「インド洋の時代(5)」(2024年08月23日) この私掠船というのは海賊船と似たようなものだったが、政治的な意味合いを強く持って いた。フランス革命にとっての敵国の船や土地を襲撃して掠奪する許可をフランス革命政 府から得たのがかれらだ。ル メムの率いるイロンデル号は1793年7月にスマトラ西 岸部を遊弋してイギリスEICとオランダVOCの船を襲撃した。8月にはスンダ海峡で VOCの船を襲ったあと、中国船を2隻襲って高価な積み荷を奪っている。さらにイギリ ス船を血祭りにあげてから、ル メムは大砲32門、乗組員2百人の大型船ヴィレ・ドゥ ・ボルドーを委ねられ、フランス革命のプロモーターとしてインド洋を荒らしまわった。 1793年12月半ばにヴィレ・ドゥ・ボルドーはパダンに侵攻した。パダン商館長で守 備隊指揮官でもある上級商務員シャッセンは降伏した。パダンのみならずVOCの統治下 にあったスマトラ西岸の商港も同時にフランスに降伏した。パダンの町にラマルセイエー ズの合唱が響き、フランス三色旗がひるがえった。 パダンの町にあった公的物資はフランス人海賊に略奪されたが、海賊は一般市民にあまり 手を出さなかったようだ。革命を輸出するという気概が悪事をひかえさせたのかもしれな い。乗組員のための食事の用意を命じた以外に海賊たちは住民の反感や反抗を招くような 仕打ちをほとんどしなかったらしい。 ル メムは7万リンギッの貢納金を要求したものの、パダンの町が用意できたのは2.5 万リンギッしかなかった。パダン在住の華人商人たちがル メムの要求を無視して金を払 おうとしなかったために、その大きな金額差が生じたのである。華人のその振舞いに腹を 立てたパダン住民もたくさんいた。ル メムはそんな地元民に協力させて華人の家を焼き、 華人たちを町の外に追い払った。 フランス人海賊団は16日後にパダンの町を去ってモーリシャスに戻って行った。スマト ラ西岸地方を襲ったフランスの私掠船はル メムが指揮した船だけではない。1793年 にはブンクルの三カ所のEICポストとナタル港が別の私掠船の襲撃を受けている。17 94年にはナタルとタパヌリでフランス人が町を占領する事件も起こっている。 インド洋の海賊船はもちろんフランス革命の落とし子だけでない。インド洋に出没するロ ーカル海賊船をVOCはアチェ人のものと考えていた。パンリマ ムンタウェ、シディ・ マラ、ポ・イッ、ンジャ・パキルなどの著名な海賊船長の名も巷に広く知れ渡っている。 オランダ政庁もインド洋の海賊撲滅に対して努力を惜しまなかった。海岸地区に設けた監 視ポストの戦力を充実させ、また軍船隊を出動させて海賊討伐作戦を行っている。 その後1797年には大地震がパダンを襲って港も町も商品倉庫も大損害を受け、パダン は壊滅状態になった。オランダ本国がフランス時代に入り、ジャワ島をイギリスの侵略か ら守る準備で躍起になっている隙をついて、EICは1803年にパダンを占領した。ヌ サンタラがフランス時代〜イギリス時代を経て1816年にオランダ王国に返還されると、 オランダ王国東インド植民地政庁はかつてVOCが行っていたスマトラ島西岸の経営を復 活させた。 スマトラ島のブキッバリサンから西の地方では相変わらず高価な資源が産出されたから、 古くて小さいインド洋岸の港もそれなりの利用は続けられていた。それらの地方はジャワ 島に比べて人口が少なく、そのために広い土地が利用できる。ファン デン ボシュの意を 受け継ぐ歴代総督が栽培制度をその地方に広げたのも当然の帰結だった。だがオランダ政 庁にとってスマトラの栽培制度はジャワ島のそれが見せた赫赫たる成果と対比できるほど のものにならなかった。 たとえそうではあっても、スマトラ西岸地方の諸港はその時期に小さいながらも大車輪の 活動を示していた。インド洋の東の果てではスリウィジャヤ時代とあまり遜色のない、い やむしろもっと活発化した通商と交通の諸活動が営まれ続けていたと言えるだろう。それ らの港にやってくるインド・パキスタンやアラブ・ペルシャの商船はオランダ植民地時代 でさえ決して絶えたことがなかったのである。[ 続く ]