「バティック史(終)」(2026年06月28日)

第一次世界大戦がインドネシアのバティッ産業を崩壊させた。まずオランダからの白布輸
入が停滞を起こしたために生産量が激減し、市場価格が高騰した。すると生産者が競って
バティッの生産量を増やしたから、今度は過剰供給になって市場価格が暴落した。

大戦が終わって1918年から白布の輸入が円滑化したおかげで、スタンプバティッはま
た復興しかかったもののそれも束の間、そこに世界大不況が襲いかかって来たのである。
手描きバティッを愛好する一群のエリートプラナカン階層がひいきにする手描きバティッ
生産者だけが生き残り、多くのバティッ作りが失業した。そんな中で、失業バティッ職人
に声がかかることも起こった。バティッ生産者が高騰した地元職人への賃金コストダウン
を図るために、他の町の失業職人をリクルートして汽車に乗せたのだ。


王国時代から植民地時代にかけてバティッは着る者の社会ステータスを映し出す衣装だっ
た。たとえばヨグヤカルタとスラカルタの王だけが用いたparang rusakモチーフはラデン 
パンジの危機を救ったと伝説に語られ、スルタン アグンが好んで用いたと噂された。バ
ティッは誕生・婚姻・死去に関連する意味を持たされた。ジャワ人が死去すると、墓地に
向かう前に遺体を寝かせる場には七枚重ねのバティッ布が敷かれ、遺体もバティッ布でく
るまれる。新郎新婦はsidamukti布を祝福の象徴として用いる。

バティッの伝統価値の番人を自称するイワン・ティルタはバティッの将来について、イン
ドネシア女性の西洋風日常衣服の中にバティッはスレンダン・バティッシャツ・カインパ
ンジャンとして混じり、あるいは屋内の壁掛けデコレーションとして生き残るだろうと予
見している。ただしカインパンジャンとクバヤのコンビネーションは特別の機会にのみ着
用されるだろう。

インドネシア人の日常生活から伝統的で宗教的な要素が減少して行くにつれてバティッが
持っていた意義も薄くなり、バティッは純粋な装飾デザインとして生き残ることになる。

ロウを使ってひとつの布に異なる色染めを行う技法もますます衰え、手描きバティッは市
場商品の世界から抜け落ちてコレクターズアイテムに変身するかもしれない。

長い時間を消費して作られるバティッは、使われる色が多彩になるほど手間暇も増加して
価格が上昇する。19世紀から20世紀初期まで一世を風靡した手描きバティッは最終的
に収集愛好家のための美術品になるしかないのかもしれない。


インドネシアで成長したテキスタイル産業もバティッ産業の生存を脅かすものになった。
バティッモチーフを使ったプリント布地がロウを使うバティッ技法で作られたものをしの
ぐようになったのだ。素人目にはどちらがどちらとも判らないほどの布地が廉価に大量生
産されるのである。

ジャワバティッを他地方のバティッから区別しているもののひとつがisen-isenだ。メイ
ンモチーフの背景に使われるイセンイセンは点・線・渦などで作られる幾何学モチーフと
非幾何学モチーフに大別される。バティッ繁栄期にイセンイセンは布地の背景部分をすべ
て埋め尽くしていたが、後退期に入ってからはほとんど描かれなくなってしまった。その
作業をやめれば仕上がりが早くなるからだ。

布装飾技法のひとつとして始まったバティッは、そのようにして少数者のための特別なも
のになる道を歩んでいるのかもしれない。[ 完 ]