「バティック史(3)」(2026年06月27日) スルタン アグンがマタラム王だった時代(1613?1645)以降、ジャワバティッは 中国からも栄養を摂取した。スルタン アグンは中華文化で縁起物とされている鳳凰をモ チーフに取り入れたバティッを好んで着用したと言われている。このトピックは15世紀 にプシシル地方で広がったイスラム布教活動に華人も加わっていたことを推測させるもの だ。また別の可能性として、中国南部からの移住者がプシシル地方でバティッの発展に影 響を与えたことも推測される。 中国南部から東南部にかけて住んでいた少数民族の女性たちは木綿布の装飾技法として、 ジャワで行われているロウを使ってひとつの布を異なる色で染める技法を明の時代以来今 日まで続けている。 インドネシアでオランダ人統治者がバティッに興味を抱いたのは19世紀だった。その当 時の専門家はバティッ作りの伝統を間違って解釈した。バティッはヨグヤカルタとスラカ ルタの王宮の中で発展したものであり、それが王宮外の農村へ拡散したことによって農村 女性たちの経済活動のひとつになった、という説が正しくないことをレンス・ヘリンハが 次のように解説している。 バティッ作りがジャワ島内陸部に入ったのは17世紀半ばごろであり、マタラムスルタン 国が発展してプシシル文化を取り込む中でそれが起こった。王都カルタスラで色使いと意 匠が王宮好みの優美さを強める方向に進展した結果、後に分裂したスラカルタ王宮とヨグ ヤカルタ王宮でできあがったバティッが最高の美的完成度を持つものと見なされ、他地方 で産するバティッは美しさにおいて完成度の劣るものと評価されるようになり、その定評 が長期間継続した。レンスはそう述べている。 その間すべてのバティッ製品が、天然素材の染料と、サイズと精巧さそして形態のさまざ まに異なるチャンティンを使って作られた。世の中でバティッ作りは概して、季節労働の 趣を持つようになった。 18世紀末にインドの綿布産業がヨーロッパ製プリント布地の輸出攻勢を浴びて倒れると ヌサンタラにあったインド布市場がプシシルの手描きバティッに扉を開いた。華人プラナ カン商人がその機をつかんでバティッ布の生産と流通に乗り出した。 かれらはバティッ作りのための素材である白綿布や他の材料を扱って辺地の村々にまでビ ジネス網を広げ、資金を貸し付けてバティッを作らせた。村落部の女性たちにバティッ作 りを誘導するために、前金を渡すことまでした。19世紀半ばごろにはヨーロッパ系やア ラブ系のプラナカン女性たちの間にもバティッ作りが広がり、単なる趣味にとどまらず自 分で作った製品を販売する個人事業家も出始めた。 それまで一般的だったジャワの農村女性たちが自宅でバティッ作りを行うスタイルから村 の外へ出てバティッ作りの賃金労働者になることがその時代に始まった。収穫が失敗に終 わった時にはその傾向が特に高まった。 オランダ人バティッ研究家ハルメン・フェルトハウゼンによれば、1850年にプカロガ ンは重要なバティッ生産センターになっていた。バティッ生産工房の中で男は白綿布の準 備と染色工程を受け持ち、女は指示されたモチーフをロウで布に描いたり、サンプルデザ インを別の布にコピーする作業を行うという形の分業が進展した。 バティッ製品の商業化が始まった最初から、手描きバティッが需要を満たすことは実現し なかった。そのために19世紀初期からバティッ意匠を使ったヨーロッパ産プリント布地 の市場が形成されるようになり、その現象がバティッ生産者にバティッ作りのスピードア ップという新機軸の模索を促した。 さまざまな実験が行われて芋版までもがトライされ、最終的にひとつのモチーフを銅線の ブロックで作る構想に収束していった。ところがそのブロックスタンプを作るにはたくさ んの労働力が必要だった。高額の生産機器は大量生産することによってはじめて経済性が 実現される。スタンプバティッは大量生産指向を生産者に強いることになったのである。 おまけにスタンプ作業は男の仕事になり、女は手描きバティッ作りの分野に押し込められ る結末に至った。[ 続く ]