「大郵便道路(62)」(2025年03月13日)

1791年から1828年までスムダンのブパティを務めたパゲラン クスマディナタ9
世の愛称であるコルネルはジャワ島のイギリス統治時代にイギリス政庁から与えられたも
ので、英語のカーネルに由来しているそうだ。イギリス時代にスムダンとチルボンの境界
地区で起こったBagus Ranginの叛乱を収拾するのに大きく貢献したことを政庁が賞賛して
かれに与えたものという解説が見られる。

このパゲラン コルネルは若いころにスムダンを離れてチアンジュルに住んだ時期があり、
そのときかれは農民に混じって自らコーヒー栽培を行った。おかげでコーヒー栽培のコツ
を身に着けると同時に、下層農民の生活の実態をも体験の中に持つことになった。

かれがブパティになってから領地領民を見回りに出かけることが頻繁に行われ、現場の実
態にたいへん詳しいブパティという評価が行政機構からも領民からも与えられた。かれが
ブパティ職に就く以前のスムダンのコーヒー生産は2千5百ピクルという微々たるものだ
ったが、かれはそれを1万5千ピクルにまで引き上げた。東インド政庁にとって、かれは
実に有能な下級行政官だったと言えるだろう。

そんなパゲラン クスマディナタ9世がブパティの職にありながら、政庁がスムダン領民
を家からあるいは町中で1千人も狩り集めた上、ほんの近くの山で集団労働させ、そこで
何千人もの死者が出たことを報告されてはじめて知った、という上述の解説ストーリーの
セッティングをすんなり納得できた読者はいらっしゃるだろうか?

いくら植民地であろうと、中央行政が地元首長をまったく無視して住民を徴用するような
非能率なことをするというのは実に考えにくい話ではあるまいか。ダンデルスが現場担当
官に命じたかどうかはさて置いて、現場担当官がブパティを無視してそういう威力徴用を
スムダンで行えば、ブパティは町中で発生した騒動を初日のうちに知り、1千人もの領民
が山に連れて行かれる前に上司のウェダナやレシデンのオフィスに飛んで行って報告する
のが筋道のようにわたしには思える。

しかしまあ、そういう問題はともかくとして、スムダンでは、チャダスパゲランのストー
リーが真実を物語っていると確信を持って受け止められているのだ。なにしろ県行政が記
念碑を建てたくらいだから。少なくともチャダスパゲランの物語は植民地での圧制に虐げ
られた人間が示すべき信念と行動を示しているのである。そんな訓話ストーリーが否定さ
れるべきものでないのも確かなことだろう。


ティオ・ジンブンが1917年に発表した小説「チュリタニャイスミラ」の中に、チャダ
スパゲランの様子が書かれている。そのあたりの地形は当時の普通の乗り物にとってきつ
い勾配になっていたようだ。

町から3パアルほど離れた、チャダスパゲランからあまり遠くないカンプンワルンジャン
ブを通ってランチャエケッへ行く乗り物は、少なくともふたりの人間に押してもらわねば
ならなかった。1890年代には、10セント払ってタゴッムンディンからパモヨナンま
で押してもらっていた。

現在のチャダスパゲラン記念碑が立っている道路は最初作られた大郵便道路でなく、最初
のものはもっと上の方を通っていて勾配が急だった。現在の道路はもっと後になって変更
されたものだ、とパジャジャラン大学歴史学者が書いている。ひょっとしたら、インドネ
シアが独立してからその変更工事が行われたのかもしれない。[ 続く ]