「ムダン王国(10)」(2026年04月16日)

そのころジャワ人は既に南シナ海を縦横に駆け巡っていたことが推察できるのである。い
やそればかりか、インド洋を越えてアフリカ大陸までジャワ人の世界が広がっていたこと
をアラブ人の記録が物語っている。

10世紀に書かれたAjayeb al-Hind(インドの不思議)と題するアラブ語の書物にはワク
ワクWaqwaq人がアフリカを侵略した話が記されている。西暦945〜946年にワクワク
人はタンガニーカ〜モザンビークの海岸に1千隻の船で襲来し、カンバロ要塞を攻略しよ
うとしたものの失敗した。そこに出て来るワクワク人とは多分スリウィジャヤもしくはム
ダンの海軍だったのではないかと考えられている。

ワクワク人は象牙・亀甲・豹の皮・龍涎香などを産する土地を領有しようとしたのだ。い
やそればかりか、かれらは奴隷労働力としてバントゥ人を手に入れることをも狙った。バ
ントゥ人をアラブ人はZengあるいはZengjiと呼んだことから、ジャワ人はかれらをJenggi
と呼んだ。ジェンギは力が強く、そして奴隷向きの性質をしていた。15世紀ごろまでジ
ャワには黒人奴隷がいたらしく、古ジャワ語で書かれた碑文の中にその事実を推測させる
ものが見つかっている。また、明王朝の時代まで黒人奴隷がジャワの交易品のひとつだっ
たという話も語られている。

931年のワハル第4碑文や1053年のガラマン碑文によれば、ジャワは長期にわたっ
て高い経済成長を謳歌したため多数の労働力を必要とした。農産物の収穫・梱包・港への
輸送などを行う奴隷労働者の需要が高まり、ジェンギ・Pujut(オーストラリア)・Bondan
(パプア)から黒人を調達してその作業を行わせた。奴隷の調達は奴隷商人が行ったが、時
には戦争をして捕虜をとらえ、奴隷にするケースもあった。オーストラリアやパプアの黒
人と言っているのはアボリジンを指していると考えられる。


マダガスカル人の遺伝子にはヌサンタラの諸種族のものが混じっており、また言語や稲作
などの文化要素も類似であることが判っている。言語的にマラガシ語はカリマンタンのダ
ヤッ族の一派であるマアニャン族の言語に酷似していて、またジャワ語もしくはムラユ語
の影響を受けたサンスクリット語も借用語として取りこまれている。

そこだけを見るなら、ダヤッ族がインド洋を越えてマダガスカルへ渡洋したような推測が
生じるかもしれないが、ダヤッ人は渡海する船乗りでなく、また米作りは陸稲栽培だった。
一方のマダガスカル人は水田耕作を行っているのである。そこに、ジャワ人もしくはスリ
ウィジャヤの介在が浮かび上がってくる。

マダガスカルに向かったのはダヤッ人のカヌーでなくてスリウィジャヤもしくはジャワの
巨船だったのではあるまいか。マアニャン人を含むダヤッ人がその巨船によるアフリカ遠
征に労働力あるいは奴隷として乗せられ、マダガスカルの上陸地を占領したジャワ人もし
くはムラユ人が労働者と現地民に水田耕作を行わせた図式が推測されるのである。

インド洋の東の果てからアフリカ東岸部にやってきた侵略者がアフリカで行った船づくり
がアフリカの文化に影響を与えたとする説もある。オーストロネシア地方が発端であるア
ウトリガーの使用や舳先に描く目の模様などをアフリカ人も真似ているのだ。

またマラガシ語の尊称であるandrianaの語源が古ジャワ語のrahadyanではないかという説
も挙がっており、ジャワ人がマダガスカルに文化を植え付けた可能性を示唆している。


スリウィジャヤがムダン王国のくびきを断ってスマトラの覇権を取り戻した後、今度はス
リウィジャヤがジャワ島への侵攻を行った。そのためにムダン王国はバリ島を攻めたとい
う話もある。バリ島で最初の王国であるブダフル王国の開祖スリ クサリ・ワルマデワ王
はスリウィジャヤが現地総督として派遣した人物だったとその説は物語る。当然、ワルマ
デワ王は仏教をバリ島に持ってきた。

スリウィジャヤの攻撃を受けたムダンはバリ島をスリウィジャヤから奪ってムダンの領土
に変えた。それ以来、東ジャワとバリの王家は親戚になり、宗教も仏教からヒンドゥ教に
入れ替わったというのがその説の内容だ。[ 続く ]