「ムラユの大河(2)」(2024年08月28日) プリブミの生活に重要な貢献を果たしていた河の機能が変化するようになったのは、オラ ンダ人の支配が始まってからのことだ。オランダ人も商館を河岸に建て、河を通って軍事 行動を行った。そしてオランダ人は河の地形や人間生活を伴うランドスケープ、経済的潜 在性などを究明し、そのあげくに河を客船や貨物船の交通路として使うようになって、オ ランダ・イギリス・中国から果てはギリシャやパナマに至る旗を掲げた船が行き交うこと になったのである。 その一方で、スマトラの河川が崩壊に向かい始めたのもその時期だった。森林の乱伐や河 底の鉱物採掘が土地の浸食を招いて河水は濁りはじめ、河岸に建てられた工場が稼働を開 始すると廃棄物は河に捨てられるようになり、汚染がその暗黒のベールで河を覆うように なった。 その一方でオランダ人は森林を切り開いて道路を作り、橋を架け、自動車を走らせること に邁進した。スマトラの河が伝統的に持っていた役割は捨て去られたのだ。開発という美 辞で呼ばれたその振舞いによって河は見捨てられ、伝統的な河の機能は非実用的で非現代 的であるという烙印を捺されて忘れ去られてしまった。 それが原因の一つを成したに違いあるまい。河の汚染は激化した。元々は人間と動物の排 泄物程度だったものが、家庭ゴミ、更に現代化に伴って薬物・産業・鉱業廃棄物など、あ りとあらゆる不要物が河に捨てられるようになった。局地的な利便だけを望むひとびとが 作った人工の水門がエコシステムを狂わせた。河川流域住民の他地方への移住が河川に関 わる伝統的生活作法の消滅を招いた。トランスミグラシの受け皿作りや大農園建設のため に森林が伐り開かれて、乾季には涸れ川、雨季には鉄砲水が年中行事と化した。 たとえばムシ河だ。この河は太古から人間の生活に関わってきた。山地部のカランジャヤ で4世紀ごろと見られる住居跡が発見されており、スリウィジャヤ王国の歴史より古いと 考えられるため、ムラユ人の祖先という観点を含めた研究が進められている。そしてスリ ウィジャヤ王国が興り、ムシ河がその繁栄に大きく寄与することになった。 ムシ河はパレンバンスルタン国の時代まで、通商路として、また王国高官が内陸部に影響 力を振るうための合法化ツールとして重要な役割を演じてきた。ところが1821年にパ レンバンスルタン国が滅ぼされてオランダの直轄領になると、ムシ河とその支流が培って きたパレンバンと内陸部との通商を支える機能も徐々に低下しはじめた。 かつては東のベニスと謳われたパレンバンの町自体もそれまで持っていた水の町という相 貌とライフスタイルから陸の町への変身を余儀なくされた。町中を流れていたたくさんの 川が埋め立てられて、そこに道路が作られた。1906年4月1日に定められたパレンバ ンをGemeente(自治都市)にする地方分権制度法がもたらした都市計画がその変化をピー クに押し上げた。 ヘメンテに変わってからパレンバンの町の姿が継続的な変化の中に投げ込まれるまでに、 しばらく時が流れた。1929年にトマス・カーステンが都市計画を作成すると、オラン ダ人による都市インフラ作りが開始されたのである。街中にあるたくさんの川が埋め立て られて道路になった。河の水が作っていた湿地や島が陸地の中に吸収された。最初に埋め られたのはsungai Tengkurukで、そこは1930年に大通りになった。1932年には更 にsungai Kapuranとsungai Sekanakが埋められて、ヨーロッパ人居住地区であるTalang Semutと市内中心部を結ぶ道路が作られた。 1911年から1927年までかけて鉄道線路がパレンバンから内陸部に向けて敷設され、 またパレンバンから内陸部へ行くための道路も建設されて、ムシ河の公共交通路としての 機能は大きく衰退したのである。[ 続く ]