「スカルノのジャカルタ(80)」(2026年04月10日)

1950年に首都をヨグヤカルタからジャカルタに戻したインドネシア共和国では軍隊も
ジョクジャからジャカルタに移された。共和国空軍はオランダ王国東インド植民地軍KN
ILの空軍司令部が置かれていたチリリタン飛行場に本拠を構えた。実際にKNILがイ
ンドネシア共和国にチリリタン空軍基地を移管したのは1950年6月20日であり、共
和国空軍司令部はその日からKNIL空軍司令部の建物に入った。1952年8月17日
に公式名称の変更が行われて、チリリタン空軍基地からハリム・プルダナクスマ空軍基地
に名前が替わった。

チリリタンと呼ばれるエリアはチャワンの南側に位置していて、ピーテル・ファン デル 
フェルデの私有地タンジュンオーストに含まれていた。昔はデウィサルティカ通り東側が
チリリタンブサル、西側のパサルミング通りまでのエリア、特にカリバタ交差点付近まで
がチリリタンクチルと呼ばれていた。

地名の由来はチピナン川の支流がそこにあって、リリタンクトゥという植物が河岸を埋め
ていたのでひとびとはその支流をチリリタンと呼び、それが地名になったとされている。
チリリタンという川はとっくの昔に干上がって埋められてしまった。


KNILが空軍を編成したのは1910年代の前半だったようだ。東インド最初の飛行場
として西ジャワ州スバンのカリジャティに飛行場が1914年に開かれた。1942年の
日本軍ジャワ島進攻で3月8日にテル・ポールテンKNIL軍総司令官が今村中将と降伏
会見を行ったあのカリジャティ飛行場だ。

バタヴィアでは1920年代はじめごろからチリリタン地区の平坦な原野を整えて飛行場
を作る工事が開始された。それがバタヴィアで最初の飛行場であり、現在そこはハリムプ
ルダナクスマ空港になっている。1924年11月にオランダのスキポール空港を飛び立
ったフォッカーF7機が郵便物を積んでテスト飛行に出発したものの途中で事故にあい、
55日かけてやっとチリリタン飛行場に到着したできごとが多分、チリリタン飛行場の国
際線フライトの幕開けだったのではあるまいか。

そこがKNIL空軍の基地として使われるようになってから1930年にKLMがオラン
ダとオランダ東インド間の商業フライト定期運行を開始したので、チリリタン飛行場は空
軍基地と民間空港というふたつの顔を持つことになった。奇しくも、現在のハリムプルダ
ナクスマ空軍基地もそのスタイルを踏襲している。

旅客機の大型化が空港の大型化を必須のものにした。チリリタン飛行場の商業フライトを
大型国際空港に移すため、ヴェルテフレーデンからほど近いクマヨランに新空港が建設さ
れて1940年7月8日から稼働が開始された。民間の商業フライトはすべてチリリタン
からクマヨランの新空港に移り、チリリタンはKNIL空軍専用飛行場になった。

クマヨラン新空港の開港を記念して8月31日に東インドで初めてのエアショーが開催さ
れた。言うまでもなく、オランダ国王の誕生日祝賀を兼ねた催しだ。東インドに住んでい
たオランダ人の中に手作りで飛行機を作る者が何人かあった。その代表的な人物はローレ
ンス・ワルラーフェンで、かれがバンドンで設計・製作した四人乗りのW−2型機は東イ
ンドから長駆オランダ本国までの飛行を成功させて1935年9月27日にスキポール空
港に到着し、熱烈な歓迎を受けている。

1940年のエアショーにはバタヴィアアエロクラブも参加して、東インド国産の軽飛行
機を広く世の中に紹介した。それからほんの一年半後に日本軍がクマヨランとチリリタン
の両飛行場を使うようになったものの、1945年末にはNICAがジャカルタに復帰し
たために再びチリリタンはNICA空軍の基地に戻された。そうして1950年6月20
日を迎えることになったのである。

その後空軍はハリムプルダナクスマ空軍基地に集中し、クマヨラン空港は増加した民間商
業フライトをさばくことに専心していたにもかかわらず、1970年代に入るとクマヨラ
ン空港にその能力の限界が見え始めた。その結果1974年1月10日にハリム空軍基地
が民間商業機に開放されて第二国際空港の役をおおせつかることになったのである。

それ以来、国際線の多くはハリムを、国内線の多くはクマヨランを使うように変化した。
そのころにはもう、航空行政当局は新たな大規模国際空港建設の計画に取り掛かっていた。
都市のど真ん中に設けられたクマヨラン空港の未来がそのときに決まった。[ 続く ]