「バティック史(1)」(2026年06月25日)

バティッbatikは世界のあちこちでほとんど同時に発展した。しかし、モチーフの豊かさ、
優れた彩色技法、制作技術の完璧さなどを比較したとき、ジャワのバティッが他のどこの
ものよりも優美で洗練されていることを世界が認めた。イワン・ティルタはそう書いてい
る。

バティッはインドネシアに生まれた布装飾技法のひとつでしかない。織る前に布にする糸
を加工するイカッ布のような技法もインドネシアにある。それらの技法が組み合わされる
ことによって布装飾の技術はたいへんに豊かなバラエティを産品にもたらした。

イワン・ティルタ、ジョセフィン・コマラ、バロン・マナンサンたちバティッ産業の屋台
骨を背負っている重鎮たちは一様に、バティッ・イカッ・ジュンプタンあるいはソンケッ
やルリッなどの機織り技術が布装飾デザインに無限の可能性を開いた結果、将来どんな時
代が来ようとも必ず時代の要求するものが作られることになるだろう、と語っている。


元々バティッは装飾布を作る技法のひとつでしかなかったものが、時代の流れの中で他の
技法を押しのけて有力なものに成長した。ジャワでバティッが大きく発展した背景につい
てイワン・ティルタは次のように解説している。

作り上げるのに長期間を要するイカッなどの織布に需要を満たすための十分な能力が備わ
っていなかったことから、バティッがそれらの種類の代替物になるチャンスを得た。特に
宗教儀式のための需要がバティッをバックアップした。

そしてバティッは機織り布のモチーフを模倣するようになった。インドのグジャラート地
方を発祥地にする二重イカッの一種であるpatolaモチーフをその筆頭に挙げることができ
る。イカッパトラが生み出すモチーフの上品さが中部ジャワの王宮を魅了するのに大した
歳月はかからなかった。ところがグジャラート人が運んでくる製品があまりにも少なかっ
たためにバティッ制作者たちがその商機をつかもうと努めはじめた。こうしてプカロガン
にnitikとjlamprangと名付けられたモチーフが誕生したのである。機織り布が優勢な地方
ではバティッが発展しなかったということもイワン・ティルタは指摘している。

その後バティッは祭壇や壁掛け用の布のために中国大陸産の刺繍モチーフを模倣した。モ
チーフを布の上に繰り返し作り重ねていくスピードに関してバティッは圧倒的な利点を持
っていたからだ。

バティッが衰えることなく発展し続けた要因の中には、政治支配者がバティッ産業を支持
して保護を与えた歴史も見出される。王国時代に王宮が与えたサポート、独立インドネシ
ア共和国政府の保護、民衆の役割上昇にともなって出現した民衆エリートたちからの支持。
一部のバティッ制作者が王のために最高の作品を作って献じた精神は当時の宇宙観に従っ
てかれらが抱いた献身を形にしたものだった。

インドネシア共和国が誕生したとき、政府はバティッ産業界のパトロンになった。国家元
首のスカルノがバティッの保護育成を図り、ビンタン・スディビヨがバティッアーティス
ト界のスターになった。ティン・スハルト大統領夫人がバティッにたいへん詳しい非ジャ
ワ人男性の話を聞き、イワン・ティルタが脚光を浴びた。アブドゥラッマン・ワヒッ大統
領もバティッシャツを着て公式の場に出ることを好んだ。

インドネシア人の服装が西洋式のものに変化して定着したあとも、社会エリート層はバテ
ィッを忘れなかった。1980年代にイワン・ティルタが金属箔をバティッに導入したこ
とでバティッが新たな発展のモメンタムを得ている。布の家ビンハウスはバティッのファ
ッション性を高めて世の中のバティッに対する意識を復興させた。若手のファッションデ
ザイナーたちの間ではカルメニタがバティッを主役の座に据えて特異な流派を構えた。さ
まざまな政府機関が開催したバティッ服飾デザインコンテストはバティッを普段着の中に
取り込む動きを社会に招いた。[ 続く ]