「インド洋の時代(8)」(2024年08月28日) 独立したインドネシア共和国にとってスマトラ西岸地方は昔栄えた通商地帯でしかなかっ た。オランダが開発したヌサンタラ中央部の経済圏が国家経済を支える背骨になるのは当 然の帰結だった。既に昔語りになったインド洋の文明と物産の通路を新生共和国が復活さ せることはあり得なかったのだ。環インド洋の文明は遠い昔に遺物と化しており、スマト ラ西岸の諸港も少なからず古代の遺跡と化す運命をたどった。 往年の姿を保っているのはせいぜいトゥルッバユル港くらいであり、今やシボルガもブン クルも息絶え絶えになっている。1965年まで、トゥルッバユル港にはヨーロッパから 直航船がやってきて、缶入りミルク・小麦粉・石鹸・繊維製品・自動車などがパダンに下 ろされていた。スマトラ西岸地方から1998〜2000年に輸出された物産の79%が トゥルッバユル港で船積みされている。同じ時期の輸入もトゥルッバユル港で90%前後 が陸揚げされた。 植民地時代から共和国独立革命期末ごろまでシボルガ港はゴム・ダマル・安息香・樟脳な どの林産資源バーター港として盛んな賑わいを見せた。たくさんの船が生活必需品を積ん でシボルガ港を訪れ、高価な林産資源を運び出した。そんなシボルガ港から、貨物船の荷 役や渡海航路船の乗客が船に乗り降りする姿が消えてしまったのである。2000年に入 港した船舶数3,616隻は2001年に2,050隻に激減した。 ブンクル州ではバアイ島に新港が建設された。工事は1980年に開始されて、港は19 84年に稼働を開始した。ところがこの新港にもあまり船がやって来ない。輸出入港とし て大型船の荷役も可能な設備を持たせたというのに、積み出される輸出品は石炭だけ。あ る年にゴムの輸出が一度だけ起きた。輸入のほうもさっぱりで、せいぜい肥料が陸揚げさ れるだけだ。 2001年のプラウバアイ港の総荷役量は年間80万トン、コンテナ数356本だった。 一方、マラカ海峡に面するスマトラ東岸の大都市パレンバンのボームバル港では、その年 の年間総荷役量923万トン、コンテナ数41,631本という数字が躍動した。 どうしてそれほどまでに異なる様相を呈するようになったのか?それはブキッバリサンが 東と西を分断する壁でなくなったからだ。ブキッバリサンの西で産出する物産のほとんど が、今では東方のマラカ海峡にある港に送られている。トゥルッバユル港もこのままでは ジリ貧の運命を免れることはできないだろう。 トゥルッバユル港にも根本的な弱点がある。埠頭水深10〜10.5メートルという港の 環境が遠距離航海する超大型船の入港を困難にしているのだ。地球を一周してくる超大型 コンテナ船がこの港に入るには無理がある。スマトラ西岸最大の港もしょせんはシンガポ ールに向かうフィーダー港として機能する以外に可能性がなくなったのである。[ 続く ]