「インド洋の時代(4)」(2024年08月22日) 1607年から1636年まで王位に就いたスルタンイスカンダルムダの時代がアチェの 黄金時代のピークになった。繁栄する通商地帯であるスマトラ島西岸地方にオランダ連合 東インド会社VOCもやってきた。しかし最初、オランダ人はどの港でも相手にされなか った。シャバンダル(港務長官)はオランダ人に、アチェスルタンの許可を取って来なけ ればここでの商売はできないと説明した。VOCはアチェ詣でを始めた。 ポルトガル人とのパワーバランス上のメリットを感じたスルタンはVOCに取引を許可し たが、もちろん取引には税金が課される。ともあれ、VOCもスマトラ西岸通商地帯での 商活動に加わるようになり、地場の支配者が抱いているアチェへの反感を肌で感じ取った。 VOCがアチェに成り代わる動きが開始され、ほとんどの場所でそれが成功し、地場の支 配者たちはアチェよりもっと始末の悪いヨーロッパ人の手玉に取られるようになってスマ トラ西岸にVOCのモノポリが広がって行った。 だがバタヴィアのVOC総督庁はスマトラ西岸の各商館の業績にverliestpostという評価 を下していた。利益の上がらない赤字ポストという意味だ。どれほど各地の地場支配者を VOCの支配下に置いて地域支配のカギを握ろうとも、利益の上がらない土地には居座る 意味がない。VOC総督は事業経営者なのだ。 元々、最初にパダンにやってきたヨーロッパ人は1649年のイギリス船の乗組員たちだ った。そしてVOCもほどなくやってきて、商館を設けて取引を開始した。1665年ご ろからパダンの町でアチェの支配から脱しようとする動きが始まり、パガルユンのミナン カバウ王宮からパダンのVOCに協力を求める要請状が届いた。そしてVOCはパダンに 駐屯しているアチェの守備隊を追い払い、1668年にパダンの町を手中に収めた。 パダンの北にあるパリアマンの方をアチェは重視していたため、パダン駐屯アチェ守備隊 の抵抗にはたいして力が入らなかったらしい。VOCのパダン駐在レヘントであるヤコブ ・ピッツはパダンがVOCの支配下に落ちたことをミナンカバウ王宮に報告し、黄金の取 引をVOCと再開するように要請した。 イギリス東インド会社EICはパダンでのVOCとの競争に敗れてパダンを去ったが、そ の後も折あるごとにパダンを奪おうとして侵略を続けた。インド洋の東の果てで行われた イギリスとオランダの確執は長期にわたって延々と続けられたのである。そのころ、宿敵 となった両国がいかにスマトラ島西岸地方を価値ある場所と見なしていたかを、その事実 から感じ取ることができるだろう。 パダンを諦めたEICは1685年にブンクルに進出してそこに本拠地を置いた。マルボ ロ要塞の建設が1714年になされて、イギリスはブンクル地方での植民地経営に本腰を 入れるようになる。ブンクル地方はEICの領土にされて、EIC高官が知事として赴任 して来た。 1781年、ブンクルのEIC軍がパダンに侵攻した。パダンのVOCレシデン、ヤコブ ・ファン ヘームスケルクはあっさりと降伏し、パダンのVOC要塞や防衛ポストを明け 渡した。終戦協定によってEIC軍は1784年にパダンから撤退したが、パダンのVO C要塞を破壊してから引き揚げている。 イギリスとオランダのいざこざは1789年のフランス革命によってエスカレートする気 配を漂わせはじめた。そんな中にフランス人が混じり込んで来たために、またややこしい 事態に向かうことになる。1793年にフランス人フランソワ・トマ・ル メムの私掠船 がパダンを襲撃して占領したのだ。[ 続く ]