「スカルノのジャカルタ(74)」(2026年04月04日)

1950年代に大勢のひとびとが心配した、毎週金曜日にモスク内はガラガラ、という事
態は1978年2月22日以来一度も起こらなかったように見える。たとえ近隣に住んで
いなくとも、荘厳さと絢爛さに満ちたモスクを作れば遠くからでも人が集まって来ること
をスカルノは確信していたようだ。西ジャワや中部あるいは東ジャワからイスラムの大祭
を祝うためにやってきたムスリムが、モスクの中で感動のあまり涙を流したという話もい
くつか語られている。

西ジャワの住民がラマダン月の開始と同時に着替えなどを持ってイスティクラルモスクに
泊まり込み、イドゥルフィトリの大祭を済ませてから自宅に帰るという話も新聞に書かれ
ていた。同じようなことをしているひとが数百人いるらしい。

小さいモスクでそんなことをすればいろいろと気を遣うことがあるだろうが、巨大モスク
の片隅なら気持ちがはるかに楽かもしれない。

下のような外国からの貴賓もイスティクラルモスクを訪れている。
1960年6月11日にサウジアラビアのファイサル皇太子が建設用地を訪れた
1994年米国のビル・クリントン大統領
2006年イランのマフムード・アフマディネジャド大統領 
2007年サウジアラビアのサルマン皇太子
2008年イギリス王家のチャールズ皇太子
2010年11月10日米国のバラック・オバマ大統領
2015年5月15日ノルウエーのエルナ・ソルベルグ首相
2015年7月31日トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領
2015年8月11日ヴァティカン教皇庁外務長官ピエトロ・パロリン枢機卿
2024年9月5日ローマ教皇フランシスカス


ここでイスティクラルモスクからタンジュンプリオッ港とスマンギ橋立体交差間の道路に
関連する話しに移りたい。ジャカルタバイパスはジャティヌガラの東側を南下してチャワ
ン地区の東部に達してから、ジャティヌガラから南下してくるオットー・イスカンダル・
ディナタ(オティスタ)通り〜デウィ・サルティカ通りの南端に位置するチリリタンで合
流しボゴール街道につながる。

その合流点、通称チリリタン三叉路の東方わずか2.5キロ離れた場所にハリム・プルダ
ナクスマ空港がある。オランダ時代にそこはチリリタン飛行場と呼ばれていた。元々はチ
ャワンからチリリタン飛行場へ行く道路があって、オランダ時代を通して最大の南北道路
だった南往き街道経由でバタヴィア中心部からチリリタン飛行場へ行くルートが設けられ
ていたように思われる。

そのチャワン〜チリリタン飛行場道路は最初メインストリートだったというのに、ジャカ
ルタバイパスのチャワンエリアを起点にして1988年11月にチカンペッ自動車専用道
が開通したために、南往き街道チャワンエリアからハリム空港に向かう道路はサイドスト
リートに転落してしまった。ちなみにインドネシアで最初の自動車専用道路であるジャゴ
ラウィが開通したのは1978年3月だった。

ジャゴラウィとはJAkarta-boGOR-ciAWIの大文字部分をつなげた言葉だ。インドネシア人
がその言葉を作ったとき、ジャカルタの日本人社会はそれをジャゴラビと発音し、またそ
うカタカナ書きしていた。インドネシア語会話を多少ともこなせるひとびとが日本人同士
の間では違う発音をしているというビヘイビアに遭遇して日本人のひとりであるわたしは
驚愕した。火付け人が何を目的にしてそのようなことを始め、他の日本人がどうして一様
にそれに同調したのかがわたしには不可解であり謎だった。

ひとつのコミュニティが行っているその奇妙な現象がわたしの精神を打ちのめしたのであ
る。世間をかき混ぜて悦に入りたい人間が存在していることはよくわかるが、コミュニテ
ィ全体がその言いなりに従う社会の在り方が信じられなかった。わたしが冗談半分にかき
混ぜようとしても常に否定されていたのがわたしの個人体験だったのだから。

本当のことを言えば、Dewiという人名に関して日本中が似たようなことをしているのは知
っていたが、それは日本という社会の中の話であり、ジャカルタの日本人コミュニティで
そんなことが起きる条件ははるかに希薄だったはずだ。そのころに作られた同じ名称のゴ
ルフ場もウィでなくビの文字が使われた。今では自動車道にビの文字と発音を当てる日本
人はいなくなったようだが、ゴルフ場は相変わらずビが使われてその発音が標準として使
われ続けている。[ 続く ]