「ムダン王国(9)」(2026年04月15日)

ムダン王国の海外進出に関連して、クメール王ジャヤワルマン?世が登場する。この王は
西暦770〜835年という時代を生きた人で、ジャワに住んだことがあり、クメールを
ジャワの支配下から独立させ、クメールのその後の建造物にジャワチャンディの影響を浸
透させた人物だったと語られている。12世紀の建造物とされているアンコールワットに
ジャワのチャンディの面影が二重写しになるのはそのためだというのがこの説だ。

ジャヤワルマン?世が王位に就く前、ジャワの軍勢がクメールに何度か進攻して支配下に
置いた時期があることをその話は物語っている。西暦907年に作られたマンティヤシ碑
文は、サンジャヤ大王の孫ラカイパヌンガランがクメールを征服して統治し、ジャヤワル
マン王となったことを伝えている。

ジャヤワルマン?世の名前は本人が名乗ったのでなく、異なる世代で二人のジャヤワルマ
ン王がカンボジア史に登場するために東南アジア史学界が後者に?世の名を付けたという
のがその裏話だそうだ。


ジャワ人襲来の記録はチャンパに多く残されている。チャンパ人が書き遺した774年の
ナトラン碑文にはサンスクリット語でその年に起こった海からの侵略事件が述べられてい
る。ポーナガルを襲撃した海賊は上陸してナトラン寺院を焼いた。攻めてきたのは船でや
ってきた恐ろしい姿の獰猛な異民族海賊で、色は黒く痩せており、外道な食べ物を食べて
いたそうだ。歴史家はその外国人をジャワ人と推定している。

787年にはファンランが襲われた。ジャワの海軍Javabala-sanghair-n?v?gataihが侵略
者であると記されている。ジャワ軍はスリバドラディパティスワラ寺院を焼き、町を占領
した。その前に行われた侵略ではチャンパ軍が海上でジャワ軍を撃退している。

インドネシアの史学界はそれらのチャンパ侵攻がジャワとスリウィジャヤを支配したサイ
レンドラ王家の政治戦略だったと見ている。チャンパはスリウィジャヤにとって伝統的な
中国貿易の仲介者だった。ジャワがスリウィジャヤを征服したとき、チャンパはジャワが
支配するスリウィジャヤのコンペティターになったにちがいない。しかしその関係とはま
た別に、チャンパとジャワの間には文化的な関係も作られた。チャンパ王国バドラワルマ
ン?世の時代にジャワ島への親善使節が908年と911年に二回、派遣されている。


スリウィジャヤ王国は西暦671年にスリ ジャヤナサ王によって建国された。南スマト
ラのパレンバンで発見された西暦682年という記載のあるクドゥカンブキッ碑文から、
Minanga Tamwanから船で聖旅に出たダプンタ ヒヤンの軍勢2万人がその地を征服してス
リウィジャヤ王国を作ったできごとを知ることができる。ミナ~ガタムワンという町は南
スマトラのKomering地方にあったMalayapuraの王都であるという説が多いものの、南カリ
マンタンのMuara Tambanであるという説もある。

スリウィジャヤ王国の歴史の中にジャワのムダン王国がスマトラ島を支配したことが記さ
れており、775年にダラニンドラ王、782年にサマラグラウィラ王、792年サマラ
トゥンガ王などが統治者の座に着いていた記載が見られる。その時期にジャワとスマトラ
がサイレンドラ王家の支配下に落ち、サイレンドラ王家は東南アジアで大きな威勢を振る
うヘゲモンのひとつになっていたということのようだ。

プナングガン山で発見された8枚の銅板から成るカラディ碑文は909年ごろのディヤバ
リトゥン王期に作られたもので、そこにはクメール・チャンパ・モンの商人たちが交易を
しにジャワにやってきていることが記されており、ジャワ島と東南アジア大陸部を結ぶ海
上交通路が確立されていたことを示していると判断できる。

ルソン島のマニラの南東に横たわっているラグナデバイを越えた対岸のルンバンで発見さ
れた銅板の碑文には、派遣されてきたムダンの検察官による貸借関係の判決が記されてい
た。西暦900年ごろに作られたと見られているその碑文はサンスクリット語や古ムラユ
語あるいは古タガログ語がカウィ文字で記されており、その中にMedangという語を読み取
ることができる。[ 続く ]