現代インドネシアの覗き窓[ 労働 ]


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『病的な(最低)賃金』

州別最低賃金を定めた都知事令に対してその施行延期を命じたしばらく前の国家行政法廷初期判決に、事業家は当然ながら胸をなでおろした。2002年1月1日から施行されることになっていた首都の最低賃金を横目に、安堵の吐息をついたのだった。事業家からのコメントはたくさんあったが、極端なのは、その州別最低賃金が実施されれば多くの企業が大量解雇を行うだろうというものだった。

しかし、その「勝利」はつかの間に終わった。2002年1月9日、国家行政法廷は州別最低賃金施行延期の判決を取り消したのだ。それは首都の事業家が都知事令に従って2002年1月1日からRp.591,266-の最低賃金を支払わねばならないことを意味している。この取り消しは労働者からの圧力があったからではなく、状況が誘導的でないからだとの裁判長の表明はたいそう無邪気なものだ。その日の法廷では、SBSIのムフタル・パクパハン議長率いる労働者がデモを繰り広げ、判事団に対して判決取り消しを迫っていたのだから。
事実上、労働者の物理的パワーの影響があったのだ。この取り消し決定には、「腕ずく」文化があいかわらず強い影響を及ぼしている。
最近の「事業家 vs 労働者」の衝突力学では、それは当たり前のことだ。論争の的となり、今現在ですらいまだに問題の決着を見ない労相令第150/Men/2000号はアルヒラル・ハムデイの時期に変えられようとしたが、労働者のデモ圧力で(いや、それどころかアナーキーな方向に進んだために)いまだに実施?されている。

いまや、パンチャシラ労使関係は「無理強い」労使関係に変わってしまった。問題解決のあらゆるプロセスにおける力学は「威嚇のぶつけ合い」をベースにしており、事業家にしろ労働者にしろ、なんらかの出来事に対する解決にあたっては、相手に対する無理強い行動が支配的だ。2002年度首都州別最低賃金でのコンフリクトがその好例だ。事業家は工場閉鎖や大量解雇で威嚇を行い、労働者は総動員デモで威嚇する。どんな機関が出すにせよ、結局出てくる決定や政策は「強いられて仕方なく」というものだ。まったく不健全!


州別、地域別、県別などなんであれ、「最低賃金」というものは本質的に「病的な賃金」とも言える。最低賃金の病的な性質にはいくつかある。第一に、「精神」という角度からの病的さ。上で触れたように、その決定プロセスはウイン=ウインの精神にもとづいておらず、最初からウイン=ルーズになっている。互いに威嚇し合うさまざまなパターンを経て行われる「無理強い」行為は、自分の側の利益に対する欲求を相手に強制しようとすることなのだ。
第二に、「最低賃金」システムの実施が生み出す「行き過ぎ」という角度からの病的さ。最低賃金の当初の趣旨や意図は本質的に善であり、賢策であるのだが、その実施にあたっては混乱や多くのネガテイブな「行き過ぎ」が生じる。最低賃金とは、最低の賃金を受け取る労働者に対して保護を与えることでかれらが労働者としてのステータスにある間の賃金に対する権利が保証されるよう作られたものだ。だから、最低賃金が決められることで、労働者は特定の賃金要素が特定の理由で削られるような目にあわないで済む。たとえば、病気、生理等々のように欠勤の理由が正当とみなされる限り、最低賃金は出勤に関連する影響から免れることになる。
ほかにも、最低賃金は勤続期間が1年未満の労働者に対して適用されるという労相規定第01/Men/1999号がある。ここに「行き過ぎ」が生じ、事業家は重荷を感じる。なぜなら、最低賃金に関する規定から「ヘッディング賃金」と呼ばれる押し上げ効果が1年以上の勤続期間を持つほかの労働者に対して結果的に生じるからだ。このヘッディング賃金という用語とその実行が、事業家と労働者の間に激しい衝突をしばしばもたらしているのが実態なのだ。また、ほかのマルチ効果としての「行き過ぎ」は残業費の上昇で、これもしばしば問題の源泉になっている。
第三に、最低賃金の数値を決めるメカニズムという角度からの病的さ。労相令第61/Men/1995号にもとづけば、最低賃金の決定は最低生活需要(三千カロリーベース)を規準として指向する、となっている。問題は、その計算と決定メカニズムが客観性と妥当な正確さのレベルをどこまで満たしているかということだ。カロリー関連アイテムの価格の調査、分析、結論は最低レベルの中央市場で行われるべきであり、そのプロセスがスーパーマーケットで行われるなら、結果は当然ちがったものになる。しかし最近のさまざまな推測は、調査場所やアイテムの種類等に関して、最低賃金数値決定メカニズムの基本条件から外れた調査が行われていることを示している。

結論としては、その病的性格を考えれば、最低賃金という用語とその実行はインドネシアの実業界(と労働者)に問題とコンフリクトを発生させ続けるだろうと予測することができる。誰に対してもなんら利するところのない病的さという点において、問題解決の代替案となりうる二つの基本ステップが存在している。 第一に、ラディカルなステップ。政府、事業家、労働者のみんなが合意の上で最低賃金原理を廃止し、賃金決定を市場メカニズムにゆだねるというポリシーをベースに置く。学理的には、企業の賃金政策とシステムは政府の介入を必要としないのが理想なのだ。実務的には、賃金決定メカニズムは二者間協議をもとに自分が決めるものだ。政府の役割は次の二点に限定される。(1) 二者間協議のベースとなる、客観的でバランスのとれた最低生活需要の規準を調査して提供する。(2) もしもデッドロックに陥ったら、単なる調停者として仲介の労をとる。
第二に、協調的なステップ。もし上のラディカルなステップが容れられないなら、事業家、労働者、政府という三者間協議の各関係者は直ちに賃金委員会の席に着いて交渉を行わねばならない。各関係者、特に事業家と労働者はアプリオリの姿勢をやめ、全関係者にとって有益な解決を求めて政府と同じテーブルに着くことだ。あらゆる面で状況のよくない経済危機下に、事業家側がまだそれを受け入れることができないというのであれば、高過ぎる州別最低賃金アップを負担しきれないということに関してのつつみかくしのないサポートデータや情報が必要なのだ。


さらに、三者間協議で州別最低賃金の数字を決めるために(これは国家行政法廷の審議材料に関する提言でもあるのだが)、少なくとも次の要素を斟酌することだ。
(1) 最低レベルの中央市場で行った調査に基づく正確で客観的な、三千カロリーを満たす最低生活需要 (2) 消費者物価指数 (3) 企業の能力と耐久力 (4) 特定地域間での賃金比較 (5) 労働市場の状態 (6) 個人所得と経済成長の状況とレベル (7) ある地域での労働者の概略の手取り収入


最後に、この論説の趣旨に沿って、この病的でいまだにコンフリクトの渦中にある(州別)最低賃金に対する三者間協議の各関係者が避けねばならない姿勢について強調しておこう。
事業家はオポチュニスト的になるな! 労働者はアナーキーになるな! 政府は人気取り的になるな!
なぜなら、正直に言えば、各関係者のその三つの基本的な性格が、インドネシアの労使関係に関連する政策において常に論争とコンフリクトの引き金になっているのだから。
ソース : 2002年1月16日付けコンパス
ライター: Herry Tjahjono  経営行動評論家、ジャカルタ在


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『生産性 対 賃金』

賃金と生産性の問題は、たとえて言えば鶏と卵のどちらが先かという問いと同じだ。出されている見解は、事業家が与えている労働賃金は達成された生産性のレベルに応じていると事業家自身が自己評価しているというものだが、一般的に週40時間の労働で労働者は11万5千ルピア、つまりUS$11.40を下回らない収入を得ている。履物製造産業におけるその労賃は、ベトナムの同業労働者が得ている週US$9.36に比べてはるかに高い。
しかし、労働者擁護民間団体や活動家層によれば、その賃金レベルはまだまだ低い。政府が決める州別最低賃金(UMP)では一ヶ月間の生活ができず、そこで参照されている生活とは最低生存需要(KFM)であって、最低生活需要(KHM)でさえないのだ。実質的に労働者は、月の第三週に入ると『古い穴を埋めるために新しい穴を掘る』というやり方でしか生活できなくなっている。

事業家と労働者擁護グループのどちらの言い分が正しいのだろうか?その議論はさておいても、労働者の賃金はたしかにちょっと安い。というのは、今適用されているUMPが20日間しかもたないことを政府自身が認めているからだ。三分の二か月しか生計を支えられない収入で、どうやったら高い生産性を持てるというのだろうか?労働者の脳裏から食べ物の心配が離れず、KFM以外の必要を満たすこともうまくいかないというのであれば。
だから、インドネシアの賃金比較はとても不公平なのだ。ある会社の最高賃金とUMPは50:1にさえなりうる。その結果、この問題を追いかけていくと、労働者が高い生産性を持つ、という事業家の要求の実現は困難に思えてくる。おまけに、欧米あるいは日本や香港などアジアの先進国との比較を用いるなら、その較差はますます不公平感をつのらせる。それはまるで天と地のようなものだ。

アメリカにある繊維産業コンサルタント機関、ワーナー・インターナショナルが出した最新データを見てみよう。たとえば2000年の繊維業界における一時間あたり労働賃金はUS$13つまり13万ルピアに達している。ベルギーは28ドル、ドイツは24.5ドル、オランダは25.7ドルと高い。一方、アジアの最高は日本で31ドル。シンガポール4.7ドル、マレーシア2.5ドル、香港4.8ドル、韓国は4.5ドルだ。インドネシアのコンペティターたる中国はインドネシアより高くて1.1ドル、フィリピンも1.1ドル、パキスタンは0.5ドル、そしてタイは1.7ドルだ。インドネシアはといえば、1995年には0.5ドルだった。そのころのルピアレートは1ドル2千ルピア前後だ。ところが経済危機によってルピアレートは平均8千5百ルピアあたりにまで低下し、労賃のレベルを0.285ドルにまで引き下げたのだ。
あわれなことに、このレベルはベトナムの繊維労働者が手にする0.35ドルすら下回っている。これまではベトナムの労賃の方が安いとだれもが確信していたというのに、事実は大違いだった。


[すべてが最低限]
それほど大きな労働賃金のアンバランスを抱えながら、労働者に生産性やプロフェッショナリズムを要求するのはむつかしい。ましてや、ジャカルタのUMPである今のRp.426,250で労働者は20日間しか暮らせないのだ。不足分はトゥカン・オジェク、建設労働者、荷担ぎ人足などもっとエネルギーを必要とする肉体労働で補っている。
労働者は実際不健康な状況にある。かれらは食べること、住むこと、衣料や保健衛生上のどの費用をとってみても、すべてが最低限の状況下に暮らすことを余儀なくされている。かれら4〜5人が金を出し合って2x4メーターの貸し部屋に住むしかないのも不思議ではない。その結果、そんな狭く換気の悪い空間で、かれらは疲れを癒さねばならないのだ。そんなことで、かれらがどうやって最大限の生産性を実現できるというのだろう?

高い生産性がどうしても実現されなければならないというのなら、事業家は労働者の五つの基本的権利を満たしてやるべきだ。第一に、一日3千2百カロリー(最低でも2千8百カロリー)の食事を与えねばならない。労働者には飯、野菜、テンペ、クルプックをあてがっておくような、よく見受けられるやり方を放置してはいけない。そんな最低限の栄養価で最大限の仕事ができるわけがない。
また事業家は、労働者が週二回着替えができるよう、仕事着を支給してやらなければならない。安全な作業靴や十分な安全衛生保護具も同様だ。更に、適正な居住施設も用意してやらなければならない。それらの権利を満たしてやった上で、事業家ははじめて生産性を要求するのが自然なのである。ところが、効率性を重んじるあまり、それらの義務すら最低限のものにしてしまうのであれば、労働者が最大限に働くよう要求するのは無理があるというものだ。そのような状況が短期間で変化するようには見えない。資本家が直面する問題の圧力も増えているのだから。


[切り離されたものではない]
事実がどのようなものであれ、出現した状況をほかの要素と切り離して見ることはできない。雇用者が賃金をKHMレベルまで引き上げるのがなぜ難しいのかは、包括的に検討されなければならない。なぜなら、事業家も基本的には穏やかにビジネスを行いたいのだ。心の通い合う調和を築き、もっと適切で、豊かで、向上した生活レベルに達したいのだ。
そのようにするのは問題全体をフェアに見るためであり、現在の崩れやすい状況を利用して利益をさらおうとする政府や民間団体の餌食に事業家自身がならないようにするためなのだ。経済のもろさはきわめて高いレベルにあり、ますます困難の増している現状を思えば、解雇の可能性は常にその扉を大きく開いている。


低い生産性はインドネシアの労働力、特に高学歴労働力のサプライの弱さにも関係がある。2000年の9,565万人という労働人口の構成内訳にもそのことは表れている。その人口の59.9%は小学校卒以下であり、中学学歴者は16.1%、高校学歴者は19.4%だ。D?からD?は2.2%、大学は2.4%となっている。これも大きな要因のひとつであり、見過ごすことはできない。
別の要素としては、政府の公正な姿勢を追及することだ。つまりなんらかのプログラムの費用だとか手続きのためなどという口実で、現場の支配者やお役人の個人的な小金庫にかれらをしないということだ。なぜなら、そんな徴収金はどんな格好をしていようと、結局は巨額の幽霊コストになるのだから。

ルフトBパンジャイタンが商工相のとき、かれはあけすけに「メダン〜ジャカルタ間を結ぶトランス・スマトラ街道を走行するにあたって、物品流通の安全コストとしてトラック1台が必要とする金額は120万ルピアを下らない。」と語っている。その中には、港での徴収金や街中にある荷受人の倉庫で出て行く金は含まれていない。
また、ある繊維業協会の会長が、地方政府の役人が地方自治を口実にして事業家からいかに無法に金を搾取しているかについて語ったことがある。地方政府は取れる限りの課金が徴収できるよう、ナンセンスな規則を作って施行すると言うのだ。徴収金は生産に関連するものだけでなく、交通上の保安、道路の補修、地下水、ゴミから町会の行政事務、はては街灯までがその名目に使われている。端的に言えば、搾り取るチャンスが残っているかぎり、事業家は金を出すように徹底的に強制されるのである。

その協会役員によれば、幽霊コストは生産コストの三割に及ぶらしい。それらの徴収金は支払い証憑がないために税金に算入することもできない。この公正さを欠く状況は、生産コストをカバーするのに事業家が損しないよう、さまざまな方面に対して策謀をめぐらすようにおのずから仕向けていく。そのひとつが労働賃金の抑圧だ。
もしこの幽霊コストがきわめて効果的に抑制されて簡素な行政のチャンスが開かれれば、賃金改善が早急に進むこともありえないことではない。さもなければ、卵が取り上げられるだけでなく、毎日卵を産むことを強制されるがために、雌鳥さえもが死んでしまうことになりかねない。

だから、事業家が経済危機と幽霊コストの仮面の陰に隠れないよう、この経済犯罪に対するなんらかの形の予防が必要とされている。一方、労働者も賃金が最低だという仮面の陰で生産性改善を拒むのはいけない。共同のコミットメントなしに賃金と生産性の争いを解決するのは困難に思える。どこまで行っても、卵と鶏のどちらが先かという問いに答えることはできないだろう。

そのような見地の中でこそ、各関係者はフェアな姿勢を持つことができるのである。事業家は、労働者を搾取するだけが仕事の悪人と見られないばかりか、労働者も、最低限の生活需要を満たすためとはいえ、適正な賃金を得るのにふさわしくない最劣等の労働力と見られなくなるのだから。
ソース : 2001年11月5日付けコンパス


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『果てしない労使紛争を断つ』

植民地時代の労働運動家セマウンは、その著「労働組合に関する労働者階級の手引き」の中で、オランダ人がやってくるまで農民と職人は自由だった、と述べている。かれらは仕事と収入を独自にマネージすることができたのだ。

かれがそう表明したのは、かつては仕事において自分の生活を統御できていた農民や職人がオランダ所有の農園、鉄道、工場の労働者として『決まり』に拘束されているのを目にしてからだ。自分の土地を賃貸しした上に、農民たちは工場労働者になってしまった。地方によっては砂糖工場の労働者や鉄道の労働者になった。 産業上の決まりによる拘束をかれは自由を失ったと評したが、そのセマウン風の自由についてはまだ議論の余地がある。ただ実態として、19世紀初頭以来、労働者と事業家の間には紛争が絶え間なく起こっている。

独立闘争期、オルラ期、オルバ期、そして現在に至るまで、紛争は止むことなく起こっている。両者間には常に対立が発生し、今日に至るもインドネシア労働界の状況のマッピングはたいへんむつかしい。
労働問題を検討すればひとつの白地図が見出せるだろう。しかし、その中にいる関係各者の役割がはっきりしないために、政府、事業家、労働組合、民間団体などの労働問題における関係の境界を決めるのは困難だ。
労働界の状況もまるで支配者のいない領地さながらで、その領地に利害があると感じる者は容易にそこへ参入して自分の利害を行使することができる。それぞれがその領地、つまり特定カテゴリーを自分のものだと主張している。
オルバ期が終わって労働者への規制が抜け落ちると、大勢が労働界に影響力を植え付けようとした。あたかも、誰でも労働界に入って活動するのが正当であるかのようだった。新旧の労働団体はいまや58にのぼり、組合員を増やしたり管掌するセクターを増やしたりして影響力の拡大に努めている。

今の労働界の状況に関連して二つの異なる意見が投げかけられている。陳情行動をはじめとするさまざまな労働者行動が盛んなのは、一面では行き過ぎたユーフォリアと評価されているが、他面ではこのプロセスは労働運動の成熟に向かう過程だとも評価されている。
もっと大人の労働運動へと向かう成熟なのだ、という意見は、かつての労働運動はきわめて制御されていたが今では自由に動けるようになったために労働者階層がそれを利用しているのだという事実に基盤を置いている。かれらはいま、自分の足取りを決めているのだ。


いま現在ですら、公平な労使関係の実現に対するいささかの希望も見えない。デモやストがそれほど起こらなくなったとはいえ、熾き火は依然としてある。賃金問題がインドネシア労働界の古典的命題だ。インドネシア全国労連SPSIのメモは、オルバ期のデモの81%が賃金と福利厚生問題に関連して行われたことを物語っている。

事業家と労働者が話し合えば、起こるのは対立だ。その対立は、安い労賃が実業界の競争力の切り札だという考えによって一層尖鋭化する。昔から政府が投資誘致の決め手として扱ってきたという観点から、雇用者は労賃の抑圧が公認されている生産要素だと見なしてきた。同じ視点から、労働者は給与や福利厚生の改善や権利の充足を目指して常に対決しようとする。低労働賃金が経済発展を推進させる社会的購買力に停滞をもたらすという考えはそこにない。工場が生産した商品は.労働者の収入が低いために狭い市場しか持つことができない。

ある事業家は「インドネシアの労賃はもちろん安いが、デモやストの頻発のためにそのコストは決して安くない。」と体験を語っている。付随的な影響も避けることができず、ストやデモの結果、事業家も労働者も頭は労務問題の方にばかり向いてしまい、企業の改革は止まってしまう。

事業家と労働者との不公正な関係は、時にそのほとんどが政府の干渉によってもたらされる場合もある。事業家は賃金高を決めるにあたって政府が命令しすぎると見ている。その賃金高が当事者である事業家と労働者に同意されるものであるとは限らない。
労賃が生産コストの10%以下であるのに対して幽霊コストが30%にも達しているのは、役人や治安機構が実業界をビジネスの場にしていることの証拠だ。分け前にあずかるためには、干渉が行われるのが当然なのだ。


[労働運動]
労働団体と労働運動の違いについて糺す必要がある。自立できていない労働者が、時に労働者の厚生ではなく政治権力や個人の利益を目指す団体に加入することがある。そのような状況であるため、労働者のために闘うという仮面をかぶった団体の罠に絡め取られないよう、労働者は自立し、自分たちを組織化する意識を持たねばならない。
経済開発システムに関与する労働者の役割という理想の中で、国の政策に影響を与え得る労働運動というのは期待からはまだはるかに遠い。先進国では労働者が経済政策の決定に参画したり、また政府の主導権を握ったりしていることもみんな知ってはいるのだが。

労働者のラベルをつけた政党へのシンパシーはインドネシアにほとんどない。そんな政党に対する大衆の信用も感傷もない。労働運動の関連で世の中にあるのはトラウマばかりだ。労働者が行ってきた過激な選択を民衆は怖れている。おまけに、特定利害のための一般労働者の利用の方が労働者自身の未来のための行動より目立った結果、利益追求勢力は大衆動員のさいに労働者をより頻繁に利用してきた。

労働者の闘争には長所がある。自立のための努力のほかに、経済闘争の中で自己を組織化していく必要がある。労働者には福利厚生がもっと与えられなければならない。たとえば、会社の株を持つといったことだ。労働者はその株を分けてくれと物乞いするのではなく、買うのだ。哀れみで株をもらえば、労働者を不利にする新たな依存が生じる。この株式保有は会社の方針決定に参画する権利を与えるものであり、反対に労働者も会社の経営陣の中にいる自分たちの代表者を通じて会社の直面する問題を理解することになる。
労働界からの支援金も闘争のための道具となる。その資金は住宅、保健衛生、老後の保障といった労働者厚生を第一の目的として合理的に運用されなければならない。
いま12兆ルピア前後に達している勤労者社会保障ジャムソステックの掛け金が適正に運用されるなら、労働者のパワーとなりうるのだ。それだけの金額があれば、理論的にはいま株式売却の行われているBCA銀行の株を購入することもできる。労働者の掛け金の透明で効果的な運用は労働者の発言力強化にも役立つ。外貨の投機的売買やジャムソステック・タワー建設にからむ腐敗ビジネスは避けられなければならない。


事業家と労働者が巨額の幽霊コストを共に注目し、その費用の廃絶に力を合わせようとするなら、両者の間に接点が生まれる。昔から変革を拒んできた官僚主義パワーとの対決という困難があるにはあるが、幽霊コストが削減されれば労働者福祉は向上させることができる。
諸方面からの金銭要求があれば事業家はどうぞ報告してください、という大臣の言葉は幽霊コスト廃絶の妙薬にはならない。事業家は報告するよりも抱え込むことを選ぶ。幽霊コストに対する公式の割り当てなどないが、かれらは役人や治安機構の人間に金を渡すのが事業継続のためになることを知っている。
幽霊コスト廃絶か労賃抑圧かという選択の中で、事業家は生産コスト圧縮のために後者を選ぶ。幽霊コストが労働者の訓練費用、福祉向上のための費用、奨学金の可能性などを刈り取るために、福利厚生や人材クオリティの向上チャンスは狭まるばかりだ。

労働者の厚生が保証されれば、まず労働者を独立させるのが適切だろう。特定政治利益のために労働者を大衆運動に引きずり込むのは、かれらに悲惨をもたらすだけだ。
インドネシアの労働者と労働問題はからみ合っており、糸口が見えない。インドネシアの工業化が古典的資本主義精神にあおられて入ってきたことにそのすべての原因がある、との分析がある。その特徴は、貪欲さと封建主義の顔が合わさったものであり、福祉国家と呼ばれるものが姿を見せたことはなく、表れている顔は労働者の貧窮や失業ばかりというものだ。

この労働問題の解決を見出すのは困難だが、ユートピア的と言われようとも、その解決に当たっての希望のひとつは正直さである。労働者と労働団体は、欲するものを公衆の面前に正直にさらさなければならない。事業家も公衆の面前でその欲するところを正直に語ろうとしなければならない。そして政府も民間団体もそれと同じように振舞うのだ。あらゆる問題が解剖されるよう、公衆に対して正直さをさらけ出す必要がある。望むべくは労働問題がもつれきった糸にならず、その解決が早急に見出されることである。
ソース : 2001年11月5日付けコンパス


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『愛しのわが労働者、不運なわが労働者』

労働者と企業はコインの両面のようだ。互いが互いを必要とし、補い合って分かちがたい。しかし糧を分け合う段になると、労働者の立場はいつも放擲される。与えられる給与はたいてい、福祉、安心できる生活、本人と家族の将来などといった企業のコミットメントを映し出すようなものではない。


ヤンティ18歳とほかの三人の同年代の娘たちが、そんな現実のただ中にいる。かの女たちはもう一年くらい、西ジャワ州ブカシのPT Abadi Busana Garmenで臨時雇いとして働いている。WariorやNevadaブランドのデニム衣料品を生産するその会社で、かの女たちは糸抜きの職場に配置された。糸くずをきれいにすれば、一着あたり75ルピアの報酬になる。
高度の注意深さや丁寧さを要求されるその仕事では、あまり多くの量をさばくことができず、手にする賃金に影響が出る。かの女たちが月に15〜18万ルピアの賃金しか得られないのも不思議はない。残業休出は日曜日だけ。それさえ一日1千ルピアにしかならないので、毎月の収入がたいして増えるわけでもない。
「わたしたちの暮らしはよくなるどころか、ますます惨めになる一方よ。」とヤンティ。

かの女たちがそんなわずかな収入で、食費、交通費、部屋代、保健衛生費その他の費用をまかなわねばならないことが想像できるだろうか。ヤンティと三人の友達は倹約のために一月6万ルピアの9平米の部屋を借りた。四人の娘たちにとってビニールシートと三つの枕が夜寝るときの頼りだ。マットレス、ましてやござなどもない。その部屋は台所としても使われる。「食費だけでも月20万ルピアは絶対必要。だから4人で部屋を借りることにしたの。住居費として月にひとり1万5千出せばすむから。」と話すヤンティの顔はやつれて血の気がない。かの女はもう二日間食べていないと告白した。みんなお金を使い果たしたからだ。
ひと月の生活費はひとりおよそ40万ルピアくらいかかる、と四人の娘たちは言う。不足分、中でも食事や石鹸などの費用を補うために、かの女たちは労働者の困窮を知り理解を示してくれる近所の売店に借りをつくる。借りは給料が手に入れば返済する。「わたしたち労働者の困窮を理解しようとしてくれる売店があるだけまだ幸いだわ。そうでなかったらもう餓死してるかもしれない。」と娘たちのひとりナゼム19歳は語る。


そのような苦い暮らしはほかの労働者たちも味わっている。ブカシ県バンタルグバンの労働者居住区を例にとろう。そこに暮らす労働者はほとんどが自分の家を持っていない。かれらは地元住民の家を一部屋月額6〜15万ルピアで借りている。そんな借家はじつに簡素だ。壁はベニヤ板、屋根はしゅろの葉またはトタン葺きで床はセメントを流しただけ。更に惨めなのは雨漏りのする家を借りた場合で、雨が降れば即座にざざ漏り。その不快さはたいへんなものだ。
部屋の大きさは普通9〜15平米だが、そこに3〜6人が入るため住人はお互いにプライバシーの面で迷惑を感じることが多い。「おとなである平常人にとって、借家に住むのはまったく快適でない。どの部屋にも三人以上が住んでいるため、プライベートなことはきわめてむつかしい。でもわたしらの暮らしはそんなものだから、何を言う気もしないよ。」と、ほかの5人の労働者と一緒に暮らしているダニ―23歳は語る。
家族持ち労働者の場合、問題は住居にとどまらず収入さえもが悩みのたねだ。ブカシで靴の原材料の一部を製造する韓国系企業PT Sung Shinで働く労働者プラプトノ26歳に休む暇はない。夕方PT Sung Shinの仕事が終わると、プラプトノはバンドンで仕入れた衣料品を家から家に売り歩くサイドジョブをしなければならない。そうせざるを得ないのは、一児の父であるかれが会社からもらう給料が月47万5千ルピアしかないからだ。そんな金額で三人の暮らしを支えることはできない。
「子供のミルク代だけで月に15万ルピアは出て行く。食費、交通費、保健衛生費、家賃などがそれ以外に必要だ。会社からの給料だけでは一家三人が生きていくことはできない。しかし、サイドジョブで得られる収入はだいたい月15万ルピア程度だ。」ともらすプラプトノ。
そんな苦しい生活の実態に、レンバン出身のかれは自分たちの将来、中でも既に三歳になった子供の将来がどうなるのかと不安を抱く。あと二年で子供は小学校に上がるが、プラプトノには一銭の貯えもない。すこしでも貯えを持ちたいといつも思うのだが、毎月の生活にかかる費用に対してあまりにも小さい収入では、実現できる可能性は乏しい。そして物価はロケットのように上昇している。
「子供の将来がほんとうに不安でしかたない。学校にやれるのだろうか?今お金は全然ないんだ。」プラプトノは今の自分の暮らしを『穴を埋めるために別の穴を掘っている』と表現する。


ブカシは労働者部落と言ってよい。ブカシ市とブカシ県の人口3百万人の中で120万人が労働者だ。かれらはその二つの二級行政区に散らばる225箇所ほどの工場で働いており、更に144,689人の求職者もいる。

労働者の苦い暮らしはインドネシアで特に新しい話題ではない。労働争議の中で日々担ぎ出される問題は、低賃金、交通費・食費・医療費保証の不足などといったことがらに関連するものばかりだ。闘争の中で労働者はさまざまな手を使ったきた。真剣に関心を向ける企業もあるが、さまざまな理由のもとに労働者の地位・尊厳・厚生の向上につながる義務を避けようとするところもある。
労働者が毎月納めている勤労者社会保障Jamsostekの掛け金も、単にコングロマリットに貢献しているだけのようだ。この制度の高邁な目的である労働者家族のための保健医療、住宅や教育サービスの提供などまるで夢のかなたにあるようだ。ジャムソステックの資金は、支配者と事業家によって労働者の福利厚生とは縁遠いことに浪費されている。

労働者と雇用者との間で、不公正な扱いと感じられる利害の衝突が頻繁に起こるのも不思議はない。労働者はすべてを会社に差し出したと思っているが、会社は義務を果たそうとしない。その結果、労働者はデモをする。労働者がデモに踏み切るのは、問題解決に至る話し合いがそれ以上進められなくなってからだ。こうして垂直コンフリクトが発生する。コンフリクトが尖鋭化するのはたいてい雇用者や会社経営者の驕慢さの結果だ。かれらは労働者を生産システムの中のちっぽけなネジのひとつでしかなく、いつでも交換できるものと見なす傾向を持っている。現在、労働人口と雇用需要に大きなギャップがあるためにそんなことも起こりえている。
その現実は往々にして労働者の闘争意欲を弱めている。闘争の沸き立っているさ中にも、求職者が増加しているのだ。さらに哀しむべきことに、そんなジレンマの中での労働者の闘争自体も緊密さを欠いている。連帯は常に分裂をはらみ、労働者の闘争力も不完全なものになる。これは労働者の経済的バックグラウンドが異なっているからだ。労働者への経済的な誘いがかかると意欲もすぐに緩んでしまう。そんな姿勢のために、労働者が達成を望んだ最終目標が挫折しても気にかけない。
「労賃が生活必需品価格に合わせられるようわれわれは常に努力しているが、労働界の中での緊密な連携が足りないためになかなか成功しない。会社側と衝突した後で職を失うのではないかと怖れる者がいる。」と語るプラプトノ。

勿論、労働者も多くの点で自分をわきまえてきている。つまり企業オーナーに比べて労働者のほうが会社への貢献がはるかに小さいということだ。だが労働者が要求しているのは、かれらの福利厚生に対する関心や配慮だけだ。福祉が満たされ、より明るい未来が確信できれば、勤労エトスと生産性にもっとドライブがかけられ得るだろう。
「労働者のポジションが不可分なものだ、と企業オーナーが認識すれば、労働者福利厚生は主要関心事となる。労働者が腹をすかしていれば、企業のパフォーマンスは弱まり、生産性は落ちる。そのことに企業はあまり意識を向けようとしない。」ブカシ金属労連法務部のハルジ・プリハントノはコメントする。
最近の傾向は企業が請け負いシステムを採り始めていることだ。このシステムは生産ボリューム優先で、賃金も生産性に合わせられる。この労働システムでは、企業は残業代、食費、交通費、保健医療費、ハリラヤボーナスや他のボーナスなどの費用から逃れられる。


経済危機がわが民族を苦痛に満ちた暮らしの谷底に落とし込んだことを認めなければならない。労働者もその影響を蒙っている。発言力は一層弱まり、失業の機会は満ち満ちている。一方、実業界も政府の緩慢な政策対応の結果、岐路に立たされている。その影響で経済成長はスローだ。
その問題も労働者の困窮を深めるのに与している。明るい未来の絵を描けないかれらの将来は一層苦しい。すべてが不確実な状況下にある2001年の終わりに、生活基幹物資は値上がりを続けている。収入と物価の動きは合わせられるべきものだが、そんな希望の前に多くの障害がひかえている。政府が示した州別最低賃金引き上げ案に対して実業界はまだ応じていない。というより、実業界は38%引き上げを拒否するとの強い表明を打ち出している。その理由はシンプルなものだ。
経済危機、注文の激減、来年の状況は予測がつかない。それらの理由で、引き上げには応じるがそんな高率ではなくせいぜい20%までだ、と言う。


しかし、Rp.591,226で父、母、子供ひとりという一家族のジャカルタとその周辺地域における一月の生活が支えられるのだろうか?そんな金額で労働者とその家族に将来の希望が与えられるのだろうか?
この問いは答えを求めているのではなく、労働者としての位置付けを熟考してもらうためにふさわしい質問なのだ。熟考の中に答えが見出せるだろう。それらのことは別にして、労働者がどこでも可愛がられ、必要とされるのは確実だ。しかしかれらの未来は依然として不運だ。
ましてや、特定不良勢力が労働者の問題を政治的、経済的商品にするために、解決はいつも宙ぶらりんだ。あげくの果てに、その糧を享受するのは労働者ではなく、労働者の衣を借り着した闘争家たちなのだ。労働者はいつも辺縁に追いやられ、政治冒険者がその目的を達する。
不運な労働者、愛しの労働者。おお、おまえの未来は・・・・・・。
ソース : 2001年12月12日付けコンパス
ライター: Jannes Eudes Wawa


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『女性労働組合 〜 女性への経済搾取を減らす手段』

肩までの髪をした若くて美人のその女性はため息をついた。かの女が勤める銀行からの今月の給与は、半分近くがカットされたのだ。テラーと呼ばれる銀行のキャッシャー窓口の仕事はリスクが大きい。だが、かの女には何のなすすべもなかった。就職する際に、そのようなリスクを引き受けるという契約書にサインしたのだから。

女性を雇用している会社を一度覗いて見るとよい。とりわけ、女性従業員がほとんどで、男性社員が5%に満たないようなところを。かれらの所得を調べて、男女の差を比較してみるとよくわかるだろう。女性の所得はきわめて小さい、とわたしは自信をもって言える。
政府が決める州別最低賃金は、ふつう労働賃金の最終規準とされている。ところが、『最低』という言葉は明らかに最終額面バリューではないのである。女性層、特に会社で働く女性に対する経済搾取について、かの女たちの認識や活性化プログラムから見て行こう。

この消費主義時代の生活においては、女性は自分の生計の必要を満たすために働かざるをえない。マスメディアもかの女たちを刺激して、自分の汗で金を得るよう仕向けている。事前に夫の許可を得ないでも、女性たちは自分で得た金は自由に使えるということだ。
否定しようもないその事実も、男性から低く見られないための女性自身の認識の波によって一層強化されている。今進行している男女間の対等性が家庭内の調和に悪い結果をもたらさない限り、それは言うまでもなくポジティブだが、冒頭でも触れたように、女性労働者にとっての不利な扱いがいたるところで起こっている。
その結果、女性が社会生活の中に自分を位置付けようとするとき、女性の強い意識そのものと平行して女性に対する経済搾取が起こっている。たとえば、銀行でもスーパーでも会社でもいいが、キャッシャーが犯すミスだ。ふつう、会社は失われた金額をキャッシャーの月給からすぐにカットする。小売店で商品がなくなった際にも類似のケースが店員を襲う。店主はすぐにその給料をカットする。なくなった商品の値段がかの女の給料より高い場合は10ヶ月間の分割カットが行われる。皮肉なことに、その10ヶ月の分割がまだ終わらないときに、同じ場所で商品がまたなくなったりするのだ。
言い換えれば、かの女は会社への借金を抱えながら働いているということであり、男性と同等あるいは家族にエキストラ収入をもたらすどころか、交通費すら自弁になってしまう。


高校以下の学歴の女性勤労者に、そんな扱いがよく起こる。ならば、対等性は高い教育を受けた者だけに与えられるものなのだろうか。世の中の現実がしばしば理想と逆転しているからといって、それを肯定するのはあまりにも単純だ。防ぐことのほとんどできない、女性に対する給与差別以外にも、女性への経済搾取は確かに起こっている。

そのために、女性活性化の分野で活動する民間団体の努力は、権利回復への女性自身の意識がまだ育っていないところから始めなければならない。男性優位と女性従属は人間文明を圧迫し続けるのだろうか?父権主義文化は概して男だけのものではなく、女の多くも自分たちは男に従属するものとして神に作られたという信念を抱いている。
その例のひとつとして、同じ会社の男性従業員に比べて女性従業員が受け取る賃金が低いという問題がある。男性への依存ということが、女性への経済搾取を生む機会を作っている可能性がある。女性の持つプロ意識は男性に劣る、という見解もあるが、女性が働いて得る収入はエキストラのものだという見方は根強い。女は夫の生計に依存するものではなかったのか?

ジェンダー対等性の議論が開発政策の基盤に据えられる時が来ている。政府、民間団体、民間企業などで、ジェンダーのメインストリーム化が起こっている。女性に対する経済搾取問題の根を掘り起こす勇気が必要とされている。それを掘り起こしてみるなら、問題の根は「女性は智能が劣る」というわれわれの文化の見方にあることがわかる。そして女性勤労者の収入がバランスしていないのは、できるだけ安い労働力を使って最大限の企業利益を得ようとする傾向の(現代)グローバル資本主義に支えられているということもある。


イスラムの古典的著作の中においても、女は常に家庭内にいるものであるために国家建設の主体としてはまだ登場してこない。おまけに「女の務めはただひとつ家の中。生活面でのすべての必要は夫がまかなうので、女は経済活動の必要があったとしても、それはあくまでエキストラだ。」とたいていの人が理解しているシャリアの文章から取られたフィキの議論が参照される。だが、そんな事実は打ち崩される時が来ているのだ。

いまの発展段階において女性はまだ弱い者だが、だからといって女性を低いものと見なし、低賃金を与える理由にしてはならない。預言者ムハンマドsawは「汝は汝らの中の弱き者に助けられ、糧を与えられているのだ。」と述べている。
言い換えるなら、会社の進歩発展は会社の中にいる従業員に支えられているのだ。かれら労働者(つまり弱者)なしにいかなる会社も事業を行うことはできない。しかしながら、今では雇用者よりも失業者の方が多いために、資本家は労働者に対してしばしば搾取を行っている。デモであれ何であれ、賃金アップの要求は解雇で決着させてしまう。一方で、会社側はいつも為替レートの問題や、政治状況に影響されるビジネス環境の困難さにそれを結び付けているのだが。
ソース : 2002年1月21日付けコンパス
ライター: KH Drs Husen Muhammad プサントレン・ダルッタウヒッド指導者、チレボン在


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『インドネシア人の勤労エトスを育てる』

25年前、モフタル・ルビスはインドネシア人のメンタリティに対する批判をあらわした。ルビスが言うには、インドネシア人は民族と国家の進歩に足かせをはめる5つのネガティブなメンタリティを持っている。その5つとは、偽善的、責任を回避する、封建的精神、迷信深い、軟弱な精神。
ルビスの批判には根拠があり、おまけに25年経ったいま、かれの批判はその正当さを一層強固なものにしている。第一のメンタリティである偽善的性格について見てみよう。政治家、事業家、学究界、軍人から一般庶民にいたるまで、フランクになるよりもむしろ偽善的態度を示す方が多い。政治家はあらゆる狡猾さで、政党を移ったり、風向きに応じて自分の得になるようイデオロギーの舳先を変える。事業家は、戦略、トリック、政界ロビー、あるいはその他名前が何であれ、自分個人の利益のためにデータをマークアップしたり、財務報告書に手品を使ったりする。

インドネシア人に関するモフタル・ルビスの見解を、著名な社会学者マックス・ウエーバーがヨーロッパ人(主にドイツ人)の成功理論を述べた古典「プロテスタント倫理と資本主義精神」に収められている研究と比べるなら、実に深いイロニーをそこに見出す。ヨーロッパ人が優秀な成功者になったのは進歩を目指す強いメンタリティを持っていたためだとウエーバーは言う。そのヨーロッパ人のメンタリティとは、合理的行動、高い規律、ハードワーク、倹約と質素、快楽を追い求めず、物質的成功を志向し、貯蓄と投資にはげむといったことだ。
インドネシア人とヨーロッパ人のこのまるで両極をなすメンタリティは、言うまでもなく正反対の帰結をもたらす。あふれんばかりの資源に恵まれたインドネシアは結局二流国になった。一方天然資源をあまり持たないヨーロッパはあらゆる分野に秀でた一流国となった。簡単な言葉で言えば、メンタリティは国家の優劣に大きい影響を持っているのだ。

モフタル・ルビスとマックス・ウエーバーの命題は、ある国の国民メンタリティに着目する際に使うことができるが、とはいえ、その両者の命題はヒューマンリソーシズのメンタリティと切り離すことのできないマネージメントと呼ばれるテクノロジーに深く関わるビジネスという文脈の中で使われるとき、妥当性を持つ。
あるビジネス組織のヒューマンリソーシズメンタリティがハードワーク、規律、忍耐強さ、忠誠、創造性、効率といったポジティブな行動に深く関わっているとき、そんなビジネス組織は大きな成功を獲得することになる。反対にそのビジネス組織のヒューマンリソーシズメンタリティがしゃきっとせず、偽善的、狡猾、無責任であれば、その組織の崩壊は時間の問題だ。

国民がネガティブなメンタリティを持っているインドネシアは、ビジネス組織にとってあまり有利なものでない。数年前にアジアの小龍の仲間入りをしたインドネシアもついには否定しようのない事実を受け入れざるをえなくなった。
きらめく経済成長と堅実なマネージメントシステムは本当は表面だけの美しさにすぎず、その実態のすべては軟弱で無責任なヒューマンリソーシズに支えられた偽善だらけのものだった。インドネシアの会社経営システムにおいて旺盛に繁茂しているのがKKN(汚職・癒着・縁故主義)という三つの言葉である。

別の要素を見ないでインドネシア人のメンタリティを責めるのは無論、賢明でない。プロフェッショナルルールに基づいて他の外国企業と競争できるようにインドネシア企業のヒューマンリソーシズメンタリティをみんなで改善していくことの方が、より賢明でありまた有益であるにちがいない。
ビジネスの世界で働く人間のメンタリティをわれわれは勤労エトスと呼ぶ。エトスとはもともとギリシャ語で、人間の基本的モラル姿勢を意味している。エトスはその延長線上でしばしばエティカとも呼ばれるが、エティカとはサンスクリット語で道徳性、つまりモラル的に正しく崇高な行為の指針のことである。だから勤労エトスについて話すのは、勤労者であると同時にモラル者としての人間が仕事に対して持つ勤労姿勢と行為について話すことなのだ。


勤労エトス
勤労エトスは自然に生まれ出てくるものではなく、一連のプロセスを経て形成されるものだ。まずコンセプト(パラダイム)段階があり、そこで勤労は善にして正しいものと理解され、受け入れられる。次は確信段階で、まず勤労は善にして正しいものと納得されたのだから、規範的な義務として確信されるに至らなければならない。この「善にして正しい」規範は将来その組織における勤労行為全体の倫理指針として機能する結果、この規範に合致する勤労行動を示した者だけが組織内に受け入れられ、正の評価を受ける勤労者となる。このようにして組織メンバーの全員がモラル的にコミットするよう条件付けられ、規範に沿った行動が展開されていく。つまり勤労とは善にして正しいものという信念が、それに相応した勤労行為という形で実現するのだ。

さらに次の段階では、勤労者は一般的に組織のモラルスタンダード(同時に特性、適性、上述のパフォーマンスの発達)に則して行動するよう動機付けられるために、内面から外へという勤労モチベーションが育まれる。つまり内面に由来する勤労活力が勤労に関する倫理的価値に刺激されて、その勤労者の労働環境において生物的=心理的=霊的エネルギーとして表出するのである。
さまざまな文書、観察、経験を検討した上で組み上がっている上述の論理に基づき、インドネシアのビジネス組織が成長し、利益を享受し、諸外国の企業と競争できるようになるために、インドネシアの勤労者は下にあげる8項目の勤労エトスを身に付けなければならない。
1.勤労は神の恵み: わたしは「ありがたい」との気持ちに満たされて、誠心誠意働きます
勤労は神の恵みというこの第一のドクトリンは二つの面から理解されなければならない。すなわちまず本質的に、勤労は神のおかげであるということ。勤労を通して神はわれわれを成長させる。もうひとつの面は、賃金を得るという経済的なこととは別に、職位の栄誉、ファシリティ、学習のチャンス、他の勤労者たちとのネットワーキングなどたくさんのプラス要因が得られるが、それらも神の恵みなのだということ。
2.勤労は神の付託: わたしは責任感に満ちて、正しく働きます
付託というのはわれわれが信頼されて託された尊いもの。われわれは勤労を通して付託を受ける。資本家は事業を託す。経営者は特定の職務の遂行をゆだねる。顧客は製品の品質とその継続性を信頼する。付託を受ける者として勤労者が責任感いっぱいに働くのは当然だ。
3.勤労は神の呼び声: わたしは仕事を完璧にやりとげます
組織というレベルにおいて、呼び声はミッションと同じ。ミッションは一方で、ビジョンと共にビジネス組織における基本エレメントをなす。呼び声もミッションも、双方とも神聖な意味合いを含んでいる。神の呼び声であるということは、勤労とはある神聖な責務を果たすための場であると見なされることだ。その文脈において、神聖な責務とは会社を発展させることであり、そうして勤労者の福祉を向上させていくことなのだ。
4.勤労は自己実現: わたしは意欲に満ちて、一生懸命はたらきます
実現とは潜在性を現実のものにするプロセスを言う。勤労はわれわれを強く健康にする生物的=心理的=霊的エネルギーを動員することであるため、仕事を通してその実現がなされるのだ。その考えから、勤労は真の自己を開発するメソードであるとの結論が導かれる。
5.勤労は神への勤め: わたしは愛に満ちて、真剣に働きます
どの宗教においても、勤労は神への勤めであると信じられている。神への勤めというものは、創造主を称え、崇拝し、感謝し、願いをかける儀式であり、勤労が神への勤めの一形態であるがために、それは慈愛に満ちて行われなければならない。
6.勤労はアート: わたしは歓喜に満ちて、クリエーティブに働きます
アートは創造性と密接に関連している。その延長線上において、アートと創造性はクリエーティブな思考を駆使する喜びを成長させる。もし勤労が芸術表現の一形式と理解されるなら、勤労者は意欲と歓喜と興奮に満ちて仕事をするだろう。
7.勤労は栄誉: わたしは自分の優秀さを総動員して勤労にいそしみます
勤労が栄誉だということは、五つの次元を有している。つまり雇用主が与える栄誉、業務成果を出すチャンスが与えられる栄誉、優れた業務成果がもたらす栄誉、業務成果に対する報酬を手にする栄誉、その報酬で自分や他の者の生活を支えてやる栄誉。
8.勤労は奉仕: わたしは謙虚な心で仕事をやり遂げます
奉仕というのは高貴な仕事だ。他面、よい仕事は高貴な姿勢を必要とする。高貴さの主な特徴は利他的性格、つまり他人に対して善行をなすことであり、サービスというニュアンスの濃い現代のビジネスコンセプトは、消費者に対する高貴さの実現形態と理解されなければならない。

上にあげた8項目の勤労エトスをわが国のビジネス組織に普及させるのは、もちろん長い時間が必要だ。ましてやモフタル・ルビスのテーゼを借りるなら、インドネシア人は勤労プロフェッショナリズムとは対極の5つの基本メンタリティを持っているのだから。
だがしかし、上の8項目の勤労エトスがいつの日か、インドネシア民族の優れたメンタリティとなるであろうことをわれわれは確信している。自分の脚を持つというのは言うまでもなく良いアイデアに違いないのだから。
ソース : 2000年8月18日付けビジネスインドネシア
ライター: Jansen Sinama, Lilik Agung ダルマ・マハルディカ学院経営者


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『手遅れになる前に学校をやめろ!』

教育の方向性が産業界の需要に応える従業員メンタリティを涵養された労働力を作り出すためのものであるなら、二十年後に出現するであろうものは数百万人の失業候補者たちだ。今現在でさえ、大卒短大卒の失業者が75万人もいる。それに小学校から高校までのドロップアウト生徒を加えたなら、失業者の数は数百万人に膨れ上がる。2002年以降のデータを見ると、年々生み出されているかれらドロップアウト生徒の数は一年に150万人を超えているし、全国には学校教育の網の目からこぼれ落ちている子供が5千万人近くいることを指摘する報告もある。 だったら、わが民族の若年世代が大学に至る公教育に就学しているのはいったい何のためなのか?もしその答えが企業に雇用されるためというのであれば、その方向性が間違っていることを上の事実が既に示しているではないか。現在就労している1億5百万人の勤労者のうち、5千5百万人以上が小学校卒という学歴でしかない。ディプロマ保有者は3百万人前後、S1保有者は5百万人前後だ。もし就労の場の大部分が小学校卒業者のために用意されているのであれば、われわれの子供たちはいったい何のために上の学校に進学して時間と費用の無駄使いをしなければならないのだろう。
イギリスの教育と創造性の専門家、サー・ケン・ロビンソン教授はそのスピーチの中で、アカデミックな肩書きがインフレを起こしてその需要をはるかに上回る供給量になっていることを皮肉をこめて表明した。その結果、労働市場での値打ちは暴落の一途をたどっているのである。それどころか、学校は生徒たちの創造性を殺戮しているのだ、と。だから教育分野で生徒の創造性を優先的に開発する革命が求められている。
畏敬されているニューヨークタイムズ紙のコラムニスト、ポール・クラグマンは2011年3月6日の論説の中で、過去数十年に渡って大卒の高給取りに握られていたミドルレベルホワイトカラー層のポジションは今やコンピュータソフトウエアに取って代わられたというアメリカでの実態を強調した。このレベルの求人は増えるどころか、減少し続けている。反対に清掃や配達といった実作業を伴う低給の現場業務はいまだコンピュータの進出できない分野であり、雇用は伸びている。

< 創造性と想像力 >
そんな国内の実情と世界情勢に教育界関係者は早急に対応をはからなければならない。教育レベルが高ければ高いほど就職は容易になる、という文化的社会的な観念は白日夢に過ぎないのだ。
ところがもし、国民のオリエンテーションが依然としてサラリーマンを目指しているのであれば、廉価で短期の学校や訓練を盛んにしなければならない。たとえば実作業を行なう建設・製造・運輸・農業などの現場作業者やオフィスでコンピュータを使った手作業を行なうような職種に就労する者に対する教育訓練だ。そのためにも、国際級学校などといったお笑い種の飾り物などはやめることだ。コンピュータは国際スタンダードで作られているのだから。
しかしながら、一国の文化レベルは現場作業者だけが担うものではない。イメージ豊かなクリエーターを生むことは絶対に必要なのである。それゆえに、幼年期から刺激を受けた者だけが到達できる、国民のあらゆる潜在的知的能力の開発が行われなければならない。だから、視覚聴覚運動知覚的優秀さだけでなく、創造性や独立性をも開発する教育メソードが必要とされている。
キーワードは創造性と想像力だ。どんなに優秀なコンピュータでもいまだに代替することのできないふたつのポイントがそれなのだ。時代は変化し続ける。古びた教育システムとパラダイムは新しいものに取り替えられなければならない。アナログテクノロジー時代はもはや時代遅れ。今われわれはデジタル時代に入っている。
それはつまり、時空コンセプトも変化するということだ。これまで長時間・ハイコスト・労働集約で行なわれていたものごとが、もっと簡潔に行なわれるようになる。だから新しい教育システムの一番奥底にある目的は、全就学者にその初期から学ぶことを愛する精神を涵養できるということでなければならない。学ぶことを愛するメンタリティと精神によって、将来どんなものごとに直面しようともかれらはそこから逃げ出すことなくそれに適応し、掌握し、それを改変させることができるようになる。
学ぶことを愛する精神を涵養するのに大学へ行く必要はない。いまやあらゆる学問はデジタル方式で用意されており、ワルネッのコンピュータや携帯電話からアクセスすることができる。だからコンピュータを使う能力・インターネットで必要な情報源を探す能力・適当な英語能力を与えるだけで十分だ。バーチャル世界には諸言語の即席的翻訳マシーンすら用意されている。子供たちは、早期教育の年代からスタートして12年間学校へやればいい。かれらはサラリーマンにならなくても良い。人類が存続する限り、高い価値を持つクリエーティブ世界がかれらに門戸を開いているのである。
ライター: 文学者、経済弱者向け無料学校経営者 ユディスティラ・マサルディ
ソース: 2011年4月8日付けコンパス紙"Berhentilah Sekolah Sebelum Terlambat!"