[ スハルトとオルバ ]


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『スハルト史』

スハルト政権期(1966-1998)は各々を十年前後とする三つの時期(境界はあまり明確ではない)にシンプルに分けることができる。その三つを初期、発展・栄光期、低下・崩壊期としよう。

最初の時期は、はじめこの民族を率いることを多くの人々が疑問視していたスハルトが、徐々に権力を成長させていった時期である。1966年3月11日に、治安回復に関わる全権をスカルノ大統領から受けるやいなや、かれは直ちにその翌日PKIインドネシア共産党を解散させた。続く数ヶ月は、共産党員と目された人々に対する殺戮の時期であり、犠牲者の総数は40万人から百万人と見積もられている。アメリカに率いられた西側陣営とソ連に牛耳られた東側ブロック間での対立の先鋭化から生まれた冷戦期に、西側ジャーナリズムはその事件を「間違っているが必要なもの」と位置付けた。(人権侵害や左翼グループとその家族に対する差別はその後も続いた。)
1967年に大統領代行、1968年に大統領に任命されたスハルトの第一の関心は、スカルノ政権末期に落込んでしまった経済の回復だった。スハルトは、経済開発にとって国家レベルおよび地方レベルでの安定した治安情勢が不可欠であるとの理解を原理として持った。インドネシアは早急にマレーシアとの国交回復を行い、国連に再加盟し、アセアン結成のスポンサーとなり、その地域機構の牽引車となった。求められている外国からの投資に障害が起らないよう、国内の治安は確保されねばならない。そのため、ジャーナリズム、学生、民間組織など政府の政策を厳しく批判する勢力に対して抑圧的な対応が取られた。
かれは軍や諜報機関の諸グループ、インドネシア大学の経済学者らをはじめさまざまなグループから自分をアシストする側近を集めた。かれは十年後には経済分野での技術的問題を掌握してしまったが、経済大臣らの情報や説明を熱心に聞いた。将軍たちに対してはかれに依存するように仕向け、互いに疑念を抱くようにさせ、自分の下に「皇太子」を置くようなことは決してしなかった。閣僚は、専門家で忠誠心を持ち、チームとして協力できる人間を条件にした。かれが任命した大臣は任期をまっとうし、あるいは何度も任期を重ねた。庶民は大臣の成功失敗の規準を知らされることも無く、すべては大統領におまかせだった。かれが誰かを大臣に選んだなら、その者が失敗を犯しても必死になって擁護した。部下の福祉には手厚い配慮を示し、1980年に国民的有力者50人が公開した鋭い批判に、スハルトは残忍な対応を取った。50人請願の署名者たちは、大統領宮での国家行事に招待されることも無く、ビジネスは刈り取られ、文字通り世間から隔離された。

1975年のマラリ事件はスハルトの政治姿勢を変える転機となった。田中首相がジャカルタを訪れたとき、外資反対の学生デモが起こり、路上のあちこちで日本車が燃やされる事態に発展した。スハルトは激怒した。そのようなデモは、インドネシア建設に必要な外資を遠ざけるからだ。同時にかれは、自分の地位を危うくしようとしている者の存在を疑った。時の治安秩序回復作戦司令官スミトロ大将が更迭された。ほほえみを絶やさなかったスハルトの顔が冷たい氷に変わった。それ以来、政敵ばかりか権力の座に就ける可能性を持っている仲間や部下さえかれは警戒するようになった。
経済開発の成功のためには、国の治安の安定が必須だ。そのため、種族・宗教・人種・階層のからむ民衆内の抗争をスハルトは嫌った。オルバ期のはじまりから顔を覗かせていた種族間抗争は禁止され、議論され、そしてカーペットの下に隠された。オルバ期に入って推進された経済開発は、東部インドネシア地域を主として、イリアンジャヤや1976年以来の東ティモールで新たな問題を引き起こした。ブギス、ブトン、マカッサルなどスラウェシからの移住者がそれらの地で経済を握り、また地元民が行政機構を動かす能力を持っていないためにジャワ人が官僚の職を牛耳った。
スハルトは家ではだぶついたシャツを着、ほほえみ、養殖や魚釣りを好む田夫子というイメージを押し出して、野望を要領よく包んだ。しかしそのほほえみの裏で、謎の殺人者が数千人を路上で射殺した殺人事件を承知していた。それは1983年から1985年までの間に被害者が5千人にも達したプレマンや犯罪者に対する射殺事件であり、死体は街中に放置された。殺された者に共通する特徴は、身体にいれずみがあるというものだった。


全権力
第二の時期、かれはすべての権力を既に自己の手中に集めていた。かれは大臣を任命するだけでなく、知事、市長、県令から中銀総裁にいたるすべての行政メンバーを認知し、その就任を祝福した。かれはまた、総選挙で選ばれなかった議員をも任命した。政党首ばかりかインドネシア赤十字総裁になるのすら、かれの祝福を得なければならなかった。法曹界にもかれは爪を立てた。大判官や最高裁長官の任命もスハルト次第だった。ビジネスの世界でも、プルタミナのような重要企業は言うに及ばず、国営企業社長はかれが選抜し、重要な政策はかれの承認なくして決定されることはなかった。
ジャーナリスト、医者、労働者、実業家などプロフェッショナルな分野でも、かれらを単一の器に納めることで統制し、その幹事はスハルトの祝福を得なければならなかった。かれの権力がそれほどまでに拡大したとき、かれとアシスタントたちの政策を批判しようとしたジャーナリズムに対する出版停止を行なうのは容易だった。雑誌Tempo, Editor, Detikは1994年に発禁となった。政府の政策に調和しない書籍も、オルバの初期から禁止された。かれは10人だけに見える偉大な勝利よりも、1千人が知っている小さい勝利の方がずっと価値があるという軍のことわざを知っていた。開発の成功はあらゆる機会をとらえて宣伝され、ほとんど毎日スハルトはガラスのスクリーンに登場した。
毎年8月16日の国会における国民への演説には、常に上向きのグラフを形造るように構成された統計が散りばめられた。外交政策は積極的に推進され、インドネシアはアセアンの畏敬されるリーダーとなった。APECでもインドネシアは積極的な姿勢を示した。しかし、スハルトがもっとも喜んだのは、1992-1995年の期間勤めたノンブロック運動議長の地位だったようだ。
その成果に加えて、それ以前に受けた農業や家族計画などの分野での国際表彰は、かれの前任者スカルノに匹敵する、いやそれ以上のプレステージを国際世界に印象付けた。外交の中で最大の汚点となったのは、1991年11月12日のサンタクルズ墓地で発生した市民に対する銃撃をクライマックスとする東ティモールにおける人権違反だ。インドネシアは1996年にラモス・ホルタとベロ司教がノーベル平和賞に選ばれたことを奇とすべきだった。東ティモールの人々の基本的人権擁護の努力に対して、かれらふたりが選ばれたのだから。しかしスハルトはそれにたいした関心を払わなかったらしい。


達成のすべて
国内で、国際世界で、あらゆるものを得た第三期、かれはその上に何を求めたのだろう。かれは家族を喜ばせたかったにちがいない。かれは息子も娘も国民として事業を行なう権利があると語ったが、問題は息子や娘たちの得た恩典がきわめて異例のものだったということだ。第三期に、スハルトの子供たちのビジネスは急激に発展し、いたる所に広がっていった。スハルトの6人の子供たちは、石油、高速道路、銀行、テレビ局から看板広告にいたるまで、みんなたいそう戦略的な分野で事業を行なった。中央だけではなく、ほとんどすべての州へもその翼を広げたのだ。民衆には不満が広がったが、官僚機構はかれらの存在を受け入れざるを得なかった。かれらのビジネスのほとんどすべては、競争がなかった。

一方、その間隠れていた種族間の対立は水面上に姿を見せはじめた。1997年の政治的背景を持った種族間暴動にはじまり、それはあちこちの地方で継続した。サンガウレドで勃発し、西カリマンタンの数箇所に広がった集団間のコンフリクトは、1997年総選挙の前にはPDI支持のダヤック人とPPP支持のマドラ人を巻き込む形となった。知られているように、スハルトは治世の初期にそれまでの諸政党を統合し、ゴルカル(与党)とイスラム政党PPP、ナショナリスト政党PDIというふたつの「付き添い」政党の三党制に仕立て上げてしまっている。その後で、様々な集団暴動がタシクマラヤ、レンガスデンクロック、カラワン等で発生した。


経済危機
夫人が1996年に世を去ると、スハルトはいつやめるのだろうかとひとは尋ね始めた。かれの健康は低下した。ドイツで心臓の治療を受けたこともある。為替レートや株価はスハルトの病気で上下した。民衆のこころにためらいを残したまま、1998年3月かれはインドネシア共和国大統領に再選された。
そのときかれは、議員や閣僚の人選に大きな役割を果たしたと評価された子供たちを除いて、他のアシスタントたちを信頼しなくなったようだ。長女のシティ・ハルディヤンティ・インドラ・ルッマナ通称トゥトゥッはその内閣の社会大臣となり、おまけに昔からのかれの右腕だったボブ・ハサンは工業大臣になった。王位継承皇女である長女トゥトゥッを伴なったスハルト王朝がそのとき出現したのだ。

1997年7月、タイで起った通貨危機はインドネシアを含む東南アジア地域へと拡大した。その力学的要因は、インドネシア経済の中にあった三つの条件にそれ以後もサポートされることになった。まず、ルピア通貨が米ドルとリンクしていたことだ。二つ目は、民間債務が概して短期のものだったことだ。マレーシアは幸運にも民間借入が大部分長期のものだったために、インドネシアほど経済危機の影響を感じていない。三つ目、インドネシア銀行に対する不信が存在していた。例えば、スハルトが転落したとき、スハルトの子供たちが出資者だったBCA銀行はラッシュに襲われた。後にスハルトはIMFとの新規借款の合意書に署名した。スハルトが、IMFのマイケル・カムデサス先生の前で何かをして見せねばならない生徒のように写っている写真は象徴的だ。その合意書には、IMFが援助金を渡すに当たってインドネシアが守らねばならないことがらが記されていたが、スハルトは二つの顔を見せた。IMFの前では合意書にサインしたが、かれはステイーブ・ハンケが提唱するCBSシステムを使って経済危機を乗り切ろうと試みたのだ。しかし実行にはいたらなかった。
そんな悪情勢の中で、スハルトは1998年5月9日、エジプトのカイロへ、とあるサミット会議に出席するために出かけた。戻ったかれが目にするのは、焼け跡となったジャカルタだ。1998年5月13ー14日に起った暴動と放火の死亡者は一千人と見られている。その事件へと状況を駆ったのは、治安部隊に射殺された4人のトリサクティ大学生の死だ。群衆は激怒した。葬儀の後かれらは狂乱と化し、首都の特定の地点で計画的な暴動と放火が出現した。離れた場所なのに、ほとんど同じ時間に放火が起った。この事件は、扇動者がいまだに証明されていないにせよ、仕組まれたものという印象を与えた。

1998年5月20日、ジャカルタのモナス広場で大集会が計画された。早朝、アミン・ライスがその集会は取り止めると発言した。
モナスへ行こうとしていた学生たちは、モナスを固めていたために警備がまだ手薄だった国会議事堂へとデモの方向を変え、国会は学生に占拠された。5月20日昼、スハルトが編成しようとしていた内閣に座るはずの14人の大臣が、就任拒否を表明した。スハルトの近辺にいたアシスタントたちがかれに与えたとどめの一突きがそれだった。翌21日、スハルトは大統領退任を発表し、同時にハビビ副大統領が国家宮殿で大統領に就任した。このようにして、スハルトが5年毎に行なっていた業績責任報告はもう作られることがなかった。
三十年にわたる政治経済問題の紛糾は後継者が掌握し、解決しなければならないものである。インドネシア民族は、民族と国家の営みにおけるファンダメンタルな変化にあふれた重要な移行期を経て第三ミレニウムを迎える。スハルトの時代がはじまったとき、下層民衆は貧しかった。三十年を経た今、下層民衆は依然として貧しい。そしてこの民族は深刻な分裂の脅威に直面しているのだ。
ソース : 2001年6月14日付けコンパス
ライター: Asvi Warman Adam   国立科学院歴史研究者


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『スハルト将軍は権力の座を目指す』

認識。ひとつの事実に意味を与えるのがそれだ。異なる見地からは同一の事実が正反対の意味を持ちうる。イデオロギーに包まれている場合、その意味に折り合いをつけさせるのは困難だ。たとえばG30S事件は、インドネシア民族にとってパンチャシラへの裏切りと認識された。だからPKIに対して加えられた報復行動は適切で妥当なものとなったのである。
50万人から100万人のインドネシア民衆が殺戮され、およそ70万人が捕らえられて法的プロセスなしに虐待を受けた血の洪水は、ひとつの民族の社会意識が消化した一事件が持つ意味合いの凄まじさを示している。そこでの歩み寄りの努力はまったく無駄なものに過ぎない。

その屍と血の上に建てられたオルデバルはG30S事件を、いつでも再現されうる、そして民衆を恐怖に落とし込むための亡霊にした。オルバはその事件から、P−4(Pedoman Penghayatan dan Pengamalan Pancasila = 訳注)を理念とした開発イデオロギーで民衆を守るというインスピレーションを得た。一方アメリカ政府にとってG30Sの公開は恥辱なのだ。その事件からもう36年もたったというのに、それに関する記録はCIAの文書センターで密かに眠っている。アメリカの「情報取得の自由」法は25年たてば国家機密の一般公開が可能だと謳っているが、大統領の斟酌如何にかかってもいる。
無論、時代はもう変わり、世代も交替し、おまけにアメリカ大統領選挙実施も8回を超えたが、G30S事件の記録は国家機密に分類されたままだ。旧鉄のカーテンの内側、つまりソ連でアメリカが行ったスパイや逆スパイ活動、あるいは秘密作戦などの記録はもうほとんどが公開されているのに比べると、G30S事件ははるかにセンシティブに見られている。1967年のCIA報告はこの殺戮事件を、ナチスドイツが数百万人のユダヤ人に対して行った虐殺と同列に並べ、第二次大戦以後で最悪のもののひとつだ、と述べている。CIA自身がその事件を世界最悪と言うのなら、どうしてその犯人をナチスドイツの将校たちと同じように国際法廷に引きずり出さないのだろうか?


アメリカの対外関係第二十六巻1964−1968年の中で、「アメリカとスハルト:1966年4月−1968年12月」へとつながっていく「クーと反撃行動:1965年10月−1966年3月」を物語る128ページを無味乾燥なものにしているのがそれだ。記録は1965年10月1日午前7:20と記されたCIAからリンドンBジョンソン大統領への、インドネシア情勢の展開に関するメモランダムで始まる。
「現在ジャカルタではひとつの実力行動が勃発しており、それはきわめて大きな含みを持っている可能性がある。将軍たちのクーデターを失敗させるのに成功した、と30Septemberと名乗るグループが主張している。・・・・・・・」最終パラグラフは「スカルノがこの運動とその目的が何であるかを前もって承知していた可能性は高い。時期や運動の詳細が円滑に進行するようにこの事件全体を操った首謀者は、スバンドリオ副首相とかれやスカルノに近いところにいた共産党指導者だ。」
それほど早くその報告はブンカルノ、スバンドリオ、PKIを名指ししている。マーシャル・グリーン大使のものを含むジャカルタからのその後の電報にも同じ姿勢が映し出されている。国際治安問題担当国防大臣補佐に向けられた極東地域局長からの1965年10月4日付け電報の中にもそんな情報が盛り込まれている。それらの報告パターンは一様だ。先行き不明で実力闘争がまだまだ続く状況との説明で始まる。そしてその闇の中に光が当たる。舞台の上に見えるのは、スカルノ、スバンドリオ、PKIトリオの姿だ。

資料の大半がテンタティブで思惑に満ちた文書を読むとじつに困惑させられる。諜報分野では遠ざけられるべきことがらであるというのに。10月6日付けのCIA報告を例に取るなら、ポイント16には「PKIはG30Sへの関与を否定し得ない」と書かれている。PKIの公式スピーカーであるハリアン・ラヤッ紙の論説がウントゥン中佐の運動を支持すると述べているからだ。
ところがポイント18では、アイディッPKI議長はそのような運動や、ましてや政権の変化さえ祝福しないだろう、と述べられている。なぜなら現在の国内外の情勢はきわめてPKIにとって有利なものだからだ。そしてそのあとに、幹部の一部が自主的にその運動に加わった可能性が述べられる。
ピーター・デール・スコットは「アメリカとスカルノの破滅1965−1967」の中で、当時発行されたハリアン・ラヤッ紙にまつわる、かれが発見した奇妙な状況について触れている。ジャカルタの軍司令部はすべての新聞を発刊禁止にした。その禁止は、ウントゥン中佐の運動が10月1日に瓦解させられたあと、ラジオとテレビで放送された。元教授で外交官だったその著者は、ハリアン・ラヤッの印刷にCIAと軍部が関与した兆候を見ているのだ。
ワシントン自身も、グリーン大使の要請で、ラジオジャカルタとインドプレスのふたつの闇放送を流した。VOAも放送頻度を高めた。それらのラジオはすぐにブラックプロパガンダを放送し、即座にPKIとスバンドリオがG30Sを操ったと批難した。スカルノ自身もその計画を知っていた!パブリックオピニオンが形成されるよう、偽データがデザインされた。ブラックプロパガンダ自体も、インドネシアに対する極秘作戦の一部として303委員会が承認していた。

ワシントンはジャカルタのマーシャル・グリーン大使を通じ、陸軍を率いてウントゥン一派の運動を瓦解させたナスティオンとスハルトのニ将軍に支援と歓迎の暖かい言葉を贈った。陸軍が通信機器、兵器、車輌、医薬品など多くのものを必要としていることを知ったワシントンは、援助の用意があることを表明した。
しかしながら、この世界に無料の援助はない。それどころか高利貸しからの借金でさえもが援助という名で呼ばれる。ワシントンの高官たちも同様で、経なければならない手続きの存在を理由に、その実現は伸び伸びとなった。CIAのエージェントたちはその待ち時間を利用して、陸軍首脳部の意識の中に「PKIとそのシンパを絶滅させる必要がある」という毒を注ぎ込んだ。
言うまでもなく、ポストG30Sの対外政策に変更が生まれるだろうか、という躊躇も顕われた。アメリカは確固たる答えを聞きたい。ましてや、ナスティオン将軍のブンカルノに対する憲法に則した忠誠心がまだ健在かもしれない、という疑惑もある。だがそれらすべての懸念は、マーシャル・グリーンから五千万ドルの資金を受けたアダム・マリクが晴らすのに成功した。その資金はPKI絶滅キャンペーンに使われた。
アダム・マリクは、スハルト将軍が各方面、中でも陸軍の支持を得ていることをアメリカに確信させた。別の折にアダム・マリクは「スハルト将軍はわれわれ(つまりアメリカ)が望んでいることを理解している。」と述べている。
PKI殺戮の騒動はほとんど毎日ワシントンに報告された。クディリにいたカトリック布教者の報告は、1965年11月に3千人が虐殺された、と告げている。バリではPNIとPKI間の闘争に加えて土地を奪われた貴族層の恨みがからみ、PKI党員やシンパと目された8万人の血がこの神の島を浸した。
アメリカ大使館も、この血の饗宴に遅れてならじと、PKI幹部数千人の名簿を提出した。女性ジャーナリストのキャシー・カデインは著作の中に詳述しなかったものの、早い時期にその出来事を解説している。キャシーによればその名簿は、在ジャカルタ、アメリカ大使館政治部長エドワード・マスターからアダム・マリクの秘書に渡され、そのあと陸軍戦略部隊内のスハルトの司令部に届けられたとのことだ。CIA極東担当副局長ウイリアム・コルビーや当時のアメリカ大使館員とのインタビューをまとめたキャシーの記事には、PKIとそのシンパを絶滅させるのにその名簿はきわめて有効だったという認識が記されている。陸軍戦略部隊を訪れてとても多数の拘留者を目にした大使館員の話しをキャシーは引用している。大使館員がかれらの法的プロセスをスハルトに尋ねると、短い答えが返ってきた。「だれがかれらを食わしてやるのかね?」それはかれらがみんな殺されることを意味していたのだ。
キャシーの著の中に見られる奇妙なことがらは、G30S事件が起こったときに大使館側が陸軍に対して通信機材の援助を行ったことを否定するようなマーシャル・グリーンの説明や、また上のPKI幹部の名簿を大使館員が自主的に渡したというそれと同じような話しである。グリーンは外務省へのラジオグラムの中で、大使館員がモトローラ・ラジオコミュニケーション3基をバッテリーチャージャー付きで渡したのは本当だ、と述べているのだ。将軍たちがコミュニケーションのために必要としたものであり、つまりはハンディトーキーの替わりだった。
ところが当時最新鋭のその通信機器がフィリピンのアメリカ軍事基地からジャカルタへ、G30S事件のわずか数日後に飛ばされていることをキャシーは突き止めている。その高周波通信機器用アンテナは、スハルト将軍司令部である陸軍戦略部隊の表に誇示されていた。センセーショナルな記事の取材を行ったかの女はまた、フィリピンのスービック、アメリカ海軍基地からジープやトラックならびに兵器を満載した一隻の艦船がジャカルタに向けて出航したと述べている。かの女の集めた情報によれば、その兵器や車両はPKIとシンパを殲滅するために陸軍が使用することになっていたのである。


PKIの動きは封じられたが、ブンカルノとスバンドリオはまだ健在だ。その二人がいる間、アメリカは安心できない。そこでグリーン大使がスハルト将軍にこうささやいた。大まかにはこうだ。「ボールはあんたの足元で、あんたはゴールの縁にいる。ゴールデンチャンスをあんたは無駄にしようというのかい?」
議論を煽った著作の中では、スハルトはきわめて用心深くことを行うために鈍い印象を与え、それがアメリカをして激怒させた、と書かれている。G30Sの犠牲となった将軍たちの葬儀が10月5日に行われたあと、陸軍はすぐに行動に移れるものとアメリカは見ていた。ところがスハルトはスカルノとの直接対決を嫌った。

1966年3月半ば、新たに編成された内閣に依然として左翼人士が起用され、ナスティオン将軍が国防相の座から一蹴されたあと、アメリカの希望がついに叶えられる日がきた。学生が路上に下りて大統領宮殿を包囲したのである。大勢の陸軍兵士が軍服を脱ぎ、銃を手にしてそれに加わった。
そんな情勢を恐れたブンカルノはついに、事態回復と大統領の家族の保護を行うようスハルト将軍に対して権力を委ねた。そのスプルスマルを武器にして、スハルトはPKIを解散させ、権力をその手に集中させた。
「アメリカとスハルト:1966年4月−1968年3月」と題するインドネシア編全150ページの終盤には、マレーシア対決政策を終わらせるというスハルト政権のコミットの証拠を示すようアメリカが希望した、とある。他にもアメリカは、たとえ権力を持たなくともスカルノが依然として大統領の座に居座ることを嫌った。これまでインドネシアの外交政策に優位を誇っていた中国から離れることも劣らず重要なことだった。
それらの希望はすべてスハルト将軍によって満たされた。マレーシア対決は幕を閉じ、中国大使館は群衆が焼いた。ブンカルノは国民協議会特別総会で退任した。しかしその辞任が、人民裁判に引き出すと脅かした陸軍の圧力の結果であることは、一言もそこに触れられていない。
続くページは、外務省や国防省の上級職員、国家安全保障委員会や大統領特別補佐官たちの会議議事録と、かれらの間での文書通信や在ジャカルタ大使館からの電報などで満ち溢れている。会議議事録のすべてはインドネシアに対する援助の準備活動に関するもので、ワシントンの「善意と寛大さ」を見せつけている。
1966年9月25日のハンフリー副大統領からリンドンBジョンソン大統領へのメモには、ミネアポリスのシェラトンリッツホテルでアダム・マリク外相と会見したとの記載がある。インドネシアが必要としている援助は何かということに関する会談の中で、ベトナムにおけるアメリカの存在がインドネシアの変化の発生に直接的な結果をもたらす、というスハルト将軍の言葉を伝えることをアダム・マリクは忘れていない。1967年11月4日、ハンフリー副大統領がインドネシアを訪問した際、スハルト将軍は同じような科白を述べている。グリーン大使のアドバイスによるその行為自体は特に重要なことがらではなかったものの、ベトナムとラオスでの戦争に関わったことに対する国民の批難や議会でのインピーチメントの可能性から政府を守るために、ジョンソン大統領はその表明を必要としていた。
1966年5月13日のリチャード・ヘルムスCIA副長官からウォルト・ロストウ大統領特別補佐官宛てのメモの中には、ベトナムにおけるアメリカの存在とインドネシアに起こる変化のインパクトを直接間接に関連付ける分析研究を行うように大統領が貴職に要請している、と記されている。「われわれはその方向を指し示す証拠を見つけることができなかった。・・・・・・なぜならインドネシアで起こったクーデター事件は純粋に、ずっと以前からの複雑な国内政治状況がもたらしたもののように思えるからだ。」

しかしスハルト将軍の認知は、ベトナムにおける軍事介入というジョンソン大統領の誤った政策を正当化するための強力な武器となった。世界第二の党員数を擁する共産党PKIを崩壊させるのに成功したという言葉に、野党の反対意欲や主体性は腰砕けになった。
ジョンソン大統領のインドネシアに対する関心が大きいものであったのも当然だ。かれは援助をさらに強化することを望んだ。1967年10月17日の閣議でジョンソン大統領は「ここで考えを聞くためにグリーン大使を呼べ。」と命じ、大使はインドネシア1.1億国民に5億ドルの援助が必要だ、と進言した。当時としては異例の大きさの金額であり、インドネシアの総輸出高を超えていた。
「何が起ころうが、現在のような危機的状況にあるオルバ政府をアメリカは助けなければならない。」とジョンソンは言明した。インドネシアの経済回復を助けるためにすべての先進国と国際機関をコーディネートし、もしも経済の奇跡がそこに生まれることになるなら、インドネシアは民主主義の優秀さを示すお手本となり、同時にそれはジョンソン大統領にとっての業績となるのだ。
ジョンソンのそんな姿勢がアメリカ外相とグリーン大使をして、オルバ維持のための最善のツールを求めることをその関心の中心事とさせた。あらゆる長所と欠点が分析され、その上で解決方法が求められた。その中には、スハルトに協力するべき最適格者、対抗勢力出現の可能性、インドネシアにふさわしい軍事政権のコンビネーションなどが含まれている。韓国のケースと同じように、総選挙でスハルトを勝たせるための準備として、陸軍の支持を受けた政党の編成などについてアメリカ外務省も検討した。
その外務省報告は、インドネシア国民が推察したものに比べて、かなり遅れたものではあった。歴史を偏らせるこのような試みは実際、スティグ・アガ・アアントシュタットが1999年に書いたオスロ大学での博士論文「シンボルへの降伏、アメリカの対インドネシア政策 1961−1965年」の中に見ることができる。かれはアメリカがG30Sに至る前段階をまったく知らなかったと結論付けているし、同じ結論を記した書物もCIAの自己弁護のために出版されている。

知らないふりをするその姿勢は明らかに、インドネシアにおけるCIAの頭脳であり実力者だったガイ・ポーカーの分析に対する答えになっていない。1967年2月17日、ハンフリー副大統領とかれのスタッフに対してグリーン大使は、インドネシアは1965年にコミュニストの手に間違いなく落ちていた、とのポーカーの分析を繰り返した。グリーン大使の引用はそこまでだったが、そのような虚偽の結論は陸軍のPKIに対する疑惑の先鋭化を意図した大きなシナリオの一部をなしていたのだ。おまけにブンカルノが慢性腎臓病だと囁かれ、一方PKIに対しては10月5日にクーデターが起こるという文書漏洩が行われた。
ポーカーは陸軍参謀コマンド学校で大きな役割を演じている。かれは1960年から1965年の間、国軍国警の上級中級将校2千百人をアメリカへ学習のために派遣することに関して決定的な役割を果たした。ウントゥン中佐をはじめとするG30Sの立役者たちは、アメリカでの教育を受けたことがあるのだ。

だからG30SはPKIが関与し、スバンドリオ外相がシナリオを書き、スカルノがそれを知っていた、と結論付ける在ジャカルタ、アメリカ大使館やCIAの報告は大きな不審を抱かせる。ましてやアメリカ大使が、ウントゥン中佐の名前を知らなかったと言うに及んでは。

G30Sの主役部隊だった三個強襲大隊が陸軍戦略部隊司令官スハルト少将からのラジオグラムでジャカルタへ出てきたことを諜報報告は説明していない。あの悲劇が起こる前日にスハルト少将はそれら部隊を閲兵しているのだ。
歴史をここでまっすぐなものに修復するのは無理だろう。ましてそれが、デモクラシーとヒューマンライツを信奉する民族にとって恥辱となるのであれば。本当ならアメリカのような強国は、過去の事実を闇に隠すのでなく、ブンカルノの一族や数百万にのぼるPKIの家族に詫びるべきだ。他の国に対してよく行っているように、G30Sの関連で犠牲となった人々の遺族に対しアメリカは償いを与えるべきなのだ。オルデバル治世下の32年間民衆を苦しめ、軍や政治エリートにPKIの潜在的危険を吹聴して民衆を弾圧するよう仕向けさせるようなことをするのでなく、その反対に、インドネシアにいようとアンクルサムの国にいようと、アメリカはその犯人を国際法廷に引き据えるべきなのだ。
ソース : 2001年8月13日付けコンパス


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『オルデバル、「慮る」、エスニックコンフリクト』

海外の様々な文献の中では、エスニックグループの境界はたいそうゆるいが、それは血縁関係、言語、地域、人種、宗教、文化などに基づいた集団アイデンティティを指すことができるからだ。しかし、そこに常に付随する重要な要素のひとつは、先祖代々伝えられてきた共に理解される価値観だ。このようにしてアイデンティティが与えられ、その個人と集団にとって体験と意義の源泉となるのである。

ならば、もしそれを規準にとるのであれば、インドネシアは独立の最初からそのようなアイデンティティに依拠したコンフリクトに実際見舞われていたのである。ダルル・イスラム/インドネシアイスラム軍叛乱からインドネシア共和国革命政府/全民衆闘争(プルメスタ)にいたるまで、宗教と地域という要素に基づいた内戦の形が取られている。
トゥンク・ムハンマド・ハサン・ディ・ティロは、1958年にアメリカで書いた「インドネシアにとっての民主主義」という著作の中で、宗教、ナショナリズム、世俗主義に基づく政治集団化がインドネシアでどのようになされたのかを詳細に述べている。たとえばマシュミとインドネシア社会党はジャワ外と解釈され、インドネシア国民党、ナフダトウル・ウラマ、インドネシア共産党はジャワを代表する特徴的なものとされている。内閣の変遷は議会制民主主義時代の政治権力闘争だった。
しばしば血縁と宗教の関係がそこに混在したために、地域的な結びつきによる集団化はきわめて優勢だった。おまけに、人はそこで最初に価値観と社会生活を認識するのである。このような種類のアイデンティティは盲目的連帯と自己犠牲の意識を瞬間的に動員できるものなのだ。

人とその出身地との関係はアダッ地、つまり祖先が暮らし、開闢以来の社会的結びつきを築いてきた場所として各地で主張されている。人と土地との関係は血縁関係として制度化され、それは社会秩序の中に反映している。批判したり、交渉してみたり、ましてや二の次にするなどということは許されない。
バタッ・トバ社会におけるフタもそれにあたる。半ば未開の時代から今日まで保持されてきた諸価値と自分たちのマルガを生んだ祖先のセンターなのであり、そしてそのマルガ集団のアイデンティティをも表わしている。フタを失うことはアイデンティティを破壊することだ。バンテンのバドイやカリマンタンのダヤッといったエスニックグループのいる地方では、人とアダッ地の関係を神聖なものとしている。その関係は永遠であり、政治の干満や政権交代に影響を受けることはない。ましてや国が消滅したとしても、フタは生き続けるだろう。インドネシア独立のはるか以前から、フタにせよ他地方のアダッ村落にせよ、それらは連綿と生き続けてきた。これが象徴と実態としての根源的アイデンティティのすさまじさなのである。

社会学や人類学を理解しないオルデバルは、1974年度法令第5号によってすべてのアダッ村落を沈めてしまおうとしたが、インドネシアのすべての村落を画一化しようとするシステマチックな動きは結局成功せず、実施不可能なためにその法令自身が沈んで行った。
西カリマンタン州サンバス県のマドゥラ=ムラユ間コンフリクトは、つまらないもののように見える様々な結びつきが、実は宗教的つながり以上のものであったことを証明している。そのいずれもがイスラムを信仰し、篤実にイスラムの教えを守るふたつの集団が、突然お互いに殺し合いをしたのだから。
その事件から既に三年が経過しているが、ムラユ族はいまだにひとりのマドラ人さえサンバス県に存在することを欲しない。およそ4万のマドラ人はポンティアナッ市内の難民収容地区の狭い掘っ立て小屋で、身を寄せ合いながら暮らしている。


デビッド・レイクとドナルド・ロスチャイルドは、共同体コンフリクトと共同体戦争が弱い政府を持つ移行期にある国々の特徴だと述べている。この弱い政府は合法的独裁政権にくらべて強制手段をより多用することを特徴にしている。インドネシアの東ティモール、イラクのクルディはその最適な例だ。しかし、北アイルランドやトルコのような合法的で強い政府のある国でさえ、エスニックコンフリクトが発生していることをかれらは否定しない。
ハーバード・へグリーも、独裁と民主主義という両極の間に位置する移行期政治システムが、政治暴力と内戦の機会を開くと述べている。独裁的で閉鎖的な政治制度は、暴動や内戦に発展する前に反抗を消し止めるが、対極にある開かれた民主主義制度では、抗議や要求は妥協的だ。インドネシアは今その移行期を経験しているにちがいない。オルバ政府は世の中の苦情や抗議に耳を貸そうとせず、開発の名の下、大農園、トランスミグラシ、森林事業権、産業植物林、ダムなどの用地としてアダッ地を呑み込んでいった。

だからスハルトが没落したとき、アダッ権や基本的人権を無視したかつての高官たちの悪行に、そしてこの国を破産に導いた汚職・癒着・縁故主義に対して民衆の怒りが向けられた。債権者に一部を帳消しにしてもらわない限り返済不可能な一千五百億ドルという債務の遺産でしか、オルバの業績は結局評価されなくなった。インドネシアの総人口で平均すれば、国民一人当たり一千五百万ルピアの負担となる。祭り上げられた「開発」という言葉のためにアダッ権をはじめあらゆる権利を犠牲にしてきた民衆は、自分たちがただの目的物でしかなかったことを悟ったのだ。未来への希望の消滅と憤懣が巻き起こした民衆の怒りの嵐はとどまるところを知らなかった。これまで揺ぎ無いと信じられてきたスハルト政権は、旋風に襲われた一枚の枯葉のように舞い落ちた。
アダッ地の上に作られたトランスミグラシ地区は地元民によって押収されるようになり、またジャヤプラのスンタニ空港はアダッ地の賠償が未払いだという理由で地元民に封鎖されそうになった。一方、マカッサルのハサヌディン空港では何日か前に二百人が滑走路に座り込んだが、かれらはその空港建設のために取り上げられた土地の賠償を要求したのだ。西ティモールでも、人々はボブ・ハッサン所有会社の産業植物林数千ヘクタールをキャンセルしたが、それは会社がアダッ地を呑み込んだからだ。空軍がレーダーを設置した1.5ヘクタールの土地でさえ、かれらは忘れていなかった。
北スマトラ州タパヌリのポルセアで、民衆はインドラヨン・パルプ工場の一部を荒らした。ずっと以前から、民衆はアダッ地域の森林を破壊し、汚染を発生させるその工場を拒否していたが、オルバは武力を用いてそれに対処していたのだ。民衆がその巨大パルプ工場の操業をストップさせてもう二年になる。

ファッショ的政府が民主主義へ移行するときの影響がそれだ。だから、オルバは民族の団結と一体性を整えるのに成功し、反対にレフォルマシ時代は災厄をもたらしている、という結論は誤っている。そんな誤った結論を導く誤った前提に依拠する論理は、オルバの暗黒期を覆い隠すための宣伝ツールとしてよく使われる。また、オルバ自身も水平コンフリクト解決の理念も戦略も持ってはいない。いやちょうどその反対で、利害の異なるあらゆる社会政治勢力を分裂させ、支配下に組み込むことをオルバは行ったのだ。かつてオランダ植民地時代に行われたことと同じだった。違いは、植民地時代に宗教は対象となることから免れていたが、オルバにとって例外は一切なかった。
アジア最大のプロテスタント教会組織、フリア・クリステン・バタッ・インドネシアが明らかな例だ。民主的に選ばれた指導者SAEナババンは、第一軍管区司令官BBプラモノ少将の命令書で免職させられた。その命令書には交代者が指名されていた。それ以来、北タパヌリ県奥地の村々からジャカルタをはじめとするジャワ島の諸都市に至るまで、組織は分裂して抗争した。同じファミリーの中で力づくの争いが生まれ、アダッによる結びつきはぼろぼろになった。説教をしている牧師でさえ、反対勢力に引きずり出されて放り投げられた。このコンフリクトの傷は容易に癒えそうにない。
ナフダトウル・ウラマもほとんど分裂しそうになった。PDIインドネシア民主党もオルバ政権にぶつけ合わされて粉々になった。農民層では、十数年にわたって数百万の民衆に悲惨な暮らしをもたらしたクローブとみかんの独占が村落機構を破壊し、農民同士あるいは村落単位農協役員との間の相互不信を醸成した。


スハルト政府にあるのは「破壊して支配する」という言葉だった。過剰なナショナリズムの強調、排他的、権力集中、画一的、反対勢力にテロを向ける軍服姿の民兵、秘密警察、指導者への個人崇拝などを伴うよくある独裁政権の姿そのままに、その偽りのナショナリズムから外れたアイデンティティを容認することはありえなかった。宗教、アダッ、地方性、言語、人種などのアイデンティティは、その偽りのナショナリズムに道を譲る以外にどうしようもなかった。「多様性ではなく画一性」それが日本ファシズムによって組み立てられたオルバの真のモットーだったのだ。
仕組まれたコンフリクト以外にSARAについて語るのはオルバにとってタブーだった。あえてそれを犯そうとする者は国家転覆者の烙印が捺された。インドネシア全国民がジャワ式認識論、つまりtanggap sasmitoを理解しているとの見解のもとに、SARA問題を議論しない政治決定は、この共和国にSARA事件など存在しないのだ、という実態認識を育ませた。その誤った思考法はSARAコンフリクト勃発とともに身の毛のよだつ結果をもたらした。世間に広まった情報は口伝えのもので、マスメディアは発禁をおそれて報道を避けたために、政府発表以外にそんな非公式のニュースが唯一の情報となり、事態は熾き火のように緊張を蓄えていった。
まるで精神病者のようなそんな思考形式は、理想化をもっとも完璧な事実であると見なした。この奇妙な現象は、最初スルタン・アグンがVOCの軍事力に敗れて以来、マタラム王国支配者のものとなった。バタビア攻略失敗が生み出した社会的絶望と抑圧が空想世界における昇華、この場合は神秘主義、をマタラム支配者に求めさせた。敗北や失敗はこうして存在しなくなった。正当化と詭弁が、王宮支配者が与えた社会の礼儀作法と倫理規律の中に求められるようになった。

ムシャワラ=ムファカッの中に表わされているパンチャシラ民主主義が、オルバが持つ文脈の中では最重要なものだ。しかし、ムシャワラ=ムファカッされるものはあくまでtanggap sasmitoとtepo sliroの水路の中にある。このようにして決定は大統領選挙に至るまで完全無欠なものとなるが、それは実は民主主義の原理に反する奇妙なことがらなのである。「存在しない」と決定されたSARAの文脈においても同じことが言える。
それがために、アチェやイリアン・ジャヤなどの受け入れ地元民がそれを「ジャワ化」だと明言したにも関わらずトランスミグラシは続けられ、一方ジャカルタにいる支配者は、その抗議の裏に邪悪なシナリオがある、と難じた。なぜなら、この統一国家にその種の拒否はありえないからだ。そしてジャワから数千人の軍隊が治安霍乱の煽動と断罪された憂慮を鎮めるために投入された。
「群長すらジャワから来させなければならない。イリアン住民にその職務にふさわしい人間はいないのだろうか?」とチュンドラワシ大学学生たちが語ったのは1980年代のこと。外来者によって占められた公職があまりにも多い事実を見てかれらは絶望し、憤った。当時イリアンでは、数千人の大卒青年層が就職できないでいた。内陸部の教員の職にすら就けなかったのだ。そんな状況はかれらの心を引き裂き、外来者に対する敵視の種をばらまいた。だがジャカルタは、ヌサンタラ、国家の団結と一体性というビジョンを口実に、そんな状況を妥当なものとした。イリアンの人々はこう考えた。「国家的見地というなら、イリアン人がジャワの群長になっているのか?ジャワでなくとも、近くの他州、たとえばマルクにさえイリアン出身の群長などいないではないか。」と。
オルバが没落したとき、イリアン・ジャヤの民衆が尊厳の回復とイリアン・ジャヤという呼称をパプアに変えるよう要求したのに不思議はない。外来者、特に南スラウェシのブギス・マカッサル人との衝突は何度も発生し、経済活動センターの破壊がもたらされた。パプア民衆が不公平に扱われていると感じたのは、住民投票前における東ティモール住民の場合と同じだ。政府が建設した市場の95%は、資本を持ち権力者へのロビイングのルートを持っている外来者に握られた。政府事業の入札もそうだった。
その実態は、ジャヤプラのアンペラ市場をはじめ各都市の市場やアンボン、ディリにある市場に足を踏み入れれば、その格差を目の当たりにすることができる。地元民は地べたにプラスチックのシートを敷いて座り込み、野菜を売っている。一方、こぎれいな服装のスラウェシ出身の外来者は大きな音で音楽を鳴らし、繊維製品、家電品、腕時計、雑貨などでいっぱいの売店で客を待っている。そこには、何世紀もかけて発展させたビジネス慣習に従ってあらゆるチャンスを利用してきた南スラウェシ人の姿がある。地元住民がかれらにかなうものではないのだ。そうして南スラウェシ系住民が排他的となるのは西部インドネシアにおける華人と同様だ。かれらの成功が他のグループの敗北を意味するために、南スラウェシ系住民はいつもスケープゴートにされるからだ。それは中部西部カリマンタンでマドゥラ系住民が体験しているものと同じなのだ。

アンソニー・ベアードはAn Atmosphere of Reconciliation : A Theory of Resolving Ethnic Conflictsと題する記事の中で、経済移行プロセスが起こるとエスニックコンフリクトが活発化するとの意見がある、と書いている。そしてまた、政治移行期に頻発すると強調する者もある。この移行期は政治機構に転換をもたらし、エリートたちが過去の政権と距離を置くためにそれを利用するとき、種族間緊張が生まれるのだ。
別の専門家はこう言う。種族間衝突はそれまで集団間の差異の仲立ちをしていた機関が政治移行期に消滅することに関係して発生するのだ、と。また別に、過去のイデオロギーの没落で種族的結びつき以外に群衆動員に使えるツールがなくなったからだ、との意見もある。

インドネシアでは三つの事柄が錯綜しており、エスニックコンフリクトの解決はますます困難で見通しがきかない。おまけにジャワ島民とジャワ外、ジャワとパスンダン、中部ジャワと東部ジャワ、ジャワ外エスニックグループ同士などの間に見られる文化、態度、人生観の違いもある。西カリマンタンにおけるムラユとダヤッ、リアウでのムラユとミナン、アチェとミナン、バタッとアチェ、北スマトラやリアウでのミナンとバタッ、ブギスとトラジャ等々。
多くの場所で、民衆はこれまで強奪されてきたアイデンティティの権利の方がインドネシアのアイデンティティより重要だ、と見なすようになり、ジャカルタが少しでも地方性に言及するなら、住民投票をしてインドネシアから抜ける、との威嚇で返事するまでになっている。これまで叫ばれてきた「国家あるいは共通の利益」はカビの生えたごまかしの手段だと見られている。
スハルト政権が国軍とバランスを取るために宗教の旗を振ると、軍はこれまで自分たちが支配の道具として使われてきたことを悟った。政権が崩壊すると、オルバの残党が再び権力の世界に入れるよう、その扉を打ち破ることのできる公の抗争が起こることを期待して、残ったオルバ指導者たちは他のエスニック要素を使ってコンフリクトの次元を増やした。
だから、マルク、ポソ、サンピッ、サンバス、イリアン・ジャヤ、アチェ、ロンボッなどをはじめとする雑多のコンフリクトは恒久的に仕上げられるに違いない、と観察者の多くは悲観的に見ている。それどころか、近いうちに拡大することもありえなくはないのだ。


訳注) tanggap sasmito : 他者の表情や振る舞いを見て、その心中にあるものを察すること。他者の意図を慮ること。
Tepo sliro : 他者の感情を理解し、その心中に圧迫や負担をかけるような自分の行為を自粛すること。
それらはいずれもジャワ文化における対人関係の中に高い価値を持つもので、礼儀作法であり倫理規律ともなっている。
ソース : 2001年3月23日付けコンパス


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『オルバ期とレフォルマシ期の大衆操作政治史』

インドネシアの政治論争の特徴は、特定グループによる大衆動員を伴う政治抗争の形態であるように思える。今のレフォルマシ期から新秩序(オルバ)体制の初期にまで遡ってみると、特定政治勢力にバックアップされた大衆集団同士の衝突事件は数多い。


ブログゲートとブルネイゲートのふたつのスキャンダルを調査した特別委員会の報告結果に対する国会各会派の賛同と、アブドゥラフマン・ワヒド大統領への不信任メモ提出は、大統領指示グループの怒りを煽った。かれらは特別委員会を違法と見なし、大統領失脚へのたくらみは違憲であると考えた。
インドネシアの各地、中でもナフダトウル・ウラマの大衆基盤である東部ジャワで、大統領支持グループはアブドゥラフマン・ワヒドを擁護するために数万人を動員した。かれらは憲法擁護者を自認し、2004年の任期満了までアブドゥラフマンが国を指導することを支持した。
モラル運動の推進エンジンと評価された学生層にも二極分化が起こった。一方の極にはアブドゥラフマン・ワヒドが大統領の座から降りるのを望むグループがおり、かれらは国会特別委員会の調査結果をその根拠とした。他のKKN事件も糾明せよと要求するこのグループは、全国数大学の学生執行部に代表される。もうひとつの極には政府と議会の中にいるあらゆるオルバ要素の排除を望むグループがおり、その要求の行き着くところはオルバとオルバの悪を代表していると見られるゴルカル党の解散だ。このグループはFAM-UI、フォルムコタ、フォルブス、ファムレッなどインドネシアのいくつかのキャンパスを基盤とする学生組織の連合体だ。

去る2000年8月末、スハルト元大統領を裁く法廷が開かれているとき、別々の大衆集団がデモをした。その二集団は、裁判の中止を要求するスハルト支持派とかつてのナンバーワンを罰せよと要求する反スハルト集団の両極だったが、そのとき流れた噂は、スハルト支持大衆は元大統領を擁護するために金で特に集められた者たちだ、というものだった。一方、反スハルト派大衆は、いくつかの大学から来た学生とPRD民主人民党が組織した大衆だった。

1999年、正副大統領選出のための国民協議会総会開催を前にして同じことが起こった。当時、国会議事堂は各大統領候補者を支持するさまざまな大衆グループのデモでにぎわい、数十枚の垂れ幕やポスターが掲げられ、人いきれの中でエールが叫ばれ、各グループは選挙メカニズムのことなどおかまいなしに、自分たちがかつぐ人物が「勝利者」になるようにと力こぶを入れた。

1998年にも、スハルトが大統領の座から転落した後で大衆行動が起こり、国民協議会特別総会をひかえて、議事堂は大衆デモの花盛りとなった。
多岐にわたる要求を叫んではいたが、本質的に大きい利益グループはふたつだけだった。まず、そのときスハルトに代わって大統領職に就いていたBJ ハビビがその座から降りるのを望むグループだ。かれらはそのときのハビビの地位が正当でない、つまり違憲だと考えており、特別総会の開催にも反対した。反ハビビ派大衆は学生やPRDに代表される。
もうひとつのグループは、ハビビ大統領の地位が合憲だと考えている。このグループは特別総会開催を支持しており、それを代表するのが治安当局のバックアップを受けたPAM swakarsa自主防衛団だった。

1998年1〜2月頃、CSIS戦略国際研究センターの解体を要求するデモがあった。インドネシア統一のための学生連帯と国民主権確立青年フロントが催したデモの参加者によれば、ソフィアン・ワナンディが設立者の一人であるCSISはコングロマリットを巨大化させて民衆に悲惨をもたらしたのだそうだ。その行動は、正副大統領選出のための国民協議会特別総会開催の接近にともなって、総会との関連を深めていった。副大統領候補者のリングにBJ ハビビとトリ・ストリスノの名があがってきたが、トリはソフィアン・ワナンディが推す候補者だった。1966年の学生運動経験者であるこのコングロマリットは、当時非合法化されたPRDと近い関係にあるのではないかと政府から疑念の目で見られた。ソフィアンと対立するグループのほかに、もっと前にハビビが経営するIPTN国家航空機産業会社を閉鎖しろと叫んだグループがあった。かれらはIPTNを国費浪費プロジェクトと考えたのである。

1996年7月まで戻ろう。当時まだメガワティが率いていたPDIインドネシア民主党党本部の争奪事件はまだ世間の記憶にあるはずだ。その前にスルヤディ、ファティマ・アフマドら党実力者は会議を開いてスルヤディをメガに代わるPDI党首に決めていた。
ところがファナティックなメガワティ支持者はその会議の結論を歯牙にもかけなかった。1996年7月28日、ディポヌゴロ通りのPDI党本部は襲撃されてスルヤディ派のPDI大衆に奪取された。多数の生命が失われた。あの事件は、いまだにファナテイックな支持者を多く持つ初代大統領スカルノの娘メガワティと時の政府との間の政治コンフリクトを背景とするものだ、といまでも多くの人は見ている。

マラリ事件という名の方が通りがよい1974年1月15日の出来事を、ひとびとはアンチ日本の日として記憶している。最初は日本からの外国投資に反対するインドネシア大学学生のデモではじまったが、その後大学生デモとは別に、高校生や民衆が日本の臭いのするあらゆる物を燃やし、略奪しはじめた。多くの観測者の評によれば、このマラリ事件は、当時大統領の腹心だった治安秩序回復作戦司令官スミトロ将軍と大統領補佐官アリ・ムルトポ少将というふたりの軍人高官の間のライバル闘争が作り出したシナリオだったということだ。

最後に、オルバ期における学生大衆行動のパイオニアとされている1966年の大規模デモに触れよう。そのとき、陸軍のバックアップを受けたインドネシア大学学生運動は、共産党解散とスカルノ大統領退任を要求した。この時期は、スカルノが指導する旧秩序(オルデ・ラマ)の没落と、スハルト指導下の新秩序の勃興期とされている。空軍と海軍に支持されたスカルノは権力維持ができなかった。1966年のデモによって、インドネシア大学学生はオルバの推進者として記憶にとどめられることになる。1966年の行動に参加した大学生有力者たちは、その後立法行政の主要ポジションに就いた。スハルトもスカルノに代わって大統領の地位に就いた。

これまで、政治エリート間のライバル抗争が自己の利益を実現しようとしてどれほど頻繁に一般大衆を利用し、更には大学生のようなインテリ層まで利用してきたかが上の例からわかる。時には利用された人々自身がそのことを、この国の政治エリート間の抗争の犠牲にされたことを悟っていない。一般庶民層においては、結晶化した伝統的思考パターンが多少ともその実態に手を貸している。ジョージ・マクターナン・ケイヒンがその著Nationalism & Revolution in Indonesiaで述べているように、インドネシアにおける民主主義発展の阻害要因のひとつは、常に上からの指示によりかかろうとする政治文化を社会が持っていることだ。
その一方で学生層にとっては、極端に理想主義的思考パターンがかれらをめくらにするために、かれらの運動を熱烈に支持する人々の隠された利益に目を届かせることができないのである。
ソース : 2001年2月11日付けコンパス
ライター: Palupi Panca Astuti コンパスR&D


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『スハルトは倒れたが、オルバはほとんど健在』

ちょうど三年前の1998年5月21日にスハルトが大統領の座から転落したのはレフォルマシ運動の成功だったが、失敗だったとも言える。旧勢力の一層の団結と民主化勢力の衰退が象徴するレフォルマシ運動の将来の不透明さを、スハルトからBJハビビへの権力移譲以降の動きから見ることができる。
スハルト退任への歓呼は長続きせず、その後に続いたのが団結していく旧勢力とますます弱体化する一方の民主勢力との間の闘争だったのも不思議なことではない。あらゆる問題に解決をもたらすと期待された早期総選挙も、結局座礁してしまった。
政府の法的正当性は、自分自身の振舞いと官僚、議会、軍、法曹界にまだしっかり巣食う旧勢力にすこしづつ蝕まれて、短い間に風化して行った。スハルト退任後しばらくして到達したレフォルマシ・アジェンダは何一つ実現しておらず、近々に新政権が登場したとしてもそれが実現する保証など何もない。


1998年の学生運動は、国内ばかりか国際社会にとっても感動を呼ぶ事件だった。1998年初には、スハルト政権に対抗しうるほどの意味ある運動発生の兆しは見られなかった。小規模な反対行動が現れたのは3月にMPRが7度目の大統領の椅子をスハルトに約束しようとする直前だった。国軍と警察はまだ百パーセントスハルトの後ろに控えていたため、4月から5月半ばまで繰り返し行われた学生行動は、常に治安部隊との衝突で幕を閉じた。しかし、暴力の上に暴力を重ねるその状態にも、学生の勇気はしおれなかった。短い時日にキャンパスからキャンパスへと学生運動のトレンドは広がり、あたかも雪だるまが転がるように日を追って増大し、とどまるところを知らなかった。

1966年、あるいはその後の、一連のリーダーや著名人を輩出した学生運動とは異なり、1998年の学生運動はほとんどリーダーもなく展開した。スハルトという名の共通の的に向けられた結晶化以外には、明確な討議や議題もなく運動が展開したのだ。
1997年7月27日、ジャカルタ、デイポヌゴロ通りのメガワテイ・スカルノプトリ率いるPDI党本部襲撃以後の抑圧的歳月に、学生たちは名士のいない運動を選んだ。おまけに、運動を束ねるリーダーの大半が全く新人で、過去の運動にあまり関与していない活動家たちだった。
そんな特徴のすべてが1998年学生運動の強みであり、同時に弱点でもあった。そんな性格のために、運動は容易に挫かれないという強み。一方、学生闘争が明確な方向性を持たず、意識してかどうかは別にして、終には外部勢力にコントロールされてしまったことで証明された弱み。


レフォルマシ・アジェンダはスハルトが退任してから暫くして結論に達した。ミリタリズムの解消、法の優位の元にスハルト、汚職者、人権侵害者を裁く、憲法改正、KKN全廃、地方自治などがその概要だったが、それらのひとつとして政府、議会その他の国家機関が真剣に取り組んだものはない。当初、民主化運動の側にいると見られた有力者たちのエゴイズムと、レフォルマシ運動が勝ち取ろうとした価値に対するかれらの不誠実さがアジェンダをますます粉砕し、旧勢力の団結を誘ったからだ。
ミリタリズム解消、あるいは国軍の二重機能廃止は今現在まだ完全には実現していない。軍は議会に巣食い、MPRでのかれらの存在は一層強固なものになっている。軍のビジネスは昔のまま行われている。さまざまな人権違反事件に関与したと疑われている将校たちにも、全く手がついていない。地方の騒擾事件に関与した職員に対する軍警察の措置の足音は聞こえない。
大統領や政治問題に関する国軍上層部の公的発言は、明らかに政界での役割を維持したい軍の希望を反映している。軍がどれほどの駆動力で政治復帰を進めるかは文民エリートの姿勢がどうであるのかということと関係している。

スハルト裁判への要求はますます不透明になっている。スハルト時代の汚職の巨魁に対する裁判も同じだ。汚職容疑者取調べも、汚職事件被告に対する裁判も、民衆にただ口惜しさだけをもたらしている。汚職事件の中には、最高検察庁の取調べ打ち切りや裁判所での被告・容疑者の釈放で幕が閉じられたものがある。トリサクテイ、スマンギ T、U、東ティモール、アチェ、イリアンジャヤでの人権違反裁判にしても変わらない。
憲法改正は、かつて実績があるとはいえ、本質問題に触れていない。その場限りの政治利益と、1945年憲法改正アジェンダを政治取引きの道具にしようとする傾向が抜本的な改定要求を弱いものに変えている。統一国家の形態についての再議論の拒否、議会制国家か大統領制か、大統領直接選挙、などといったことがらは、45年憲法改正における保守主義の強まりを反映している。その一方で、ジャカルタ憲章を憲法に組み入れたいという欲求が、45年憲法改正実施に対する迷いを生み出している。
KKN撲滅アジェンダもよく似た運命をたどっている。政府の最上層部から最末端までにわたって見られるビヘイビヤ、中央にしろ地方にしろ、多くの議員たちが示すビヘイビヤは未だに変っていない。清潔でKKNのない政府の結成という希望は、アブドゥラフマン・ワヒド大統領のヤナテラ・ブログ資金着服とスルタン・ブルネイ基金疑惑の出現で打ち砕かれてしまった。その一方で、スハルト期の汚職の巨魁はいまだに法の手が触れないどころか、その政治的なポジションの故に安全圏におり、新たに登場してきた政治エリートたちの振舞いも旧体制エリートのものとなんら変るところがない。
中央政府の軟弱さは、地方自治問題が約束通り進められることを不可能にする。方向の定まらない国内政治は地方への広範な自治を中央が執行するのを困難にするばかりか、豊富な天然資源を有する地方がその不公平な扱いを不満として分離へと傾く機会を大きくしている。


レフォルマシアジェンダを規準として見れば、この三年間のレフォルマシ運動は成功の兆しを少しも示していない。オルバの構造や人物が今日現在まだしっかりと根を張っているのを見れば、そのペシミズムは更に強いものとなる。軍警のミリタリズムとゴルカルという、オルバ期の国家機構を支えたふたつの柱にまだ変化は起っていないのだ。アクバル・タンジュンと「新生」ゴルカルは、旧ゴルカルとの訣別プロセスを経ていないために、根本的な変化があったとは言えない。おまけに、オルバを支えたKNPIインドネシア青年全国委員会、SPSI全国労連、Korpri国家公務員団、Kadin商工会議所、PWIジャーナリスト・ユニオンも確固として存在している。更に、ゴルカルの有力者を核とした多くの政党が設立され、こうして議員の6割が旧勢力とコネクションを持っていると言われている。文民公務員、軍警、検察、裁判所、その他のさまざまな国家機関でも、昔馴染みの顔だらけだ。それらの機構の頂点に対する粛清が行われない限り、メンタリテイの変化など白昼夢に過ぎない。

スハルトが倒れ、BJ ハビビが倒れ、アブドゥラフマン・ワヒドも多分倒れるだろうが、それでも民主化にはまだ至らない。スハルトの崩壊で新政府が生まれはしたが、オルバとそれが信奉する価値観はいまだに健在なようである。
ソース : 2001年5月21日付けコンパス
ライター: P Bambang Wisudo


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『十字路に来たレフォルマシ 〜 スハルト没落後の4年間』

2002年5月21日、スハルト大統領が権力を委譲して4年が経過した。32年間のオルバ期が幕を閉じた後でレフォルマシ期がはじまったが、わが国は現状からどこへ行こうとしているのだろうか?

デモクラシーへの移行を経験した他の国との比較研究に基づけば、インドネシアはいま十字路に立たされている。われわれの前には結果の異なる三つの道が伸びている。まずひとつは、平和で統合されたデモクラシーを目指す道。二つめは、遅かれ早かれ方向転換して旧制度へと戻る道。三つめは、流血抗争に彩られた不透明の度を増す行方定めぬ道。
われわれはその三つのどの道を進んでいるのだろう?それは、新たなデモクラシー国家を目指す三つの課題に、ひとつの民族としてわれわれがどう答えていくかにかかっている。

第一
デモクラシー専門家や専門研究者の多くが、新たなデモクラシー国家の直面する問題を観察している。その中できわだっているのはサミュエル・ハンチントンだ。デモクラシー国家になったあと、それらの国はかつて経験したことのない新たな課題に直面する。インドネシアのケースにもっともよく当てはまるのは、次の三つの課題だ。

まずはデモクラシー・パラドックスという課題がある。デモクラシーシステムは、総選挙に勝つことですべてのリーダーに政権を握る可能性を与えている。だから、デモクラシー国家を統治する唯一のメカニズムは総選挙で最多得票を取ることだ。法的に容認される範囲で、リーダーたちは最多得票のためにあらゆる手を尽くす。
その国が原初的な感情の濃い複合国家であれば、問題が起こる。リーダーたちは政治上の闘いに原初的な感情を弄びがちとなるのだ。ボスニアではそれが起こった。セルビア人コミュニティの心を意図的につかもうとする政党があり、またムスリム・コミュニティの関心を引こうとする政党があり、そしてクロアチア人の感情を利用しようとする政党も出た。結果として政治世界はセルビア、ムスリム、クロアチアの三色に分裂した。
ボスニアのケースは明らかにとてもセンシティブだ。ちょっとしたことが種族宗教コンフリクトの引金となる。指導者や政党の多くはそんな状況の中に浸りこんで共同体コンフリクトが深まるのに手を貸した。それがデモクラシー・パラドックスなのだ。改革時代の初期に現れた自由と総選挙は原初的政治の引金となり、数百人の生命を奪った以外にも身の毛のよだつ集団レープを発生させた。
ソ連とユーゴスラビアでも同じことが起こった。この複合国家はさまざまに異なる地域と住民アイデンティティで成り立っている。ペレストロイカとグラスノスチ初期の自由は局地的ナショナリズム感情を奮い立たせて、デモクラシー・パラドックスの再発を招いた。自由の爆発はひとつの国を多くの国に分裂させ、ソ連が15の国に分裂したのは半端ではない。
インドネシアと同じように、多くの新たなデモクラシー国家がデモクラシー・パラドックスに直面する準備はまだできていなかった。そんな中で、南アフリカは準備が整っていた国の例だ。その初期から、南アフリカのリーダーたちは著名なデモクラシー専門家アレント・レイプハルトの助力を得て、共同体政治に敏感な新憲法を制定した。総選挙の結果が何であれ、さまざまな種族は共通の政府の中に代表者を持つことができた。こうして南アフリカの白人から黒人への権力移譲は比較的平和裏に行われた。
インドネシアはそれらの間にいる。ボスニアやソ連ほどひどくないが、南アフリカほどうまく行ってもいない。最初の総選挙において、共同体コンフリクトはかなり乗り越えることができた。エリートレベルでは、新権力の分配をどうするかについて、交渉と強調が行われたものの、民衆レベルでは共同体同士の流血コンフリクトが起こった。エリートたちが原初的な政治カードを弄ばない保証はどこにもない。インドネシアはデモクラシー・パラドックスの安全期にまだ達していない。既に4年を経過したわれらのレフォルマシがどうしていまだに危険エリアにいるのかはそれが原因だ。


第二
新たなデモクラシー国家の第二の課題は政府の不在だ。デモクラシーへの移行は、政府支配に対するきわめて強い反対感情に特徴付けられている。デモクラシー以前に、政府は至るところに顔を出して、監視し、圧制し、民衆を牢に入れた。ところが移行期に入ると政府の役割は逆方向のエクストリームへと変化した。政府の顔はどこにも見えなくなり、世の中はあたかも政府の統制や指針なく進行するような状況になった。政府の不在は更に政府が統治能力を欠くという印象さえ与えるようになった。
政府の不在がもっとも顕著に映るのは、治安機構の職務遂行の劣化だ。軍にしろ警察にしろ、メンタル・ブレークダウンが経験される。デモクラシーはかれらの政治的役割をカットし、独裁時代に得ていたさまざまな特別扱いも他者の手に移され、おまけに高官の多くは人権違反のせいで法廷の被告席に座らせられた。警察は軍から切り離されたが、かれら自身の福祉はミニマムのままだ。治安機構高官たちが隠れて行っていたいろんなビジネスは、これまでも部下の福祉向上に使われていたが、それを行うのは一層困難を増している。

治安に関する政府の能力は極度に低下する。犯罪が多発するが、もっと心痛むのは暴動の多発を克服し得ないことだ。治安機構が消極的姿勢を持てば、この変化のネガティブなダイナミズムを克服するのは不可能だ。ましてや悪徳高官やその部下たちが陰謀に加わって状況を煽れば、かれらはオリエンテーションが失われ、メンタル・ブレークダウンに襲われているために、事態は尚更不可能へと向かう。
インドネシアの場合、アンボンがいちばん明らかな例だ。人口20万人程度のひとつの町で三年以上にわたって殺し合いが継続するなど、いったいどうして起こり得るだろうか。ましてや、治安職員同士までが互いに撃ち合いをしているのだ。
政府の不在は新たなデモクラシー国家の次なる課題だ。新政府にこの課題を克服する能力がなければ、一般大衆はレフォルマシを悪と感じるだろう。レフォルマシとデモクラシーに対するアパシーがはびこっていく。大衆は治安と経済的繁栄を与えてくれるかぎり、独裁制であっても他のシステムを支持するようになり、レフォルマシは動揺するようになる。


第三
新たなデモクラシー国家の三つめの課題は、民主的に選ばれたリーダーたちのコミットメントの不足だ。民主的に選ばれたリーダーがみんなデモクラシーを強化したいというわけでもない。ヒットラーとナチ党は民主的に選ばれたのでドイツを治めたが、かれらこそデモクラシーを粉砕し、世界を一大残虐戦争へと導いたではないか。
現代を見れば、ペルーのフジモリ大統領は民主的に選ばれたが、かれは報道を規制し、議会を抑圧した。ボリス・イエルツィンは民主的に選ばれたが、しばらくしてからロシア議会デュマを解散させた。アブドゥラフマン・ワヒド大統領は民主的に選ばれたが、MPR/DPRとゴルカル党の凍結宣言を出した。
権力の頂点にいるかれらは、デモクラシーを確立させるにも徐々に崩壊させて行くにも、きわめて戦略的な役割を担っている。権力の誘惑は、言うまでもなくたいそう強い。個性の弱い人間なら、簡単に心を揺さぶられて権力維持のために何でもすることだろう。民主政府がどのように建設されなければならないのか、ということに関するビジョンの欠乏も起こりうる。

メガワティ・スカルノプトリ大統領とPDI−Pはたいへん決定的なポジションにいる。かれらは、インドネシアのデモクラシーにとって確固たる生育基盤を築いた党と人物として歴史に残るだろうか、それとも反対に、リスクを犯す勇気を持たず、あるいはデモクラシーの価値に対するコミットメントの不足のゆえに、歴史が与えたチャンスを無駄にしたと記録されるだろうか?
新たなデモクラシー国家にとってデモクラシーの最重要基盤は憲法である。民主的な憲法を目指す憲法レフォルマシは、あらゆる政治機構が依存するインフラとなるのだ。もし憲法がつぎはぎだらけだったり、デモクラシー原理を足元に敷いていないなら、その上に築かれる政治機構は同じ運命をたどることになる。これが最もシステム的性格の、新たなデモクラシー国家にとっての三つめの課題なのだ。

レフォルマシはもう4歳。行政、立法、司法のリーダーや社会の中にいるリーダーたちが、新たなデモクラシー国家のそれら三つの課題に満足行く答えを出すように願っている。もしそうでなければ、遅かれ早かれでたらめなシステムへと向かって行くだろう。われわれは今からそれに備えなければならない。
ソース : 2002年5月20日付けコンパス
ライター: Denny Ja ジャヤバヤ大学短大財団専務理事


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『サムドラ・スカルディとオルバの毒』

国営航空会社PT Garuda Indonesiaの社長に結局就任できなかったのは、かれの名前がサムドラ(大海、大洋)だったためでは決してない。なぜなら、いまだに貶し合いばかりでシステムがほとんど働かないわが民族の現在のありさまでは、その事業活動を海洋で行っている国営海運会社PT PELNIの社長の座に話しを変えたところで、やはり困難に直面しただろうことは保証付きだ。
サムドラの弟、ラクサマナ・スカルディが国営企業担当国務相でいるかぎり、PT AbacusのCEOサムドラ・スカルディが国営企業でのキャリヤを求めたところで、前進はないだろうからだ。KKN(汚職・癒着・縁故主義)問題がかれの前途を塞いでいる。かれが職務を公正に、プロフェッショナルに行うことが重要ではないのだ。

サムドラ・スカルディはポストオルバ時代の不運なポートレートのひとつだ。かれのように不遇をかこつ仲間は多い。ファミリーの一員がある重要で決定権のある地位に就いているということだけで、ほかのファミリー構成員にどれほどの能力や将来性があろうとも、そのキャリヤーの道はKKNの先入観が閉ざしてしまう。官庁や民間にも別のサムドラたちがいる。政界にはシャイフラ・ユスフがいる。ナフダトウル・ウラマの輝かしい青年逸材は、かれがアブドゥラフマン・ワヒドの甥であるということだけで、PKB政党における政治経歴の発展性に影がさしている。

別の淵には違うバッタ、異なる昔違う今。暗黒のオルバ時代において、公職高官は親類縁者にとってのペトロマクス・ランプだった。きらめく光をかれらに降り注ぐだけでなく、羽アリ一族を権力の輪の中に置くマグネットにもなった。教育や能力など二の次だ。だから、もしあなたが将軍なら、子供、婿、甥はては隣人の子供さえもが地位のきざはしを踏み上っていくための刺激剤にあなたはなる。おまけに、もしあなたが軍機構外の高官職に就けば、一族がキャリヤーの頂点に上るはしごとなるばかりか、ある特定のコードを押せは欲しいだけの金を吐き出してくるATMにさえなった。実にファンタスティック。しかしそれがオルバだったのだ。


事実上オルバは民族の暗い歴史と化したが、ゴルカルが推進していたその体制は、われわれの思考を破壊する危険な毒KKNを心理の中に残した。われわれは、「他の人間は敵」と常に考えるパラノイドになってしまった。この毒はいっときも休まず働き続け、意識されないままに民族の免疫力を蝕んでいった。あたかも、どんなにちいさい単純な傷でさえ治癒はきわめてむつかしく、おまけにあちこちに転移して生命を奪うHIVビールスのように。そのせいで、わが民族を襲ったクライシスは長引くばかりであり、回復の兆しはまるで見えない。犠牲者は続々と倒れている。

わたしはサムドラ・スカルディに会ったこともないし、どんな人物か知らない。しかし、世間で広まっているKKNの見方に対抗してガルーダ・インドネシア社の社長候補者に名を連ねようと前進を続けている勇気ある人物の話しを聞いて、わたしの心証はかれに傾いた。ともあれ、ガルーダ・インドネシア社長就任に敗退して人権委員会の正義を求めたかれの行動を、オルバに由来するKKNビールスのN(ネポティズム)要素を精査するためのモメンタムとするべきだ。
それともわれわれは、オルバのまいたビールスが世の中で猛威をふるい、わが民族がシステムの危機から抜け出すのを助けることができるかもしれない秀でた青年たちがその犠牲者となるのを、手をこまねいて放置しておくのだろうか?


[ オルバ最大の罪 ]
オルバの最大の罪は、腐敗した経済を回転させて借金の谷底にわが民族を落としこんだその方法にあるのではない、とわたしは思う。そうでなく、何世紀もの間わが民族の抗体システムとして証明されてきた「家族主義的価値」を粉々にしてしまったことだ。外国からの破壊的価値の拒否者になることが冒されているのだ。
1928年に青年たちが行った家族主義精神(10月28日の青年の誓い)の再活性化で、わが民族は植民地勢力が何世紀にもわたって粉砕しようとした存在の再構築を成し遂げた。もちろんゴルカルが政権を握るはるか以前から、社会にある家族主義的生活は濃厚でかつ調和的だった。ファミリーにはたいてい、大家族の母体となるプアッがあり、メンバーがどの分野であれ成功を収めれば、プアッはそれぞれ独自の誇りを抱いた。
深く根をおろした伝統の中での成功の規模は、単にその個人が享受するだけのものではなかった。個人的に享受する成功は本当の意味での成功とされず、反対に多くの説話の中にそのような行為に対する社会的批判が盛り込まれている。もっとも有名で記念碑的な話しが「マリン・クンダン」だ。それだから、オルバより前の時代での成功者の規準はファミリーを援助することのできる者だった。そんな成功者はファミリーの英雄とも呼ばれた。

ところが、われわれの伝統の中にある高貴な価値の海原に、オルバ体制は毒を振りまいたのだ。その結果、オルバ支配者に歪められてジャワ文化が「反デモクラシー文化」になったように、元々世の中にあった社会生活の結合子であるファミリー・システムはいまや疫病神にされてしまっている。こうして、かつては兄弟姉妹を援助するのがファミリー・メンバーひとりひとりの高貴な義務であり、そうすることでファミリーの英雄という称号を与えられていたものが、いまではそんな行為は恥辱であり、民族に対する大きな罪となってしまった。
ラクサマナ・スカルディ国営企業担当国務相が、自分の管轄する一国営企業の社長として能力もあり適切でもある兄と対峙しなければならなくなったとき、そんな感情がかれの脳裏を荒れ狂ったにちがいない。さる一月中旬にジョクジャで開かれたPKB臨時党大会で、自分が育成する政党の総裁候補の人選に入った甥と相対したとき、キヤイハジ・アブドゥラフマン・ワヒドの思いも同じように揺れ動いたにちがいない。党第一人者のかれは、「もし自分の甥が総裁に選ばれるなら、自分は引退する。」と牽制さえしたので、一大困惑が大会の全参加者を襲った。

しかしサムドラ・スカルディの場合と違い、シャイフラ・ユスフのネポティズム問題に対する反抗は比較的成功を収めた。なぜなら、かれの場合その舞台はデモクラシーを題目にデザインされたフォーラムだったからだ。公開的プロセスとより成熟した精神がそこにあった。だがシャイフラ・ユスフの反抗が、実際には全霊を打ち込んだものでなかったのは、ネポティズム問題に対する叔父の乱れた思いに配慮したためのようだ。そうでなければ、現在のポジションである事務局長よりも上の地位に就いていても不思議はなかっただろう。


ネポティズムは言うまでもなく、逸脱した権力システムであり、オルバ体制がはるかに豊かなニュアンスと広範な破壊をそれに付与した。しかしそのネポティズムは、われわれの社会に古くから発展してきた伝統に基づくファミリー・システムとは本質的に異なっている。たとえネポティズムの中に分類されるとしても、それはプロポーショナルなネポティズム、責任の負えるネポティズムなのだ。
われわれがいま直面しているようなクライシスから十数年前にメキシコが立ち直ったときの鍵のひとつが、「個人主義的ライフスタイルを墓穴に埋める」ということであったのを忘れてはならない。展開されたドクトリンは「まずあなたの兄弟姉妹を助けよ。」だった。そのようにして、個人主義的な西洋文化に押しつぶされ、絶滅しかかっていた家族主義システムが再び密度を増したのだ。家族や親族間での助け合いが育って、力となっていった。われわれの伝統の中で、それはゴトン・ロヨンと呼ばれている。
クライシスに直面して個人主義精神が繁茂の度を増しているわが民族は、かれらとまったく違っている。ここではその結果、助け合いどころか、互いに相手を倒そうとし、一部地方では本当に殺し合いが行われている。オルバがわれわれの社会生活に振りまいた毒がもたらしている結果がそれなのだ。
ソース : 2002年5月20日付けコンパス
ライター: Adhie M Massardi  国民問題研究フォーラム、タンダラガ・コミュニティメンバー


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『スハルトの没落に学べ』

スハルトに導かれたオルバ時代(1967〜1998年)は、アジアでもっとも汚職に満ちたレジームのひとつに数えられた。汚職に対する強い非難がインドネシアを揺るがし、オルバ期の大勢の高官たちはいまも裁きの焦点の中にいる。スハルト自身もついには辞任した。かつてのインドネシア最強の人間にも鉾先は向けられる。統治者の座にあったとき、汚職を阻止しようという意志を全く持たず、またその能力さえなかったということで。

ところがオルバ時代の汚職の隆盛は、BJハビビ時代(1998〜1999年)やアブドゥラフマン・ワヒド政権期(1999〜2001年)に比較すれば、ものの数ではなかったようだ。ハビビやワヒドの時代における汚職は、法曹家ハミド・アワルディン博士に言わせれば「ずっと気狂いじみている」状況だそうだ。
「スハルト時代の汚職は上層部で盛んだったが下層部では、もちろん無かったわけではないにせよ、かれらは極端な貪欲さを示さなかった。生活がぎりぎりであったにせよ、清潔に生きようとする役人もたくさんいた。汚職行為は人間的尊厳を下落させ、貴族的な価値を失わせるものだ、と大勢の公職者は見ていた。」とハミド博士は語る。
匿名を希望する大手実業家たちも博士と同意見だ。大規模工業セクターで活動している実業家のひとりは、スハルト後の政権下で汚職は激しく荒れ狂った、と言う。「スハルト時代は、普通は局長、市長、県令などにチップを出しておけば十分だった。ところが今では、図々しいやつは『自分の分け前はどうなるんだ?』と尋ねて来る。タイプ係りや事務をやってる平職員までもがだ。こんな状況じゃ、ほんとうに頭がおかしくなるね。」

「スハルト没落後、汚職に対する社会の憎しみはきわめて大きいという価値ある教訓を、行政各部門の長が汲み取らなかったのは実に不思議なことだ。」とハミド博士はその不可解さを述べる。汚職の繁茂が政府権力の柱をあっという間に崩壊させたという事実を役人たちが認識していない、ということなのだ。スハルト政権の没落は、権力中枢にいた人々をその座から追いやったばかりか、それまでの評判や評価までぼろぼろにしてしまったというのに。
「老人で病気がちのスハルトが嘲笑され、そして裁かれている、という事実から、人々は教訓を汲み取らなければならない。スハルトばかりか、他の諸国でも国家元首や政府首班が同じ目にあっているというのに、その教えの核心を学び取ろうとしないのは実におかしい。」とのハミド博士の談。
66年組み著名人のひとり、ソフィアン・ワナンディは「メガワティ政府はもっと正しく行おうと望んでいる。」と表明する。善人で、正直で、世に芳名を持つ人々で政府が構成されるべきだと悟っている印象を受ける。だから正直な人たちが選ばれて閣僚に入っている。たとえば、ユスフ・カラ、ドロジャトン、アブドゥル・マリク・ファジャルたちだ。
しかしながら、とソフィアンは加える。「正直な大臣を選ぶだけでは不十分だ。性格高貴な大臣であっても、すべての部下を自分のようにできるかどうか分からない。理想的には、正直であると同時に『法への服従』についてコミットし、厳格な規律を貫く大臣を選ぶ必要がある。」

ハミド博士やソフィアンの表明を反映させるために、メガワティ大統領はクリーンな行政を作り出すのに決して中途半端な姿勢を取るべきではない。法務省、最高検察庁、国家警察などの中枢に、正直で世評の芳しい人材を大統領が選ばなければならない。故バハルディン・ロパ(1935〜2001年)のような正直さに定評ある最高検察庁長官を探し出そうという意欲が欠けているように見える。イスマイル・サレほどの法相を、フゲンのレベルの国家警察長官を起用しようとの熱意が欠けている。法治の確立努力に戦略的ポジションを占めるそれらの人材は、何十年も前から汚職を厭う正直さと自尊心を抱いている、という芳名のある人でなければならないのだ。
クリーンな人材は、誰に対しても『恩義』のからむ関係を持っていないために、自由な措置を取ることが可能だ。服従しない部下の処罰も容易におこなうことができ、罰を受ける側も正直さに高い評判を持つ人が行うことであるために抗議もしづらい。


法曹分野の戦略的ポジションに適切な人材を選ぶこと以外に、わが民族にとってもうひとつ重大な課題は、『法の支配の確立』の叫び声がただの叫びでしかないことだ。せいぜい政治的修辞あるいは政治的消費でしかない。現場での実践行動の中で、法治の確立コミットメント実現に向かう命令はまだなにも聞こえてこない。
メガワティが民衆の心をつかもうと望むなら、いまこそ法治の確立努力に向けて指揮官となるのに適切なモメンタムなのだ。何兆ルピアにものぼる民衆の金を盗んだ疑いを引きずっている事業家たちを懲らしめるにふさわしいときなのだ。借金を返そうともせず、贅沢三昧の暮らしを送るためにその資金を外国に隠しているコングロマリットたちを追及し、掬い取るときなのだ。民衆の金を横領した公職高官や元高官らを、メガワティ政府が取締まるときなのだ。
対象者の区別選り好みをしない取締りは政府に将来の信用と強い合法性を付与することだろう。

インドネシアの法律経済分野の偉人、故チャールス・ヒマワン博士が生前いつも述べていた「法の確立への強力な実践努力が、政府権力にとって権威の保有にきわめて効果的なマルチプライ・エフェクトを与える。」との言葉は間違っていない。
博士によれば、法の優位は民衆が政府に向ける信頼を太らせ、社会の政府権力に対する服従を築くのに成功するばかりか、国際的にも効果をあげる。金のある国はインドネシアを投資の天国と見なすだろう。法が本来の意味での指揮官であることがインドネシアで明らかであれば、資本を持つ者は競って投資をしにインドネシアへ来るだろう。

当初のトピックに戻ろう。メガワティ・レジームは民衆に対して更なる信頼を確立するために、いますぐにもこのモメンタムをとらえてほしい。その信頼の基盤をなす要素のひとつは『法の支配の確立』だ。2004年まであと一年。その短い時間を精一杯、法の優位の基礎固めに利用することこそ、真の理想の姿なのだ。
ソース : 2002年6月10日付けコンパス
ライター: Abun Sanda


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『ンバ・トゥトゥッ現象』

政治地図は突然変わった。国民の目にもっとも人気のある正副大統領カップルについて諸機関が行った世論調査も完璧なものでなくなった。軍を背景にした人物をアミン・ライスが望むような、副大統領の規準は訂正されなければならなくなった。要するにすべての政党と大統領候補者は、自身の政治戦略を再定義する必要が出てきたのだ。ンバ・トゥトゥッひとりのせいで。

カルヤプドゥリバンサ党によるンバ・トゥトゥッ擁立は、国中の政治構造を動揺させた。これまで大統領候補に数えられるのにふさわしいと思われた多数の有力者は、ンバ・トゥトゥッの登場で色あせた。そのような現実は、好むと好まざるとに関わらず、スハルト家の権威がインドネシア民族の呼吸と一体になっているありさまを反映している。ンバ・トゥトゥッは既存の政治勢力を磁石のように引き寄せて、言うなればオルデバル陣営を形成する。
一方メガワティ・スカルノプトリ影響下の政治勢力は、固まってオルデラマ陣営の傘の下に入る。もうひとつのグループは、アミン・ライスを中心とするレフォルマシ陣営だ。今後の政治争いを支配するのは、それら三陣営に向かう各政治勢力の結晶化なのである。


レフォルマシ陣営はいずこへ?
ンバ・トゥトゥッが大統領候補者として登場したのは、はたしてユニークな現象なのだろうか?そのようには見えない。似たような出来事、つまりかつての権力者の娘が、父の握っていた権力を取り戻そうとこころみることは、アジアのほかの地域でも起こっている。あえてユニークな面を見出そうとするのであれば、やはり女性である現権力者メガワティからその権力を取り戻そうとしているということだろう。

スリランカ大統領チャンドリカ・バンダラナイケ・クマラトゥンガのように、ンバ・トゥトゥッは国民の中にあるSARS( Sindrom Amat Rindu Soeharto = 重度スハルトノスタルジー症候群)をたくみにとらえた。かの女は敵を倒すために、民衆の持つその感情を武器に使う。インディラ・ガンディ、ベナジル・ブット、グロリア・アロヨ=マクパガル、メガワティ・スカルノプトリたちも、能書きは違っていたものの、それを使ったのだ。
しかし権力の歴史はほとんど必ず暗黒の事件簿を刻む。たとえばインディラ・ガンディは当初国民の歓呼に迎えられたが、最期は自分の警護員に射殺された。ベナジル・ブットは夫の汚職事件に連座し、大統領の椅子から転落して監獄に入ることになった。グロリア・アロヨ=マクパガルは、マラカニャン宮殿で汚職が行われていると疑われ、民衆のデモを受け始めている。わがインドネシアでは、党のメイン支持層だった小市民に対する配慮が失われているとしてメガワティが盛んに非難を浴びている。廉価な米、低い教育費用、安い保健所の医療費、雇用機会創出といった具体的な政策を行って民衆の心をつかむことに失敗したと見られているのだ。

メガワティ政府がミクロ経済を短期間に向上させる能力に欠けている現実は言うまでもなく、政敵に爆薬を進呈しているようなものだ。しかもその問題を取り上げるのがンバ・トゥトゥッなら、爆発力は格段のものとなる。メガワティと対照的に、パ・ハルトの象徴たるンバ・トゥトゥッは、オルデバルの旗指物である廉価な米、低い教育費用、安全感などについて語るのがもっともふさわしい人物だと見なされる。
ンバ・トゥトゥッはオルデバル陣営復活の新たなシンボルとなる。ウィラントやスシロ・バンバン・ユドヨノら政党周辺にいる多くの元将軍たちは、いま迷いの真っ只中にいるとわたしは確信している。かれらは『カルヤ』党の抱擁の中に戻るべきかどうかを思案しているのだ。
これはつまり、状況が何であろうと、パ・ハルトは鼓動を続ける権力センターであり続けているということだ。大将軍で三十年間権力の座にあった者として、それを認知するかどうかは別にして、スハルト家の神話はわれわれの呼吸と一体になっている。ブンカルノ家の神話とそっくり同じなのだ。かれらはそれぞれ2億2千万の民の中に忠実な支持者を抱えている。
いまや両家の人格化を、メガワティとンバ・トゥトゥッのふたりが担おうとしている。このような議論は結局のところ、メガワティがレフォルマシ派を代表する者という区分にもはや納められないという理解をわれわれにもたらすことになる。メガワティは、オルデバル神話のンバ・トゥトゥッと対決するべきオルデラマ神話の代表者なのだ。そのような見方が受け入れられるものであるなら、2004年総選挙はオルデラマ陣営とオルデバル陣営の争いでしかなくなる。ならばレフォルマシ陣営はどこへ行ったのか?

レフォルマシ陣営は沈没だ。モフタル・パボッティンギは以前から「レフォルマシは流産した」と語っている。だから再起してその両陣営と闘うために、レフォルマシ派は理想よりももっと小さな姿に変わらなければならない。つまり諸政党、ムハマディヤ、ナフダトウルウラマなど全レフォルマシ勢力間の共通の理想を注入するために、自分のエゴをしぼませなければならないのだ。
インフラや資金の充実したオルデラマやオルデバルの両勢力と対決するために、KAHMI(イスラム学生会卒業生会)、HMI(イスラム学生会)、BEM(学生執行部)等々は一体とならなければならない。レフォルマシ勢力が力を持てるのは、その方法に限られる。そしてこの陣営を代表できるシンボルがアミン・ライスなのだ。


陰陽カップル
ンバ・トゥトゥッの大統領候補出馬によって、メガワティやアミン・ライスたち文民候補者が副大統領に軍を背景とした人物を起用しようとするのは大間違いとなる。パ・ハルトへの感情的コンプレックス、恩返し、思考方法の中にある並行現象などのせいで、元将軍たちはンバ・トゥトゥッに傾くだろう。それどころか、かれらが受けた共通のドクトリンや刷り込み、教育カリキュラムなどが、かれらのビジョンをまとめる細かい網目となる。
こうして、元将軍と組んだンバ・トゥトゥッの政治資源は強力なものとなるのである。たとえて言えば、ンバ・トゥトゥッとウィラントというカップルは、2004年総選挙を闘い抜く強力な組み合わせになるのだ。そんなカップルに対抗できるのは、仮想的に見るなら、メガワティとユスフ・カラのカップルしかない。ジャワ島外での得票上乗せへの努力は、メガワティ陣営が行うべき合理的な選択だ。ならばアミン・ライスは?軍関係者の相棒を選ぶというコンセプトはやめた方がよい。女性や若年投票者に重点を置くよう、副大統領候補に女性を求めるのもよいだろう。ジャワ島外の票をマルワ・ダウドで割るということも計算に入れてよい。

大統領の座をめざす競争の中に興味深い現象を見出すことができる。故意かどうかわからないのだが、正副大統領の組み合わせは陰陽のバランスに彩られている。「女を倒すことができるのは女だ」と女性たちが言うのは多分ほんとうだろう。もしほんとうにそうであるなら、2004年総選挙は興味深い政治争いであると同時にデモクラシーのショーとなるにちがいない。
ソース : 2003年12月6日付けコンパス
ライター: Sukardi Rinakit PhD  スゲン・スルヤディ・シンディケーティッド専務理事


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『オルバを悪者にするな』

この論説のタイトルを見た瞬間、筆者はオルバ擁護派だという非難が現れるにちがいない。わたしはオルバ政府の財政下に生まれ、成長し、国立の学校に通った。わたしはオルバ政権が独裁的であったことを知っている。政党は去勢され、報道人や労働者など多くの職業組織はコントロールを容易にするために単一化された。言論や意見表明の自由は制限された。腐敗もオルバのものだ。コルプシはいたるところで沸騰した。民間も倣って腐敗した。なぜなら、腐敗していなければ開発プロジェクトの分け前にあずかれないからだ。
問題は、オルバ崩壊後8年が経過したのにどうして状況が改善されないのか、ということだ。トランスペアレンシーインターナショナルがインドネシアをいまだに最下層に位置付けているにもかかわらず、コルプシ撲滅は進展していると見られている。アチェは光明を見出したようだが、パプアは混迷の度を増している。経済状況については、さまざまなマクロ経済指標が改善されたと言われているが、国民は経済状況がますます悪化していると感じている。それは誰が悪いのか?一般に聞こえてくる答えは、オルバもしくはスハルト、あるいはスハルトやオルバに関連することがらのせい。崩壊した時、オルバは劣悪な経済システムと状況を遺したのだ。
政治分野において政党は完璧な機能を果たすのにまだ不慣れでいる。政党が機能を果たしているのは政治的役職のリクルートと選別だけであり、政治教育や政治利害の統合、国民利害の明示といった機能はあまり見られない。オルバの遺産はそれほど根深いために、オルバは独特のキャラクターを持ったインドネシア人を創出した。半ば冗談交じりに言われるホモ・オルバイカスがそれだ。その名称は、共産政権下のソビエト連邦が生んだホモ・ソヴィエティカスに倣ってジャラルディン・ラフマッが考案したものだが、ホモ・ソヴィエティカスの特徴は、偽善的(言行不一致)、依存的(ファシリティに頼り、責任を回避する)、優秀な成果を出す者への嫉妬、集団で嘘をつく、といったもので、インドネシア人のキャラクターもホモ・ソヴィエティカスに酷似しているから、この民族があまり進歩しないのも当然だ。

レフォルマシ8年
われわれが直面しているさまざまな悪状況をいつまでもオルバのせいにして良いものだろうか?オルバレジームは8年前に崩壊したのではなかったろうか?レフォルマシは8年たった。いまだに片付けることのできないあらゆるネガティブなことがらに関係するオルバとその遺産を見直すのに十分な時期ではあるまいか。2000年と2002年にスハルトの健康状態を調べたふたつの独立医師団は本当のことを語らなかった。クロニーたちがいまだに蠢動しているのなら、ポストオルバの新リーダーたちがそれを統制できるはずだ。
オルバを責めることをやめるのは、オルバの諸悪を忘れさせること。オルバを責めることをやめるのは、ネガティブなことがらに対してそれを解決できない根源を自分自身の中に見つめさせること。オルバとは過去であり、われわれがネガティブなことがらに直面しているのは今現在なのだ。過去をどれだけ責めたところでさまざまな問題を解決することは決してできないだろう。わが民族が過去にどれほどひどかったにせよ、直面している問題は今現在それに対決することによってしか解決できない。過去にさかのぼることはできないのだ。
政党を例に取ってみよう。いま政党が単一勢力のヘゲモニーを形成していないことをオルバのせいだと言えるのだろうか?そして政党は最大限に機能を発揮する力をどうしていまだに持てないでいるのだろうか?特に政治教育や政治利害の統合といったことに対して。多くの政党がレフォルマシ期に結成されたというのに、政党はどうして国民の利益よりも自分の利益を優先しているといまだに見られているのだろうか?それらはオルバのせいというよりも、今の政治家の能力のなさに起因しているのだ。
われわれが直面しているあらゆることがらに対して、自分自身を責める勇気を持つのはいまだ。「これはすべてオルバ時代の遺産の結果だ。」などというレトリックを口に出すのを、リーダーたちにはもうやめてもらいたい。そのようなレトリックは適性に欠けるリーダーを正当化するだけでなく、国民から成熟を奪って夢の中に居続けさせるために危険でもある。直面する諸問題の解決のために自分の内面を覗こうとせず、外的要因ばかりを責めるように国民を仕向けるゆえに。
ソース : 2006年5月18日付けコンパス
ライター: Muhammad Qodari インドネシアサーベイサークル副専務理事


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『デモクラシーそれともアナーキー』

スハルト大統領統率下のオルバ時代が終焉したことでさまざまな根本的変化がもたらされた。いきなり、しかも徹底的に進行した民主化プロセスは国家生活国民生活のもっとも基本的な節々を襲った。つまり1945年憲法は4回も改定されたのである。先頭を切ったのはその凄まじさで負けずとも劣らないものだった。自由に酔い痴れもっと貪欲になっている国会議員の支持を得てBJハビビ大統領は独自のデモクラシーを行った。たとえて言えば、オルバ期の国民は厚さ10センチの何枚もの鉄板に抑圧されていた数千万の強力なバネだったとしよう。秩序だった整然たる自由を与えるために鉄板を一枚だけ取り除けば、すべてのバネつまり全国民の自由は10センチ分のスペースが向上する。その自由が責任を持って享受されているかどうかをわれわれは監視することができる。もしすべてが秩序立って進行しているなら、鉄板をもう一枚取り除く。そのようにして、妥当な自由空間が実現するところまで鉄板の除去を続ければよい。ところがBJハビビ内閣と国会はそのようにしなかった。全部の鉄板を一度に取り除いたのだ。何百万ものバネは方向も定めずに飛び跳ねた。生まれたのはデモクラシーでなく、アナーキーとカオスだった。それは大勢のひとたちが感じている。

自己宣伝
根本的なもうひとつの変化は直接選挙だ。大統領から県令までが国民に直接選ばれる。だから県令も市長も、州知事と同一の合法性を持っている。それどころかかれらは住民が自分を選んだことで強力なパワーを得たと感じている。だから行政上の自分の上位者の言うことを軽視し、服従しようとしない傾向を持っている。われわれの自由がデモクラシーにならずにアナーキーになっているのはそのためだ。財政面で地方自治がその状況に輪をかけたため、国家予算は適正な企画能力の伴われていない政策の中に散り散りばらばらに使われ、その監視にさえ大混乱を生じた。
直接選挙は、いまだかつて見たこともないような見ものをわれわれに提供した。本質的に控えめなインドネシア人が高慢な姿勢を擬装し、対抗馬より自分がどれほど素晴らしいかという自己宣伝を本質とするキャンペーンを行わなければならなくなった。自分のものすごさを示して自己宣伝するための費用は小さくない。全財産が使われるがそれだけでは足りないので借金までする。だからもし当選すれば借金の返済が優先されることになる。権力を悪用せず、あるいは資金提供者に対して権力を抵当に入れないで、借金返済のために可能な限りたくさんの金をいったいどのようにして得ることができるだろうか?

スカルノ〜スハルト
スカルノとスハルトはどうだっただろう。かれらはそんな風ではなかった。ブンカルノと友人たちは自分自身のことなど少しも考えないで国民を外国人支配と奴隷扱いから解放した。かれは自分が国民を統率するのがどれほどものすごいことかを言葉で宣伝することなしにそれを行った。かれは直接国民を統率したので、ブンカルノは大統領になる前から圧倒的に比類なきリーダーとして知られていた。知識、ビジョン、思考概念、そしてこの民族のために身命を賭す勇気などを明白に持っている点でかれに比肩する人間はいなかった。
パハルトも同じだ。G30Sのあとで大統領のブンカルノが失脚したことをわれわれは記憶している。当時わが民族は暴動、騒乱、紛糾、アナーキー、ジェノサイド、カオスに見舞われた。そのとき、その混乱を収拾するために全身全霊をなげうった一群のリーダーがいた。多くの名前が知られているが、中でも目立ったのはナスティオン将軍、スハルト将軍、スルタン・ハムンクブウォノ9世、アダム・マリクなどだ。第二代大統領としてポストスカルノ時代のインドネシア民族を率いるのはAHナスティオン将軍だと世界中が思った。ところがナスティオン将軍は大統領の座を辞退し、パハルトに大統領の座を推薦した。こうしてパハルトが、最終的に国民協議会がそれを確定させたのは別として、総選挙なしにインドネシア共和国第二代大統領に就任した。パハルトは自己宣伝を一度も行わなかったし、ましてや民族を統率するのにいちばん有能な人間だという売り込みもなされなかった。パハルトはナスティオンがブンカルノを後継して大統領になることを確信しつつ治安と秩序の回復にあたっていたのだ。当時、リーダーたちは争奪戦を演じるどころか、競って大統領にならないように努めたのである。

違い
2004年以来、状況は変わった。大統領候補者は、それまできわめて擬装っぽいと見られていた方法で、競って自分が大統領になろうと努めるようになった。業績がまだないためにイメージ作りが選挙戦の戦略となった。どうしてそれほどまでに大統領・州知事・市長・県令・国会議員になりたいとシャカリキになるのかと尋ねれば身命を民族に捧げ国民に奉仕したいためだという答えが返ってくるが、それは本当なのだろうか?
インドネシア特有の文化や価値観に基づく十分練り上げられた方法が捨て去られ、突然アメリカで行われているような国家生活国民生活のやりかたが当たり前になった。こんなことがまだ続けられるのだろうか?
ソース : 2006年10月31日付けコンパス紙
ライター: Kwik Kian Gie シニア経済学者