「女性文学史(1)」(2026年07月19日)

インドネシアの文学史において、女性文学者の登場した時代は少なくとも三つのエポック
に区分され得ると思われる。インドネシアというコンセプトが生まれてからその実現プロ
セスが始まった初期の時代(1930〜1950年代)がその第一期だ。

1940年に出版されたオランダ語の小説「Buiten Het Gareel(常識外れ)」を第一期
の代表作と見ることができる。著者はSoewarsih Djojopoespitoで、実際にこの作品は1
930年代にスンダ語で一足先に世に出ていた。そのときのスンダ語の作品を、オランダ
東インドプリブミの教育向上と文化振興の使命を担って設けられたバライプスタカは取り
上げなかった。内容が先進的すぎて、その時期のプリブミ読者は消化不良を起こすだけだ
ろうと判断されたからだ。

Buiten Het Gareelは1975年にはじめてインドネシア語に翻訳され、Manusia Bebasと
いうタイトルでジャンバタン出版社が世に送り出した。オランダ時代に先進的すぎると評
されたその作品をインドネシア文学評論界のオランダ人大御所Aテーウは、バライプスタ
カ時代の最高傑作であると評している。

その第一期に出現した有力な女性作家の作品のひとつに、1933年にバライプスタカが
出版したSelasih著「Kalau Tak Untung」がある。スラシはその時代にインドネシア語で
韻文や小説を発表した最初の女性作家だった。1935年にはFatimah Hasan Delais(筆
名Hamidah)の小説「Kehilangan Mestika」がバライプスタカに取り上げられて出版され
た。

オランダ時代、潤沢な資金を持っていない作家にとってはバライプスタカが自分の作品を
世の中に送り出す唯一のチャンスを提供していた。とは言ってもバライプスタカが取り上
げてくれるかどうかという一種のハードルがそこに立ちはだかっており、それをクリアー
しなければ作品が書籍になる日は来なかった。言うまでもなくバライプスタカは文学クオ
リティの規準と共に政治面の規準を持っており、プリブミ社会にとって良くない内容と植
民地支配者が判定する可能性のあるものをバライプスタカが出版するわけがなかった。

先述の作品をバライプスタカが取り上げたのは、ローカル慣習の定めと衝突しながらも家
庭や社会で女性が示すべき理想的な姿を筆者がそこに描いていたためだ。バライプスタカ
が出版した初期女性文学小説の多くは、女であるがゆえにそこから逃れられない運命を受
け入れて健気に生きて行く女性主人公の姿に満ち溢れている。

植民地行政への反抗闘争に関わる問題を描いたBuiten Het Gareelは事情が違っていた。
この小説の主人公は無認可の学校を開いたスラストゥリとスダルモノというふたりの男女
であり、ストーリーの中に流れている問題はたいへんな複雑さを帯びていた。植民地行政
の管理を拒む学校という立場が生み出す問題だけにとどまらず、プリブミ社会との関りや
大規模政治団体との関係の中にも様々な問題が転がっていた。


詩の世界ではスラシのほかに、1940年代末に詩人S Rukiyahが出現した。ルキヤはジ
ャーナリストを本業にしながら同時に政治活動に踏み込んだ女性活動家だった。インドネ
シア文学機関レクラの役員を務めたルキヤはサダル文化財団出版の編集者になり、加えて
子供向け雑誌Kutilangのダイレクターをもこなし、またナショナリズムの強い香りを発散
させるたくさんのエッセイを自ら書いた。

短編作品のジャンルに登場したのがSaadah Alimだ。サアダ・アリムの短編作品集は一番
最初、1941年に出されたTaman Penghibur Hatiと題する書物の中に含まれたものだっ
た。そのジャンルには1948年にArti Poerbaniが登場している。

そのあとで、スワルシ・ジョヨプスピトの名が女性短編作家として世に知られるようにな
った。1951年の「Tujuh Cerita Pendek」、1954年の「Empat Serangkai」、19
63年「Siluman Karang Kobar」、1964年に出された「Hati Wanita」の四作品がか
の女の記念塔だ。[ 続く ]