「スカルノのジャカルタ(88)」(2026年04月18日)

1964年にその像の制作を彫像家エディ・スナルソにオーダーするとき、スカルノは自
分のイメージの中にあるガトッカチャの姿勢を自ら演じてスナルソに示した。スナルソは
ヨグヤカルタアルチャファミリー彫像チームを率いて像の制作を開始し、イ ガルドノが
統率するヨグヤカルタ装飾芸術青銅像鋳造所で高さ11メートル重量11トンの青銅の像
となってできあがった。

ところがG30S事件が勃発したために、像がジョクジャで完成した時カレンダーは19
66年に入っていた。スカルノのステータスもその事件によって大きい変化にさらされた。
重さ各1トンのパーツに分解された青銅像はジャカルタへ運ばれる日を待っていたという
のに、その日はいつまでたってもやって来ない。

それもそのはずで、スカルノは国家行政機構に命令できる資格を失い始めていたのだ。G
30S事件を収拾したインドネシア共和国陸軍はスカルノを国家の敵という立場に移行さ
せようとしていた。スカルノが国民評議会で大統領資格をはく奪され、自宅軟禁措置を与
えられたのは1967年3月だった。


先に渡されていた制作費の一部が使い果たされたためにスナルソは次の入金を待ちながら
自費で像の制作を続けた。かれは自宅を抵当に入れて資金を作り像を完成させたにもかか
わらず、いつまでも入金がない。長期未返済ローンに対する常套処分になっている抵当家
屋の封印を銀行側が行おうとしてスナルソともめたというエピソードをイ_ア語情報の中
に見ることができる。

1967年のある日、自宅軟禁措置で拘束されているために自由に外へ出ることができな
いスカルノがスナルソをボゴール宮殿に招いた。ディルガンタラの像がどうなっているの
かについての現況報告をスナルソに求めたのだ。ありのままの状況をスナルソから聞いた
スカルノは、自分が私有しているビュイック車を売却して資金を作るよう命じた。そうし
て得られた125万ルピアを使ってディルガンタラの像はジャカルタに運ばれ、人力の吊
り上げ機器でパンチョランの塔の上まで運びあげられ、塔の上で組み立てる方式で据付け
作業が完了したのである。

スカルノはその据付工事を視察しに頻繁にパンチョラン交差点にやってきたと書いている
記事がいくつか見られる。工事現場にいた警備要員たちが仕方なくスカルノの身辺警護の
任に就かざるを得なくなり、その愚痴を語っていた話が当時の新聞に掲載されたというの
がそのストーリーの内容だ。

G30S事件でスカルノ親衛隊チャクラビラワが消滅し、大統領の身辺警護体制に穴が開
いていた状況がその背景に会って、斜陽の坂をだいぶ転がり落ちて来たスカルノに向けら
れた愚痴が気兼ねなしに世間に出回る時代になっていた様子をそのストーリーは物語って
いるように解釈できるわけだが、その話にはスカルノが厳しい自宅軟禁状態にあったとさ
れているファクターが抜け落ちている。

スカルノは晩年をデウィ夫人の居所Wisma Yasoで送り、厳しい自宅軟禁の監視と健康状態
の悪化のために寝たり起きたりの生活に陥り、1970年6月21日にスネン地区のガト
ッスブロト陸軍中央病院で世を去った。死去するまでの三年間に四人いた正妻は三人に減
り、その中で最年少のデウィ夫人が滅びゆくスカルノの世話をしたという事実は何をわれ
われに物語っているのだろうか?


スナルソの懐古談によれば、自宅軟禁下に置かれたスカルノが据付工事現場にやってきた
ことは一度もなかったそうだ。ある日塔の上でスナルソが工事を指図していたとき、塔の
下を東に向かうスカルノの遺体の葬列が通りかかった。ブリタルに用意されたスカルノの
墓所に遺体を運ぶ車列がそれだ。スカルノの葬儀に参列しようと決意したスナルソはすぐ
さま下に降りてブリタルに向かった。

ディルガンタラの像がかれのジャカルタを飾る風景をスカルノは目にすることができなか
った。だがスカルノの遺志はスナルソによって実現されたのである。スカルノがジャカル
タに与えた最期のものがディルガンタラの像だった。[ 続く ]