「スカルノのジャカルタ(89)」(2026年04月19日)

もうひとつ奇妙な話が出回っている。塔の上のガトッカチャが向く方角をスカルノが厳密
に定めたという話だ。そのために台座が向く方角をスカルノが指示し、工事はスカルノの
監督の下に行われた。さらに像の据付に際しても、その方角が間違いなく実現するように
現場を訪れて注意するのを怠らなかったと言うのである。

実際に建てられている像は北を向いており、そして伸ばした右手の方角をたどっていくと
クマヨラン空港に行き当たる。ガトッカチャがパンチョランあるいは空軍司令部からクマ
ヨラン空港目指して空を飛ぶ姿に秘められたスカルノの意図を推察しているイ_ア語情報
は見つからない。

地上からディルガンタラの像を見上げると、一見猿人風の生き物が右手を掲げて何かを招
いている姿に見えなくもない。その印象から、ある日本人小学生が「お〜い、パンツ返せ」
の像と呼んだそうだが、近くから像を見ると飛び立とうとしている様子であることがよく
分かる。中でもガトッカチャの身にまとわりついた細い布スレンダンが、巻き起こり始め
た風になびいて後方に膨らんでいる様子が現実感を誘っている。

ガトッカチャの顔を描くのに思い悩んだスナルソは自分の顔をガトッカチャの面に貼り付
けたという面白いエピソードがある。スナルソの顔をしたガトッカチャがスカルノの考え
た姿勢でパンチョラン交差点に今も立ち続けているのだ。ガトッカチャの面相は地面から
見えないから、スナルソが自分の顔を世間に売ろうとして行ったことではないだろう。


スカルノがジャカルタを飾った像の中にもうひとつ、忘れてならないものがある。プラパ
タン通り西端の三角形の公園に建っているTugu Taniというモニュメントだ。この青銅の
像が建てられる前、その三角地には住宅が立ち並んでいて、人気のあるオランダ人のパン
屋がその中にあったそうだ。

スカルノはその三角地を広い公園スペースに変えて、その中央部にモニュメントを建てた。
1963年に建設が始まり、公開式典が1964年6月24日に行われたというデータに
なっている。このプロジェクトにもスカルノの思惑が絡んでいたという話がある。共和国
海軍海兵隊への賞賛の意図をはらんでその公園が設けられたと言うのである。

三角地からチリウン川を越えてすぐの北側の場所に共和国海軍海兵隊司令部がある。19
61年12月19日から1962年8月15日まで行われた西イリアン解放戦争では海軍
海兵隊がその主役を演じた。その戦争に際してソ連から大きい支援を引き出したインドネ
シアは東南アジアでトップの軍事力を持つ大国にのし上がるという副次効果をも得た。

西イリアンをインドネシア領土にすることに成功したスカルノは1963年にバンテン広
場の中央にイリアン解放を記念する像を建てており、それからほどなくして建てられた海
兵隊のための像はイリアン解放でなくて、英雄をテーマにしていたのである。

このモニュメントの公式名称はPatung Pahlawanであって、農夫という言葉はどこにも出
てこない。スカルノがそのモニュメントで示そうとした概念が農業でなく英雄であったこ
とは、台座にはめこまれた碑文の言葉が雄弁に物語っている。「自らの英雄たちを尊敬す
る民族だけが偉大な民族になれる - スカルノ大統領」銘板にはそんな文が謳われている。

ところが、英雄という概念を象徴しているとスカルノが考えた像の実の姿は銃を持つ農夫
の形になっていたのだ。スカルノの意向と国民のパーセプションの間にスレ違いが起こっ
た。その時代にインドネシアを覆っていた共産主義の影がそこに濃く投影されていたこと
が国民の解釈を別の方向に導いたのではないかと憶測される。

ジャワ島農民のトレードマークであるチャピンを頭に載せ、半ズボンだけを履いた筋骨逞
しい男が左手で剣付銃を支え、右の腰にはピストルを納めたホルスターを吊って立ってい
る。スカルノは本当にその姿を英雄の象徴と考えたのだろうか?

インドネシアの民衆がその像をTugu Petani, Patung Pak Tani, Monumen Petaniなどとい
う言葉で呼んだのは、それが英雄という言葉を具現しておらず、単に武装したひとりの農
夫としか見えなかったからではないだろうか?即物的にもその通りであって、民衆のふる
まいにいささかの間違いもないようにわたしには感じられる。[ 続く ]