「ムラユの大河(1)」(2024年08月27日) インドネシアで最長の河はKapuasだ。次いでMahakam, Baritoと続き、BatanghariとMusi で上位五傑が構成されている。詳細は次の通り。( )内は河口がある州名 カプアス河 1,143km カリマンタン島 (西カリマンタン) マハカム河 920km カリマンタン島 (東カリマンタン) バリト河 900km カリマンタン島 (南カリマンタン) バタンハリ河 800km スマトラ島 (ジャンビ) ムシ河 750km スマトラ島 (南スマトラ) 河という言葉はムラユ文化の中でプロトマレー語から来たsungaiがよく使われているが、 プロトマレーポリネシア語に由来するbatangという言葉もムラユ人はス~ガイに劣らずよ く使っている。 インドネシア共和国が独立してから、河の地形名称としてス~ガイが統一的に使われるよ うになったために、スマトラでは各種族の河を意味する言葉が地方文化の中に押し込まれ ることになった。アチェ語でkrueng、ガヨ語はwoi、バタッマンダイリン語aek、バタッカ ロ語lau、東スマトラ語kuala、中部スマトラ語batang、南スマトラ語air、ランプン語way (英語でないのだからウエイと読まないでください)などはそれぞれの地元へ行かなけれ ばなかなか耳に入ってこない。 ムラユ人が使うバタンという語は第一義的に木の幹を意味するのだが、大河を木に見立て ることがなされたのだろう、河の本流部分がバタン、支流が枝を意味するcabangという呼 び方になって定着した。ただしムラユ文化とあまり縁のないひとに誤解されるといけない と考えたのか、河の意味で使うときにはbatang airという表現がよくなされている。 スマトラ島中南部もカリマンタン島西部もムラユ文化圏であり、バタンという言葉は大手 を振って河の名称に使われているように感じられる。バタンハリ河をSungai Batanghari と呼ぶのは非ムラユ人が行った二重表現に該当するのではあるまいか。二重表現をわたし 個人は決して愚者のシンボルと思っておらず、反対に言語表現の豊かさだと考えているの で、愚者のわたしがこんなことを言うのもナンだが、日本文化の中でもっと正当な市民権 が二重表現に与えられてよいのではないかと考えます。 スマトラ島で河は歴史を作り出す動力エネルギーの役割を果たして来た。河というのは単 なる水流を超えてひとつの世界を生み出し、何千年もかけてスマトラ島に文明を築かせる ための原動力になったのである。チグリスとユーフラテスがメソポタミアに、黄河が中国 にもたらしたように、バタンハリやムシも規模は小さいながらもスマトラで似たようなこ とを行なった。 スマトラ島の河川のそれぞれは特徴を持っている。シュニッツガーは1939年に河を人 間に見立ててその特徴を表現した。ムシ河は広くて老人のようにぶつくさと小言を言う。 バタンハリ河は荒々しく煮えたぎっている。その形容は、河を航行するときや河沿いの住 民と交わるとき、自分の肝に何を銘じればいいのかをわれわれに教えてくれる。 スマトラの諸種族が持っている誕生神話の中に河が出て来ないのはおかしいと研究者のひ とりは語っている。バタッ族の神話は山が発祥の地であると語り、ミナンカバウやクリン チのひとびとは山と海を誕生神話の舞台にしている。その三種族の祖先は北からやってき て、沿岸部から河をさかのぼって内陸に入って行ったのが実情だと言うのに。 スマトラの歴史を、河を抜きにして語ることはできない。ムシ河流域に興ったスリウィジ ャヤ王国、バタンハリ河流域に興ったムラユ王国。もしもバタンセロとバタンブオがなけ ればミナンカバウ王国は成立しなかったかもしれない。王国は河の流域に位置することで 内陸部での農業生産を掌握する便宜を得た。海を使えば海賊の被害を避けることができな かったが、河を使えば妨害者・略奪者をミニマイズできた。もっと後の時代になると、内 陸部の農産物は河を通って国際市場へ流れて行くようになった。 かれらが存立するための基盤を務めた河の沿岸が、かれらの宗教生活を支えるチャンディ の建つ場所にもなった。後にイスラムがスマトラ島に浸透して来たとき、イスラム布教も 河を通って内陸部へ向かった。[ 続く ]