもののもたらす
効果をみんなに分配しようとした。そこでは、進歩や変革を怖れる人間は相手にされなか
った。

そんな社会のひとびとは友好的平和的に新しいものを受入れ、争いを好まず、人間には違
いがあることを許容し、リヤン(異邦人として差別される者)を作らず、クセノフォビア
にも縁がない。海洋文化が人間にもたらした開かれた精神がそれだ、と文化人ラドゥハル
・パンチャ・ダハナ氏は語っている。


スリウィジャヤ王国の滅亡はイスラムの流入を活発化させ、インド洋を取り囲む諸民族の
ヌサンタラへの移住も増加した。物産と文明が内陸部へ運び込まれるための開かれた扉の
役割を果たしていたインド洋沿岸の諸港はその後も従来からの役割を維持し続けた。

インド洋の時代が没落に向かいはじめた兆候は西暦1千5百年代に入ってから起こった。
そのエポックを画したのがポルトガル人による1511年のマラカ奪取だった。ポルトガ
ル人はマラカ海峡からジャワ海にかけての諸港に新しい商港の機能を与えた。スンダ海峡
・バンテン・グルシッ・トゥバン・・・。

ポルトガル人がマラカ海峡を反イスラムの池に変えたことによって、イスラム系の商船群
はマラカ海峡をボイコットした。ヌサンタラ東部地方に往来する西方アジアからの船はス
マトラ島西岸を経てスンダ海峡からジャワ海に入るようになる。この新航路が活発化した
おかげでバンテンの地の利が当時アジア海域で最大と言われる地位をその港にもたらすこ
とになった。

もうひとつ地の利を得たのが、後にスマトラ島最大のイスラム国家に発展するアチェの港、
バンダアチェだった。スマトラ島西北端に位置するこの地方が強力な王国として勃興する
まで、そこはすぐ東隣で威勢をふるっていたラムリ王国の支配下にあった。ラムリの王都
はマラカ海峡を通過する船が立ち寄る港をその繁栄の基盤に据えていた。そしてイスラム
商船がマラカ海峡をボイコットするようになったとき、ラムリ王国はその存立基盤を失う
運命をたどり始めたのである。反対にスマトラ島西岸を往来する船が必ず通過するバンダ
アチェをブームが襲い、その地方の覇権は逆転することになる。[ 続く ]