「ムアロジャンビ遺跡(5)」(2024年08月20日) ムアロジャンビ遺跡が単なる都市であったと言うよりも学林であったと推測する説が今で は有力になっている。仏法教義を研究するひとびとと仏門に入って仏教を修めようとする ひとびとが集まって学ぶ、今日の大学のような研究と教育のための場がそこに設けられて いた。そして学術の徒たちはそこに住んで生活を営み、そこを都市にした。 世界の大学の歴史は5世紀ごろに中国とインドのナーランダで始まり、ヨーロッパでは1 1世紀にイタリアのボローニャが開祖になった。ムアロジャンビも7世紀あるいはその前 に開かれたようで、世界の学術センターの中ではたいへん古いものだったということにな る。7世紀ごろに仏教のセンターを設けるためにムラユ人がその場所を使いはじめたと推 測できるのである。義浄が訪れた仏教研究の一本山としての室利佛逝がムアロジャンビを 指していた可能性がこうして浮かび上がってきた。 ムアロジャンビ遺跡を視察した学者たちは、その町がナーランダのサングラマ(大学)を 参考にして作られた印象を抱いた。スリウィジャヤとナーランダが親密な関係にあったこ とは、西暦860年に作られたナーランダコパープレートと呼ばれる碑文が示している。 スリウィジャヤのバラプトラ王がナーランダに大寺院を建立し、ナーランダの統治者が王 に5つの村を与えた。その5カ村の生産物が寺院の運営と学僧の生活を支える原資に充て られるのである。 インドネシア仏教界組織の上級指導者が書いた論説は、ナーランダのマハヴィハラサング ラマは最初、信仰を深めることを目的にしていたが、その究極目標は知識を深めることへ と進化して行ったという推論を語っている。ナーランダに学林を設けたグプタ朝の王たち は仏教徒でなくてヒンドゥ教のバラモンだったのだ。だからサングラマの開設は仏教の広 宣と発展を究極目標にしていたのでなく、社会を発展させるための文化面における学習・ 教育・研究の振興に焦点が当てられたのだと論者は解説する。 そのコンセプトに倣ってムアロジャンビもその方針を追随した。サンスクリット語を媒介 言語として採り上げたことがそれを物語っている。西暦684年制作のタラントゥオ碑文 は7世紀のスリウィジャヤ王国が大乗仏教の教えに従っていたことを示している。そして 義浄も室利佛逝でサンスクリット語を鍛えたのである。僧侶が宗教生活を深めるための場 であった寺院が社会の学習センターの機能を持つようになった。仏教の門外漢であっても 学ぶことを目的にして仏教寺院にやってくることが勧められるようになった。 ムアロジャンビの建物は敷地の広さがそれぞれ異なるものの、ほとんどすべてが高さ6メ ートルのレンガ塀で囲まれていた。義浄はこう書いている。「そのとき、室利佛逝には学 習と信仰に励む千人あまりの学僧がおり、かれらは壁で囲まれた場所に住んでいた。・・ ・かれらはインドで教えられている教科をすべて与えられた。・・・論理・文法と文学・ 薬学・芸術・形而上学と哲学というパンチャヴィディアだ。学習メソッドと作法も同じだ った。・・・もし中国人僧がインドで学びたいなら、室利佛逝に1〜2年滞在して正しい 方法になじみ、準備をととのえてからインドに渡るのが良い。」 修行や種々の活動がレンガ塀に囲まれた敷地内のスペースの中で営まれた。敷地内の地面 にはレンガが敷かれていた。ムアロジャンビ遺跡に今も残されている崩れたレンガ塀の基 礎部分や庭の地面はそんな昔の面影を残している。[ 続く ]