「スカルノのジャカルタ(81)」(2026年04月11日) Kemayoranという地名は1816年ごろのオランダ語で書かれた公的な文書にMayoranとい う名前で登場している。その語幹になっているマヨルは人種コミュニティ統率者の職名で なくて軍隊の位階名だったようだ。マヨルチナとの混乱を起こしているイ_ア語解説が時 々見られるものの、最も有力な地名の由来説はこうなっている。 1629年オレロン生まれのフランス人イザク・ドゥ ロスタレ ドゥ サンマルトンはフ ランスを去ってオランダ東インド会社に入社し、軍務社員としてバタヴィアにやってきた。 1662年にVOCがコチンで行った戦争のとき、イザクの名前にはレッナンの言葉が添 えられていたが、1670年代後半に行われたトルノジョヨ戦争の際に、かれの階級はマ ヨルになっていた。 1682年に起こったバンテンのスルタン ハジと父親のスルタンアグン ティルタヤサ間 の戦争でVOC総督は、カプテン タックの軍勢とかれの指揮する軍勢にスルタンハジを 支援する命令を与えている。カプテン ヨンクルに謀反の嫌疑をかけて反乱を起こさせ、 死に追いやったのがこのマヨル イザクだった。カプテン ヨンクル反乱軍討伐戦に参加し たワン アブドゥル・バグスはそのときの戦闘で重傷を負っている。カプテン ヨンクルは その討伐戦で戦死した。 マヨル イザク・ドゥ サンマルトンはブカシ川東岸地区・チネレのクルクッ川東岸・アン チョル地区、そしてこのクマヨラン地区など、バタヴィア周辺のあちこちに私有地を持っ た。総面積は1千Haを超えていたと言われている。 一方では、ダンデルスが資金集めのために国有地を売却した中にクマヨラン地区があった という話も見られる。ダンデルスがバタヴィアに赴任してきたとき、クマヨランの土地の ステータスがどうなっていたのかはまるで分からない。ダンデルスがVOC高官の私有地 を安く買い戻して国有地にした実例が語られており、かれはそうやって手に入れた国有地 を高く売却して政庁の資金を作ったのかもしれない。そうなると、クマヨラン地区も一度 政庁の所有地にされてからマヨルチナに売却された可能性が浮上してくるようにわたしに は思われる。 19世紀のクマヨランにはクラマッ地区からスンテル地区に向かうスンテル川があり、ま たプラパタン通り脇の運河が北へ延ばされて、スネンからブグル地区を通ってスンテル川 に合流する水路も作られていた。それらはクマヨラン地区で行われていた水田耕作や農園 栽培のための灌漑用水だったのである。1950年代のクマヨラン地区では空港から少し 離れればまだまだそんな風景が広がっていたというのに、昨今目にする風景は住宅の密集 したスラムエリアばかりになっている。 19世紀末ごろからオランダ系プラナカン家庭がスネン地区北側に接しているクマヨラン のエリアに増加するようになり、南往き街道沿いの東側で住宅地が広がり始めた。193 4年にクマヨラン空港建設工事が開始されるとオランダ人の居住も増加するようになって、 1930年代に住宅地はさらに北へと広がった。 元々クマヨラン地区の住民人口は少なかったのだが、オランダ系の人口増が目立ったため にブランダクマヨランという綽名がクマヨランに住むオランダ系のひとびとを指して使わ れるようになった。この綽名はブランダデポッとはまた意味が異なっているようにわたし には思われる。ブランダデポッがオランダ文化で暮らしているプリブミを指していたのに 対してクマヨランの方はその言葉通りのオランダ系だったのだから。 1940年代に入ると新空港のオープンに伴って南往き街道沿いのエリアに町が誕生した。 グヌンサハリ通りから東に折れて空港ターミナルに向かうVliegveldlaan(今のガルーダ 通り)とNieuwe Vliegveldlaan(今のアンカサ通り)を包むエリアに飲食業や娯楽施設が 開店して賑わうようになった。 クマヨランもジャゴアンを輩出した土地だ。クマヨラン空港跡地に作られた大通りにその 名を遺したクマヨラン生まれの歌手兼俳優ブンヤミン・スエブの父親もハジ ジウンの名 で知られたジャゴアンだった。 ブグルからやってくる運河とスンテル川が合流するエリアにあるジウン部落も20世紀前 半は人口の少ない土地で、アレンヤシの実であるブアアタップとアレンから作る酒トゥア ッだけが地元の産物だった。アレンヤシの木がやたらたくさん生えていたのだ。[ 続く ]