「ムダン王国(終)」(2026年04月23日)

遺物の中にあった炭化した木材と竹材のサンプル5点の年代測定が国家原子力庁に依頼さ
れ、西暦587年・742年・846年・913年・971年のものであることが判明し
た。ということは、一番古い587年というのはシマ女王から百年も前の時期になるわけ
で、そのころからリヤガン遺跡で人間の居住が始まり、それ以後約4百年間、リヤガン遺
跡で人間の生活が営まれてきたと考えてよいのだろうか?。

おまけに従来から考古学界で常識とされてきた解釈を覆す事実まで浮かび上がってきたの
だ。たとえば戦争や災害で都が壊滅するとその都を復興させることはなされず、不吉であ
るという理由でそこは放棄され、新しい都を建設するのが古代からの習わしになっていた
という観念だ。ところがリヤガン遺跡のチャンディを復元したとき、そのチャンディは巨
大な火山岩の上に建てられていることが判明したのである。

リヤガン遺跡は何度も火山噴火の被害を受け、ひとびとはその都度そこから避難し、安全
になるとまたそこに戻って村を修理し復元していたことが推測されるのである。チャンデ
ィの近くに作られている道にも大きな火山岩が埋まっており、その道が噴火のあとで建設
されたことを物語っている。

チャンディ周辺に砂岩の使われた石垣があるものの、その一部が安山岩になっており、し
かも石の形が四辺形でなくて円形になっていて、噴火被害の後に修復工事がなされた可能
性を推測させている。そのような修復工事の跡があちこちに見られることから、この村に
は従来の常識が当てはまらないという事実が考古学界の興味を引いている。

従来からの定説である、ムラピ火山の大噴火によるムダン王都の壊滅がンプ シンドッ王
による遷都の原因だったという理論の見直しをその新発見は勧めているという議論が出て
きてもおかしくはあるまい。ムラピ火山の大噴火は1006年に起こったという説も有力
なのだから。

リヤガン遺跡発掘調査チームリーダーは、多分971年ごろに起こった噴火でリヤガン遺
跡は放棄された可能性が高いが、その後この地域に人間がまた戻った形跡があり、それは
17世紀にまた大噴火が起こったときまで続いていたようだとコメントしている。


現在リヤガン遺跡と呼ばれるようになったその村は宗教祭祀のために設けられた村であり、
その地域と施設の維持運営のために王国統治行政が課す納税貢納義務が免除されていたの
ではないかと発掘調査チームは推測している。古代王国は領民のすべてに納税貢納義務を
課したものの、特殊な産品の生産や公的施設建物のメンテナンスなど特別な用役を命じら
れた村はその貢納義務が免除された。そのステータスを与えられた村や地域はシマあるい
はプルディカンと呼ばれた。リヤガン遺跡の村もシマのひとつだった可能性が高い。

リヤガン遺跡から10Kmほど南東に離れているParakan郡Petarongan村で見つかった碑文
には、ある村が火山の噴火で壊滅したためにシマのステータスを与えられたということが
記されている。そのある村はもちろんリヤガン遺跡のケースを語っているものではないわ
けだが、火山の噴火が当たり前のできごとであった時代に火口に近い場所に村がいくつも
できていたことをわれわれはそこから知ることになるのである。

ムラピ〜スンビン〜シンドロ〜ディエン高原という高台エリアがムダン王国領民の生活セ
ンターになっていたという仮説にこのリヤガン遺跡発見が強い根拠を与えるものと考えら
れている。かと言って、その地方にだけ人口が集中していたということでは決してない。

ヨグヤカルタ州スレマン県一帯でも古マタラム王国居住地跡を示す遺跡はたくさん見つか
っている。2009年11月に届け出のあったスレマン県スユガン郡マルゴルウィ村の古
井戸の遺跡は紀元7〜8世紀ごろのものと見られている。

農民が水田を広げようとして1メートルほど高くなっている土地を掘り崩したところ、深
さ2メートル近い古井戸が出現した。直径50センチほどの井戸は素焼きの筒が土中に埋
め込まれた構造になっていて、土が井戸の中に落ちるのをその筒が防ぐ工夫がなされてい
る。この地方の井戸遺跡の中ではあまり見られないものだ。

井戸の周辺には現代の赤レンガより3倍くらい大きいものが十数個散乱しており、井戸の
周囲をそれが固めていたことが推測される。また聖牛ナンディの頭の像も二個出土した。
この地方で古井戸遺跡はしばしば発見されており、ムダン王国時代に人間の居住地区だっ
たことは間違いがない。

ンプ シンドッによるジョクジャ/マグランからジョンバンへの王都移転によってそれら
領民の居住地が拡散していった可能性は高いようにも思われるのだが、どのような変化
が起こったのかはいまだ推測の域を出ない。[ 完 ]