「インド洋の時代(6)」(2024年08月26日)

中部東部ヌサンタラにできあがった航路ネットワークはオランダ人が本国にもたらす富を
かき集めるのに最大限の貢献をした。それに比べれば、スマトラ島西岸地方の富がオラン
ダ人の関心を握りしめるためには圧倒的な量の不足があった。そんな状況ではあったが、
ヌサンタラの富を一滴一粒残さず収奪しようとするオランダ人の貪欲さにとって、インド
洋の港も意味のあるステーションだったことには違いがない。

そのころには、インド洋はすでに物産と文明の交通路という機能を完全に喪失し、ヌサン
タラの中央部とヨーロッパというはるかに離れた遠隔地の間に築かれた幹線航路が、かつ
てのインド洋が打ち立てた物産と文明の交通路としての機能にとって代わっていたのであ
る。ヨーロッパ人のアジア進出が始まってから、インド洋の時代はいつの間にか終焉に向
けて転がり落ちていたのだ。

たとえそうであったにせよ、オランダ人はインド洋岸の航路を維持し続けた。ブキッバリ
サンで隔てられたスマトラ島の東と西は違う土地であり、違う統治行政が行われ、交通路
も分断されていた。ブキッバリサンを境にして、「東は東、西は西」というモットーが植
民地時代の終わりまで継続したのがスマトラ島の歴史だった。


ところがあれほどブンクルの経営に執心を燃やしていたイギリスがスマトラ西岸地方を見
限ったのである。1824年にロンドンで開かれた英蘭交渉でイギリスとオランダは完全
な地域的住み分けを行うことに合意した。イギリスはブンクルをオランダに譲ってスマト
ラ島から撤退し、オランダはマラカをイギリスに渡してマラヤ半島とシンガポールから完
全に手を引くことが合意された。おかげで1685年に始まったブンクルのイギリス植民
地時代は1824年に幕を下ろし、オランダ植民地時代に移行した。

この住み分けによってオランダとイギリスは戦費とエネルギーを浪費するいざこざから解
放され、プリブミをもっぱら相手にする植民地経営に没頭できる環境が整えられたことに
なる。イギリスが2世紀にもわたってあれほど大きい希望を置いていたスマトラ西岸地方
を明け渡した理由は本当に、住み分けによって生じる経済合理性だけだったのだろうか?
スマトラ西岸地方の衰退した未来の予感がそこに混じっていなかっただろうか?

イギリスの選択が金的を射ていたことがそれから百年もしないうちに実証されたのを、現
代のわれわれは知っている。もちろんそれはイギリスがそうなるように持って行ったこと
の結果に相違ないのだが、地政学的な要素は人間の意図に対してそう簡単に反応してくれ
るものでもあるまい。勝者にはそういうツキが付きまとうのがこの世の奇妙な定めという
ことなのかもしれない。


スマトラ島西岸諸港の中に大都市が生まれた。19世紀に西スマトラ州パダンの町は西岸
最大のメトロポリスに成長した。スマトラ島西岸通商地帯のエピセントラムにのし上がっ
たパダンに銀行がオープンし、国際商事会社が支店を開き、現地資本が内陸部に産する農
林産物や鉱物を扱う商社を設け、通商担当領事を置く国が現れ、果てはパダンに商工会議
所が誕生した。パダンの地元商人たちは内陸部の生産者と近い関係を持つ地方部の商人た
ちと提携を結び、また他の港や沖合の島々の商人たちともビジネス関係を作って、通商規
模を拡大していった。

そんな流れの下に、19世紀後半から20世紀にかけて全国の造船業界が活発化しはじめ
る。大量物流時代に差し掛かったオランダ東インドには鉄道網が網の目のように広がり、
海では海上貨物輸送を取り仕切るオランダ王国海上貨物輸送会社KPMが幹線航路を独占
航海した。その必要性に促されて、植民地政庁は全国の主だった港に灯台を建設した。
[ 続く ]