「カフリパン王国(3)」(2026年04月26日)

1016年のその日、ウラワリの軍勢に襲われたウワタン王宮からアイルランガとガル 
スカルは辛うじて脱出することができた。バリからアイルランガに付き添ってきた従者ナ
ロタマの大きな功績がそれを実現させたのである。ウラワリ領主はガル スカルとアイル
ランガを殺して災いの根を断とうと努めたにもかかわらず、ふたりは捜索の網の目を巧み
に潜り抜けて森林の奥深くに身を隠した。

アイルランガとガル スカルに付き従ったのはアイルランガの従者ナロタマ、ウォタン王
宮のガル スカルの侍女5人、下働きの男たち数名、数少ない騎馬武者たち、そして王宮
の数人の貴顕たちだった。一行はwanagiriへ逃げたあと、さらにクディリ西側のウィリス
山〜マスクマンバン山〜クロトッ山を転々としてからモジョクルトの北西にあるプチャガ
ン山に移り、その麓にあるスンダンマデと呼ばれる森林に隠れたと解説している記事があ
る。その記事はwanagiriを現在のウォノギリという地名に解釈しているものの、古代ジャ
ワ語のwana giri(発音はウォノギリ)は「山の森」を意味する一般名称でもあり、その
解釈を採っている記事は一行が3年間スンダンマデに隠れていたと述べているだけで、山
々を巡る放浪の旅には触れていない。

また別に、wanagiriを地名としている説の中にはウォノギリからジョンバンのタムランそ
してワトゥガルを経てモジョクルトのジョロトゥンダに至ったという解説も見られる。

スンダンマデはマオスパティからもプルンからも百キロくらい離れており、グロラムへも
90キロ足らずの距離にある。7つの湧泉池を持つスンダンマデでの隠遁暮らしでアイル
ランガはンバ ジョヨという偽名を用い、近隣の村々の住民に宗教祭祀を執り行って布施
を得ながら起死回生の時が熟すのを待ったという話が語られている。

このスンダンマデの池には特別なご利益があると信じられており、今でも伝統ジャワ歌謡
の唄い手たちが池の水に浸かりにやってくる。そこはモジョクルトの町から16キロしか
離れていない。


1019年3月、ついにその日がやってきた。ダルマワンサ トゥグの遺臣たちがイシャ
ナ王家復興の願いを携えてアイルランガに旗揚げを勧めるためにスンダンマデを訪れたの
だ。妻のガル スカルに促されて、アイルランガはイシャナ王家の復活と再生を決意し、
スンダンマデを去ってWwatan Masに王宮を構えた。

ウワタンマスあるいはワタンマスという地名は今のモジョクルト県ゴロ郡ジュドン町にあ
るWotan Mas村であるという説とジョンバン県クドゥ郡Katemas村だという説に分かれてい
る。カトゥマス村はスンダンマデからほんの3キロほど西側だ。ゴロ郡ウォタンマスはプ
ナングガン山北側の麓にある。

アイルランガはその年、新王都でダルマワンサ トゥグを後継するジャワ島の大王に即位
し、王国をMedang Kahuripanと名付けた。ところがそれとは異なって、後に王都がウワタ
ンマスからシドアルジョ県ポロン郡のブランタス河口に移されたとき、新首都にカフリパ
ンという名前が付けられ、都の名前が王国名称になったものがカフリパン王国であるとい
う解説も見られる。

一般的には後者の説のほうが有力なように見えるのだが、アイルランガの王国設立がムダ
ン王国の再生であったという文脈からそれを見るなら、よみがえったムダンを暗示するム
ダンカフリパンの方が、アイルランガのカフリパン王国が担った歴史上の意味合いを明瞭
に映し出すものであるようにわたしには感じられる。

ジャワ語やスンダ語で生命が存在することや生きることを意味するhurip/uripを語幹にす
るカフリパンという言葉がそれだけで使われると、文脈の説明が欲しくなるのはわたしだ
けではあるまい。

ムダンカフリパン王国が発足したとき、王国領はモジョクルト・シドアルジョ・パスルア
ンの3県に渡っているだけだった。ジャワ島東部地方の覇権を握ったムダン王国が崩れた
ときにほとんどの領主がムダンの支配下から離脱した点に注目するなら、中部ジャワから
東部に支配を延ばしてきたムダン王国のジャワ島東部地方における立場の本質があからさ
まに浮かび上がってくるように思われる。[ 続く ]