[ 食文化 ]


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『外国の食べ物と競えるのか』

最近は、モールやプラザの食べ物を売っている場所へ昼食や夕食の時間帯に行ってみると、実にユニークな光景に出くわす。モダンなショッピングセンターの中にインドネシアの食べ物カウンターがいろいろと出現しており、来訪者にかなり高い値段をオファーしている。たとえば普通のワルンだと、グドゥッ・コンプリートは一皿2千5百ルピアで手に入るが、プラザでは税サービス料込みで2万ルピアにもなる。
面白いのは、プラザへ来た客がワルンとも呼べるそのインドネシア料理カウンターの驚くほどの高い値段に少しもひるまないことだ。そこはいつも客であふれており、昼食時や夕食時には、その超高価な料理を食べるために客は並んで待つことさえも辞さない。

そんなインドネシア料理の店には、インドネシアの昔の情景がディスプレーされている。扇風機、ベル、楽器、ラジオ、看板、18世紀のジャカルタの写真。流れる音楽も、VOC時代から独立初期のもの。時には1960〜1970年代の音楽も流されるが、要はすべて「古きよき時代」である。この雰囲気と料理の味のミックスが、どうやらプラザにあるワルンに客を呼び込んでいるようだ。
そんな現象は、インドネシア料理の更なる発展の指標と見るべきなのだろうか?インドネシア料理が自国のご主人様の座に着き、今後更に海外にまで展開していくはじまりの兆しなのだろうか?プラザやモールを舞台とした、シンプルなインドネシア料理革命が始まっているのだろうか?
過去数十年間に、フランチャイズ制外国料理のレストランがたいていの大都市にオープンした。マクドナルド、ケンタッキー、ホカホカベントー、ダンキンドーナツなどの店は、インドネシア消費者の支持を常に得てきている。今こそ、料理の関心がインドネシアのものに向けられるときではないのだろうか?


来店客で賑わっているインドネシア料理レストランのひとつに、ジャカルタのプラザスナヤンにあるワルン・ポジョッがある。この店で食べるとき、客は特別な印象を受ける。インドネシア料理、特にジョクジャ料理を味わえるとともに、客は「古きよき時代」の雰囲気も楽しむことができるのだ。
店内に入ると、「古きよき時代」の印象が色濃く漂う。壁のいたるところには、1940年代の新聞の切り抜きや, タバコTjap Djamboe Bol、ビールAmstel Bier、オランダ時代にその名を轟かせたタバコ製品Tembaco Shag Tjap Orang Doeaなどのポスターが掲げられている。
店内に飾られたり使われたりしているアンチークな家具も、古い時代の印象を一緒に演出している。古いジャー、やかん、タイプライター、電話機、電灯、机。店内の家具調度はみなアンチークなのだ。
ユニークさを増すために、店の名「ワルン」に即した演出もぬかりない。床はあえてタイルを敷かずにコンクリートを塗っただけにしてある。おまけに表には長椅子を置いて、ワルンの壁に沿ったエンペランでも食事が取れるようにしてある。そのエンペランに吊り下がっているスチールかごには生卵が置かれている。
このワルンで売られている料理の値段はけっこう高い。ナシ・グドゥッはRp.18,000-、ナシ・プチュレレはRp.16,500-(いずれも税サービス料加算前)。テンペ・バチュムを食べたければ、3千ルピアが財布から出て行くことになる。

このプラザにあるワルンの評判が維持できるなら、インドネシア料理のフランチャイズ展開に新風を呼び起こすかもしれない。「美味は食べ物からだけで得られるものではなく、雰囲気もそれに劣らず重要だ。」とジャカルタに住んで長いジャワ人の顧客は語る。似たような雰囲気は、ポンドッインダ・モールやモール・チプトラに出店しているインドネシア料理のレストランでも味わうことができる。

ワルン・ポジョッの方針とは違い、バソ・カラピタンは赤黄緑などポストモダン的色使いで店内を装い、また廉価戦略を方針に掲げている。店内の大きなポスターに記されているのは; Our business principles : Good Taste, Good Place, Good Service, at Low Price 。
だから、その店へ行けば1万ルピアで満腹になれる。さまざまなバソが、一番高いもので一皿5千ルピア。しっかりお腹を満たしてやりたいなら、ナシゴレン・ハンバーガーステーキ8千ルピア、ナシゴレン・グプッ・パラヒヤガンで8千5百ルピア。
タルマヌガラ大学第5スメスターのミミとヘレンにとって、バソ一杯ではとても満腹にほど遠い。それでもふたりは、バソ・カラピタンのサービスと雰囲気に十分満足している。
よくマクドナルドで食べている、と言うヘレンは、「雰囲気を変えるのも計算のうちよ。」と話す。インドネシア料理レストランにやって来る客の数は、無論マクドナルドのような外国系レストランの比ではないが、その数を見ているとインドネシア料理ビジネスの成長の様子を示してくれているようだ。

アジア・マーケティング専門家ヘルマワン・カルタジャヤも、インドネシア料理レストランビジネスの将来性に大きいチャンスを感じている。ヘルマワンによれば、その傾向はジョン・ネイスビットが語っているグローバル・パラドックス、つまりユニバーサリゼーションとフォーティフィケーションの存在の結果だとのこと。
インドネシアのフランチャイズ制で問題になるのは標準化だ。一軒のときはおいしいと感じるが、そのうちに味が標準でなくなってくる。マクドナルドは別だ。マクドナルドは標準を作るために、シカゴのオークスブルックスにハンバーガー大学まで設立した。そこでは、品質の標準化をどのように行うか、ということが教えられている。
この大学ではレストラン・マネージャーたちが、ハンバーガーオロジーの教授たちから教育を受けている。だからかれら自身も誇りを持って「世界最大のフランチャイズ」と自称しているのである。

「フランチャイズ成功の鍵は「育成」にある。そこに関心を向けなければ、フランチャイズは没落する。フランチャイズ・ビジネスでは、数百の店を持っていようと、ひとつの店が悪イメージを与えれば、他のすべての店に悪影響を与えるのだから。」ヘルマワンはそう述べている。
ソース : 2000年9月29日付けコンパス


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『スムール・ブタウィ、ジェンコル、ポストコロニアル研究』

おいしいオックステール・スープを探すとき、人はたいてい中央ジャカルタ市ラパガン・バンテン通りにあるホテル・ボロブドゥルの名を口にする。ホテル・インドネシアのブブル・アヤムはたいそう有名になったため、夜半を過ぎても友人や恋人と一緒に時間を過ごしたい人たちにとって、夜の涼しさですいたお腹を満たす場所にされている。

「ホテル・ボロブドゥルのオックステール・スープのレシピを作ったのはわたしのおじ、ワリス・アトモディウィルヨです。記憶違いでなければ1976年、あのホテルがオープンして間もないころだったと思うよ。」南ジャカルタ市クバヨラン・バルのザ・ダルマワンサでスーシェフを勤めるバンバン・ヘンドラッノ49歳はそう語る。
バンバンがかれのおじと一緒にホテル・ボロブドゥルで1995年まで働いた経歴を物語るとき、かれの表情や語り口は誇りで満たされる。バンバンはその後リージェントに移り、そして1997年にザ・ダルマワンサに替わった。
「ここのオックステール・スープのレシピを作ったのはわたし。そのスープと16種のインドネシア料理メニューは、ここのホテルレストランのお薦めです。特にスープは外国人客の嗜好を考えて、あまりスパイシーにならないよう、ナツメッグとクローブの分量を減らしてます。」と語るバンバン。

スーシェフのヨハネス・フィルマンも料理人としての職業への誇りを示す。スーシェフは、レストラン・マネージャーとほぼ同等の責任を負っている。「コックという職業を誇りにしてますよ。だって、だれでも料理ができるわけじゃないから。外国でコックと言えば誇るべき職業ですが、インドネシアではまだよく理解されていませんね。わたしたちコックはただの調理人としてしか見られていないんですよ。」ジャカルタのグラン・メリア・ホテル内のカフェ・グラン・メリアを任されているまだ三十代の独身コックはそう言う。
ヨハネスの目は、コックと調理人の間の大きな開きを見る。コックは知識と技能を持ち、そのために想像力を活かすことができるが、調理人は料理することしか知らず、適応を迫られると困難を感じる。
あるときベジタリアン・パスタを所望する客が来たことがある。調理人だったらその注文に応じるのにじたばたしたかも知れないが、ヨハネスは知識と技能を使って味を調えることができた。「自分なりにアレンジした味付けでベジタリアン・パスタを作ったら、お客さんは満足してくれました。ある日、そのお客が突然またやってきて、前にわたしが作ったパスタをまた注文してくれましたよ。」


シェフの誇りはお客を満足させたときにある。「反対に、お客から苦情をもらうとがっくりしますね。」とヨハネス。
客の注文に忙しく応じているのが,シェフにとっての幸福だ。だって、かれの料理は客に受け入れられているのだから。調理すること自体が生きがいを呼び起こす。「料理していないと苦痛だよ。わたしらの仕事はかなり動き回るから、レストランが空いていると耐えられませんね。」
たくさん動き、暑い台所で働き、労働時間は長く、仕事は裏方。子供たちが憧れるような輝かしい職業にはとても見えない。だから、子供たちが将来の夢を語るとき、めったに口にしないのも無理は無い。ところがこの職業は面白いし、職業選択の魅力のひとつである外国での仕事のチャンスも開かれている。そしてこの世界にも、コック、デミシェフ、シェフ・ド・パルティ、スーシェフ、エグゼキュティブシェフといった階級がある。

ジャカルタのシェラトン・メディア・ホテルのエグゼキュティブシェフであるボビー・レナルディはもう14年間料理の世界で研鑽を積んでいるが、スイスのホテルで働いた経験を持っている。そこでは、毎回ボビーの料理を所望する夫婦の顧客ができた。スイス以外にも、シンガポールやオーストラリアで働いたこともあり、また何度もオーストラリアへ研修に行く機会を得ている。

230人の部下を使うジャカルタ・ヒルトン・インターナショナルのエグゼキュティブシェフ、ミシェル・キャミーにとって、それほど多くの人々に関わり、共に働くのはとても魅力的なことだ。
「退屈することがない。出会う人ごとに新しいことや、勿論楽しいことから問題に至るまで、実に多くのことを学ぶ。」と話すキャミ−にとって、230人の部下を統率し、時に3千食の料理を用意するのは大きなチャレンジに違いない。
かれの料理への傾倒を育んだのは母親だったが、はじめは台所で母の調理を見守る少年を、「男の子のいるところじゃない。」と追い出したものだそうだ。その傾倒が、フランス系のかれをして、朝7時から夜9時までの長時間労働をこなさせるためのエネルギーとなっている。

しかし、好きなだけでシェフの最高ポジションまで登りつめられるものではない。「苦境に陥ったとき試されるマネージメント能力が,良いシェフには必ずある。そのために良いシェフは、生物学、化学、数学、物理学を理解しなければならない。秀才である必要はないが、よく理解することが必要だ。」とボビ−は語る。


シェフたちにとって、夢はレシピを作り上げること。かれらはさまざまな料理を試したあと、お客の嗜好に合う味を求める。バンバンが誇るオックステール・スープのように、料理が新しいものである必要はないが、舌にしっくり合うレシピを編み出したいと思っている。
The American Prospect第13巻1号に掲載されたFood : My Dinner with Derridaの中でイレーヌ・シャワルターは、食べ物が時代と共にどのように発展してきたか、について触れている。近年、食べ物もアカデミックな世界の人々の興味を引くようになり、まじめな学問として学ばれ、深められている。食べ物についての研究は、女性研究やポストコロニアル研究と同じようにトレンディなのだ。なぜなら、食べ物はひとつの文化を物語るものなのだから。
食べ物は文化とそれが伴う儀式を研究し理解するのに最適な方法のひとつであり、食べ物のプリズムを通してわたしたちは文化のパノラマを理解することができる、とシャワルターはウイリアム大学のダラ・ゴールドスタインの言を引用して述べている。

わたしたちがジェンコルを料理するとき、きっとひとつの文化を学ぶことができるだろう。バンバンはブタウィに関する古い書物の中から見つけたスムール・ブタウィのレシピを、毎月定期的に会合を催しているジャカルタのシェフ組織「プロフェッショナル・カリナリ協会」に寄贈した。この会は、会員が寄贈したオリジナルの味を伝えるインドネシア伝統料理のレシピを四十も持っており、近々それらのレシピを一冊の本にして出版する計画だそうだ。
「そのスムール・ブタウィはジェンコルを使う。臭いを取るために、新鮮なジェンコルは三日間土中に埋め、そのあと二日間水に漬けるんだ。臭みが抜けること保証付き。しこしこして、知らない人は肉よりおいしいと言うよ。」バンバンはリージェント・ホテルで働いていたとき、この料理をブカ・プアサのメニューに使った。そして完売、売り切れとなった。

残念なのは、インドネシア料理の人類学的調査がいまだになされていないことだ。インドネシア固有料理の標準を目にしたいと夢にまで思っているザ・ダルマワンサのエグゼキュティブシェフ、クリス・ヤンセンはそのことをいたく嘆いている。
わたしたちはきっと、これほどたくさんの種族がどのようにしてインドネシアにいるのか、ということを、食べ物の種類、供し方そして食べ方などから知るようになるだろう。そしてもしも、インドネシアのさまざまな種族の食べ物をどのように受け入れることが相互にできるのかが理解されるなら、わたしたちが争い合う必要性などどこにもないことが分かるにちがいない。
ソース : 2002年3月10日付けコンパス


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『維持するのは顧客のためだけでなく』

古いレストランはその町のキャラクターの一要素たりうる。たとえばレストラン・トコ・ウン (Toko Oen) の名を口にするだけで、人はスマランの町を思い浮かべる。同じようにブラガ・プルマイ (Braga Permai) でバンドンを、サンランディ (Zangrandi) の名でスラバヤを人は思い出す。

しばらく前にアムステルダムで出会ったマルガレータ夫人65歳は、話し相手がジャカルタから来たことを知った途端レストラン・ラグサ (Ragusa) の名を口にした。
「50年代終わりにジャカルタに住んでいたころ、よくあそこへアイスクリームを食べに行ったわ。おいしくて、おまけに店内も快適だったし。」
そしてかの女はレストラン・オアシス (Oasis) のことを尋ねた。
「ともだちはすごく豪華なレストランだって言うのよ。どれほど豪華なの?料理の味はどうなの?」

ジャカルタのラデン・サレ (Raden Saleh) 通りにあるレストラン・オアシスの名は、外国人にとてもよく通っている。国賓に加えて、来客の9割方は外国人であり、中流の上の階層にいなければ、オアシスの食事とサービスに懐具合は追いつかない。
ロッテルダム生まれのミリオネアで芸術品の収集家だったF ブランデンブルグ・ファン・オルツェンデが1928年に建てた建物を使って1970年に開業したこのレストランには、スハルト元大統領やメガワティ副大統領は言うにおよばず、ビル・クリントンとヒラリー米国大統領夫妻、マハティ−ル・ムハマド、マレーシア首相をはじめ、大勢の国家指導者たちが訪れている。開業当初は外国料理だけだったこのレストランは、いまやメニューの三分の二はインドネシア固有の料理で占められており、来客は王侯の待遇を受ける。ゴングを鳴らしてにこやかに挨拶する男女各々ひとりの接客係に迎えられ、扉の前でクチャピとスリンの奏者がスンダ風音楽を奏でる中、客はテラスを通って待合室へと入っていく。
ブロンズ・パームツリー、シルバー・パームツリー、ゴールド・パームツリーなどの国際賞やタラム・クンチャナ、アディカルヤ・ウィサタなどの国内大賞を得たこのレストランは、客に歴史と雰囲気を供する、というコンセプトを持っている。建物やインテリアとして飾られているさまざまな絵画造形品から歴史は滲み出してくる。創り出される雰囲気は、客を昔の王侯貴族さながらに感じさせてくれる。
ライスタフェルは特別に十二人のウエイトレスが十二種の料理を順番に供してくれる。食事のあいだは、バタックの伝統衣装を身に着けた歌手によるバタック歌曲が耳を楽しませてくれる。それらのサービスに対して客はひとり23万ルピアを支払うことになるが、飲み物はそこに含まれていない。

多くの人の心の中に特別な座を占めたからといって、それら古いレストランは客が来るのをただじっと待っているわけではない。レストラン業界の過当競争に耐えるために、それらのレストランはたいていメニューの多様化とノスタルジックな雰囲気の維持への努力を迫られている。別の町へと事業を拡大する店さえあるのだ。


1930年、イタリア人ロベルト・サンランディがスラバヤのヨス・スダルソ (Yos Sudarso) 通りに開いたレストラン・サンランディは、その後アディ・タヌムリヤの手に渡り、いまやアディの息子ウイリー・タヌムリヤの経営下にジャカルタ、マラン、ジュンベル、バニュワンギ、バリクパパンと事業を拡大させている。
サンランディ・アイスクリームの原料として毎日2〜3百リッターの牛乳が仕入れられる。そのフレッシュな牛乳が品質維持の決め手だ。スラバヤの店は従業員が20人から35人に増やされ、1時間20リッターのアイスクリーム製造能力を持つ最新鋭ミキサーが4台備えられている。
レストランは毎週火曜日が定休日。日曜は客が多いので閉めるのはもったいないのだそうだ。

スマランのプムダ (Pemuda) 通りにあるトコ・ウンは、水曜から日曜までライブミュージックのあるレストランだ。水曜はカントリー、木曜はボーカルグループ、金曜は地元の歌手とオルガン、日曜の午前中はオールディ−ズで夜はボーカルグループに戻る。
このレストランは毎年六月、オランダのハーグで開かれるトントン・フェスティバルに欠かさず参加している。そして、レストラン・トコ・ウン三代目オーナーのイエニー・メガプトリは去る9月6日、そのせいでついにハーグ支店をオープンさせた。
トコ・ウンのお薦めアイスクリームメニューはトゥティ・フルティだ。「当店で一度トゥティ・フルティを食べたお客様は、もう他のアイスクリームを食べる気がしなくなるんです。ほかのアイスクリームもおいしいのにね。」ウエイトレスのスリはそう話す。
このレストランは37種のバラエティに富むアイスクリームを用意し、そしてまた「昔懐かしの」ソップ・アヤム、チャプチャイ、6種のサラダ、ナシゴレン・スペシャル、サテ・アヤム、更には牛、羊、鶏のステーキ、コルドン・ブル、カカプ・アラ・ムニエルなど11種のヨーロッパ料理もメニューに残している。そのほか、スパゲティ・ボロネーズ、チキンクリームスープ、チキンステーキレモンソースなどの新メニュー、カーステンゲルス、カテトン、スペクックラスなどの菓子類も好評だ。
調理法も64年前のオランダ時代から伝えられたまま。その事実が、トコ・ウンの料理人がどうして世襲されているのか、ということの理由を説明してくれる。この店の料理人は、ほとんどがかつての料理人たちの子供なのだ。

バンドンのブラガ・プルマイでも同じことが行われている。1960年からそのレストランに勤めているマネージャーのストリスノによれば、同店は単に食べ物のクオリティとノスタルジックな雰囲気の維持をはかっているだけではない、とのこと。従業員の維持も大切で、採用は古い従業員の推薦に基づいて行われる。この方法によって、世代から世代への料理技能伝承にさしたる困難は起こっていない。たとえば、二十代のヤニーがブラガ・プルマイで働いているのは、兄のワスミンがやはりそこで働いていたからだ。従業員およそ50人の半分以上が、かつてそこで働いていた人たちの二代目三代目なのだ。
このレストランには、ほかのレストランで滅多にお目にかかれないものがある。オランダ時代以来のレストランだから、ブラガ・プルマイの主なメニューはヨーロッパの味であり、そして菓子、アイスクリームからキャンディにいたるおやつ類にも事欠かない。キャッシャー近くに整然と置かれたガラスケースには、ボッケポーチェス、オンバイクック、フヘルド・スペキュラアスなどがびっしり。そこにはほかで見られない、バラエティに富んだチョコレートキャンディも並べられている。その中にサンキストオレンジの皮を使ったものがある。皮のひとかけをチョコでコーティングしたもので、砂糖をまぶしたのもあり、またルム・ボーネン・チョコキャンディもある。
ミュージシャンのハリ・ルスリ49歳は、そのオレンジ皮のキャンディに思い出を持っている。幼いころ、かれの父親がそのキャンディをよく買ってくれたそうだ。バンドン工大の学生だった70年代に、かれはよくそこに立ち寄って、若い音楽仲間たちと時を過ごした。「ときどきノスタルジーに浸りに、ワイフとそこへ行くよ。」とふたりの子供を造った奥方カニアを話題に出す。


現代化を進めた古いレストランもあるが、古い店も相変わらず維持している。ジャカルタのゴンダンディア・ラマ (Gondangdia Lama) 通りにある、依然として素朴なレストラン・トリオ (Trio) は料理人三人、副料理人二人、テーブル係り六人で毎日267種のメニューを供している。
1968年、ジャカルタ都庁はゴンダンディア・ラマ通り沿いのすべての建物を撤去する計画を立てた。そのためトリオのオーナー経営者エフェンディ・スマルトノは、そこから近い場所にもっとモダンなレストラン・パラマウント (Paramount) を作ることにした。
「ところが撤去は行われずじまい。だからレストラン・トリオはわたしが経営し、レストラン・パラマウントは弟にまかせた。」と語るエフェンディは、ソゴーをはじめとするモールへの出店の誘いを断っている。トリオとパラマウントのふたつのレストランは同じメニューだと言えるが、価格は同じでない。店内の快適さも異なっているのだから。

古いレストランの中でもっとも拡張に熱心なのは、たぶんジャカルタのレストラン.ラグサだろう。1976年、パスクアレ・ラグサ、ヴィンチェンコ・ラグサ、チチェロ・ラグサが始めたこの店は、その後20年の間にシアス夫人があちこちに店を出した。チチェロはヒオ・リアン・ニオと結婚したが、かの女がシアス夫人の夫ブントロ・クルニアワンの姉だったのだ。二年間休業したあとの6月、このレストランはジャカルタのドゥタ・メルリンにインドネシア、アジア、中国、ヨーロッパ料理や飲み物、アイスクリームなどのフルメニューで支店をオープンし、1976年以後はジャカルタの有名なショッピング中心地数箇所へ支店網を広げたが、後になって利益の出ないところは閉めた。いまは全ジャカルタに8店のみで、マーケティング専門家を擁して業績アップに努めている。
フェテラン (Veteran) 通りにある創業時以来の店のほかはすべて食事を供している。
「夫は最初の店を、元々のアイスクリームだけの店として維持したいんですよ。わたしは料理の技術があるから、使わないともったいなくて。だから同じ名前の店を違う場所に開いて料理も出してるんですのよ。」と打ち明けるシアス夫人。どうやらこのご夫妻は、フェテラン通りの店を昔ながらの姿で維持したいようだ。
「あの場所はわたしらの所有じゃなくて、まだ借りものなんですよ。」と語るオーナーは、もう何十年もの間レストランの前で商いをしているサテアヤム、ガドガド、ルジャッジュヒ、オタッコタッなどの商人たちとたつきを分け合っている。

レストラン・オアシスは別の場所に支店を開く考えを持っていない。「他の場所に同じクオリティの店を造るのは困難だ。」とジェネラルマネージャーのオム・ムハラム・エンディは言う。経営陣はかつて西洋料理レストランをいくつかの場所に開いたことがあるが、それらはオアシスの支店と言えないものだ。
「うまくいったのはひとつもなく、いまはもう全部閉めてしまった。」とのオムの談。

背伸びせずにやっていていまだに古い顧客をつかんでいるのは、ジャカルタのアート&キュリオ (Art & Curio)。スカブミのパランクダを故郷とするルミナと結婚したオランダ人JGヘルが1960年代終わりに開いたこのレストランは料理人ナルタに受け継がれた。いま76歳のナルタはルミナの妹スワルニ74歳の夫だ。スワルニは今でも自分でパサル・チキニへ仕入れに行き、支払いは現金で行っている。買い物は早朝で、正午には開店する。ほかの古いレストランとおなじく、アート&キュリオは12時〜15時、18時〜22時が営業時間。
「デモが多いと客が少ないので、早く店じまいをしてしまう。」とスワルニは嘆く。かつて外交官たちの食事処だったこのレストランだが、いまでもさまざまな階層の客がついている。18人の従業員でこのレストランは時代の流れを乗り切ろうとしている。
ソース : 2000年9月10日付けコンパス


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『ノスタルジーをメニューと店内に漂わせて』

ウイリアム・リドル教授のジャカルタでのお好み食事処は、有名ホテルの豪華レストランではなく、ゴンダンディア通りの鉄道線路にほど近い小さなレストランだ。米オハイオ州コロンバスにあるオハイオ州立大学の著名なインドネシアニストが1962年に政党と種族主義に関する調査を行うため初めてインドネシアを訪れて以来、レストラン・トリオはかれのごひいきとなった。


「故スジャッモコ博士があのレストランを教えてくれた。」ビルのニックネームで呼ばれるリドル教授は懐古する。「シンプルな店だが、料理はおいしい。アヤム・ゴレン・ムンテガがわたしのお気に入りだよ。」
当時有数のインテリで、インドネシアに関する調査を行っていた外国人学生の多くがつきまとっていたスジャッモコ博士の友人や政治家たちがそこで漏らす政治に関する会話に、ビルはよく聞き入っていたものだ。「そのレストランは今でも昔のままのように思える。店内も、料理の味も。」友人やファミリーと今でもよくそこを訪れるビルはそう述べている。
いくつかの点でビルは正しい。既に50年以上たつテーブルや椅子がいまだに使われている。もう変色した皿がいまだに受け皿として出てくる。それは1950年代にジャカルタのアメリカ大使館が競売を行った米軍放出品なのだ。電車の轟音もいまだにある。1987年の鉄道高架プロジェクトのおかげで、レストラン・トリオの面積が半減した今になっても。
1947年の開店以来、店内の壁の色が変わったのは青色から緑色へのただ一度だけ。いまだに同じ色で塗り替えられている。仕切り壁は、表の木製のものを除いて全部1975年に恒久的なものに変えられた。壁に貼ってあるメニューも昔の綴りのまま。
多少とも変わったという印象を与えるものは店の表の竹すだれ。それですらやっと三十年にしかならない、という。二十年前に扇風機が取り付けられたとはいえ、店内の空気は暑い。一番変わったのはレストラン・トリオの周辺で、ますますゴミゴミするようになり暑苦しい。

このレストランは1960年代以降、政府高官たちの食事処のひとつとなった。今のオーナー、エフェンディ・スマルトノ55歳は、かつての都知事たちがしばしば立ち寄ったことを覚えている。エフェンディは広東出身の料理人ラム・カイチウの息子であり、タン・キムポー、タン・ルン、ラム・カイチウの三人がこの中華料理専門店を開いたのだ。今の高官たちはこのレストランの料理を副官に買ってくるよう言い付けているそうだ。

他にも多くのオランダ人がノスタルジーを求めて訪れる。「来られない年には、クリスマスカードやニューイヤーカードを送ってくるよ。」とエフェンディ。たいていの常連客はトリオとの付き合いがもう四十年にもなる。ビル・リドルの親戚であるサロモは、「トリオへ行くといつも、その店で孫からお爺さんお婆さんあげて一家で食事している光景を目にする。」と語っている。


現代冒険映画によく描かれるタイムトンネルほどロマンチックでなくとも、あちこちの町にある古いレストランの木製の扉をくぐるのは、多くの人々にとって過去への扉を開くことを意味している。店内には幾千もの思い出が漂っている。
味こそが決め手であり、そのクオリティへの配慮を怠ってはならないとはいっても、それが思い出の中に包み込まれていることも稀ではない。38歳のリタも、ジャカルタのフェテラン通りにあるラグサ・エス・イタリアを再訪するチャンスをよく探す。
「おとうさんが懐かしくなると、いつもここへ来るんです。アイスクリームやクロケッを食べに、よくここへ連れてきてくれたんですよ。クロケッの味も昔から変わってないわ。」と話すリタは11歳のときに父親を失った。
昔のラグサ・アイスクリームの味を知らない人にとって、その店の味は現代的なものとは少し違っており、そして溶けるのも早い。「でも、わたしは他のよりおいしいと思うし、防腐剤が入っていないから健康にも良いみたい。」しかしリタがこの店をたいそう好むのは、かの女の持っている思い出のせいだ。
「わたしは昔のままのこの籐いすに座って、アイスクリームを注文する前にサテアヤムを食べるのが好きだし、流し楽士が奏でる昔の歌を聞くのも好き。」とリタは数年前からこの店に現れるようになった声のよいプガメンのパ・ヘリと、三十年前からレストランの表で商いをしているサテ屋のことを話す。
1932年に開店したこのレストランでリタはまた、昔と同じテーブル係りのサービスを受ける。「わたし、パ・サヒディンを三十年前から知ってるのよ。」と全身白ずくめで誠心誠意お客に仕えている67歳のテーブル係りについても触れる。


スラバヤでは1930年に開店したレストラン・サンランディが、子供や孫やその他の親族を連れてアイスクリームを食べに今でもやってくる常連の顧客でにぎわっている。
インディヤ・スプラプティ夫人47歳は「恋人時代に学校帰りによくここでアイスクリームを食べたものだわ。」と現ご主人、ブディ・ラハルジョ医師との若かりし日々を回顧し、「バンドンの大学に行っている子供が帰ってくると、サンランディへアイスクリームを買いに行くんですのよ。」とパジャジャラン大学生の長男オニ−のことをも物語る。インディヤ、ブディ夫妻は、「おいしくて安いから」と今でも往時を懐かしみながらアイスクリームを食べに行く。

そんな古いレストランで、感動するようなことが起こるのも稀ではない。年取った外国人観光客が大勢立ち寄るのもそうだが、ある日本人パイロットが、むかし勤務していたころよくアイスクリームを食べた懐かしいレストランを探してくれ、と息子に頼んだ。息子はジャカルタの友人にそれを探してくれ、と頼んだ。「結局、フェテラン通りにあるうちの店を探し当てて、そのパイロットは47年ぶりにここへ戻ってきたんです。とても感激したらしく、目がうるんでしまって・・・・・。」レストラン・ラグサのオーナー、ブントロ・クルニアワンとシアス・マワルニ夫人はそんなエピソードを物語る。


アイスクリームを売っている古いレストランは、たいてい似たようなキャラクターを持っているのだろう。スマランのプムダ通りで創業して64年たつレストラン・トコ・ウンでは、8メートルの高い天井に吊り下げられた二つの大型扇風機の風と一緒にノスタルジックな雰囲気が流れていく。
ジャカルタのフェテラン通りにあるイタリア・アイスクリーム・レストラン、ラグサの建物は、時の流れが風化をもたらしているが、スマランのレストラン・トコ・ウンはそれとは違い、ヨーロッパで19世紀にはやったユーゲンスティルの華麗な建築様式を今に伝えている。この店はノスタルジーに浸るのにかっこうの場所であり、スマラン名物とヨーロッパ料理のメニューに加えて37種のアイスクリームが売り物であるばかりか、スマランの町の歴史の一部になっている。

レストランの三代目オーナー、イエニー・メガプトリ夫人は古いお得意さんとの関係を維持するかたわら、新しい顧客をひきつけるためのセールスポイントのひとつとして、建物、店構え、そして店内のデコレーションを往時のまま保とうとしているようだ。
創業者ウン・チュンホッとその夫であるオランダ人高官の写真は、茶色に塗られた木の板を上張りにした白い壁に今も掲げられている。チークの椅子が周りを囲んでいる木製のテーブルは、既に百年以上の年期を誇っている。それらは一方の縁に沿って並べられ、対称の側には丈の低い籐のテーブルと椅子のセットが並べられている。ウン・チュンホッの娘で、イエニー・メガプトリの母であるシナルワティ・ウタマ夫人73歳は「昔、オランダ人の偉い人たちは、お茶を飲むのにその低いほうの椅子に好んで座り、大窓を通して外の往来を眺めながら、ルンピアやホランズ・ポフェルチェスを食べていたものよ。」と物語る。

パ・ウィウィッ50歳はその店で毎年、結婚記念日を家族と共に祝う。「恋人時代には、昔恋人だった今のわたしの妻と一緒に、よくあそこの席に座ったもんだ。」と窓際のテーブルを指差す。
「トゥティ・フルティやコルドン・ブル−を食べながらね。ここの味は独特だよ。今でも変わらない。ここへやって来るたびに、この店の昔の思い出を子供や家族や他の人によく話してやるんだ。」パ・ウィウィッは今年も結婚記念日のお祝いをトコ・ウンで行う予定にしている。この店が夫婦の歴史に関わっているため、ふたりには飽きるということがない。「店は昔から快適だし、思い出も一杯ある。料理の味も相変わらずで、変化していない。」

従業員はみんな「自分の家で働いているみたいだ。」と言い、コックも代々世襲されていく。そうしてかれらは常連客の名前をごひいきの料理と一緒に覚えてしまう。
従業員と店との家族的なつながりは、古いレストランでよく耳にする話だ。シアス・マワルニ夫人が話すように、レストラン・ラグサの従業員は何十年も勤めている人が多いし、中には代替わりするまでの半生をそこで送る人もいる。
「従業員は、雇い人でなく兄弟のように待遇します。でも、労働者として、そして人間としての権利や必要を満たしてあげることは忘れません。だから、パ・サヒディンやパ・モッ・ゼンのような人たちが、このレストランをまるで自分のもののように思ってくれるのはよく分かります。」と語るシアス夫人は、その店のおよそ五十人の従業員の中で勤続15年を超える人が何人もいる、と付け加える。


古いレストランのロマンチックな雰囲気は、大勢の中年や若者のカップルの再訪を促す。思い出を呼び起こす場所としてのみならず、倦怠感を癒す場所としても存在しているのだ。ヤニ−41歳と夫のディカ43歳がときどき二人だけで食事にやってくるのがその例だ。20年前、ふたりがジャカルタのチキニ地区にあるレストラン・アート&キュリオでよく一緒に夕食を取ったことをヤニ−はまだ覚えている。
「料理は舌にぴったり合うし、値段もお手ごろよ。ここのステーキは、肉の上に目玉焼きを丸くしたのが載っていて、アルミ皿で出てくる特徴的なものなの。」と語る。
1970年代、このレストランの客は野天の庭に置かれたテーブルで食事ができた。テーブルの上には、ろうそくや小さいランプのほの暗い灯りと、小さい花瓶に挿された一輪のばらが置かれていた。「ほとんど完璧なキャンドルライト・ディナー。ときどき電車の轟音付きだったわね。」チキニの鉄道線路からあまり遠くないレストランの昔をかの女は述懐する。
レストラン部分とは別に、その建物のもう一方の端にはアンチークや絵画の商品が飾られていた。残念なのはあの雰囲気がもう褪せてしまったこと。ほの暗いランプや従業員の制服はまだ同じでも、建物のテラスと庭は竹壁と石膏ボードで隔てられてしまった。四角いテーブルと四つの椅子は、丸テーブルと5〜6脚の椅子に変わっている。

同じことがバンドンのブラガ・プルマイでも起こった。1923年に開店したオランダ時代のレストランのメインダイニングは、二階が作られたために高い天井を特徴とするオランダ建築の印象が失われている。そびえるドア枠もなくなり、置かれている家具もモダンなものだ。二千平米の面積を持つこのレストランの内部構造は1963年にドラスチックに変えられた。その後たいした変化は起こっていない。特徴的な表テラスと広い傘のついたテーブルは維持されており、そして食事を楽しむ客と道路を往来する人を隔てる鉢植えの花や椰子の木も変わっていない。
この店の歴史に対する思い入れは、壁面の絵画や過去の姿を留めた12枚の白黒写真に凝縮されている。もともとこの建物は、1921年にボグライエン一族が建てたメゾン・ボグライエンだった。今でも多くの著名人がこのレストランの顧客になっている。モフタル・クスマアトマジャやヨープ・アフェ、若き日のBJハビビも、この店を愛顧した。
「今でも休暇でバンドンへ来ると、使用人がトン・プスを買いにやってきますよ。」
ブラガ・プルマイの従業員ティティンはそう話してくれた。
ソース : 2000年9月10日付けコンパス


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『食材としての虫』

しばらく前に、さまざまな虫の料理を出すレストランの表に列をなしているタイの人々の様子を、ある民間テレビ局が放映していた。その食べ物はたいへんよく売れており、小皿に載ったいろいろな虫を買いたいがために人々は列に並ぶのをいとわないくらいだ。実は、インドネシアをはじめ他の諸国でも、虫は食材として利用されている。もちろん虫の種類は決まっており、また調理法も知っていなければならないのは言うまでもないことだ。

熱帯という環境は何千種もの虫が発生するのを促し、その中の多様な種類が食用に供せられている。シロアリやバッタなどは、一年の特定の時期に膨大な数が自然界に姿を現す。インドネシアの農業地帯では、ほとんど毎年バッタを主とする何千匹もの害虫に襲われて、稲やその他の穀物を食い荒らされるという被害が出ている。そのように大量に出現する虫は容易に捕獲でき、調理したり保存食にしたりできる。一方、コウロギや甲虫の仲間は、食材の入手が困難になる乾季の間、いつでも捕獲することができる。


[ 虫の栄養価 ]
アフリカやアジアの一部地域の住民にとって、幼虫や成虫を食べるのはたいへん意義深い栄養補給になっている。欧米にも食用目的での昆虫捕獲はあるが、ライフスタイル的な意味が大きい。先進国の人々は自由でワイルドな自然の中のライフスタイルを好み、その影響は食べ物にも及ぶ。虫はかれらのお気に入りの食べ物なのだ。かれらの社会では、本やレシピ、あるいはインターネットサイトで、どのように調理して食べ物にするかが盛んに紹介されている。
虫はたいてい、豊かなタンパク質(40〜60%)と脂肪(10〜15%)を有している。成虫の中には、油で炒めたり煎ったりする前に硬い殻をむかなければならないものがあるが、幼虫なら若い虫の姿でも、あるいは芋虫の姿でも、そのまま調理することができる。


[ バッタ、コウロギ ]
虫が食材に選ばれるさいの重要な要素のひとつは、ある時期にその場所で捕獲しうる数量がどのくらいあるかだ。だから、食用に供される虫の種類は、たいてい数百万匹といった数で移動する虫が多い。移住相に変化したバッタは膨大な数で移住を行うため、捕獲が容易だ。アフリカでそのようなバッタはロクストあるいはロクスタナなどと呼ばれている。非移住相のバッタは草地などにおり、数ははるかに少ないが、多くの国で好まれている食材でもある。

ジンバブエでロクスタナは、虫がまだ活発でない夜明け前に捕獲される。そのあと沸騰した水でゆでてから、1〜2日間日干しにする。ロクスタナを調理するとき、羽と足は取り去り、水につけて戻す。そしてトマト、わけぎのたね、タレのついた破砕ピーナツと混ぜて料理する。
エチオピアでロクスタナは、砕いてからミルクと一緒に煮るか、それとも乾燥させてから挽いて粉にする。粉末になったロクスタナは植物油を混ぜ、焼いてケーキ状の食べ物にする。
またアフリカの多くの国では、バッタは煎ってから塩をふり、スナックとして食べる。これはタンパク質と脂肪をたっぷり含んだ食品だ。

数年前インドネシアを見舞ったコウロギブームでは、揚げコウロギ、煎りコウロギ、コウロギ・ペイエが生産され、いくつかの地方でおかずとして販売された。
バンコックではコウロギばかりか、特定種のゴキブリが成虫から卵にいたるまで、ある社会階層の人々の食べ物として常用されている。タイの子供たちは、炒め物にするために、その種類のゴキブリの卵を集めに回る。
パプア・ニューギニアでも、バッタやコウロギを煎ったり、炒めたりする。


[ シロアリ ]
熱帯地方では、シロアリがどこでも大量に獲れる。巣で捕らえたり、雨上がりの夜に灯りを使っておびき寄せたりして、容易に捕獲できる。巣から出たシロアリにはまだ羽があり、光や火にひかれてやってきて、その周りを飛び交う。光源の周囲の熱によって羽が取れ、身体は下に落ちる。羽のなくなったシロアリを捕獲して集めるのは楽だ。
体長が10〜12センチに達する女王シロアリは実においしい。かの女は決して巣から外に出ず、女王の部屋にずっといて、毎日数千個の卵を産む。シロアリの巣の土塊を崩せば、女王シロアリを捕獲できる。
羽付きシロアリは、油がたっぷりなので鍋で煎る。鍋の中で羽は自然に抜け落ち、風に吹かれて散っていく。その後で塩を振り、スナックにして食べる。
西アフリカでシロアリはパーム油で炒めるが、マラウィやジンバブエでは、少しだけ加熱してから乾燥させ、そして売る。


[ タガメ ]
熱帯の国々の中には、タガメを食用にするところがある。タイの大タガメであるマエン・ダ・ナはその味のユニークさで人々に好まれている。体長5〜6センチのものを特製の網で捕獲するのだ。蒸した後、海老醤に漬けてからすりつぶしてペースト状にする。タイではそれをマン・ダールと呼ぶ。それに小海老、ライム、にんにく、こしょうを混ぜ、ソースにしたり野菜サラダにかけたりする。
食用になるタガメの別の種は、ウオーター・ボートマンと呼ばれるものだ。成虫であれ卵であれ、この虫をよく食べるのはメキシコ人だが、アハヤカテと呼ばれる卵のほうが一般に好まれている。アハヤカテは生食したり、炒めたり、あるいは乾燥させたものと味付けした粉をまぜ、その粉でビスケットやケーキを作って、緑唐辛子で食べる。


[ 蝶の幼虫 ]
蝶の幼虫はさまざまな種類が食材になっている。バッタやシロアリと同様、群生している幼虫の方が捕まえやすいので好まれる。
タンザニアのいくつかの地方で、蚕が食材として用いられている。この種の蚕は群れをなして草地の藪の枝に黄色の固い繭をつくる。この幼虫は大量に集めて粉にし、保存食にする。アフリカ蚕の繭も食用にされている。
ザンビアのルウィング地方で群生している芋虫は、雨季の重要な天然食糧資源だ。数ヶ月にわたってそれらは、膨大な量の動物性タンパク質と良質のリボフラビン(ビタミンB2)を住民に供給する。大きくなった芋虫は、調理の前にまず内臓を取り出す。そして沸騰している少量の水に入れて、水がなくなるまでゆであげる。
ベンバ・イフィトボとベンバ・インプウェップメと呼ばれている二種類の芋虫は、毒性植物を食べるために、それをひとが食べれば中毒する。その毒を中和させるには、塩水を使って調理することが必要だ。虫をゆでてから塩とスパイスを混ぜ、ピーナツ、わけぎのたね、トマトを砕いてそれに加える。
芋虫をそのまま煮たり、煎ったりしても、スナックになる。内臓をきれいにし、ゆでたあとで乾燥させれば保存食になる。この乾燥芋虫は、ザンビアの田舎に限らず、都市部でもかなり高い値段がついて売られている。

南アジアでは、糸を取ったあとの蚕のさなぎを食べる。糸を取る前に繭は沸騰している水に浸されるので、繭の中のさなぎはゆであがる。そのさなぎを炒めてから瘤蜜柑の葉に混ぜるもよし、あるいはブロッコリやスパイスといっしょにしてスープにしてもよし、というところ。

太く短い芋虫形の甲虫の幼虫も多くの国で食べられている。タイでは、農村部で集められたこの幼虫をココナツミルクに漬け、カラッと油で揚げる。
椰子甲虫の幼虫も、西アフリカ、中央アフリカ、インド、南アジア、そしてインドネシアのいくつかの地方で食用にされている。まず頭を取り去ってから、野菜油で炒めるのだ。
パプア・ニューギニアではサゴ甲虫の幼虫を、バナナの葉に包んで焼いたり、ペペスにして食べるのが一般的だ。
ソース : 2002年4月8日付けコンパス
ライター: Sutrisno Koswara  ボゴール農業大学食品技術科教官