「スカルノのジャカルタ(76)」(2026年04月06日) 不穏な地区チャワンの伝統はインドネシア独立後も続いたようだ。チリリタンに向かうジ ャカルタバイパスとスマンギからやってくるハルヨノ通りが交差するチャワン東部のエリ アにはジャゴラウィとチカンペッの両自動車道とジャカルタ都内主要道路を結ぶインター チェンジが設けられ、それに伴って付近の一般道路も混雑を緩和させるために拡張された。 特に南のチリリタンからその交差点に上がって来る道路は片側5車線という大型道路にな った。チャワン交差点の北行きがそれで、その西側に建っていたUKIインドネシア基督 教大学の名前を採ってUKI交差点と呼ぶ人もいる。 UKIの道路沿いにバス停が設けられているものの、長距離バスが自動車専用道に入る前 あるいは降りてからそこまでやってきて客を乗降させ、またたくさんのバスが客待ち駐車 をするために、そこは影のバスターミナルという異名を取っていた。バスがそこにあふれ たら巨大な道路も狭くなって激しい混雑が起きる。 それは別にして、信号が赤に変わるとその巨大スペースは自動車で埋まる。ある日の真昼 間にその車列を縫ってひとりの男がキジャンをはじめとする箱型自動車のバックドアを手 当たり次第に開こうとしている姿をわたしは目にしたことがある。男が4〜5台の車に触 っているうちに信号が替わったので車が流れ始め、その男も歩道に引きあげた。もしもロ ックされていない車に行き当たれば、窃盗事件が発生しただろう。 バスターミナルには大勢の人間が財布を持って集まって来るのだ。影のバスターミナルで も違いはない。それを追って物売りが集まり、そしてスリ・泥棒・強盗・恐喝を生業にす る者たちも集まって来る。チャワン交差点、とりわけUKI前北行き交差点が犯罪ポテン シャリティエリアの上位に位置していることはジャカルタ都民の常識になっている。 さて、ンチアワンはVOCで高官たちの間に名前を知られた人間になった。戦争における 勲功よりも入植した場所が幸いしたように邪推される。チアワンの兵団はアブドゥル・バ グスが統率するムラユ人コミュニティに帰属したので、チアワンはカプテンを補助するレ ッナンの地位をVOCから与えられた。そのころのチャワン地区の中心は南往き街道が通 過するエリアであり、南往き街道に建てられた道標のパアル15がチャワン地区を意味し ていた。 VOCのバタヴィア城日誌の中の1676年8月21日のページには、ムラユ人のIntje Auwanghがレッナンムラユに任じられたことが書かれている。その名前は1673年6月 14日のページにも登場しており、自己所有地を売却したという口頭での報告が日誌に記 録された。 パアル15は南往き街道を往来するVOC高官たちにとっての便利な休憩所として使われ ていたようだ。ポンドッグデやチマンギスのヴィラへ保養に向かう高官たちはもとより、 バイテンゾルフ宮殿との間を往復する総督たちもインチェ アウワンの邸宅に足繁く立ち 寄った。1745年8月16日のページにはチャワンの地名が登場する。そこに記載され た文はこんな内容だった。 「閣下は早朝から身近のひとびとと共に数台の馬車でご自分の庭園を目指して出発された。 3時間後にはメステルコルネリスを通過してTsiawangや他のカンプンを通る旅を続けられ、 9時半に一行はチマンギスに到着した。そこで昼食を摂ってから午後3時に出発し、カン プンバルに到着したのは夜7時だった。」 カンプンバルとはボゴールのことだ。その日付から推し量るなら閣下と書かれているのは ファンイムホフ第27代総督であり、バイテンゾルフ宮殿の完成する前のようだから、バ イテンゾルフという名称もまだ使われておらず、バンテンに滅ぼされたパジャジャランの 王都パクアンの廃墟にできたプリブミの集落「カンプンバル」という名称がオランダ人の 使う地名になっていた。 今のCawangを意味するTsiawangという地名は日誌のあちこちで目にすることができる。1 759年にツィアワンの土地のオーナーがオランダ人ピーテル・ファン デン フェルデに 変わった。ンチ アワンの子孫がいつまでその土地に住んでいたのかはよくわからない。 ピーテルはタンジュンプリオッ・チリリタン・タンジュンティムル・チケアス・ポンドッ テロンなどの所有地にツィアワンを追加することができた。[ 続く ]