「スカルノのジャカルタ(終)」(2026年04月20日) この像を制作したのはロシア人彫像家のマティイェ・マニゼルと息子のオットー・マニゼ ルだった。その彫像家父子はスカルノの招きでインドネシアを訪れ、国内の諸地方を訪れ て民衆生活を見て回り、スカルノが構想している像を具象化するためのアイデアを長い日 数をかけて探した。 そしてデザインが決まるとふたりは故国に戻って像を制作し、1963年に完成品が船で インドネシアに送られてきた。ソ連政府はそれをインドネシア政府に寄贈した。その展開 にはもちろん、前奏曲がある。 スカルノが1959年にモスクワを訪れたとき、モスクワの街中を飾っているたくさんの 彫像に感銘を受けた。そのときスカルノは、インドネシア女性が国家に捧げる貢献を讃え る像をジャカルタの町中に建てるアイデアを抱いていたのだ。ソ連政府はマニゼル父子を スカルノに紹介した。 スマルノ・ソスロアッモジョがあるとき、スカルノに意見した。スマルノは1960年か ら6年間ジャカルタ都知事を務めている。 「ジャカルタの公共スペースに飾られている彫像は男ばかりですよ。そろそろ女性にも機 会をあげないと。独立革命の時期にわたしはマランの南部で女性たちがゲリラ部隊の男た ちを雄々しく助けていた姿をこの目で見ています。 兵士のために食事を用意し、負傷兵を介護し、衣服を洗濯してやり、時には銃を手にして 敵に向かって行きました。独立革命の勇士を讃えるのに男ばかりが出て来るのでは片手落 ちでしょう。男のゲリラ兵の傍らに赤児を抱いた女性が立ち、ナシブンクスを手渡してい るような構図の像をひとつ、都内に建てていただけませんか。」 スカルノはスマルノの意見に大きくうなづいた。それを心に止めていたスカルノは、機会 を見て彫像家たちにデザインさせたが、いいものがない。ユーゴスラビアを訪れた際に現 地の彫像家たちにデザインを求めてみたものの、気に入るものがない。 そしてモスクワを訪れたときにマニゼル父子を紹介されたという経緯が英雄の像の前置き だそうだ。だからこの像には女性が登場していたのである。スマルノのアイデアでは、英 雄の位置に立っているのは女性であり、男性は脇役ということになる。ところが構想が具 象化されたとき、男がより高い足場にまっすぐ立ち、女は低い位置からナシブンクスを捧 げる姿勢を執っているものになった。当時の男優女劣という社会通念からは、その反対の 形を世の中がシャットアウトするだろうことは言を俟たなかった。 スマルノもスカルノも女性の英雄的姿を示そうとしたものの、その時代の人類の価値観が その形象化を困難にし、女は男に奉仕する振舞いの中でしか英雄になれなかったのである。 だが、奉仕する人間をだれが英雄と見なすだろうか?奉仕者に英雄という観念をかぶせる ことのできる人間はめったにいないのだ。 マニゼル父子はインスピレーションを求めてインドネシアの民衆生活の中に分け入った。 そして西ジャワのある村で、こんな話を耳にした。息子を戦場に送り出す日を迎えたある 農家の母親が息子にナシブンクスを渡してこう言ったそうだ。「祖国を守るのは、豊饒な この土地を守るということです。米を作り出すこの土地を守る気概を、飯を食べるときに いつも思い出さなければなりません。お前はこの飯を持って戦場に出るのですよ。」 そのとき、マニゼル父子のイメージの中に像のデザインが決まった。ふたりはすぐにジャ カルタに戻ってスカルノにその話を聞かせた。そんなエピソードが英雄の像についての解 説の中に出て来る。 そのころ、インドネシア共産党が30万人の労働者と農民から成る第5軍の結成を政府に 要求し、国内で大々的なキャンペーンが展開されていた。マニゼル父子がインドネシア滞 在中にインドネシア共産党とまったく連絡を取らず、インドネシア共産党がマニゼルに関 してコミンテルンと何の連絡も取らないということがあり得ただろうか? 軍部・共産党・イスラムという三勢力のバランスの上でインドネシアの国政を操縦してい たスカルノが第5軍という意欲的な話に乗る可能性は皆無だったはずだが、インドネシア の完全な共産化を望むソ連がインドネシア共産党に利益をもたらす行動に躊躇するいわれ はなかっただろう。 英雄として武装農夫の像を東ムルデカ通りに近い三角公園に示すのは、マニゼル夫子にと って祖国への大きな貢献になったはずだ。その名が農夫の像であろうと英雄の像であろう と、その像はコミュニズム礼賛のシンボルであり、インドネシア民衆の敵であるコミュニ ズムのシンボルは打ち壊されなければならないという論がいまだに出ては消え、出ては消 えている。[ 完 ]