「インド洋の時代(9)」(2024年08月29日) スマトラ西岸地方と同じようにインド洋の波に洗われてきたジャワ島南海岸部に、インド 洋の時代は訪れたのだろうか?答えは「ノー」の印象がたいへん濃い。ジャワ島南部が面 している海の向こうから人間が文明と物産を携えてやって来ることは一度も起こらなかっ たようだ。海の向こうにあったのはオーストラリア大陸北西部地方であり、文明と物産の 期待できるような土地ではなかったのだ。古代のジャワ人とアボリジニの顔合わせは起こ らなかったように思われる。 古代のインド人の移住の波はまずスマトラ島西岸にやってきた。そして西岸沿いに南に下 り、スンダ海峡まで来ると海峡に入って東に向かい、ジャワ海に面するジャワ島北岸に上 陸した。どうしてスンダ海峡で東方に折れる船とそのまま南へ下る船に分かれなかったの か、その理由がよく解らない。 もっと後の時代になって海岸部の住民が沿岸航路を往来するようになったときも、スマト ラ西岸地方は活発な往来が起こって小規模な港がたくさんできたと言うのに、ジャワ島南 海岸部にはそのようなことが起こらなかったように見える。どうやら、伝説の南海の女王 ニャイロロキドゥルの独占支配だけがその地方に起こったようだ。 ジャワ島に打ち寄せるインド洋の波は激しく荒い。プラブハンラトゥやカランハウあるい はパランクスモの海を眺めたことがある人間には、あの激しく打ち寄せる波に向けて小舟 を駆る勇気を持つ人間の数は限られて当然のようにも思える。 言うまでもなく、ジャワ島南海岸部にも漁民はたくさんいて、昔から激しく荒い海に出て 漁をしていた。現代のプラブハンラトゥ、チラチャップ、トゥルンガグン、ジュンブルに は漁港がある。しかし物産を海上輸送するための港は昔からほとんどなく、港がないから 貨物船がいないのか、貨物船が来ないから港ができないのか、その因果関係はまったく判 然としない。 とは言うものの、プリギ、パングル、パチタン、チラウッウルン、プラブハンラトゥなど では、たとえ小規模ではあっても物産の出入りがなされていた。主に何が出入りしていた かと言うと、やはり生活必需品であり、中でも塩魚・塩・トラシが定常的な運送物資にな っていた。 そんな状況のジャワ島南海岸部にもVOCの船はやって来た。バタヴィアを拠点にして南 部のプリアガン地方高原部に領地を広げて行ったVOCにとって、ジャワ島南西部の良港 であるプラブハンラトゥは特別の意味を持っていたようだ。Wijnkoopsbaaiというオラン ダ語の名前をオランダ人はプラブハンラトゥ湾に付けた。 プラブハンラトゥにはじめてやってきた西洋人はスキピオ軍曹率いるVOC探検調査隊で ある。かれらは1687年にバタヴィアを出発して南のジャングルを踏破し、バンテンの イスラム軍に攻め滅ぼされた、かつてヒンドゥ王国パジャジャランの都だったボゴールの 町の廃墟を発見している。そして山を越え谷を渡り、ついにインド洋の波が打ち寄せるプ ラブハンラトゥに達した。 ヴェインコープスバアイへは、プリアガン地方の経営を主目的にしてVOCの船がやって くるようになる。そして1712年、VOC総督ファン・リーベークとニコラス・ジッツ ェンがアラブから取り寄せたコーヒーの苗木をヴェインコープスバアイに陸揚げさせ、フ ァン・デン・ボシュの栽培制度から百年も前にそれと似たようなことがプリアンガーステ ルセルという名前で行われるようになった。 1884年にはボゴール〜パダララン(バンドン)間の鉄道が開通し、スカブミ〜チアン ジュルを経由するこのラインがあればもうヴェインコープスバアイの役目はないとばかり、 オランダ東インド政庁はヴェインコープスバアイの公的機能を解消する姿勢に転じた。 プラブハンラトゥの港はまた昔の漁港とローカル海運の寒港へと逆戻りして行ったのであ る。[ 続く ]