「カフリパン王国(5)」(2026年04月28日) ところが1035年にウンクル王ウィジャヤワルマがアイルランガに対して反乱を起こし たのだ。戦闘体験豊富なアイルランガ軍の数えきれない戦士たちを伴って、アイルランガ は西に馬を進めた。会戦が行われてウンクル軍が敗れ、敗戦したウンクル軍は総大将のウ ィジャヤクラマを捕らえてアイルランガ軍に差し出し全面降伏した。ウィジャヤワルマは 処刑された。 しかし別のストーリーを記している古文書もある。ウィジャヤワルマ軍はタパでの会戦で 敗れたために王都と王宮を捨てて山奥深くに落ち延びた。王妃や王子たちは人質にされ、 そして王宮の財宝は奪われた。ウィジャヤワルマ軍に対するアイルランガの掃討戦は10 37年まで続き、サラサで行われた最後の決戦でアイルランガ軍が勝利した結果、ジャワ 島の覇権が確立し、長かった戦争の時期がやっと幕を閉じた。 戦争の時代が終わりかかったころからアイルランガは領国の行政統治に精を出し、治水工 事・道路建設・港湾建設・瞑想場建設などさまざまな大型土木事業を行った。1042年 には王都をカフリパンからダハ(今のクディリ)に移したという情報が古文書に記されて おり、それはアイルランガがその年に王位を長女のサングラマウィジャヤ トゥンガデウ ィに譲ったことに関連したできごとだったように思われる。 ところが王位に就いたサングラマウィジャヤは大王の執務になじめなかった。かの女は仏 教比丘尼として心の平安を求める日々を自分の人生にしたいと父に懇願し、許しを求めた のだ。1043年に王位を父王に返上して王宮を去ったサングラマウィジャヤはデウィ キリスチと名前を変え、クディリの町の外に庵を構えて隠遁者の暮らしに入った。 サングラマウィジャヤは父親からの王位継承を最初から拒否したので1042年に王国分 割が行われたとしている説が多々見られるのだが、もしそうであるなら長女が王位に就か ないことは前から判っていたはずであり、最初から長男に王位を継がせる態勢を作ってお けば王国分割をする必要などなかったのではないかという気がしないでもない。 サングラマウィジャヤが大王の仕事をトライしてみたものの、結局自分の人生はこれでは ないという確信を抱いて父親に王位を返上したほうがその状況によりフィットするのでは ないかとわたしには思われるのだが、賛同してくださる読者はいらっしゃるだろうか? サングラマウィジャヤのふたりの弟、スリ サマラウィジャヤとマパンジ・ガラサカンの 間で後継者争いが起こったという言い方と、アイルランガがふたりの息子をどのように公 平に扱おうかと悩んだというニュアンスの異なる表現が見られる。下の王子には多分、自 分が大王に仕える一領主になって宮廷政治の中で指図を受ける形を嫌悪する気分が流れて いたのではあるまいか? 年齢順から行けば、年上のサマラウィジャヤがダハの王宮を継ぐことになる。年下のマパ ンジをバリの王に据えてやれば、兄弟の間で王と家臣という立場の発生は防げる。アイル ランガはそのアイデアを王国の高僧ンプ バラダに話してその実現を命じた。 ンプバラダが世に出てアイルランガ王の大きな信頼を獲得したストーリーは拙作「チャロ ン・アラン」をご覧ください。 https://indojoho.ciao.jp/archives/library07.html バリ島のブダフル王国はマヘンドラダッタが産んだ次男のマラカタ・パンカジャが101 6年に王位を継ぎ、かれが1025年に没すると、三男のアナ ウンスが1077年まで 王位に就いた。ンプ バラダがアイルランガの命令を携えて訪れたバリはアナ ウンス王の 治世の最盛期に当たっていたのだ。ブダフル宮廷が一丸となって国王交替に反対するのは 目に見えていた。 ンプ バラダがアナ ウンス王に直談判できたかどうかはよくわからない。古文書にはブダ フル宮廷の高僧ンプ クトゥランに拒否されたと記されている。虫の良すぎる話を諭され て引き下がったのか、それともアナ ウンス王を取り巻く防壁に撃退されてジャワに帰っ たのだろうか? ンプ バラダは元々仏教僧であり、アイルランガの政治相談役になったばかりかウィスヌ= ヒンドゥ教徒であるアイルランガの宗教師をも兼ねた。多分、世に稀な人格者だったので はあるまいか。サングラマウィジャヤの出家願望の根はバラダが植え付けた可能性も考え られるだろう。[ 続く ]