「ムアロジャンビ遺跡(6)」(2024年08月21日)

ムアロジャンビを卒業した生徒がある王国に伝えた教義の解釈がその国の国家仏教の中に
摂り入れられた例があり、今でも仏教国の中にそれを伝えている国がある。

義浄の他にもナーランダで学ぶ前に室利佛逝でその準備を行った中国僧Wu-Hingがいる。
インドの仏僧が数年間ムアロジャンビに留学した例も少なくない。ムアロジャンビで12
年間研鑽を積み、1025年に帰国したインド人の高僧Dipamkara Srijnanaがいる。ある
いはSakyakirti、Vajrabodhi、Amogavajraといった名前も見られる。一方、ムアロジャン
ビの教師や学僧の中に、ナーランダに留学した者もたくさんいる。

ムアロジャンビ遺跡はスリウィジャヤ王国の遺跡のひとつであり、そこは信仰の本山であ
るとともに学習のセンターにもなっていたと考えられる。インドネシアで最古の古代大学
であったというこの仮説は考古学者・歴史学者・その他の諸学問専門家にとって興味深い
指摘になるだろう。この論説はそのように語っている。


別の仏教史研究者もムアロジャンビが古代の学林だったことを主張している。インドや東
南アジアの諸国から、そしてまたヌサンタラの島々から、研究者や学習者が船に乗ってム
アロジャンビにやってきた。

若いインド人僧ラナ・アティシャはムアロジャンビで12年間修業し、帰国してインド仏
教界の指導者のひとりになった。ムアロジャンビで築かれた研究成果をかれはインドにも
たらしたのだ。そのころのインド仏教界は往時の輝きをすでに失っていたのである。
チベットの統治者が自国で使われている仏教システムの向上をアティシャに相談し、かれ
はその依頼を成し遂げた。かれが著したBodhipatvapradipaは現在もチベットの仏教カリ
キュラムの基本として使われている。

チベットの高僧Changkyo Dorpeもムアロジャンビで学び、帰国してから仏法の諸規則を完
成度の高いものにした。かれは更に中国に渡って16世紀の中国仏教界の偉人のひとりに
なった。


ムアロジャンビ学林説にしたがって、遺跡の中のチャンディグンプンが大講堂として使わ
れていたのではないかと考古学者のひとりは考えている。大勢の学僧がそこに集まり、師
が語る教えを聴講した。講義が終わると、学僧たちはバタンハリの河岸に沿って立ち並ぶ
木造家屋で休憩した。

河岸沿いに並んでいた木造家屋の遺跡からは陶器や素焼きの焼き物がたくさん見つかった。
形をとどめているものもあれば、破片になったものもある。炊事や食事のために日常生活
で普通に使われる道具類だ。宋から元にかけての時代に作られたものと唐時代のものが大
部分を占めた。[ 続く ]