「スカルノのジャカルタ(77)」(2026年04月07日)

21世紀が始まる前、スマンギからやってくるハルヨノ通りの高架下をくぐってオティス
タ通りからデウィサルティカ通りに入っていくと、道路の両側に灯油コンロを山積みにし
ている店が連なっている風景を目にするのが普通だった。1970年代からこのエリアは
一般家庭の台所で使用される調理用灯油コンロの一大販売センターになっていたのだ。1
970年代にチャワンの灯油コンロ産業の発端が32軒の生産販売者によって築かれた。

ハンドメイドで作られるチャワンの灯油コンロは独特の構造で色は青色と灰色のコンビネ
ーションになっており、製品は丁寧に作られていて長持ちし、重い釜でも支えることがで
き、しかもしばしば爆発事故を起こす灯油コンロに爆発防止対策が施されていたこともあ
って、その上さらに価格も廉かったから消費者の人気を集め、料理用コンロを買いたいひ
とびとがチャワンのコンロを求めてそのエリアにやってきた。

1979年に結婚してカリマラン沿いのドゥレンサウィッ地区に住むようになった女性は
台所のコンロを買うときにいつもチャワンへ行ったし、自分の姑と夫の姉も西ジャカルタ
に住んでいるというのに、必ずチャワンへコンロを買いに行ったと語っている。20世紀
後半の時代には、一軒の店で灯油コンロが一週間に50個くらい売れていた。

こうして市場にkompor Cawangチャワンのコンロという名が確立した。コンロによってチ
ャワンの地名が知名度を高めたのだ。すると一部のインドネシア人がCawang komporとい
う言葉を使い始めた。この熟語はチャワン地区内のデウィサルティカ通り北部からオティ
スタ通り南部という特定地区を指して表現する言葉であり、コンロのことではない。チャ
ワン地区内で特定の場所を示すCawang UKIやCawang stasiunなどの表現と同様に、チャワ
ン地区内にあるコンロのマーケットエリアという意味で使われている。チャワンコンポル
へ行ってコンポルチャワンを買うという語法になるのだろう。


デウィサルティカ通り北部に並ぶ商店のひとつが灯油コンロ製造販売者ントン・ムルサデ
ィの店だ。1950年にントンの父親サイッ・ビン スエッが馬の蹄鉄鍛冶業をそこで始
めた。その当時は南往き街道を上り下りする交通の多くがまだ馬に依存する乗り物で行わ
れていた時代だったのだ。

その後、ジャカルタの人口が激増する時代に入って、調理用灯油コンロの需要も激増した。
金属加工の職人たちの中に灯油コンロを作り売りする人間が増えた。デウィサルティカ通
りの職人たちも1955年にひとりがそれを作り始め、それを見倣う者が続出した。

職人たちはマンガライ鉄道デポが使っている鉄鋼板で不要になったものを手に入れていた。
鉄道が昔から伝統的に使っていた鉄鋼は高性能で耐熱性に優れており、頑丈だった。へな
へなの薄い板では良い蹄鉄が作れないだろうし、そしてコンロの上に置かれる重い釜を支
える能力も不十分だったはずだ。

1970年代ごろ、チャワンコンポルエリアは賑やかな場所だった。ボゴールからやって
来るバスの最終の停留所がデウィサルティカだった。そのころでも南往き街道は交通の要
になっていたようで、その交通の便の良さもエリアの繁栄に幸いしたことだろう。

ントン・ムルサディは娘婿のウィル・サプトラに家業を譲った。20世紀最後の四半期に
起こった灯油コンロの最盛期を謳歌したあと、2005年ごろからウィルは灯油コンロ衰
退の時代に直面した。

チャワンの灯油コンロの市場が衰退していったのは、政府が家庭用燃料を灯油からガスに
切り替える政策を2004年ごろに開始したためだ。灯油コンロの時代からガスコンロの
時代への移行が始まったのである。おかげで灯油コンロ作り職人は生産品を変えなければ
食っていけない事態に陥った。2010年ごろにそのエリアは鍋や大鍋、オーブンからケ
ーキ型などの台所用金属製品販売店の並びに姿を変えていた。

ステンレス鋼板やアルミ板を成形して作る商品に業態が変化し、職人たちは金属加工技術
を使って鍋や大鍋、釜や金属容器などの台所用品を作るようになった。灯油コンロ一本鎗
から販売商品が多様化したと言うこともできるだろうが、売り上げはダウンした。ある店
は売上げが月1千2百万ルピアくらいあると語っているが、昔の灯油コンロ一本鎗の時代
はその三倍の売上があったそうだ。

その中には大型工場で生産されているような一体型ガスコンロ・オーブンを製造販売する
店もある。価格は激安で、モールなどで販売されているメーカー製よりも大幅に安いのだ
が、それを買う消費者は少ないようだ。チャワンコンポルエリアの職人たちはお手の物の
金属加工技術を使ってモスクの金属ドーム屋根を作る仕事さえ行っている。[ 続く ]