「クレテッ煙草(1)」(2026年04月21日)

2022年の統計数値によれば、インドネシアは中国・インド・ブラジルに次いで世界第
四位のタバコ葉生産国であり、その生産量は世界総生産の4%を占めている。その地位は
植民地時代に築かれたものだ。19世紀前半に開始されたファン デン ボシュの栽培制度
の中でタバコ葉は重要な作物として農民に栽培が命じられ、収穫物がヨーロッパに向けて
船積みされた。

19世紀後半には北スマトラの東部で民間資本によるタバコ農園事業が盛んに行われ、デ
リタバコ葉の品質の良さが欧米のタバコ生産者の人気を集めた結果、輸出ビジネスが活発
化してデリ地方が黄金郷と謳われるようになった。また東ジャワ東部のジュンブルやブス
キで生産されるナオーフスト葉も葉巻のラッパーとして世界最高の折り紙が付けられたこ
ともある。

そんな歴史を見るなら、インドネシアのタバコ葉生産はオランダ人が東インドのプリブミ
に行わせたのが事始めのような印象を受けることになるのだが、ヌサンタラではもっと古
い時代からタバコの栽培が行われていた。インドネシアにタバコを伝えたのはポルトガル
人であり、フィリピンからヌサンタラに持ち込まれたというのが定説になっている。

ところがポルトガル人はフィリピンを支配下に置いたことがなく、フィリピンを植民地に
したのはスペイン人であり、スペイン人がタバコ栽培をメキシコからフィリピンにもたら
したと考えるのが順当だろう。

とはいえ16世紀にインドネシアの各地に拠点を築いたのはポルトガル人だったのだから、
フィリピンまで届いたタバコの種苗をポルトガル人がインドネシアに伝えたという流れは
十分推測することができる。多分、1600年の前後辺りにそれが起こったのではあるま
いか。

その流れからは、マルク地方がタバコ栽培の最初の門戸になったことが想像されるのであ
る。ところが現代のマルク地方でタバコ葉の栽培はまったく行われていないように見える。
あったとしても産業レベルになっていないようだ。結局のところ、マルク地方はインドネ
シアのタバコ史において入り口の役割を果たしただけだったのかもしれない。

もしも1600年ごろにマルク地方がタバコ栽培の入り口になったのであれば、1606
年にマニラから進軍して来たスペイン軍がマルク地方を制圧した歴史がある。そうなると
スペイン人にもマルクにタバコ栽培を伝える機会があったことになるのではあるまいか?


マルクが単に入り口の役割を果たしただけという話はシンコンにもあり、ポルトガル人が
南米から持ってきたキャッサバの栽培はマルク地方に定着せず、ジャワ島で開花したと語
られている。

ただしそのシンコンの話にも異説があって、その説ではオランダ人がシンコンを1850
年代にペルーから東インドに持ち込んできたと語られている。オランダ人はまずマルクで
シンコン栽培のトライアルを行い、それからジャワ島で栽培させて大発展した。そのころ、
強制栽培制度のために農民のコメ栽培が低下して飢餓がジャワ島に蔓延しつつあったこと
から、手間暇のかかるコメ栽培の代わりにシンコンを農民に植えさせて食料確保をはかっ
たというのがその背景だ。どうりでジャワ島で大ヒットしたはずだ。

ただしどうしてマルクがトライアル地に選ばれたのかという点にわれわれは不審を感じる
ことになる。その説を述べている研究者は、まだその答えが見つかっていないと表明して
いる。

ところが2013年マルク地方の食糧生産の中でシンコンは9.78万トンという数字で
第一位を占めている。続いて水稲9.68万トン、サツマイモ1.96万トン、トウモロ
コシ1.19万トンという順番だ。この事実から、シンコンは本当にマルク地方を素通り
したのかという疑問が湧いてくるかもしれない。

しかしジャワ島でシンコンが大ヒットした後の歴史の中で、ジャワ人がヌサンタラの各地
を往来したときにシンコンを紹介したからシンコンがヌサンタラの各地に広まったという
ことをわれわれは知っている。マルク人の腹がいつからシンコンで満たされるようになっ
たのかを上述のような内容だけで推し量るには無理があるだろう。[ 続く ]