「インド洋の時代(7)」(2024年08月27日)

スマトラ全島の中でも最大の都市になったと評する歴史学者の声すら聞かれるパダンの町
は、元々パダンの港を擁する港湾都市であり、町が巨大化するとともに大型港の必要性が
目に見えて高まった。しかしオランダ人はパダンの港を拡張しようとしなかった。そんな
ことをしても間尺に合わないことが目に見えていたからだ。

オランダ東インド政庁はパダン市の南部に隣接するバユル湾に新しい大型港を建設し、エ
ンマハーフェンと名付けた。1893年から稼働を開始したインド洋岸随一のモダン海港
とバタヴィアのタンジュンプリオッ港との間に定期航路が開かれ、人と物産がその間を往
来した。

今トゥルッバユル港と呼ばれているこの港は、パダンの町が域内で最高の文明と文化を築
きそして維持するために大きく貢献した。スマトラ西岸地方のエピセントラムになったパ
ダンにスマトラ西岸の他地方のひとびとと物産が集まり、ジャワ島との間を往来するかれ
らにとってのスマトラ側のハブになった。

シティ・ヌルバヤがダトゥ マリンギの毒牙から逃れるためにバタヴィアのサムスルの下
へと逃亡したとき、かの女はKPMの船に乗った。そのときのシティには、バタヴィアに
向かう大型客船が自分の人生に光明を投げかける唯一の希望と思えたことだろう。


しかしほどなく、スマトラ島西岸通商地帯にとっての試練がふたたび頭をもたげてきた。
1869年のスエズ運河開通によって、ヨーロッパとアジアの距離が大幅に短縮され、幹
線航路がマラカ海峡を抜けてシンガポールに至り、さらに中国へと航路が伸ばされたこと
で、マラカ海峡の経済性が大きく高まったのである。この景気の恩恵を受けたのはスマト
ラ島東岸とマラヤ半島西岸の諸港であり、経済ブームがマラヤ半島を包んだ。

その反対に、この幹線航路の出現はスマトラ島東岸以外のオランダ東インド全体を寂れた
ものにした。アジアに作られたヨーロッパの大都市という折り紙を付けられていたバタヴ
ィアは、その幹線航路から外れた地方都市に成り下がったのである。バタヴィアからヨー
ロッパに向かう直航船はオランダ船だけになり、他のヨーロッパ諸国の船はオーストラリ
ア向けを除いてバタヴィアに立ち寄らなくなった。

幹線航路では競争が起きて価格が低下したから、独占事業を行うオランダ船に乗ってヨー
ロッパへ行くと高い料金を払うことになった。バタヴィア〜シンガポールだけオランダ船
に乗り、シンガポールからヨーロッパへは非オランダ船を使うというのが経済指向型消費
者の常套手段になったそうだ。


もちろんスマトラ島西岸通商地帯も例外にならなかった。シンガポールに拠ったイギリス
の繁栄は巨大な植民地を擁するオランダに完璧な差をつけることになったのである。この
イギリスの経済戦略はオランダ東インドに対する必殺パンチの役割を果たした。20世紀
前半のシンガポールが示す政治経済軍事の一大拠点としての姿は、イギリスが到達した世
界制覇の頂点を誇示するためにかれらがアジアに設けたきらめくショーケースだったと言
えるにちがいあるまい。一方、バタヴィアの輝きをシンボルにしていたオランダ東インド
は、シンガポールの放つきらめきの前に繁栄が色褪せはじめるのを止めることができなか
ったのである。

スマトラ島西岸の商人たちが座して没落を待つはずがない。ミナンカバウ人が、そしてバ
タッ人が、続々とマラヤ半島に移住を開始した。かれらはマラヤ半島に一家を構え、イギ
リス領マラヤに渦巻き始めた商機をわがものにするための活動を開始した。かれらがマラ
ヤ半島のムラユ人社会に持ち込んだ故郷の伝統文化がいつの間にか、マラヤ半島の伝統文
化という認識下に置かれるようになって既に長い。移住した者たちとスマトラの故郷に残
った者たちの間ではいまだに親戚関係が継続し、ひとびとは折に触れて行き来を繰り返し
ている。ともあれ、有力な商人たちがいなくなったスマトラ西岸地方の経済活動は時と共
に衰退の色を深めて行ったのである。[ 続く ]