「スカルノのジャカルタ(82)」(2026年04月12日) 元々クマヨランに住んでいたのはブタウィ人だった。ブタウィの伝統芸能であるレノンと 伝統武術であるプンチャッシラッはかれらの日々の暮らしに深く関わっていた。レノンと はガンバンクロモン楽団を従えた劇団であり、音楽と歌舞とお笑いを混ぜ込んだ舞台芸能 を演じるグループだ。 1950年代にレノンシラントゥルという名の劇団があって、頻繁に祝い事のある家に招 かれて芸を演じた。その出し物の中にあるオンデロンデル踊りはプンチャッシラッの熟達 者の演じるものが最高の芸になった。シラッの型や技を踊りの中で駆使することで踊りが たいへんダイナミックになったからだ。ただしオンデロンデルを踊っているうちに踊り手 がトランス状態に陥るのである。それが起こると踊り手が見物人に跳び蹴りをかますこと も発生した。踊り手は顔を赤黒く塗って口には長い付け牙をはめ、目を怒らせて舞う。見 るだけで怖ろしいのに、それが舞いながら襲ってくるかもしれないのだから、子供たちは 戦々恐々とするのが常だった。 ブタウィ社会はイスラムを高く捧持していたから、巷にイスラム塾がたくさんできた。そ れらの塾ではたいていプンチャッシラッも教えられたので、ブタウィ社会で普通の男とい うのはイスラムの知識を持ちシラッを多少とも使えるのが当たり前になっていた。その中 の凄腕がジャゴアンになっていったのである。日本のサムライ社会の中に剣豪が生まれた メカニズムと多分同じ原理だろう。 ブタウィ社会でジャゴアンの産地はタナアバン・クウィタン・ラワブロンが上位三傑を占 めていた。ラワブロンはパルメラ地区のあのラワブロンだ。 クマヨランという地名はまた、クロンチョン音楽と結びついてクロンチョンクマヨランと いう音楽ジャンルを生んだ。伝統的なポルトガル風クロンチョンを奏でるクロンチョント ゥグの向こうを張ってクロンチョンクマヨランは音楽的にモダンな感覚のクロンチョンを 聴衆に供したことから、クロンチョン音楽がオランダ時代末期から1970年代ごろまで ヌサンタラの国民歌謡の座を占めることになった。 クロンチョンという音楽ジャンルは、ファドと呼ばれているポルトガルの民族歌謡をポル トガル人が大航海時代の中で南アジアに持ち込み、メスティ−ソ文化の一角に位置付けら れるものになったのがその始まりだ。スペインとの間で独立戦争を行っていたオランダ7 州連邦共和国の連合東インド会社VOCはその戦争を海外に広げ、アジアではスペインと 合併したポルトガル植民地の奪取に力を注いだ。その闘争はスペイン・ポルトガルの既得 権益を奪い取ることで手に入る経済利益の追求との二人三脚になっていたのだ。 ポルトガルのアジア植民地を運営していた人間のほとんどはメスティ−ソつまりアジア人 のポルトガル系プラナカンであり、カトリック教徒だった。VOCの戦争捕虜になったア ジアのポルトガル人とはメスティ−ソが普通だったということだ。かれらはVOCの奴隷 にされ、プロテスタントに宗旨替えすることで奴隷身分から解放されて自由人になった。 そんな自由人23人が1661年にタンジュンプリオッの東南に位置するトゥグ地区に入 植した。現代地図で正確な位置を言うなら、今そこはチリンチン郡スンプル地区になって いる。ベンガルとコロマンデルからバタヴィアに連れて来られたかれらをVOCバタヴィ ア政庁が僻地に入植させて地域の開発を行わせ、同時に防衛線の拡張を図ったのだ。 当然、バタヴィア政庁はかれらの保護と監視を継続し、海岸線沿いに航行してチャクン川 をさかのぼる交通路を設定し、入植地に教会を建ててプロテスタント牧師を駐在させ、入 植地で生産される産品をバタヴィア城市内で販売させるといったことを行った。トゥグ地 区の名産品としていまだに人口に膾炙しているものに干し肉のdendengをはじめ次のよう なものがあった。kue pisang udang, pindang serani, gado-gado siram, ketan unti, apem kinca。かれらは名うての射撃手であり、干し肉作りにする動物はそんな僻地で無尽 蔵に得られた。[ 続く ]