「スカルノのジャカルタ(86)」(2026年04月16日)

オルバ政府は1970年代からハリムプルダナクスマ空軍基地を国賓のための入出国ゲー
トとして使い始め、国賓が空港から迎賓館のムルデカ宮殿へ向かうルートが儀典道路にな
った。ハリム空港〜パンチョラン交差点〜スマンギ橋立体交差〜スディルマン通り〜タム
リン通り〜ムルデカ広場〜ムルデカ宮殿という順路はスカルノが作ったインドネシア共和
国の新しいメインストリートだ。

1974年1月15日にインドネシアを公式訪問した日本の田中総理はマレーシアから日
航特別機でハリム空港に到着した。しかし外国貴賓の通る公式ルートが学生デモによって
塞がれていたために、出迎えの一行は賓客を連れて別のルート経由でムルデカ宮殿に入っ
た。ところが都内の状況は更に深刻さを増し、デモが暴動に発展したため田中総理一行は
ムルデカ宮殿から外に出られなくなり、宮殿北側に建てられているスハルト大統領執務所
ビナグラハの屋上に緊急用として設けてあったヘリポートからヘリコプターでハリム空港
に送られ、17日に日本に帰国することができた。

1975年12月5日にインドネシアを公式訪問したフォード大統領はハリム空港に着陸
してパンチョラン交差点を通り、スマンギから北上してムルデカ宮殿に向かった。


インドネシア共和国空軍がKNILのチリリタン空軍基地を1950年6月20日から運
営しはじめ、1952年8月17日からはハリム・プルダナクスマ空軍基地という公式名
称に変わった。チリリタン基地内KNIL空軍司令部の建物に入っていた共和国空軍司令
部をスカルノは、第4回アジア大会のために建設されたチャワンとスマンギをつなぐ道路
の中ほどにできたパンチョラン交差点に移転させた。

移転が行われたのは1963年ごろで、交差点の南西角地にフリドゥリッ・シラバンの設
計した共和国空軍司令部ビルが建てられて空軍の本拠地がパンチョランになった。それか
ら30年が経過してインドネシア共和国陸海空軍総司令部が東ジャカルタのチランカップ
に統合されることになり、インドネシアのペンタゴンが1993年に誕生したのである。
パンチョランに置かれていた共和国空軍司令部もそれに合わせて移転したため、その跡地
はWisma Aldiron Dirgantaraという名前のオフィスコンプレックスエリアに変化した。

スカルノがそのパンチョラン交差点を広く華やかな場所にしたのは空軍に敬意を表するた
めだったという推測が可能かもしれない。おまけにその交差点の中央に空軍を象徴する像
を建てたのである。いや、「空軍を象徴する」という言葉は誰かが述べた意見であって、
その像に空軍という言葉は使われていない。

スカルノが空軍をえこひいきしていたと語っている情報もいくつか見られるのだが、スカ
ルノの意識の中にはそういう好悪感情とは無縁の、インドネシアのプライドに根差す別の
考えが宿っていたと考えるほうが順当なのではあるまいか。スカルノが空軍に気持ちを傾
けたのは、かれ独自の考えにもとづくものだった。

それは人間が空を飛ぶということの価値だ。現代文明化が民族の偉大さとオーバーラップ
している環境の中では、インドネシア人が航空機を作って空を飛ぶことがインドネシア民
族の偉大さを証明することになる。インドネシア人は大空を飛翔することにもっと憧れな
ければならない。スカルノの時代には、その民族精神を手引きする役割がインドネシア共
和国空軍という組織に与えられたのである。

折しも、ヌルタニオ空軍少佐の制作した小型機Sikumbangがインドネシア最初の動力飛行
機として1954年8月1日に歴史上はじめてインドネシアの空を飛んだ。空軍の手によ
って航空機生産が開始され、外国製航空機の下請け生産能力が養われてからポーランドの
軽飛行機ウィルガの生産が1963年にスタートしている。

インドネシアの航空機産業の歴史は:
「イ_ア人が空を飛ぶ(全6回)」(2023年01月30日 - 02月06日)
https://indojoho.ciao.jp/2023/0130_1.htm
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をご参照ください。[ 続く ]