「ムダン王国(11)」(2026年04月17日)

ムダン王国とバリ島の関係がその説通りだったかどうかはよくわからないものの、西暦8
82年にブダフル王国を興したスリ クサリ・ワルマデワ王はスリウィジャヤの王族でシ
ャイレンドラ王家の一族だったとイ_ア語ウィキペディアの解説は物語っている。ブダフ
ル王国は王都を今のギアニャル県タンパッシリン郡ペジェン村に置いた。ギアニャル県の
観光スポットのひとつ、ゴアガジャのすぐ北側にそのペジェン村がある。

このブダフル王国はマジャパヒッの覇権を認めて服従せよという要求を拒んだためにガジ
ャマダに攻められて1347年に滅亡し、ワルマデワ王朝もそのときに幕を閉じた。ガジ
ャマダはジャワからスリ アジ クレスナ・クパキサンをバリ王に封じ、王都をクルンクン
のゲルゲルに移転させた。

クレスナ・クパキサンはスタソマを著したンプ タントゥラルのひ孫であり、ンプ タント
ゥラル自身が国王の甥だったことから、クレスナ・クパキサンもマジャパヒッ王家の血族
のひとりだったことになる。インドネシア共和国の国是であるビンネカトウンガルイカと
いう語句はそのスタソマの書に書かれた言葉であり、仏教もヒンドゥ教も形こそ異なって
いても本質は同じものだという文脈で使われている。


マジャパヒッの属国として1384年に発足したゲルゲル王国は1686年まで続いたと
されている。スマトラ由来のワルマデワ王朝はジャワ由来のクパキサン王朝に取って代わ
られたわけだ。現在クルンクン県ゲルゲル村は海岸から2キロほど内陸に入った場所にあ
り、スマラプラの町の南部に位置している。

1651年に時のゲルゲル国王が没したあと王権の争奪が起こり、クパキサンの王統が途
絶えた。その後1686年にクパキサン王家を継ぐイダ デワ アグン ジャンベ1世が簒
奪された王位を取り戻してゲルゲルのすぐ北側にクルンクン王国を樹立した。その王都が
今のスマラプラだ。バリ島は外来統治者の支配下に置かれ続けていたことになる。

宗教については面白いことに、バリ島にはまず仏教が入ってきた。8世紀ごろに仏教が入
って来て社会に広まり、ヒンドゥ教はそれからおよそ半世紀遅れてバリ島民に知られるよ
うになった。仏教遺物である粘土製ストゥピカやタブレットに書かれたプラナガリ文字は
ジャワ島のものよりもインド南部の様式に似ていることから、ジャワを経由しない直接コ
ンタクトがバリとインドの間で行われた可能性を推測させている。

仏教そのものはバリ島に入ったことがなく、シワ=ブッダのシンクレティズムの中身とし
てだけバリ島に入ったという説はバリ島史学界が否定している。バリ島史学界はそれにつ
いて、バリ島に入ってきたヒンドゥ教はシワ=ヒンドゥ教が主流になり、989年ごろか
らバリ島民の宗教は仏教とシワ=ヒンドゥ教が二大メジャー宗教になっていたものの、数
の上ではシワ=ヒンドゥ教徒の方が常に仏教徒を上回っていたそうだ。ところが昨今のバ
リ州では住民人口の86%がヒンドゥ教徒であり、仏教徒はインドと同様で1%に満たな
いというのが実態だ。いったい何が仏教を衰退させたのだろうか?

ジャワのマジャパヒッ王国がバリに作ったゲルゲル王国〜クルンクン王国がバリをシワ=
ヒンドゥ教の島にしたという説をしばしば目にするのだが、マジャパヒッ王国の宗教方針
はヒンドゥ=ブッダ併立であり、ゲルゲル王国設立者のアジ クレスナ・クパキサンもヒン
ドゥ=ブッダ併立を統治方針にしたとされている。おまけにアジ クレスナ・クパキサンは
シワでなくてウィスヌ神を信仰していたらしい。

バリ島における仏教の衰退については統治者の方針によるものでなく、住民社会の中で起
こった諸要素が最終的に仏教を現在のような勢力にしてしまったという考察がなされてい
る。ヒンドゥ=ブッダ時代ですら仏教は最大勢力になっておらず、ヒンドゥ教の後塵を拝
していた。可能性として仏教界にインドのような腐敗が起こったこと、支配階層のエリー
ト宗教という印象を庶民社会が持ったこと、更に仏僧が仏教社会の縮小に適応するために
ヒンドゥ僧として働くことが優勢になっていったこと、またシワ=ブッダシンクレティズ
ムによって仏教がヒンドゥ教の中に吸収されたことなどがその考察の眼目を構成している。
[ 続く ]