「スカルノのジャカルタ(75)」(2026年04月05日) チャワンという地名はCawangと綴られ、語尾が鼻音であることを示している。華語の「茶 碗」という言葉がインドネシア語に摂取されているもののその発音はcawanであり、語尾 の音が違う。 uwi→ubi, wesi→besi, watu→batuのように古語の[w]音が現代インドネシア語で[b]に変 化した例がたくさんあり、その事実に関連付けてチリウン川の支流の一つが分流を作る分 岐点がそこにあったので、cabang←cawangの古音の方がそのまま地名として定着したとい う語源説もある。 チャワンという地名の語源説として現在有力なのは、17世紀後半にVOCの傭兵団とし てマラヤ半島からやってきたひとびとがそこを本拠地にしたためというストーリーだ。そ の傭兵団の統率者の名前がEnci Awangだったことから、ンチアワンがチアワンそしてチャ ワンに変化して地名になったというのがその語源説なのである。Enciはムラユ語でencik と綴られ、男性への敬称として名前の前に置かれる言葉だ。アワンはAnwarの愛称だった と解釈されている。 言うまでもなくその地区に入植した兵団の統率者がその土地の統治権を持つわけで、社会 的にその地区はチアワンの土地という認識がなされてそう呼ばれるようになった。そうし てチアワンの管掌する土地がチャワンという地名になったということらしい。 メステルコルネリスの南部にカンプンムラユ地区があり、ンチアワンより先にマラヤ半島 からWan Abdul Bagusに率いられた傭兵団がそこに入植し、VOCはワン アブドゥル・バ グスをバタヴィアにあるムラユ人コミュニティの統括責任者としてカプテンムラユに任命 した。ワンはムラユ社会で貴族の出自であることを示す尊称だ。 トルノジョヨ反乱でマタラム王国がVOCに軍事支援を依頼したとき、アブドゥル・バグ スの兵団はその戦争に従軍して戦功をあげた。バンテン王国のスルタンアグン ティルタ ヤサと息子のスルタン ハジ間の戦争でVOCがスルタンハジに味方したときも、アブド ゥル・バグス兵団は活躍している。 アブドゥル・バグスは1716年に90歳の生涯を閉じた。正妻の産んだ息子ワン モハ ンマッは父親より先に没したために側室から生まれた息子のワン ドゥラがカプテンムラ ユの地位を継いだ。ワン モハンマッの妻だったシャリファ・ファティマがバンテン王宮 に入ってスルタンの正妻になり、夫のスルタンをVOCに捕らえさせて流刑し、自らバン テンスルタン国の統治を行ったという話を書いている記事もある。 20世紀に入ったころ、タンジュンティムルの野菜作り農民がメステルコルネリスのパサ ルまで売り物を天秤棒で担いで片道徒歩4〜5時間かけて売りに行った。インドネシアの パサルは朝まだ暗いうちから開かれて、たくさんの家庭から消費者がその日一日の食材を 買いに集まって来るのだから、農民の日常生活サイクルがどんな様子をしているのかはそ こから判るだろう。そのパターンはいまだに変化していないものの、現代の農民はトラッ クの荷台に乗ってパサルにやってくるようになったから、もう少しは睡眠時間を増やせる ように変化したそうだ。 ひとりの農民が普段のようにパサルで客を待ったが、陽が高く昇ったというのに1903 年9月のその日はあまりにもひどい売れ行きだった。財布に入った売り上げはたったの4 0センで、それだと低質米を8リッター買えば底を衝く。かれは仕方なく家に帰ることに した。残った売り物を担いで南往き街道を歩き、チャワン地区に差し掛かったころ、強盗 が行く手に立ちふさがった。そのころのチャワンは強盗追いはぎ事件が多発していた地区 であり、行政と治安当局は赤丸要注意地区とチャワンを見なしていた。 農民は必死で「強盗だ、助けてくれ!」と大声で叫び、運よく地元民が駆けつけて来て強 盗を捕まえ、警察に突き出した。そんな記事が日刊紙Harian Pemberita Betawiに掲載さ れている。 1920年代になって、チャワンの悪名がバタヴィア市民の間に轟き渡った。チャワンに 住むジャゴアンのサイリンという男が当局に逮捕される事件が話題を撒いたのだ。192 4年に起こったタングラン暴動に関わったとして逮捕されたサイリンの裁判が行われる中 で、もっと前の1916年にチョンデッのジャゴアンだったントン・グンドゥッが起こし た暴動にもサイリンが関わっていたことが明るみに出て新聞報道を賑わせた。[ 続く ]