「ミニスカート禁止法成るか?」


SBY内閣が閣議でアンチポルノグラフィタスクフォースの編成を決めた。それを単なる精神運動にせず、政府として実施する政策であることを法的に明確化させるために、2012年3月13日付けで大統領規則第25/2012号が制定された。このタスクフォースのヘッドは国民福祉統括相で、宗教相が常任チーフとなり、情報通信相・女性活性化児童保護相・法務人権相・教育文化相・内務相・工業相・商業相・観光クリエーティブ経済相・保健相・社会相・青年スポーツ相・国家警察長官・最高検察庁長官・放送コミッション長官・映画検閲機関長官がメンバーとなっている。このタスクフォースはメンバーの大臣や長官たち自身が特別の任務を負って何かをするということではなく、かれらの管轄下にある機構を使って全国規模の動きを行おうという意図が明白に読み取れる。

10年の歳月をかけてやっと実現したポルノグラフィに関する2008年法律第44号が効力を発しているというのに、国民の間ではポルノグラフィが下火になることもなく、ますます旺盛に国民生活の隙間から顔をのぞかせている状況に対して大統領以下インドネシア政府が危機感を募られたということがこのタスクフォース編成という方針に現われている。
これは政府がポルノグラフィとの闘争に本腰を入れる決意をしたことの証明だ、と国民福祉統括相は言う。
「補助金つき石油燃料値上げ方針反対派の目先をかく乱するためのものなどでは決してない。このタスクフォース編成で、国民の間にポジティブな心理効果がもたらされることが期待されている。タスクフォースの任務はポルノグラフィの蔓延をさまざまな相で防ぐ努力を払うことにあり、各メンバーが自分の統括する行政機構内でサブタスクフォースを編成することは大いにありうる。国民がポルノグラフィのもたらすリスクをもっと理解するなら、法律に則したポルノグラフィ撲滅は必ず成功するはずだ。これは国民の人格教育の一環として進められるものであり、アンチポルノグラフィ国民運動を盛り上げるために、全国こどもの日と国民決起の日に決意宣言を行うことが予定されている。テクノロジーの進歩とともにますます嘆かわしい状況に向かいつつあるポルノグラフィの危険から婦女子を保護することが国民指導者の急務になっている。このタスクフォースは新たな政府機関を設けるのでなく、既存の政府行政機構を使って行われるものであり、そのための新たな予算を取ることもしない。予算は既に各省や機関が持っているものを使う。」

ポルノグラフィに関する2008年法律第44号は元の法案がポルノグラフィとポルノアクションに関するものになっていた。ポルノアクションというのは人間の目に触れる他の人間の行為・態度・服装で劣情を催させるものを指している。定義はそうだが、これは見る人間の側で範囲が天と地ほども離れており、昨今話題になっているミニスカートなどはその良い例だろう。女性の膝や太ももを見て興奮する男性にとってそれはポルノアクションだが、すべての男性がそうとは限らない。そもそも人口の半分が女性なのだから、女性が他の女性のミニスカート姿を見て劣情を催すのかどうか。そのような男女対等原理がこのポルノアクションのロジックからはまったく感じられないのだが、そのことを明確に問題にしている論調はまだ目にしていない。
ともあれ、その法案からポルノアクション部分がごっそりと削り落とされたのは、女権活動家たちの反対もあっただろうが、国内の非ムスリム種族が自分たちのアイデンティティ文化擁護のために強く反対したからだ。ムスリムであってさえ、スンダ地方でジャイポン踊りに規制が入ったときには、バンドン一円は伝統芸能の危機という雰囲気に包まれた。
これまで生活を律する柱としてイスラム教を取り込みながらも色っぽいものも含めて伝統芸能は捨てないできた各地のムスリムたちは、原理主義者の目から見れば背教的に映るに違いない。この綱引きはイスラムが渡来してヌサンタラの一帯に定着して以来、延々と続けられてきたものであり、先日宗教省がミニスカート禁止の法律を作ると言い出したのも、その綱引きに根ざすものであるのは疑いもない。ポルノグラフィとポルノアクション法の敗退に対するかれらの挽回戦だと言えよう。

政府が編成したタスクフォースの中にインドネシアウラマ評議会が加えられなかったのは、それが政府機関でないために当然のことではあるが、加えられてしかるべきだという声もある。ウラマ評議会はポルノグラフィとポルノアクションへの対策を専門に行う部門をまだ作っていない。ともあれ、政府がそのように体勢を整えて行動に乗り出したのは喜ばしいことだ、とウラマ評議会法曹法規委員長は言う。「タスクフォースチームにウラマ評議会が招かれなかったことは別に問題ではない。重要なのは、当方と政府がムスリム社会の安寧のために同じ目標に向かっているということだ。ポルノグラフィはムスリム社会に激しい倫理低下を引き起こし、民族のモラルに崩壊のリスクをおよぼす。それだけでなく、ポルノグラフィとポルノアクションはこれまでインドネシア文化の土台になっていた東洋の善き慣習を蝕んでいく。ベトナムですら、膝上丈のスカートをはく女性に政府は罰を与えている。ポルノグラフィの罪悪は、民族の文化を破壊しモラルを崩壊させることだけではない。心理学ジャーナル最新号は、ポルノグラフィが若い男性に通常の性行為での性的興奮を減少させると報告している。ポルノをいつも見ている男性の脳は通常の性行為から受ける性的興奮に反応しにくくなっており、興奮を味わうために異常性行為に走り勝ちだ。ポルノグラフィの悪影響は子供にもあらわれる。子供は集中力をなくし、勉強に身が入らなくなる。それゆえにウラマ評議会は国民全階層が手に手を取ってポルノグラフィとポルノアクションの撲滅に立ち上がることを提案する。そのためには国民の強いバックアップが不可欠であり、国民はインターネットのポルノグラフィやポルノアクションのサイトにアクセスするようなことを絶対にやめなければならない。」

ポルノグラフィとポルノアクション法案を半減させるのに力のあったバリ州はタスクフォースを断固拒否する。ポルノグラフィ法制定の際にも問題にされた、ポルノというものにバイアスのかかった見解を受け入れることはできない、という主張だ。イスラムとヒンドゥという宗教上の差異以上に、それぞれの文化が持つ人間観や自然観に根ざすものだと言えよう。
バリの著名芸術擁護者イ・ワヤン・スリヨガ・パルタは、政府がタスクフォースを作れば、それが全国の問題を解決できると思っているのだろうか、と疑問を呈する。「ポルノグラフィ法の中に歪のある問題がたくさん含まれている。タスクフォースがそれをここへ強制しに来られてはかなわない。バリ州民がそれを拒否するのは当たり前だ。ポルノグラフィ撲滅活動が形式的な件数だけを数えて成功云々をするようなものになっては困る。ポルノグラフィの理解は個々人が構成している共同体社会におけるモラルに関わるものであり、行政区画単位で一色に塗りつぶされていいものではない。われわれはポルノグラフィ法を検討したときのポルノグラフィというものの理解に立ち返らなければならないと思う。インドネシアの中にある特定文化では、他の文化が持っている理解と異なるものがベースに置かれており、その位置付けを明確な共通理解にしておかなければ、他の文化がネガティブな判定を受けることになる。たとえばパプアの伝統的慣習ではコテカだけを着用するのが普通の服装だ。ポルノグラフィ法に従ってものごとを断罪する前に、文化という見地からのアプローチ姿勢をわれわれは持たなければならない。バリの観光開発でもそうだ。クタビーチで観光客が最低限の布地で体を覆っているのに対し、バリの地元民はそこに倫理的な問題をなにひとつ感じていない。だから、そのようなことをどこかのだれかがポルノだと感じたからと言って、その地元がどうしてそれを問題にしなければならないのか?そして、そのどこかのだれかが自分の性欲を抑えきれなくなって、犯罪の色彩を帯びた性的行動に走る。そのだれかの個人的なケースがすべての人間に共通のものであるなどと考えてはいけない。どの文化どの宗教に属している人間でも必ず道徳観を持っており、何が良いことで何がいけないことかを区別する力を持っているのだ。いけないことを冒す人間はその心に何らかの影響を受けるはずだ。それはその一個人のケースに関するものなのであり、それを共同体全員に普遍的なものという敷衍を行うのは間違っている。まず問題の根を探らなければならない。ポルノグラフィ問題というのはセックスの理解に関わっている。その根にあるのは性欲だ。そして性欲というのは、人間が生まれたときから授けられている本能ではないのか?その本能が人間に生きるエネルギーを与えているのだが、場合によってはネガティブなものにもなる。画像・写真・絵画・ビデオ、あるいは行為に対するとらえ方によって、それがポルノグラフィとなる。その把握する状況がポルノグラフィと定義付けられる。その把握状況とコンセプトはどこに存在しているのか?それを見る人間の頭脳の中じゃないのか?人間の頭脳の中身はひとりひとり異なっているというのに、どうやって単一の定義付けを行えるというのか?」ワヤン・パルタはそう語って、明確な線引きが難しいポルノグラフィというものを一般化させようとしている勢力に疑問を呈している。

インターネットのポルノサイト利用面でインドネシアは世界第三位という輝かしい地位を得ている。グーグルが公表したポルノサイト(文書・画像・動画)へのアクセス・オープン・ダウンロード・アップロード件数で世界最大は中国、次いでトルコ、インドネシアはその次だった。しかもここ数年、世界第三位の地位は揺らいでいない。「インドネシア社会は子供も含めて、ポルノグラフィとポルノアクションの匂いのするものに慣れきってしまっている。これまでの防止対策が間違っていたからだ。なのに反ポルノグラフィタスクフォースなどを作ってワルネッを取締って回っても、新たな問題を生み出すだけで、解決にはならない。数年前に若いアーティストのビデオポルノ流出事件が起こったとき、全国のたくさんの都市でワルネッや生徒の携帯電話検閲取締りが行われ、それが話題になって父兄までがその動画を探し回るという逆効果が起こった。ポルノグラフィとポルノアクションの防止対策がただ宗教の教えを持ち出すことに終始し、それは罪悪だという一言でポルノを遮蔽しようとする。しかし子供たちのロジックには、生殖保健上や精神衛生上の影響を教えるほうが受け入れられやすいだろう。このコンセプトをもっとわかりやすい言葉にして小学生にも効果的なキャンペーンを行えば、ポルノの浸透を防ぐ効果は大きいように思われる。インターネットはポルノを見るだけのものではない。インターネットを活用してもっと有益な効果を子供たちにもたらすことができる。」児童保護国家コミッション長官は児童へのポルノ対策についてそうコメントしている。未成年者がポルノサイトにアクセスするのを放置するワルネッはどんどん処罰するべきである、とも長官は述べている。

2011年にはインターネット利用者が5,520万人になったインドネシアは、その増加に伴って世界ポルノグラフィ市場の一大勢力に成長しつつある。2005年以来、インドネシアはポルノサイトご愛顧トップ10の中に常に登場するようになった。2005年は世界第7位で、2007年は第5位、そして2009年以降は第3位が続いている。下手をすると、ピューリタン的生き方を最高善とするムスリムが大多数を占めているインドネシアが、世界のポルノ愛好国家ナンバーワンという汚名を被るかもしれない。5,520万インターネット利用者の40%は15〜24歳という年齢層で、そのうちの94%はソーシャルメディアの利用が主目的だ。とは言っても、好奇心の旺盛な年代だから、いろんなサイトを見ているのは疑いもない。通信情報省公共情報通信総局長は、いまインドネシア国民は未曾有の情報氾濫に直面している、と言う。そして残念なことに、そのあふれかえっている情報の良し悪しの区別がつけられない。通信情報省はこれまでも数千のポルノサイトをブロックしてきた。おかげでポルノサイト運営者も知恵をつけた。ポルノサイト排除活動を開始したころは、ポルノチックなキーワードで検索すれば続々と引っかかってきたが、いまやポルノサイトはそう簡単に引っかからない対策を採っている。おかげでお役所がポルノサイトを見つけてはブロックし、見つけてはブロックし、を繰り返しているものの、ポルノサイトはいつまでたってもなくならず、国民は一心不乱にアクセスを続けている。
インドネシア大学犯罪学教授は、ポルノグラフィビジネスは4兆ドルを下らない世界のビッグビジネスのひとつであり、麻薬非合法薬物や兵器ビジネスよりも巨大なものだと語る。2008年にポルノサイトに登場した児童は4千人を数えたが、2011年には1万6千人に増加しているとのこと。

2012年3月11日(日)、西ジャワ州ボゴール県バルンのホテルから、客室内で麻薬パーティが行われているとの連絡を受けた首都警察ボゴール市警はさっそく現場に急行した。
ところが、警察が問題の客室を訪れたところ、室内ではポルノ映画の本番撮影中だった。女性Mと男性Dが本番に入っており、ふたりの男性JとRがひとりはビデオカメラ、ひとりは携帯電話でシーンを撮影中だった。室内にはもうふたりの人間がいたが、警察は事件の関係者と断定する根拠が乏しいとして放免している。
警察はその四人を容疑者として署に連行し、取調べを行った。適用される法律は刑法典第55・56条関連ポルノ法第29・34・35条で、最高12年の入獄刑が規定されている。警察がその四人から応酬した証拠品はビデオカメラ1台とメモリーカード、撮影に使われた携帯電話1台、現金20万ルピア、出演者ふたりが本番の際に着ていた衣装二着。女性Mは取調べに対し、ふだんはパルンにあるカラオケ店のホステスをしている、と答えている。その四人は四人ともボゴール市の住民で、年齢は一番下が25歳一番上が35歳。またMとDは本番前に大麻を服用したことが判明しており、麻薬使用犯罪も罪状に加えられることになる。ビデオカメラを使っていたRはフリーランスフォトグラファーを自称し、どこへ行くにもカメラを持参している、と取調べに答えたそうだ。
警察のこの事件担当官は、現行犯として署に連行されても全員が平然とした態度をしており、罪を犯してかしこまる姿勢がまったく見られない、とぼやいている。

デポッ市や南ジャカルタ市の住宅地区にもワルネッは多い。デポッ市サワガン(Sawangan)やベジにあるワルネッは小学生であふれている。かれらはたいていゲームオンラインで遊ぶ。暴力シーンをフィーチャーしたゲームに興奮した子供たちの口から、下品な罵しり言葉が連発される。「隣組長や近所の大人が言葉使いが悪いって注意するんだけど、大人が行ってしまったらまたおんなじだよ。」と小学生のひとりは言う。大人は上品で礼節を知る文明的な人間に子供たちを育てたいと思っているのだが、時代と環境はそんな大人たちの思い入れから遠ざかる一方だ。かえって子供の頃から面従腹背を身に着ける人間が増えるばかりかもしれない。

ゲームに疲れた子供たちの中にポルノサイトを開く者が出る。数人の仲間を誘って遊びに来ている子供たちは、ポルノ画像の一部を指差して笑いころげる。ワルネッにしてみれば、子供とはいえ顧客だ。インターネットで何を見ようが利用時間通りに金を払ってくれるのなら、つべこべと何を言うことがあろうか。役所から通達が回っているとはいえ、客と店という立場と社会生活における子供と大人という立場の矛盾によってワルネッ経営者はアンビバレンツな立場に追い込まれる。小学生がポルノサイトを開くのを放置すれば、店も責任を追及されるが、取締りはいっとき盛んに行われたものの最近はあまり行われていない。そんなことが自分を正当化する理由になる。
店番は客がどんなサイトを開いているのかがすぐにわかる。店番のひとりは、小学生がポルノサイトを開いたらネットの接続をすぐに切る、と言う。「でも最近はあまり取締りがないし、子供の中にもしつこいのがいる。いけないといくら言っても聞こうとしない。」上位者が何を言おうが下の者が意地を張り通せばそれが通ってしまうのが、和を持って尊しとなすインドネシア社会なのだ。

6〜7人の小学生がワルネッの仕切りの中に顔を寄せ合ってポルノサイトを見ている。「ほら、見てみろよ。」とリーダー格がセックスシーンを指差すと、全員がケタケタ笑い声をあげる。ワルネッの仕切りなどあってないようなもので、周囲にいる者の目には画面に出ている画像が丸見えだ。しかしそこにいる子供たちに、周囲を憚るような気配はさらさらない。
デポッ市は小学生にインターネットに触れさせる教育を行っている。学校側が教室にコンピュータをならべて生徒にインターネットを体験する時間を設けている。ところが、教室の中でポルノサイトを開く生徒がいる。何がまともなことで何が異様なことなのか、場によって何がふさわしく何がふさわしくないことなのか、そんな指導が与えられなかった子供には判断がつかないのもあたりまえだろう。デポッ市教育局は2011年に100小学校のインターネット設備にポルノサイトアクセスブロックを施した。中央ジャカルタ市でもそうだ。やっと100小学校でそれを行ったが、ほかの300校は順番にその対策を取っていかなければならない。順番が回ってくるまで別の小学校は野放し状態が続く。教育局から派遣されてくる技術者がやってくる日まで、その小学校の子供たちの中に学校時間の中でポルノを鑑賞する者がいるということになる。
ポルノグラフィタスクフォースが結成された原因は、そのような小学生の間にすらポルノグラフィが蔓延しているという国民生活の現実があり、人間(男)を色情に狂わせて生産性を世の中から奪うのは悪魔の所業だという理念を抱くひとびとにとってそのような国民生活は堕落のきわみであり、国民をまっとうな道に戻してやるのが国家指導者としての義務だというある種の義務感がそこにつきまとっているからものごとがハードになっていく。かれらの義務感を燃え上がらせたのはそれだけでなく、公共スペースで白昼に女性がレープされる事件が過去半年ほどの間に頻発したことも影響を与えている。

男尊女卑の観念が強い社会では男が女を暴力的に犯す事件が起こりやすい。男尊女卑社会は必ず女性が男性の従属物になる形を世の中の秩序原理の中に据えており、男と女が対等もしくは近似のウエイトで構築している社会とは趣を異にしている。つまりそんな社会における男と女は異性に相対したときに感じる自分の重みが極端な軽重になっているということであり、わかりやすく言うなら男は女を自分と同等の人間と見ていないということが言えるのである。だから男が欲情を発散したくなったなら、ムラムラを起こさせた女を合意など一切考慮せずに押し倒そうとする。男は女に対してその権利があると感じており、女は男にそうされてもしかたがない、という諦念を感じているのが普通だ。

男に欲情の発散を誘うモメンタムにポルノグラフィや官能的な衣服や振舞いが登場し、さらにムラムラを起こさせる局面でふたたび女の官能的な衣服や振舞い、つまりポルノアクションが登場するのである。そしていま、インドネシアではミニスカートがポルノアクションのシンボルとなっているのだ。
そのような価値観を持っている社会では、だから女は男にムラムラを起こさせないように努めなければならず、体の曲線や肌あるいは髪の毛までよその男には隠し、あたかも公共スペースの中では女としての存在を霧消させるようにふるまわなければならない、というロジックに向かう。そこでは、ポルノグラフィも社会秩序を揺るがす行為を男に仕向けるモチーフと理解される。現実にレープ実行者はたいていが犯行をおこなう前にポルノグラフィを見たと警察の取調べに供述しているのである。

どこまで行っても男女が同等のウエイトを持つ存在という観念にたどりつかないそのような社会では、男のムラムラとその結果のレープ事件はすべてが男に秩序破壊行動を誘惑するポルノの存在と、そして直接的間接的に男に罪を犯させようとする女の肉体の存在が罪悪の根源なのだという論理へと突進する。
そのような論理と倫理で構築されている社会であってさえ、公共運送機関の中で大人の女性がレープされる事件が続発すると、秩序回復のために世直しをしなければならないという意見が出てくるのも無理はない。

2011年後半に首都圏で続発した小型乗り合い自動車アンコッ(angkot)内で乗客がレープされた事件がポルノグラフィタスクフォース結成の重要な根拠のひとつにされたのは言うまでもない。その中で大きいマスコミの話題となった事件はいくつかある。2011年8月にタングランで死体が発見された20歳の女子大学生強盗強姦殺人事件、9月に南ジャカルタで起こった27歳OL強姦事件、12月に起こった35歳の野菜売り女性強姦事件などだ。ちなみに2011年に発生した公共スペースにおけるレープ事件は68件だったことを首都警察データが示している。
アンコッ運転手から車を借り、自分が運転手になりすまして乗った乗客を襲う強盗アンコッは首都圏で一般化している。たいていが四五人グループで、仲間は乗客のふりをして車内に座っている。そこへ何も知らない人間がひとりかふたりで乗りこみ、車が走り出して先客一味が刃物を突きつけたときにはじめて罠にはまったことを知るのである。そんな乗合い自動車に女性がひとりで入ったらどういうことになるか・・・?

レープ事件レープ未遂事件は2012年に入っても続発している。1月24日20時ごろ、15歳の中学三年の女生徒が帰宅するために乗ったアンコッで、ほかの乗客がどんどん降りて最後にひとりになったときアンコッ運転手が犯そうとしたが、月経中だったために難を逃れた事件。
やはり24日には路上でアンコッに乗ろうとして車を待っていた女子学生18歳が4人の男に強姦された事件、30日には16歳の家庭プンバントゥが未明にアンコッ内でレープされ、夕方にはボゴール駅で14歳の中学女生徒が18歳の男に身体をもてあそばれる事件も起こっている。
そんな事件が頻発している中でファウジ・ボウォ都知事が続発するレープ事件にからめて冗談交じりに「考えてもみろよ。(女が)ミクロレッに乗ってきてミニスカートで座られたら、(男は)カッカしてくるよ。」と不用意な発言をしたために、女性市民から猛反撃をくらい、陳謝を表明したできごともある。
都知事発言への抗議デモ隊が掲げたポスターの文句は「ポルノはわたしの身体じゃない。ポルノはあんたの頭の中よ。」「わたしの服装を悪者にしないで。悪いのは強姦犯。」「わたしのミニスカートはわたしの権利」などという女性ならではの抗議文が多くを占めた。
公共スペースでの女性に対するレープ事件という異常性は、われわれならずとも、この民族の指導層にも十分な衝撃を与えたわけだが、レープも含めた女性に対する物理的精神的な暴力事件を見ると、コンパス紙R&Dが集計した2010年のデータではやはり家庭内が96%という圧倒的な比率になっており、公共スペースでのものは4%しかない。家庭内という、男が支配する世界における暴力暴行事件が圧倒的に多いのは十分に自然なのだが、同じ論理が公共スペースでの事件発生数を押し上げる働きをしていないことの要因をわたしは読者に検討してみられるようお奨めしたい。

さて、ポルノグラフィタスクフォースに関してバリからの声は既に紹介してあるが、一般庶民の声はどうなのだろうか?
賛否両論あるのは当たり前なのだが、否定論の多くは優先度に関する懐疑を抱いている声が多いのである。つまりポルノグラフィ撲滅をしないでよいと言っているのでなく、そんなことをするよりももっと重要なことがほかにあるのではないかという意見だ。今や民族病となったコルプシ(腐敗行為)の撲滅にもっと力を入れろということなのである。野党所属の国会副議長はタスクフォースに関して「インターネットでポルノサイトを開いている者をこっそりあばくのが任務だろう。わざわざタスクフォースを結成したりして、あたかもポルノグラフィがわが共和国に脅威を与えているように感じている政府の思考はまったく理解できない。」と語っている。
ポルノグラフィ法は2008年11月26日に施行されたが、それがどのように執行されており、国民生活にどんな変化を与えたのか、それを明言できる者はいないようだ。ある国会議員が議場でポルノサイトを見ているのを新聞記者のカメラが捕らえ、結局その議員は辞職に追いやられたが、ポルノ法違反の犯罪者としてかれが裁判にかけられたのかどうか、後日談は何もない。

文化人のアグス・ダルマワンは、為政者はいったい何を緊急事項と考えているのか、と疑問を表明する。「まるでエロチックなことがらがインドネシア民族をボロボロに堕落させているようなイメージだが、全然そんなことはない。民族の存亡にとっては麻薬のほうがもっと危険だし、それよりもコルプシはさらにひどい。エロチック問題は地元市民と担当政府機関にまかしておけばよいし、もっとミクロなことがらは各家庭が管掌すればいいことだ。一番根本的な問題はポルノグラフィやエロチックの境界線がどこに引かれるのかということであり、それは複雑で不明確なものだから、タスクフォースが自分の規準を各地に押し付けることにならないようにしなければならない。現代芸術はセックスを多く取り上げている。それはシンボリックで哲学的な内容をアートで包んで表現されており、取締り者がシンボリックで哲学的な芸術作品の中身をはたして理解できるのかという疑問が湧く。タスクフォースは芸術を理解しているのか?わたしには大いに疑問だ。」
芸術家スジウォ・テジョもポルノグラフィタスクフォース結成に疑問を抱く一人だ。「われわれにはコルプシという大問題があるというのに、なんでポルノをどうこうしようとしてそんなところにエネルギーを注ぎ込むのか?ポルノグラフィを社会から排除するための機関は、たとえば映画検閲機関のように既存のものがある。屋上屋を重ねるようなことをする必要はない。既存のメカニズムと国民一般の良識にまかせておけばよい。」

映画監督のガリン・ヌグロホもタスクフォースを作る必然性はない、と言う。その理由としてかれは、@昔から行われてきたさまざまなタスクフォースの結成は国が持っている法曹と行政メカニズムの機能不全を意味するだけであること、A特別に何らかの大きい事件が発生したわけでもないこと、Bポルノを規制しようとする法規・倫理規定・市民団体が多すぎること、Cポルノグラフィタスクフォース結成によって新たなストリートジャスティスが生まれかねないこと、Dポルノグラフィタスクフォースが作られることによって行政機能の錯綜と権力濫用が発生する恐れが高いこと、などを挙げている。
「今や政府行政は非常な広範囲にわたり、行政機関も増加した上にタスクフォースもたくさん設けられ、地方自治体の中には地元収入以上の支出を余儀なくされているところもある。結局住民サービスにそのしわよせが行く。サービスを改善するための資金などないのだから。そんな状況の中で政府は国民にとってもっと重要なことがらに力を入れなければならない。国民福祉向上にとって、貧困・コルプシ・行政改革・医療などもっと重要な問題がいっぱいある。ポルノグラフィ撲滅は国民にとって、それらの福祉対策問題よりも意義は小さい。」映画人ガリン・ヌグロホは現状をそのように分析している。

インドネシアで政治家は、コルプシよりもポルノ絡みで名前が出ることを警戒しなければならない、と語る声がある。2001年度プトリインドネシアのアンジェリヌ・ソンダッが、あるいはPANのワ・オデ・ヌルハヤティが、コルプシ事件容疑者とされて拘置所で取調べを受けていようが、それで国会議員の座を失ったわけではない。それほどコルプシというのはかれらにとって、いや全国民にとって日常的なものであるということだろう。
しかし、2011年4月に議場で議事の最中にポルノを見ていたことが明らかになり、議員を辞職する破目に陥った既述の国会議員の事件、本人と歌手のセックスシーンを撮った動画が世間に漏れ出して辞職に追いやられた国会議員、議員スタッフの女性に手を出してセクハラの汚名を着せられて辞職した国会議員などに続いて、またまたその手の話題が最近発生した。それぞれ家族持ちの男女国会議員のセックスシーンを撮影した動画という触れ込みでポルノ画像が世間に流れ、かれらの議員としての座が揺らいでいるという事件だ。
あれほどポルノ好きな国民でありながら、国会議員に対してはピューリタン的な観点から断罪が行われ、しかも国の根底を蝕んでいるコルプシよりもはるかに厳しい措置がそこへ向けられる。この一事についても、わたしは読者にその要因を検討してみられるようお奨めしたい。

さて、これまで説明してきたような周辺状況の中にイスラム原理派が民族の救世を目的にして言揚げしたミニスカート禁止法というアイデアが置かれている。この法案が現実のものとなるとき、「インドネシア国民はミニスカートを穿いてはいけない。ピリオド!」というシンプルな条文だけで終わるはずがない、とはだれしも思うにちがいない。法律の内容というのは、そのような単純素朴なものではありえないのだ。法律制定という金と時間のかかるメカニズムと単純素朴な内容ではバランスしないことが明らかだからだ。
ミニスカートはイスラム原理派が失地回復を狙っているポルノアクション規制のシンボルになっているため、ミニスカート禁止という名目の裏側にポルノアクションへの広がりが持たされることは十分に考えられる。ポルノを見た男がムラムラを起こし、出会ったミニスカートの女をレープする、というイメージが原理派の頭の中にこびりついているのだろうから、ポルノグラフィを禁止しただけでは片手落ちなのであり、ミニスカートに代表されるポルノアクションを世の中から排除することではじめて社会秩序が保たれ、男たちは有用な生産活動にいそしむことができるようになる。だから一部国民がいかにポルノアクション禁止に反対しようとも、ポルノアクションを禁止しなければ女性へのレープ事件は止むことがなく、秩序だった社会生活は実現しない、と原理派は確信しているわけだ。

それに対して再び、非イスラム地方や女権活動家たちの反対が出現することになるのは目に見えているのだが、禁止法制定を画策している原理派は少なくとも、そのバリケードを潜り抜ける方策を既に考えているにちがいない。
非イスラム種族の中で、女性のオープンな服装を擁護するメリットを持つものはどれくらいあるのだろうか?加えてミニスカートは女性の権利であり、男女同権をベースにして女性の権利は認められなければならないというロジックが反対派活動家たちの根拠をなすものであるとするなら、男女同権という原理はどのくらいの国民に信奉されているのだろうか。
ちなみに大学教育を受けた人間がそれに該当するという大雑把な仮定を当てはめて見るなら、短大以上に在学中あるいはその学歴を持つ人口を見てみると、国民総人口2億3千8百万人中で1,072万人、女性だけに限れば532万人しかいないことがわかる。つまり開明的思考のできる女性はわずか2.2%しかいないということをそれは意味している。女権活動家たちの声は確かによく通るものの、わずか2.2%という数ではあまり頼りにならない気になるにちがいない。

ほかの国ならまだしも、インドネシア女性だってみんな自分の権利(男女同権・女性の自由意志)を守りたいと考えているなどと思ってはいけない。周囲の男たちの言うことに従い、被り物をして頭髪を隠し、長く緩い衣服を着て自分の肌や身体の曲線を隠し、支配者である男に従順に服従して、世の中の道徳を知り自分というものをわきまえている優れた女だと賞賛されることを自分のレゾンデートルにしている女性のほうがはるかに大勢いることをわれわれは自分の眼で見ているはずだ。
人間は社会を律している価値観を幼児期に植え付けられる。それは男も女も変わらない。過去の人類史を見る限り、世界中のたいていのエリアでは男が社会の姿を決めてきた。そのようにして確立された社会秩序に従順に従う者は、男でも女でも「良い子」と賞賛され、社会で営まれている慣習に反抗したり、異論を唱える人間は異分子として排除されるのが世の常だった。
社会というものがひとつの全体主義的な共同体であった時代には、人間ひとりひとりは共同体の定めに従順に従い、定めを無批判で受入れ、日々生産にいそしむだけというのがあるべき姿とされたから、自分でものごとを考える姿勢は良きムラビトのするべきことでないとして抑圧された。自分でものごとを考える姿勢が称揚され、自由に発言と議論が行われて最終的に合理的な結論が世の中で実行される社会は現代文明の理想とするところだが、それが実現している国はこの地球上にどのくらいあるだろうか?合理性とは合理的であることを意味していると同時に、合+理性つまり理性主義でもあるのだ。

女性を侮蔑する意図はさらさらないが、男が定めた価値観を自分の原理の位置に据えて、男からあるいは社会から賞賛を受ける人間になろうと努める女性は世界中にたくさんいる。上で述べた現象の延長線上にあるのがそれだ。その原因は多くの国で女性に対する教育、中でも自分でものごとを考えるように教える教育が男尊女卑の中でもみ消されてきたからだ。
たとえば、よき女性・よき妻・よき母・よき人間といった価値観に沿って生き、そんな姿を実現しようと努力している女性たちは大勢いるが、社会がそう教えていると思っているそんな価値観の中にあるのは、本当に女性自身が女性層のためであると納得して受け入れられるものばかりなのだろうか?男が男性層のために女性はこうあってほしいとして定めたようなものは混じっていないだろうか、ということだ。
もしそんなものが見つかるのであれば、男女同権思想すら教えられていないムスリム女性たちがミニスカート反対ポルノアクション断固粉砕デモを行うことを無知だと言って笑うことはできないのではあるまいか。ポルノ法制定に際して、そのようなムスリム女性パワーを原理派は有効に利用してきたではないか。
ミニスカート禁止法を起案するのは宗教相であり、内閣がポルノグラフィタスクフォースを作ってそれに援護射撃を与えようとしている。原理派が今後どのような作戦を展開するのかはまだわからないものの、そんな時代遅れの法律は潰されるに決まっているなどという安易な予断は、インドネシアというものが判っている読者にはなかなかできないのではないかとわたしは確信している。

(ジェイピープル< http://www.j-people.net >に掲載)