「カフリパン王国(4)」(2026年04月27日)

アイルランガに忠実なバリ人従者ナロタマは新王国の宮廷で重要人物になった。旗上げに
よって腹心の部下になった者たちの最古参なのだから、だれもが一目置いて当然の人物と
いうことになるだろう。宮廷ではMahapatihの地位に就き、Mpuの敬称が付けられた。パテ
ィは大臣や長官の地位の呼称であり、マハパティはその上位者ということになる。

アイルランガがマラン地方を征服したあと、アイルランガはナロタマをその地方の領主に
封じたので、Rakryan Kanuruhan Mpu Dharmamurti Narottama Danasuraがかれの称号にな
った。ナロタマは没後ジョロトゥンダに祀られたという説もある。


アイルランガのジャワ島再統一戦争は1029年に開始されて1037年に終了した。1
029年の旗上げでアイルランガが最初の標的にしたのはWuratanの国だった。ウラタン
領主のWisnuprabhawaは謀反人であるウラワリ領主と同盟関係を結んだ別の国の領主の息
子だったと言われている。

復讐戦を開始したアイルランガを叩き潰そうとして1030年にウラワリ領主がウワタン
マスに進攻してきた。防戦の準備が不十分だったアイルランガはウワタンマスを放棄して
Patakanに落ち延びた。

パタカンという地名は今のラモガン県サンブン郡Pataan村を指している。接尾辞-anの前
の/k/の音がほとんど聞こえないくらい柔らかく発音されていたために綴りの変化が起こ
ったようだ。トゥマングン県にあるParakanの町もジャワ人はパラアンと発音しており、
同種の現象ではないかと思われる。ただしParakanの方は綴りが変化していない。

1030年にはまた、ジャワ島平定を進めていたアイルランガ軍の進撃を押しとどめて撃
退する敵が出現した。勇壮無比の女王が統治するハシン国の軍勢がその付近の諸国を平定
していたアイルランガ軍に攻撃を仕掛けてきたのだ。その女王の目にアイルランガは支配
欲に凝り固まった権力狂と映ったのかもしれない。ハシン女王の自慢の種である女性ばか
りのエリート部隊がアイルランガ軍の最前線に立ちはだかり、その強さに手を焼いたアイ
ルランガ軍は結局その地域から撤退する破目に陥ったという話が語られている。

Hasinという地名は現在のトレンガレッ県クルタン町のNgasinan川流域地区という説と、
バタンとプカロガンの間に位置するMasin村だとする説がある。

その散々な目にあわされた対ハシン戦について、ハシン軍がウワタンマスに侵攻した結果
ウワタンマスが陥落し、アイルランガは都をカフリパンに移したと述べている記事もある。
アイルランガをウワタンマスから追い出した敵がだれであったのかについてはっきりした
ことは判っていない。

1031年にアイルランガ軍は今のポノロゴ地方であるWengkerを攻めてウンクル王パヌ
ダの軍勢を圧倒した。ウンクルの軍勢は強かったので、アイルランガはウンクル攻撃のた
めに大規模な軍勢を用意した。パヌダはウンクルの都Lewaから逃走して西のガル村に隠れ
た。アイルランガ軍はレワの王宮を壊滅させた。

その戦争が終わったあとしばらくしてからウンクル王はアイルランガの王都に攻撃をしか
けたと語られており、1031年のウンクル攻撃は和平合意で幕を閉じたことが推測され
るのである。

その同じ年にアイルランガは前年苦い敗戦をなめたハシン国を屈服させるために遠征を行
い、再び苦しい戦いが展開されたものの、最後には勝利を飾ることができた。ハシン征服
戦は1032年に行われたと語っている記事もある。

1032年、アイルランガは宿敵ウラワリ撃滅の軍容を整えて出陣した。アイルランガの
本軍にナロタマ率いるカヌルハン軍、そしてクニガン領主ンプ ニティの率いる軍勢が加
わり、その圧倒的な兵力差にウラワリ軍も対抗するすべを失い、アイルランガの勝利によ
ってウラワリの領主は滅びた。ムダン王国の覇権復興に障害をもたらす敵はいなくなった
のである。そのころ、アイルランガはジャンガラと呼ばれていたシドアルジョ地方に王都
を開いてカフリパンと名付けた。この新王都はブランタス川の河口に作られたと考えられ
ている。[ 続く ]