「スカルノのジャカルタ(84)」(2026年04月14日)

首都の中心部にある454Haの面積を占有して作られた国際空港が時代の流れから取り
残される運命は20世紀後半に動かしようのない現実としてジャカルタの一角にその姿を
さらしていたに違いあるまい。しかし言葉にすれば「首都のど真ん中」という言い方にな
るのだろうが、1980年代ごろまでクマヨラン空港の東側にはスンテル湖を抱く田園風
景が広がっていた印象がわたしの記憶の中にある。

たとえそうではあっても、クマヨラン空港の西や南に住宅が建て込んでいたのも確かなこ
とであり、航空機の離着陸失敗によって空港周辺の住宅地区に大惨事がもたらされた事故
はインドネシアでも何度か発生している。しかしそれはもっと後の話。

チリリタン飛行場から全商業フライトを移すための新国際空港がクマヨラン地区の湿地と
水田、そしていくつかのプリブミカンプンがあったエリアに建設されることになり、工事
は1934年に開始された。南往き街道から東に1キロ、ヴェルテフレーデン北部からだ
と2.5キロ弱しか離れていないこの新空港には南北方向に800メートル、東西方向にも
800メートルの滑走路それぞれ1本が十文字を形成する形で設計された。

管制塔・空港オフィス・格納庫および乗客ターミナルが建てられ、格納庫は機体修理メン
テナンス設備を有し、ターミナルは電話ブースと郵便局、アナウンス設備、そしてカフェ
とレストランを備えた2階建ての大型ビルになった。1940年7月8日にクマヨラン国
際空港の公式オープ二ング式典が催されたが、その二日前から旅客機の発着がすでに始ま
っていた。


1950年にインドネシア共和国に移管されたクマヨラン空港をスカルノ大統領は適宜拡
張させていった。その中にスカルノのアート趣味が顔をのぞかせた。クマヨラン空港ター
ミナルビル内に最初から設けられてあったVIPルームの壁の一角にジョクジャの彫像家
グループの制作したインドネシアの民衆生活を描写しているレリーフがはめこまれた。そ
れは間違いなくスカルノのしわざだった。レリーフの隅にはSeniman Indonesia Muda - 
Jogja1957という文字が浮き出ている。

いやそこだけではない。空港内のVIPルームに向かうエリアには他にもいくつかのレリ
ーフが壁に埋め込まれた。Sスジョヨノ、ハリヤディ・スマディジャヤ、スロノたち造形
アーテイストの手になる作品だ。公共空間をアートで飾るスカルノのモットーはオランダ
人の建てたそのビル内にも遺憾なく発揮された。

スカルノがクマヨラン空港の滑走路を延長させた結果、その生涯を閉じたときに南北方向
の滑走路は長さ2,475m幅45m、東西方向は長さ1,900m幅50mという規模になっていた。それ
には余談がある。

滑走路の強度がDC−8型機を限界にしていたため、スカルノはコネフォ大会議のために
東西方向の滑走路を5百メートル延長するとともに強度をさらに高めてBー707型機の
離着陸を可能にするよう命じた。コネフォ大会議のためにジャカルタを訪れる各国デレゲ
ーションがインドネシアの空港の性能の高さに感銘を受けることをかれが期待したのは明
らかだ。だが、その命令が実行される日は来なかった。コネフォの終焉については既述し
てある。

クマヨラン空港は1985年3月31日に公式に廃棄され、空港跡地にニュータウンが作
られることになった。その空港撤去とニュータウン建設工事の中で二本の滑走路はそのま
ま道路として残されたので、いま南北方向の滑走路はブンヤミン・スエブ通り、東西方向
の滑走路はHBRモティッ通りになっている。そのニュータウンの中にジャカルタフェア
のための施設も設けられて1992年からジャカルタフェアがムルデカ広場からクマヨラ
ンに移ったことも上に書いた。


空港ターミナルビルは二本の滑走路が交差する南西角地に設けられていた。現在そこには
自動車部品や電気電子製品のショッピングセンターMega Glodok Kemayoranが建っており、
ターミナルビルもまだ残されて廃墟の姿をさらしている。

空港エプロンは今のJl Dakota Rayaにあったという話が見つかるのだが、もっとブンヤミ
ンスエブ通りに近い位置にJl Apronという通りが並行して走っており、ひょっとしたらそ
こはタクシーウエーだったのかもしれない。[ 続く ]