「ムダン王国(14)」(2026年04月20日) ムダン王国時代の碑文にサンジャヤ・サイレンドラ・イシャナという三つの王家名が出て 来ることから最初は、およそ3百年続いたムダン王国でサンジャヤ王家、サイレンドラ王 家、イシャナ王家という三王朝の交代があったと考えられたものの、それらは名乗りを変 えただけであることが明らかになり、今ではサイレンドラ王家の一貫性が定説になってい る。 サイレンドラ王家の最古参として知れらている人物が7世紀初期のソジョムルト碑文に登 場するダプンタ セレンドラだ。サンタヌを父、バドラワティを母として生まれたダプン タ セレンドラはサンプラを妻にした。中部ジャワ州バタン県で発見されたソジョムルト 碑文は古ムラユ語の文がカウィ文字で記されており、シワ=ヒンドゥ教徒が神に捧げた一 家の安寧と繁栄への祈りをそこに読み取ることができる。 インドネシアの史学界はダプンタ セレンドラをスマトラ島ムラユ地方の出身者ではない かと考えている。ある説によれば、ダプンタ セレンドラはスマトラの王国がジャワに派 遣した使節だったと語られている。かれがスマトラのどこかの国の王族であったことはま ちがいあるまい。 611年にシワ=ヒンドゥ教の高僧の娘としてクリンの町で生まれたシマ女王の公式名称 がShima putri Hyang Syailendra putra Santanuだったことから、ダプンタセレンドラと ヒヤンシャイレンドラが対応する訳語であると言えるなら、シマはダプンタセレンドラの 娘だった可能性が浮上してくる。ちなみにDapuntaというのは古ムラユ語で指導者を呼ぶ ときの敬称であり、しばしばDapunta Hyang ○○王という語法で使われている。 シマ女王の血統はサンジャヤ大王へと続き、その間の王家の宗教はシワ=ヒンドゥ教が継 続した。ムダン王国の第2代国王に就いたラカイ パナンカランが仏教チャンディを建て たのはかれが仏教信徒だったからであり、サンジャヤが将来の自分の後継者である息子あ るいは甥をヒンドゥ教から仏教に信仰替えさせた結果、サイレンドラ王家は仏教に変わっ た。シワ=ヒンドゥ教を怖がる者が多いため、そんな印象を持っていない仏教を国家宗教 にするべきだという考えがサンジャヤにその行動を執らせたという話になっている。 宗教の独善性を極端視するあまり、宗教はすべて不倶戴天が原理であって共存不能である ように考える傾向を現代人は持っているように思われるものの、サイレンドラ王家は宗教 に関してはるかに自由な考え方をしていたようだ。上に示したチャンディ一覧表を見れば 判るように、ヒンドゥ教と仏教が混在しているのである。 しかも第7代国王Rakai Pikatanとその妻Pramodawardhaniの夫婦のあり方にわれわれはこ の王家が持った宗教への自由で柔軟な姿勢を確認することができる。プラモダワルダニは 第6代の王サマラトゥンガの娘であり、ラカイピカタンは第3代ラカイパヌンガランの息 子だという説がある。そのためにイ_ア語歴史解説にはこの夫婦を女王と王夫、あるいは 国王と王妃という二種類の見方のどちらかで捉えているものばかりになっていて、定説が ない。ラカイピカタンはヒンドゥ教徒、プラモダワルダニは仏教徒であり、この夫婦国王 は仏教とヒンドゥ教のチャンディを両方建てた。 ムダン王国、言い換えればサイレンドラ王家は基本的にヒンドゥ=ブッダ王朝なのであり、 そのため、中部ジャワ時代のサイレンドラ王家は最初のヒンドゥ教から仏教に替わり、東 ジャワ時代のイシャナ王家は仏教からヒンドゥ教に戻ったという見方はきわめて不正確で あるように感じられる。東ジャワに移ってからサイレンドラ王家をやめてイシャナ王家を 名乗ったのは、宗教とは異なる要因が働いた結果だったのではあるまいか。 その話はさておき、上の仮説が正しいのであればサイレンドラ王家という家系はサイレン ドラ王が始めた王家ではないということになるだろう。サイレンドラ王など歴史の中に出 現せず、ヒンドゥ信徒あるいはヒンドゥ僧の娘が女王になり、その娘が父親の名前を王家 の名称にしたという経緯になっているように見える。 シマ女王から始まってその後何世紀にもわたって継続した王家の名称が王家開祖の親の名 前だったという話に何となく肩透かしを食わされたような思いを抱くのはわたしだけだろ うか?この世に起こっておかしな話では決してないという気もするのだが、わたしが抱い ている固定観念が強すぎるのかもしれない。[ 続く ]