「バティック史(2)」(2026年06月26日)

ロウを使ってひとつの布に異なる色染めを行う現在のバティッ技法が広まる前から、バン
テンのsimbut布やトラジャのma'a布はロウの代わりにもっと素朴な素材を使って類似の役
割を実現させていた。シンブッ布の場合は粉末状にしたもち米に砂糖を混ぜたものがロウ
の代わりに使われた。色を付けたくない部分にそれを塗ってから植物素材で作った染色液
の中に浸し、染色プロセスが終わってからもち米の部分をこそぎ落とせば、色を付けたく
ない部分がそのままの状態で出てきた。マア布は最初、山奥の僻地で作られていたから、
イワン・ティルタはそれがバティッの起源だったのではないかと推測している。

いまだに生産の続けられている、現代バティッへの進化の推移を示している例のひとつが、
幾何学模様や四角を点々で描くトゥバンのbatik-lurikやジャンビのバティッだ。25年
以上もジャワのバティッを研究してきたオランダ人テキスタイル収集家のレンス・ヘリン
ハは著書Batik from the North Coast of Java (1997)の中で、シンブッ布、トゥバンの
バティッルリッ、ジャンビのバティッに見られる素朴なモチーフは南アジアや東南アジア
でも目にすることができると述べている。同じデザインは中国南西部やタイ・ラオス・ミ
ャンマの山岳部に住む少数民族の作る、laranと呼ばれる竹の棒を使って描かれるモチー
フにも見出すことができる。

昔のバティッ技法と現代のそれとの違いの中でもっとも代表的なものがロウの使用だろう。
ロウの使用がさまざまなモチーフを作るのに大きく貢献した結果、現在のジャワバティッ
ができあがったのである。部分部分の色を違えたモチーフを布の上に作る技法は先史時代
からヌサンタラに存在していたと考えられている。ただし現存している最古のサンプルは
19世紀のものであり、もっと古い時代の遺物はどこにも存在しない。シンブッ布の前世
紀の遺物は国立博物館にある。

古代の素朴なものから豊かなディテールと複雑な装飾パターンを持つジャワバティッに至
るまでの、色違えの染色技術に関する発展史の記録はあまりない。その理由のひとつとし
て、ジャワでバティッ制作は女の仕事とされていたことが挙げられる。一方、書き物は男
の世界になっていたから、バティッについてのテーマを取り上げて書くことは男にふさわ
しくない行為と見られたにちがいあるまい。


レンス・ヘリンハは語る。バティッの発展を示す古い記事や記録が得られず、また昔の実
例サンプルも手に入らなくても、われわれには昔のバティッについて物語っている西暦7
百年代の伝説がある。

スラバヤに近いジュンガラ王国東海岸の、ルンブ アミルフルという名の王子がインドの
コロマンデル地方の王女を娶った。王女と共にやってきたヒンドゥの侍女たちが機織り・
バティッ・布の染色をジャワ人に教えた。この物語はルンブ アミルフルの王子ラデン パ
ンジ イマ・クルタパティが王になるまで続く。

それから数百年後にやっとバティッに関する文筆記録が、ジャワ島がまだヒンドゥ時代だ
ったころの1518年にジャワ島西北部のガル地方で世に現れた。バティッに関する最初
の記録も伝説も、イスラム化する前のジャワ島北岸地方に出現したものだった。Pesisir
と呼ばれるその地方は通商交易を媒介にしてインド・中国・ペルシャからたいへん大きい
文化的影響を受けていた。コロマンデルもしくはペルシャから伝わったと思われる、ロウ
を使ってひとつの布を異なる色で染色する技法はプシシル地方の伝統的なバティッ産品と
の視覚的な共通性を特定のサイズとフォーマットの間で示している。

しかしジャワのバティッ制作者たちが自分の必要とする布の上にそれを発展させた結果、
ディテールを持つジャワのバティッは一面だけを飾るモチーフにすぎなかったコロマンデ
ル由来の技法と異なるものになって、ジャワバティッがインド由来のものだとは言えなく
なってしまった。ブロックプリントを使って装飾を描くペルシャのカラムカリ布について
も同様だ。[ 続く ]