「スカルノのジャカルタ(83)」(2026年04月13日)

15年後のトゥグの解放奴隷コミュニティは40〜50軒の家庭で構成されていた。かれ
らが入植したエリアは無人の土地だったが、その外側をプリブミのカンプンが取り巻いて
いたから、それまでのイスラムのエリアにキリスト教の土地が忽然と生まれたことになる。

そのエリアの中ではポルトガル語とオランダ語、そしてムラユ語も使われた。ひとびとは
ギターやウクレレなどの弦楽器で伴奏しながらメスティ−ソ文化のファドを歌い、伴奏用
の弦楽器を自分たちで作った。日曜日の礼拝のとき教会の中にオルガンはなく、聖歌の合
唱は弦楽器の伴奏で歌われた。クロンチョンもそれと同じような編成の伴奏でスタートし
たのである。

そんな伝統の重みをずっしりと湛えているクロンチョントゥグは歌詞にポルトガル語・オ
ランダ語そして通俗的なムラユ語であるパサルムラユ語がごちゃ混ぜになったものが多い。
それらの歌が作られた時に世の中に存在した言葉がそれだったのだから。一方、20世紀
前半に世の中に湧き起こって来たクロンチョンクマヨランの歌詞ははるかにモダンなイン
ドネシア語になっていた。


インドネシア語は決してインドネシア共和国が誕生してから確立されたものではない。1
926年の第一回青年会議でヌサンタラの統一言語をインドネシア語と呼ぶ根回しがなさ
れ、1928年の第二回会議で公式表明が三つの誓いという形で結実した。1920年代
にオランダ東インドのプリブミたちはすでにリンガフランカになったムラユ語由来の言葉
をインドネシア語と規定していたのだ。

もうひとつの違いは楽団伴奏の演奏スタイルの違いにある、とクロンチョンバンド関係者
のひとりは解説する。クロンチョントゥグの楽団は構成員が自分のパートを演奏する際に
ビートを合わせてハーモニーを作り出すスタイルが普通になっている。ところがクロンチ
ョンクマヨランでは各構成員が自分のパートのビートの位置を自由に扱い、ハーモニーは
崩さないようにして複合的なビートのアンサンブルを生み出すという、ジャズセッション
のようなスタイルが採られている、というのがその説明だった。またクロンチョンクマヨ
ランのイントロはフルートあるいはバイオリンで始まるのが通常の作法になっている。

クロンチョンクマヨランをインドネシアの国民音楽に担ぎ上げた功績者がリフヤファだ。
1918年にクマヨランに住むスワルディがクマヨランに住むオランダ系プラナカンとプ
リブミたちを集めてRukun Anggawe Santoso Orchestraという名前のバンドを編成し、音
楽活動を開始した。世間によくある、隣近所の音楽愛好者が集まって音楽演奏を楽しみ、
パーティに招かれて小遣い稼ぎをするという種類の楽団でスタートしたこのグループは、
1923年になってLief Javaと名前を改め、プロミュージシャンの世界に邁進するよう
になった。そのころにはもうクマヨランという地縁の楽団から脱皮したようだが、かれら
の演奏するクロンチョンクマヨランという音楽ジャンル名はこの楽団のアイデンティティ
から切り離せないものになっていた。

この楽団は最初からトゥグのクロンチョンをレパートリーのメインに据えていたが、実力
が備わって来るにつれてクマヨラン地区内の音楽家の関心を引くようになり、Atingan, 
J Dumas, Jan Scheneider, Kramer, M Sagi, Any Landouw, Ismail Marzukiたちが楽団と
関わりを持ちはじめた。その時代に東インドで流行したハワイアンやジャズ、オフビート
音楽の影響がかれらを通してリフヤファの音楽に溶け込み、モダンクロンチョンの母胎へ
と変化して行った。

1925年からバタヴィアで最も大手のラジオ局NIROMのレギュラーゲストとして出
演するようになり、楽団とその音楽がヌサンタラの隅々にまで浸透し、全国的な人気を集
めて一世を風靡したのである。この楽団はクロンチョンセクションとジャズセクションを
設けていた。クロンチョン音楽の流行がパサルガンビルでのクロンチョンのど自慢大会の
引き金になったことは疑いがあるまい。

この楽団は日本占領時代にも活動を続け、オランダ語厳禁だったために楽団名をKireina 
Djawaに替えている。かれらの音楽活動は1949年まで続いた。クロンチョンクマヨラ
ンの名前は同名の歌曲Keroncong Kemayoranという大ヒット曲と共にインドネシアポップ
音楽史の1ページを飾っている。[ 続く ]