「インド洋の時代(3)」(2024年08月21日)

マラカにアジア経営の本拠を置いたポルトガル人は海峡沿岸地域に支配の輪を広げていく。
ポルトガルの野望を覆えそうとしてスマトラ島東岸地方にアチェが武力進出するのは避け
て通れない道だった。中東の覇者オットマン帝国からの軍事支援をアチェが引き出すため
の大義名分は十分すぎるほど強力なものになっていた。トルコの軍船に満載された最新鋭
兵器と西方世界最強を誇る訓練された部隊を得て、アチェ軍はスマトラ島で無敵の軍隊に
なった。

トルコからの派遣軍はアチェに家庭を持ってアチェ人の中に溶け込んだ。中東やインド・
パキスタンの遺伝子がアチェ人の中に注入されて、アチェ美人という定評がインドネシア
文化の中に定着した。

ヨーロッパで高価なアジアの物産を積んだポルトガルの商船隊と警護の軍船隊が本国に向
けてマラカを出帆すると、アチェの海軍がマラカを包囲して陥落させようと襲いかかるの
が年中行事になったものの、マラカのポルトガル要塞もしぶとかった。そんな様相が海峡
の中で展開されている一方で、ポルトガル商人がバンダアチェで取引したり、海峡沿いの
港に交易ポストを設けることも並行して行われていた。戦争というものがまだ、期間を区
切った国家間の総力戦という姿を取るようになる前の時代には、そんな悠長な姿が世界の
あちらこちらで垣間見られた。


アチェの南進政策はスマトラ島の北半分をアチェの支配下に置いた。北のシンキルからバ
ルス・シボルガ・ナタル・ティク・パリアマン・パダンに至るスマトラ島西岸諸港はアチ
ェに貢納をむしり取られる立場に落ちた。しかしアチェの商港統治政策は各港での商活動
を活発化させ、地域的な経済繁栄を確実なものにした。マラカスルタン国時代の海峡が担
っていた東南アジア最大の通商地帯がアチェによってスマトラ西岸に移されたと語る歴史
家もいる。

中国船までもがスマトラ西岸の諸港へ取引に赴いた。華人移住者もスマトラ島西岸地方に
住み着くようになる。マンダイリンや南タパヌリ地方をはじめ、バルス・シボルガ・ナタ
ルなど一連の商港に華人の姿が見られるようになった。そしてほどなく、そんなかれらの
中にもっと奥地で農耕生活を営む者が出るようになる。

その地方の海岸部から少し奥地に入ったエリアはたいてい、食べ物の入手が容易でない地
域特性を持っていた。土地の肥えているいくつかのエリアでは収穫した食糧で次の収穫期
まで食いつなぐことができた一方、やせた土地でそんな暮らし方をするのは不可能だった。

そんな地に住んだひとびとは遠く離れた市場へ自分で作った何かを持っていき、週一回開
かれる市でそれを食材と交換した。徒歩や小さい牛車で一晩かけて市へ行き、また一晩か
けて家に戻るということが週単位で繰り返された。そして持ち帰った一週間分の限られた
食糧をできるだけ長持ちさせるために、かれらは昔から知恵を絞ってきた。

今でもその地方で一般的に見られる川魚やタウナギ、あるいは鶏卵の燻製、ドリアンの果
肉を発酵させたものなどの惣菜は華人がその地方で始めたものと考えられている。華人が
その地方の生活条件に適応するために始めたことを地元民が模倣するようになったのでは
あるまいか。


その時期、スマトラ島西岸諸港は相変わらず物産と文明の扉として機能し続けていた。物
産はコショウをメインにしたスパイス類や他の林産資源、そして黄金と宝石類が輸出商品
の筆頭の地位にあった。

しかしその一方で、ヨーロッパ人が運んできた新しい文明はヌサンタラの中部東部に作ら
れた航路網に多量に流れ込み、またそれらの地方で産する物産もヨーロッパに向かう幹線
航路に大量に注ぎ込まれたのである。そこにできあがった大規模で集中的な経済効果はス
マトラ西岸通商地帯の比ではなかった。そのきわめて強力な対抗馬によって、インド洋に
は徐々に黄昏の色が立ち込めるようになっていった。[ 続く ]