「スカルノのジャカルタ(85)」(2026年04月15日)

クマヨラン空港はスカルノの国際政治の大道具のひとつとして使われた印象がある。19
65年にスカルノは第一回アジアアフリカ会議の十周年を記念して第二回AA会議の開催
を目論んだものの国際情勢がそれを許さず、結局AA会議十周年記念ミーティングという
消極的な催しに終わってしまった。

インドネシアにやってきた各国デレゲーションはジャカルタ・ボゴール・バンドゥン・バ
リでのインドネシア観光を堪能して帰国したが、そのクマヨラン到着と離別に際して空港
では音楽隊がその国の国歌をはじめいろいろな曲を演奏して華やかさを添えた。他にもイ
ンドネシアのサッカーチームやバドミントンチームが勝利を携えて海外遠征から帰国した
とき、クマヨラン空港にそれを歓迎する市民と音楽隊が待ち構えていた。

1965年7月21日にマーシャル・グリーン米国大使が赴任してきたときも、空港で歓
迎式典が催されている。G30S事件の中でグリーンはスカルノを失脚させるためのどん
な役割を担ったのだろうか?

激動する国際政治の舞台の上をインドネシア共和国がその成立の初期に歩んだ歴史の中に
は、国の表玄関としてのクマヨラン空港のフロアを歩いた多数のひとびとの足跡が残され
た。オランダ王国から引き渡されたインドネシア共和国を築き上げるためにヨグヤカルタ
からジャカルタに戻って来たスカルノ自身もそのひとりだった。ガルーダ航空所有のダコ
タ機で1949年12月28日11時40分にクマヨラン空港に到着したスカルノは、そ
こからコニングスプレイン宮殿へ、沿道を埋めた市民の「ムルデカ」の叫び声を聞きなが
ら自動車で向かった。

1946年4月には、NICA政庁が回復させたクマヨラン空港に連合軍東南アジア地域
司令部を指揮するマウントバッテン卿が飛来した。卿はAFNEI軍の終戦処理状況を視察す
ることと併せて、ジャカルタでインドネシア共和国政府を代表するスタン・シャッリルと
の会見を行っている。

1970年3月18日、人類初の月面着陸を行った米国人宇宙飛行士3人が妻を伴ってク
マヨラン空港に米国陸軍の軍用機で着陸した。その同じ年には、ニクソン米国大統領もク
マヨラン空港に降り立ち、初めてインドネシア共和国を訪れた米国大統領という賛辞を受
けた。


1940年に開港したクマヨラン空港のキャパシティは一日5〜6百人という規模だった
にもかかわらず、1965年にクマヨラン空港出発ターミナルを通過する人数は一日2千
人になっていた。スカルノが空港ターミナルを拡張させたのも無理はあるまい。

1971年半ばごろにクマヨラン空港を発着する航空会社は26社にのぼり、その年の年
央までの国際線利用者は155,980人、国内線は153,121人と報告されたという記事が見られ
る。相変わらず激しい混雑状況にあったのだろう、1977年に454人を収容できる新
ターミナルが建てられた。最初のターミナルビルはAとBのターミナルに分けられて出発
便専用になり、新ターミナルビルはCターミナルとされて到着便の乗客がCターミナルを
使うようにその年の8月から変更が行われている。

1980年代に入ると年間の航空機離着陸回数は10万フライトを超え、年間4百万人の
乗客が利用するまでになった。航空行政当局が空港移転計画を立てるのも当然の対応だっ
たはずだ。バンテン州タングラン市チュンカレン地区をメインにする総面積2,555Haの新
空港がスカルノハッタ空港の名を与えられて建設され、1985年4月1日に営業が開始
された。クマヨラン空港の閉鎖は1985年3月31日だったが、クマヨランでの商業フ
ライトの最終便は1984年10月1日で、その後の半年間は休眠状態だったそうだ。
[ 続く ]