「クレテッ煙草(5)」(2026年04月25日)

ロンボッのタバコ栽培は主に島の東部で行われている。タバコ栽培がこの島の重要な産業
になったのは1970年からだった。ジャワ島のタバコ製品生産者であるブリティッシュ
アメリカンタバコインドネシアとPTファロカの二社がフィルジニアタバコの栽培を農民に
勧めたのが発端だった。その二社は白タバコ用の素材として調達先の拡大と調達量の安定
化を図ってそれを行ったわけだが、インドネシアで一二を競うクレテッ生産工場HMサンプ
ルナとジャルムもそれに追随した。

サンプルナ社は栽培農民を丸抱えする育成契約を地場農民の希望者と結び、タバコ葉栽培
の指導を行いながら必要な肥料や殺虫剤を提供し、製品をその年の相場で買い上げるとき
にそれらの費用を支払わせる方式を行って製品素材の供給元を広げていった。他のタバコ
会社も同じような方式を採った。

その結果2005年には東ロンボッ県のフィルジニアタバコ栽培面積が1.4万Haに達し、
タバコ生産企業と育成契約を結んだ農民8千戸および地場の10農業会社に雇用されてい
る4千の農家がタバコ栽培に従事していた。しかし問題の種はどにでも転がっているもの
だ。急激に増えた生産量が製品生産工場の買い上げ能力をオーバーしたのである。

育成契約農民の生産量をタバコ会社はまだコントロールできたが、自力で栽培していた農
民とその収穫を取り扱っていた地場の農業会社は大打撃を受けた。インドネシアの農民は
普通、収獲の売上を当て込んで収穫のための肥料・殺虫剤その他の栽培必需品を借金でま
かなっている。利子は50%あるいは80%。遠い昔から先祖代々行われてきた慣習だか
ら、みんなそれが当たり前と思っている。

収穫の不足で借金返済ができなくなれば、自営農業を一回休んで現金収入を求め、借金の
かたをつけなければならない。借金を溜めたり増やしたりすれば、信用が低下して農業規
模が縮小していき、尻すぼみになって最後には土地を手放さざるを得なくなる。

その年、ロンボッのタバコ農民が何十人もマレーシアへ出稼ぎに渡った。それに因んでタ
バコ栽培を3Mと呼ぶ風刺がその年、ロンボッで流行した。うまく行けばMekkahへのハジ
巡礼、うまく行かなければMalaysiaへ出稼ぎ、下手をすればMatiだ。自営農業を続けられ
なくなって家業が死ぬことも起こりうる。


収穫されたタバコ葉は熟成・刻み・乾燥プロセスを経て乾燥刻みタバコになる。そのプロ
セスを栽培者が行えば付加価値が付いて高く売れるわけだが、早く金を必要とする農民も
いるのである。その場合は別の誰かが代行して仕上げたものをタバコ製品生産者に売るか、
もしくはその仕上げ工程をタバコ製品生産者が行うか、というオプションが出現するだろ
う。インドネシアの乾燥刻みタバコの仕上げプロセスはどうやらそのすべてが混在してい
るようだ。つまりインドネシアでは「何でもあり」なのである。

ポルトガル人やVOCがどのような状態でプリブミ農民から買っていたのかはよくわから
ないのだが、オランダ植民地時代にはすべてのプロセスが栽培者によって行われるのが一
般的だったような印象を感じる。今現在でも農民がそれらのプロセスを行っている写真や
動画がインターネット内にたくさん流通している。そしてオランダ時代からそうしていた
という話があちらこちらに出現する。

ところがその一方で、イ_ア語AIはインドネシアでナンバーワンのクレテッタバコ生産工
場もそれらのプロセスを行っていると述べているのだ。たしかにそれらのプロセスを行う
ための自動機械も存在しているので、農民と仲介者そして工場が必要に応じてそれらのプ
ロセスを行っていると考えるべきだろう。その分業に関してはケースバイケースであって、
結局のところ「何でもあり」の世界に戻って行くのではあるまいか。[ 続く ]