「カフリパン王国(2)」(2026年04月25日)

ダルマワンサ トゥグ大王に弓を引いたWurawari領主とはどのような人物だったのだろう
か?西暦1041年に作られたプチャガン碑文に見られるHaji Wura-wari mijil sangke 
Lwaramという句以外に、その人物について物語る情報は古文書の中にまったく見つかって
いないようだ。

ウラワリという地方の都ルワラムは現在のブロラ県チュプ郡Ngloram村だとされており、
ジャワ島に破滅をもたらしたウラワリ王の本拠地であるルワラムという元の言葉が音韻変
化によって現在のグロラムという地名になったという説は納得しやすい。

グロラム村はブガワンソロの川岸にあり、川を遡行すればマディウンに達することができ
た。ポノロゴへは距離がもっと遠くなるが、ウォタン村へも川伝いに到達することはでき
そうだ。


ウラワリ王はルワラムを本拠地にするその地方の豪族が地場の領主になったものと考えら
れている。その意味では、ウラワリ領主というのはムダン宮廷が地元の人間を行政首長に
任命したようなものでなく、小国ながらも国王であった者がムダン王国に臣従することで
領地を安堵されたケースだったと解釈できる。

ジャワ島の広域覇権を握った王国は昔から重要な地域に王家の者を領主として派遣し、統
治させた。ムダン王国のRakaiという言葉が示しているのがそれであり、マジャパヒッ時
代にはBhreという言葉が使われた。BhreとはBhatara riが短縮した言葉だと説明されてい
て、たとえばBhre Wengkerというのはウンクルの地に君臨する神という意味を表している。

ジャワ島のラカイやブレは大王の子供たちがその後継者になるためのプロセスとして諸地
方の領主にローテーション方式で任じられ、地方ごとの特色を知りまた人脈を作りながら
大王の座に昇りつめるステッピングストーンになっていた。

一族の者を分家として地方領主に封じ、代々その地を統治させるというものではなかった
のだが、そのようなケースが起こったことがないわけでもない。それは基本方針から外れ
た例外的措置だったということなのではあるまいか。

日本では親藩・譜代・外様という言葉がそのシステムに該当しているのだろう。ただし、
日本の親藩というのは一族の者を分家としてある土地に封じる意味合いのほうが強かった
のではないだろうか。ともあれ、ウラワリの領主というのはムダン王国にとって外様の典
型的ケースに該当していたように思われる。


グロラム村グリンゴ部落の水田地区に接する場所に古代遺跡がある。およそ百メートル四
方のその遺跡は苔むした古代レンガが周囲を包む少し盛り上がった平坦地になっていて、
周辺には直径1メートルを超える樹木がたくさん生えている。地元民がプンデングリンゴ
と呼んでいるその地所には元々誰のものとも知れない墓所があり、地元民の間でそこは聖
所であると言い伝えられてきた。現在は地元民もその土地を墓地として使っている。

その土地では昔から人骨が見つかることが何度も起こっていて、人骨が出てくればそれを
また土の中に埋めるという対処をするだけだった。グリンゴ部落民の中にその聖所に由来
する歴史的故事を知っている者はおらず、聖所であるということだけを根拠にして毎年三
回、スドゥカブミの儀式が行われてきた。

インドネシアの考古学界はその場所をウラワリ王の宮殿が建てられていた跡地ではないか
と考えており、その周りにはたくさんの人家があって賑やかな居住地区を形成していたと
推測されている。

アイルランガは1032年にウラワリへの復讐戦を行って勝利し、仇討ちを果たすことが
できた。プンデングリンゴに建っていたウラワリ王の宮殿はその復讐戦の結果、今のよう
な姿になったのではあるまいか。しかしその跡地に設けられた墓所が誰のものであったの
かは、憶測するしかないようだ。

ブロラマハメル博物館を運営しているブロラマハメル財団は時々その場所で小規模な発掘
調査を行い、出土した古代遺物を博物館に保管している。ブロラ一帯で発見された平面2
0x30センチ高さ4センチ弱の古代レンガ・陶器の破片・青銅の金属片などおよそ6百
点がブロラマハメル博物館の所蔵品になっている。[ 続く ]