[ ジャカルタ〜ジャカルタ ]


◎★◎
『ジャカルタ476年、上京者にとってまだ魅力はあるのか?』

彩りあふれる街ジャカルタ。誰でも成功者になれ、そして誰でも敗北者になれる街ジャカルタ。誰でもジャカルタを去ってかまわないし、来ても良い。ジャカルタでは誰もが、泣くも自由、笑うも勝手。この共和国の愛すべき首都では誰であれ、性格、能力、優しさ、獰猛さ、残酷さ、おまけに嫉妬さえあらわにすることを禁じられていない。

人は来りそして去り、倒れては起き上がり、歓喜と悲哀、忠誠と裏切り、踏みつけられ踏みつけにし、殺し殺され。何であれ禁止する者はおらず、心煩わせる者もおらず、自分の知ったことでもない。ジャカルタは昔から、常軌を逸した姿のまま不動だ。感情が死んでしまったために、ジャカルタが涙を流したことはない。心は氷塊のような冷たさ。若者たちの流行り言葉は「無関心」。学者たちの言葉は「無感動」。政治家の見解は「感受性の欠如」。
ジャカルタのそんな性格が疫病となり、人であふれかえった住民の心に伝染していったらしい。最初はいつだったのか、知らぬ間にジャカルタの住民は冷たく硬くなってしまった。まなざしは凍り、挨拶などしないほうがよく、そうせざるを得ない場合はお愛想疑いなし。祖先が残した礼儀と親しみをたたえた習慣などはもはや重要でない。時間とエネルギーの無駄だ、とひとびとは言う。バスでオフィスで、あるいはただのダンドゥッ・ステージでさえ、人はいちばんオイシイ場所をあらそって奪い合う。

厚化粧とたるんだ肌
ジャカルタはもう若くない。美しさはまだ色褪せず、化粧はいっそう色濃いが、ほんとうのところジャカルタは心を虐げられるにまかせている肌のたるんだ処女なのだ。市場のごろつきからお偉い代議士先生、民間社員やら限度一杯の年金をもらう公務員、文民も警官も、失業者もコングロマリットも、乞食も街娼もエグゼキュティブも、冷房のきいたあいまいナイトスポットの夜の女たちにいたるまで、ジャカルタを虐げる者たちのオンパレード。
臭くて毛深い山賊のように、だれもがジャカルタを凶暴に粉砕する。かれらはできるかぎり広くチャンスを利用する。かれらは獰猛で、狙った獲物に襲い掛かり、それを引き裂く。そしてますます力なく、ぐったりと横たわり、すっぱい汗を流すジャカルタの身体の上でかれらはどんちゃん騒ぎをくりひろげる。

ジャカルタは、いちばん価値ある資産を失ってはいない。だが、涙は流さず、痛みを示そうともしない。この40年の間、心は血まみれになったが、心の隅々までおおいつくす冷たいかさぶたによって徐々に固められていく。

誤った手
誤った手につかまれるのがジャカルタの宿命だ。いとしい街は醜く野蛮に扱われる。ひとびとはまたジャカルタを、故意に個人的利益の道具に利用する。特に経済問題の関連で。
ありとあらゆる許認可が、社会・文化・治安・環境などに関する検討もなく勝手気ままに交付される。乱雑な都市建設は、支配者の仲間や一族が提案するプロジェクトをただ満たしてやるためのものでしかない。いつでも不法徴収金を取れるようにと、役人たちは交通やインフラの混沌を放置する。
同じように、支配者たる都庁は混乱を作り出す諸条例を公布し、諸政策を実施する。スリーインワン交通規制やバウチャー式路上駐車料金システムがその例だ。プラウ・スリブでの賭博局地化提案もまたしかり。おかしいのは、それらのすべてに都議会はうなずくばかりだということ。議会は民衆の福祉よりも、明らかに政治問題に興味を持っている。
隣組長、町長、郡長、市長、知事のだれひとりとして、ジャカルタの街に関するはっきりしたコンセプトを持っていない。建設計画の青写真は専門家の証書であり、だから民衆一般が知る必要などないのだ。そしてまた、金を払う能力以外に何の能力も持たない愚か者は、その証書を手に入れようとして必ずその唯一の能力に頼る。その証書を何のために手に入れようとしているのか、その目的を説明する必要などどこにもない。

隣組長がナルコバを売る自分の息子を手伝ってやるのを不思議に思う必要はない。その基盤は、かれらが薄汚れたフィルターを潜り抜けてきたということだ。ジャカルタに存在しない、いちばん状況のひどいものは治安。かつあげレベルから銃器を使った強盗まで、犯罪行為はいたるところにある。バスで、タクシーで、ましてや自家用車の中でさえも。自宅の中ですら、女中が略奪シンジケートのメンバーだったりする。見る限り、ひとは軽い感じで悪事をはたらいている。
朝飯から晩飯までの日常風景と化している交通渋滞問題にまだ言及していない。「ジャカルタでは、あんたは路上で年老いる。」と人は言う。上京者のくちぐせだ。
もっといろんな詳細に耳を傾ける度胸をお持ちかな?毎年変わらずに悲惨をもたらす水害。もううんざりの大学生のデモや生徒・住民同士のタウラン。ナルコバは小学校まで大はやり。法の執行者は法の違反者から利益を求め、都庁職員は職務を通して私服を肥やす。電気、水道、生活用水、ゴミ、カキリマ商人、賭博、売春、ありとあらゆる些事が住民生活の安らぎを阻害する。

ジャカルタはなんと安穏
もし仮定話しをお許しいただくとして、インドネシア共和国の首都が他の都市に移されるようなプログラムが作られたら、いったいどうなるだろう。たとえばスラバヤ、あるいはもっと遠くて落ち着いた街バンジャルマシン。そのあとジャカルタはどのような姿を見せるだろうか?
経済センターは移転し、ビジネスセンターは様変わり、開発は滞り、政府の騒々しさは転出し、観光は激減し、テクノロジーは舳先を変え、等々々。集団に次ぐ集団がモダン・ブタウィに向かって列をなす。一切合財の手荷物を下げ、すべての資本と生活のためのツールを送り出してネオDKIに移住する。
突然ジャカルタはひっそり。バスや高級車は徘徊するのを止めるだろう。ディスコやパブのどよめきはもう聞こえず、ブロックMは沈黙の中に沈む。ナイトライフのきらめきは少しずつかげりはじめ、公務員がサボる休日にはさまれた労働日のように、オフィスは閑散と寂れる。
ナルコバの元締めは客を失い、売春のマミーや賭博の胴元はオーダーがなくなり、ごろつきや「赤斧」はターゲットがなくなって早期退職し、生徒たちはヒロイズムを示す観客がいなくなってタウランは取り止めになる。

もちろんジャカルタに残った住民は街を整理し、力を合わせて下水道をきれいにする。チリウン川はスラム小屋から縁が切れ、清潔美麗となり、水は澄んで淀むこともなく、水害の歴史は過去のものとなる。すべての道路からカキリマ商人の姿は消え、渋滞は消滅する。とりわけ本来スムースな交通のためだった高速道路から渋滞が消える。モナスからは街娼とふたまたかけた飲み物売りがいなくなり、同じようにバーやマッサージパーラーで賑わうブロックMやマンガブサルでも売春婦がいなくなる。
州政府はゴミ最終投棄場探しに頭を痛める必要がなくなる。なぜなら、ゴミの量は激減し、あちこちに悪臭が広がることもなくなるから。自動車も工場も汚染を発生させなくなり、警察は効果的にして効率よく働き、健康でストレスから解除される。
住民は木を植えて、ジャカルタを緑で葉の生い茂る、涼しい街に変える。バス乗客は押し合いへし合いする必要がなくなり、女性たちも侮蔑的なお触りからさようなら。それどころか夜中でも、人は不安なく、安全快適に自宅へ帰ることができる。おお、ジャカルタでの暮らしはほんとうに安穏。ふう、ジャカルタはなんと快適なところだろう。

夢見るところ
ジャカルタは人が夢を見るところ。それが美しい夢でも、悪い夢であっても。すさまじいのは、だれもがその夢から覚めたがらないこと。かれらの大多数が恐ろしい悪夢を見ているというのに。
いまや美しい夢は安売りしたために売り切れだ。新参者は厳しい闘いを経て、高価な代償を払って、残された美しい夢を手に入れなければならない。そしてその美しい夢が実は偽りの美夢であるのも珍しいことではないのだ。

人はジャカルタへ流入しつづける。サバンからメラウケまで。女中からボスまで。かれらはジャカルタに充満し、モナスの高さにまであふれかえる。河川敷で、あるいは高級アパートの部屋で、かれらは食い、排泄し、嘔吐し、ゴミを出し、微笑みながら死に、ズドンとやられて死ぬ。不思議だ、人はジャカルタを見るといまだに心がうち震える。たるんだ肌の処女から期待しうるすべての若さはもう、臭くて欲張りの山賊たちに搾りつくされたというのに。
ソース : 2003年6月13日付けコンパス
ライター: Yoppy Ol  都市問題研究者


◎★◎
『ジャカルタを手本にしてはならない』

われらが愛する祖国の首都ジャカルタは、オランダ人侵略者と闘ったパゲラン・ジャヤカルタの英雄的行為が生んだものだ。四百年前、外国勢力の歯牙にかかる可能性(実際そうなってしまったのだが)に対する独立の意味を悟っていたこの王子を、われらは誇りに思う。ところが、それだ。苦労して戦争なんかするよりは(殺され、滅ぼされるかもしれないのだから)、植民地支配者に協力して押し付けられた恩典を享受し、できれば子々孫々七代にいたるまで食うに困らず、楽に生きたい、と望む人間がいるのはどこでもいつでも変わりない。

では、475年後まで伝えられた遺産は何だったのか?民衆のための英雄的行為はもうどこにも見られず、一方で裏切り行為は相変わらず続いている。どうしてわれらがあらゆる分野で没落してしまったのかを見ればわかる。汗を流して苦労することなく、楽な人生を享受したい、と望む大勢の人々の行為がその結果を生んだことは間違いない。
賄賂、貢物、口銭、強欲、ジャカルタにはそのすべてがある。ジャカルタの実業家はインドネシアを隅々まで巡歴して天然資源の掠奪を行った。そうしてそれら資源は、ジャカルタや他の都市、あるいは海外での異なる分野への投資に引き当てられるべく、ジャカルタへ送られた。天然資源の本来の所有者である民衆は、自分たちの土地が禿山となり、あるいは荒地やぺんぺん草の茂る場所となるのを、指をくわえて見ているしかなかった。


鳴り物入りで経済開発が行われたが、技術は輸入すれば十分であり、時間と金を食うし難しいから自分で開発する努力など必要ない、とかれらは考えた。倹約家で仕事に熱中するあまりワーカホリックという異名までもらった日本人の姿を写し取ろうとしたこともない。日本人は新しいテクノロジーを創造し、厳しい条件をつけてインドネシアに輸出し、インドネシアの事業家は熱意をもってそれを受入れた。そのテクノロジーが時代遅れになると、より進んだテクノロジーを取り入れた製品との競争で負けてしまうために、インドネシアの事業家は慌てふためくことになった。

技術移転などという言葉はたわごとに過ぎない。少数の若い理想家たちのハードワークのおかげで、日本の家電業界に受入れてもらえるかもしれないテクノロジーが開発された。しかし想像に余りある。結果はノーだった。手直ししたが、またノーだった。あたまにきたかれらは、ついにその会社の自社製品を色を塗り替えただけでサクラの国に送りつけたところ、返事はやはりノーだった!


クライシスに襲われたら、檻の中のつわものはぺしゃんこになった。バブル経済を招いた汚職と共同謀議の結果、柱より太い楔が打ち込まれ、柱はついに支えきれなくなってわれらの経済は崩壊した。根はそこにあり、それがあらゆる方面へと広がって行ったために、自尊心は文字通り消滅してしまった。世界市場で覇を競う能力も度胸もないローカルビジネス帝国は崩壊した。栄光期のように威張る意気地もなく、それどころか借金だけを残して民衆にそのつけを押し付けてきた。民衆に対するかれらの罪は実に大きい。
そのようになってしまったものの、民衆の利益を損なう行動はつつしもうという自覚がジャカルタの人々に生まれただろうか?現実はそうでない。汚職は相変わらず旺盛で、オルバ期に拡大した機会主義は依然として無秩序を生んでいる。法の番人たちは、その悪魔の輪をどこで断ち切ればよいのか、見当もつけられないでいる。しかもかれら自身さえこのクライシスから無縁でないことは、かれらが免職に次ぐ免職に襲われている事実で証明されている。
クライシスがもたらした経済的困窮は、悪魔の商品である麻薬ビジネスを盛んにした。そこから得られる利益は垂涎ものだ。このビジネスにきれいなのはない。麻薬一掃の日が改善をもたらさんことを。

賭博。バクチ体質を持つ人々が賭博のための特別の場所を得ようとする構想を、この破戒行為はまた出現させた。かつてアリ・サディキン都知事時代に、賭博からの収益がジャカルタ建設に大いに活用された。アンチョル地区のコパカバーナにカジノがあった。賭博でジャカルタ建設を行った熱意のあまり、アリ・サディキンは大口を叩いたことがある。「おいおい、ウラマやキヤイたち。あんた方はスディルマン通りやタムリン通りを通っちゃ駄目だ。そこは賭博の金で作られてるんだから。」
それでどうなっただろうか?ジャカルタは相も変わらず猥雑で、賭博の欲求はいよいよ盛ん。それどころか、スドモという名の政府高官によって中央政府の庇護すら与えられた。寄付という名目で、SDSBという名の賭博マシーンが動き始めたのだ。その賭博が有益だという印象を民衆に与えるためにある日「当たり番号」が流布され(孕み鬼の魔法なんか使わない。その番号が何番だかわかるだろうか?言うまでもなく13だよ。)、買った人は必ず当たった。それは嘘じゃない。言ってみればみんな賭博で勝ったのだ。ムスリムがあくまで反対したおかげで、SDSBはその後廃止された。
ところが、バン・ハジ・スティヨソ都知事が賭博専用地を用意して、アリ・サディキンの行為を復活させようとしている。かれの口実は、「撲滅できないでおくよりも、公認すれば良いじゃないか。」というもの。賭博の徹底撲滅は、売春撲滅とおなじように容易なことでない。なぜならファンが絶えたことがないのだから。真理を打ち立てるのは、もちろん容易なことではないのだ。なぜならその報酬が天国なのだから。神は天国をただでくれるわけじゃないんだ。
そのような破戒行為撲滅の行動において(神とのつながりをしっかりつかみ、黒幕のおどしを怖れないことを含めて)、われらが尊い報酬を受けるにふさわしいかどうか、という値打ちを神は評価する。バン・ハジよ、誰からのテロであっても負けてはならない。神は常にいて、あなたを助けようとしている。あなたのリーダーシップとハジとしての値打ちがそこで測られる。あなたが「賭博ハジ」と呼ばれたくないのは、言うまでもないことだろう。あなたはあの計画を取りやめて、本当に良かった。

残酷さを増す犯罪というやつがまだある。単にオジェッ・バイクを強奪するというだけのために持ち主を殺してしまう。一方では、自分のエンストしたバイクを押していただけで、誰かが「泥棒!」と叫び、群集のリンチにあって殺される。その事件の後で責任を取ろうとする者はいない。それから住民同士のタウランは?おお、問題は山積だ。インドネシア共和国の首都とわれらが呼んでいるこの地区は、支離滅裂と猥雑に覆われている。
首都、Ibu Kota。Ibu、母。本当かな?母の足の裏の下に天国があるんだぞ。ジャカルタの裏に天国があるのかな?もちろんジャカルタのすべての人が腐敗しているわけではない。理想主義者も数多く、そして暮らしのあらゆる困難と錯綜の中で宗教を高く捧持している人も多い。破戒行為撲滅は、自ら神を戴くと表明している政府の職務であり(神を戴かないなどと言う度胸すらないだろうが)、しばしば支配者との衝突をもたらすことさえあるというのに、そんな人々はそれに一役買っているのだ。
撲滅の方法は様々だ。常にハードでなきゃいけないわけじゃない。ソフトで、しかし確実な、一貫性のあるやり方なら、インシャアラー、成功するだろう。神がわれらと共にあるのは言わずもがなだが、それはわれらの値打ちが神にどれだけ近いか、ということ次第なのだ。

ジャカルタは確かに地方州政府の兄貴分で、知事でさえそうだ。「ジャカルタは他の地方のバロメータ」ともよく言われる。帰結として、ジャカルタは良い手本を示さなければならないのだ。だから、ジャカルタを手本やバロメータにしようと言うのなら、ちょっと待て。ジャカルタが自己改善を成し遂げる日まで。パゲラン・ジャヤカルタの模範はすでに消え去り、いまそれを見出すことはできない。だからジャカルタに範を取ろうとする人は待ったほうが良い。まだ(それとも、もう?)それにふさわしくないのだから。
ソース : 2002年6月29日付けレプブリカ
ライター: Mustoffa Kamil Ridwan  レプブリカ紙シニア編集員


◎★◎
『支離滅裂な都市計画』

鉄製フェンスで囲われるのは家屋だけでない。ジャカルタでは、オフィス、ホテル、学校、住宅街、はては住宅街への進入路さえもが高い鉄のフェンスで囲われている。ここではもうありきたりの景観だ。

それでもまだ安心できないのか、ショッピングセンター、モール、さらにはジャカルタのトレードマークであるモナスまで鉄のフェンスで囲われようとしている。いまのジャカルタに、鉄製フェンスの包囲から免れている場所はほとんどない。有刺鉄線まで巻きつけた背の高いフェンスで囲まれた牢獄のような建築物は、街の隅々にまで散らばっている。首都都市計画専門家ソサエティのアブドゥル・アリム・サラム会長は、その事実は人々が自分の街に住むことに恐怖と戦慄を感じていることの反映だ、と語る。

ジャカルタで1998年5月暴動が勃発して以後、都民は必要に迫られてあちらこちらの地区をフェンスで囲うようになった。このフェンス囲いは、町の美観という観点からは受入れにくいものだが、世界中でジャカルタだけ住民が大挙してフェンス囲いを行っているのを、一概に悪いと言うのも難しい。
「警察や行政が安全の保証をしてくれないので、人々は恐怖を抱いたままだ。路上、家あるいはモールにいるとき、民衆の安全は常に脅かされている。」バンドン工科大学開発学教官で都市地域計画専門家でもあるヤヒヤ・ハナフィはそう語る。恐怖や戦慄は民衆だけが感じているものではない。

2000年にアジアウイーク誌が行ったサーベイで、対象にされたアジア40都市における「居住に快適な街」番付けの28位にジャカルタが置かれた。アジアでもっとも快適な街の筆頭となったのは福岡。シンガポールは三番目。香港6位、クアラルンプル7位、バンコック17位、イスラマバード24位、メトロマニラ25位。バンドンでさえ26位に置かれている。
評価項目27アイテムで総計百点中ジャカルタの得点は44。評価項目とされたのは、ひとり当たりの所得、GDP、人口1千人あたりの病院ベッド数、道路総延長キロに対する自動車台数、人口1千人あたりの犯罪件数、電話機設置数、テレビ受像機普及やインターネット加入者などだ。
犯罪に関してジャカルタは赤ランプがついており、アジアで最も犯罪の少ないソウルの37点に対し、ジャカルタは13点しかない。人口950万人のジャカルタは、バンドン、メトロマニラ、バンコック、北京、クアラルンプル、ホーチミンよりも危険な街なのだ。首都警察作戦統制指令センターのデータでは、2001年の犯罪発生件数は18,802件と記録され、内容的には「迷惑行為を伴う盗難」「破壊を伴う盗難」「強盗」「強奪」「乗っ取り」「自動車盗難」などがマジョリティになっている。この様々な犯罪発生は月平均で1,292件、一日に直せば43.6件となるが、この数字は警察に届けられたものだけであり、届け出されないものを加えれば、とてもそんな数ではすまないだろう。だからジャカルタが、危険で身の毛のよだつアジアの街のひとつにあげられるのも不思議はないのである。


ジャカルタの犯罪件数の多さは、もとから支離滅裂な都市計画に関連している。目を見張るような贅をこらした豪華住宅地区が建設される一方で、その周囲には低所得層が住むスラム居住区が日ごとに形成されていく。モダンなショッピングセンターが無統制に建てられ、旧来のパサルは捨て置かれる。「そんなアンバランスは社会階層間の妬視と対立を次第に深め、社会コンフリクト発生の温床となる。」とヤヒヤ・ハナフィはコメントする。
ジャカルタをアジアで最も人口稠密な街のひとつにしている高いレベルのアーバニゼーションがそこに加わってくる。面積661.52平方キロのこの街に公称757万人が住んでおり、人口密度は11,454人と計算される。
「人口の稠密さに加えて劣悪な交通と失業者数の多さが社会のエモーションを爆発しやすいものにし、犯罪発生の促進も含めて社会のビヘイビヤを一層攻撃的なものにしている。」と語るのはトリサクティ大学建築景観学科のヤヤッ・スプリアッナ教官。その状況は、犯罪者に対する法執行面の弱さでさらに悪化する。反面、ジャカルタへ上京してくる階層のメインは低学歴であるために、法遵守という面がきわめて弱い。おまけに最近では、この階層が種族ごとに集団化し、集団構成員の中に犯罪者が出ると集団が仲間を庇護しようとする傾向をあらわに見せるようになっている。
悪いことに、この犯罪多発に対して首都の警察も行政当局もたいしたことができない。コーディネーションもほとんど行われず、都市計画専門家の意見など求められたこともない。
「経済的、社会的要因とは別に、誤った都市計画が都市における犯罪多発の一要因たることは十分ありうる。都市の地域開発の中で、市民がアクセスしやすい警察署、高低の所得階層が顔を合わせるモスク、社会の諸階層が交流する公園やパサルをどこに作るか、という検討がなされてしかるべきだ。」とアブドゥル・アリム・サラムは例をあげて説明する。

「これまでは住宅地区、商店街、そしてせいぜい教育施設くらいまでしか検討の対象にされたことはなく、警官詰め所の位置が計画に盛り込まれたことはない。」ヤヤッ・スプリヤッナの談。
警官詰め所が作られても、市民のアクセスが困難であまり効果的でないところに置かれてしまう。中には表から隠れた場所に置かれて、市民がその存在を知ることさえむつかしいものもある。たとえばモナス広場周辺を見ると、警官詰め所は木立の陰に隠れてサインも何も出ていないため、一部の人以外その存在を知らない。ほかのエリアでも警察署や警官詰め所の状況は似たようなものだ。隠れた場所にあり、市民に知らせて、来てもらおうとするためのサインも出されていない。詰め所の中には掃除もされず、不潔で、メンテナンスの行き届いていないところも見られる。チャワン地区にある詰め所はその例で、詰め所の中がゴミだらけのため、警官自身ですらそこへ近づこうとする者がいない。チャワン地区は高レベルの犯罪危険ポイントとして指定されている、というのに。


犯罪を減らすとともに安全快適なジャカルタを創造するために手が加えられなければならないのは、都市計画だけでない。なされるべき最重点問題は、治安への対応を最優先するように首都の行政官僚と警察が仕事のやり方を変えることなのだ。
噴水を造ったりモナスをフェンスで囲ったり、あるいは装飾街灯を並べたり、といった記念碑的で費用のかかるプロジェクトはもうやめるべきだ。それらのための巨額予算は、現在都民にとって最優先事項である治安問題の対応に振り向けられるべきである。
また警察は、交通から治安へと優先順位を変えた仕事のやり方を取らなければならない。アブドゥル・アリム・サラムは、交通を担当する警官を大幅に減らして、治安の担当に振り向けよ、と語る。警察が人手を減らした交通問題は、かつて都庁陸運局と呼ばれていた都庁交通局に委ねればよい。
警官数を増やすことに加えて、警官の資質もリクルートする当初から留意されなければならない。警察が犯罪と闘うのに、力だけに頼る時代ではもうないのだ。「従来警察は、路上犯罪者を射殺すれば職務が果たされた、と思っていた。だが警察が検挙しなければならないのは路上犯罪者を動かしている黒幕なのだ。黒幕が路上犯罪者のネットワークや資金を操っている。」治安問題を管掌する警察が優秀で選ばれた人たちによって構成されるようになったとき、それがはじめて可能になる、とヤヤッ・スプリアッナは語る。

重要さの劣らないポイントとして、警察は都民の自主警備を発展させようというポリシーを持っている。ジャカルタの治安を人数の限られた警察や都庁に任せきれるものではないが、まずいことに地元の状況や地区の特性に応じた自主警備パターンを警察は作り上げておらず、内容は住民まかせになっている。
「住宅地域の保安パターンは商業エリアやビジネス地区のものと同じにならないのは当然だ。夜間の環境警備にしても、昼間のパターンとは違ってくる。」とヤヒヤ・ハナフィは言う。あなたまかせの自主警備ポリシーは、各地区で住民が独自のものを作り出すことを促す。人々は結局正しい保安パターンにそぐわないものを作り出したり、正しいパターンであっても都市の美観という面から劣悪なものを出現させる。たとえば、北ジャカルタ市クラパ・ガディン、スンテル、プルイトなどにある住宅地区のいくつかは、地区全体を高いフェンスで囲い、外来者はアイデンティティを証明するものを警備員に預けさせられる。トゥベッのグダンプルル地区では、自宅周辺で怪しいことがあれば電柱、フェンス、鍋などを繰り返し打ち鳴らすことが隣組長を通して住民間で申し合わせられている。

警察の役割を期待できない都民は、あらゆる方法で自主警備を高めていくようにと勧められている。警察署は見つけるのが難しく、そこへ行く道も渋滞し、おまけに交差点にある警官詰め所にも警察官がいるとは限らない。行ったところで警官はおらず、帽子だけが置いてあった、ということになるかも知れないのだから。
ソース : 2002年7月28日付けコンパス
ライター: Try Harijono


◎★◎
『都会の喧騒の中のオアシス』

南ジャカルタ市チランダッ・トゥガ通りを行くと、左手にあるワルンとは対照的で周囲の家屋とは異質な感じの、屋根が曲線を描いている三階建ての家を角地に見出す。間違いない。それがハリー・ダルソノ・ミュージアムだ。
オーナーである繊維服飾デザイナーのハリー・ダルソノはそれまでその土地に住んでいたが、かつての家が火事で焼失したのを機会に、自分の作品を展示するミュージアムをそこに建てた。「1969年から2001年までのわたしの作品はすべてここに置いてある。中にはわたしから買った人が寄付してくれたものもある。一度着るとたいていもう使うことはないため、かれらはわたしに寄付してくれた。」ハリー・ダルソノはそう語る。

ハリー言うところの「着用するアート」であるガウンや、かれがデザインして上海やドイツで製造された繊維製品、そしてやはりハリーが装飾をデザインした家具や食器などの家庭用品までが、そのミュージアムに陳列されている。増築しながら1998年にオープンしたこのミュージアムは、公共スペースとして開放された個人住宅のひとつ。これこそ自分の所有物を広く社会に還元しようとする、さまざまなポジションにいる人たちの人生の一部だ。


インドネシア大学哲学科教授で博士号を持つトゥティ・ヘラティは、ギャラリー・チュマラ6という名のカフェを備えたHOSチョクロアミノト通り9−11番地にあるギャラリーハウスを、ジャカルタの喧騒と混沌の中にあるオアシスだと言う。「首都ジャカルタの落ち着きのない雰囲気の真っ只中で、ひとはここで安らぎを見出すことができます。」と言うトゥティ。このギャラリーは、トゥティが住むチュマラ通り6番地と背中合わせになった家屋で、オープンしたのは1994年12月4日。ふたつの家屋の間の土地は庭園として使われている。ギャラリー・チュマラ6で月に三四回催される芸術活動や展覧会を楽しんだ後、来訪者は座って食事をとったりコーヒーを飲んだりできる。
「催し物は絵画や彫刻の展覧会、書籍の出版発表会あるいは音楽の演奏会だったりだけど、たくさんのひとがここへ来るのよ。」大勢の人がそこへ集まるのが自分にとって悦びだと語るトゥティはそう付け加える。最近ではこのギャラリーで、女性解放、責任解除義務免除証書、石油燃料や電力の料金値上げ問題などといったリアルなトピックスをテーマにした討論会がしばしば開かれている。


ジャカルタ以外のあちこちの町ではずっと以前から、自分の家を公共スペースとして開放しているひとたちがいる。みんながそうとは言えないが、かれらはたいてい画家だ。
ジョクジャのバティック実業家アルディヤント・プラナタは、1ヘクタールの土地に建っている自分の家の一部を、必ずしもバティックと関連付けない展示場として公開している。ジョクジャのマグラン通りKM5.8にあるその家は水草の繁茂する池やたくさんの木々に囲まれており、建物のデザインは現代風とジャワ風をミックスさせたスタイルになっている。
その二階建ての家は住居ならびに衣料品の展示場、さらにアルディヤントが各地から集めてきた自分のコレクションを陳列して見せてくれる場所だ。陳列品は木彫りや石像木像などを置いた所に並べられている。広い応接にはたいへん高価な古代石像、絵画、木像などが配置され、その部屋の一方の端は寝室となっている。
衣料品、手工芸品やみやげ物から骨董家具まで置かれた展示場は一階の奥にある。二階のほうは世界各国の陶磁器、ブロンズ像、木像、石像など、かれのコレクションが陳列されている。「これは売り物じゃなくて、一般公開品として展示している。賓客が来ると、まずこれを見て回ってから下の工房や展示場を見てもらっている。」とかれは説明する。衣料品制作や手描きバティックの工房があるのは、その二階建て家屋の裏だ。バティック実業家にとって、自分の住居と事業場所を一体にするのは、特に目新しいことではない。

最近、銀装飾品デザイナーで事業家のルニ・パラルと夫のアドリアン・パラルは、バリ州ウブッのロットゥンドゥ村にある自宅にミュージアムを開いた。住居群から15メートル離れた低い場所の左端にミュージアムを建てるというアイデアは、ル二の銀装飾品アート活動25周年を記念してのもの。ルニがこれまで制作してきた作品を展示できるこのミュージアムは一切がアドリアン・パラルの設計になるが、ルニにとってはそれが来訪者とのコミュニケーションの橋渡しの場となっている。「わたしは進歩が止まるのはいや。ルーチン化してすぐ死んでいくのはいやなの。お客さんとのコミュニケーションで自分は徐々に進歩し、完成に向かうように思えるんですよ。」ルニはそう語る。

南ジャカルタのルバッブルス1通りでは、チレボン生まれのレクスモノ・サントソとアメリカはネブラスカ出身のリンダ・ハーンのカップルがこの前の土曜日に、6百平米のかれらの家をアートギャラリー兼旅行センターとしてオープンした。妻のリンダからレックスと呼ばれるレクスモノは、ふたりの住居兼ギャラリーをルマ・ジャワと呼ぶ。最初は宗教活動の場として使われていたその家に、ふたりはインドネシア各地のさまざまな産物を持ち込んだ。マドゥラのもの、東部ジャワの鋤の柄、アスマッの彫像やお面、カリマンタンのビーズを使ったものや国内各地の古い布。「この家はレックスのプライドであり、かれの夢を実現したものです。そのために、かれが誇るインドネシア遠隔地のさまざまな産品がここに飾られているんです。」リンダは来訪者にそう説明する。
ふたりはこの家の中に自分たちの場所として、ほんとうにパーソナルな印象を与える浴室付きの寝室と居間ひとつだけを残した。リンダはそれすら、見たい客には隠そうともしないで見せている。ほかの部屋はすべて、芸術品や骨董品がいっぱいの展示場兼ロビーだ。すでに希少になったアスマッの像、面などのものは、専用展示室を設けている。閉め切られたベランダのひとつにはカリマンタンの産品がしまわれ、また二階の一部屋は非販売用骨董布コレクションの保管専用に使われている。


絵画や工芸品など特別の価値をもつものを収集して家に展示し、ギャラリーのようにするのが最近のライフスタイル。「ニアン・ジュメナさんやエディ・カティマンシャ医師のような素敵なコレクションを持っている友人が何人かいる。わたしは公衆が訪問してもいいように、家を開放するべきだとかれらを説得しているところだ。」とハリー・ダルソノは語る。
建築家サルジョノ・サニによれば、コレクションを陳列できるように家を設計するのが最近のライフスタイルになっているそうだ。家のオーナーの自己実現の手段としてそんな方法が使われている、とかれは言う。「最初から自分の家をギャラリー仕立てにしようとする考え方がある。たとえば壁は大きいサイズにし、室内採光は自然光を主体にし、あるいは紫外線が直接降りかかるのを防ぐといったことだ。」というサルジョノの弁。
南ジャカルタのポンドッインダ地区にあるサルジョノの家は、1994年にインドネシア建築士会からサイテーション・アワードを与えられた。ギャラリーにするつもりはなかったが、壁にはアファンディ、スリハルディ・スダルソノ、ジェイハン、アリ・スミッ、モフタル・アピン、イファン・サギト、Gシダルタ、パンデ・クトウッ・イマンなど著名な画家の作品がおよそ50枚もかかっている。
「ひとは家を、熱暑や雨から逃れるだけの場所ともはや見ていない。ひとはもう雨漏りがしないといった技術的な面をあまり気にしていない。建物内の部屋割りを食堂と家族の居間だけあれば十分とは思っていない。絵画への配慮が存在している。今のトレンドはそっちを向いている。」そうサルジョノは付け加える。
この建築家の家自体は1992年に建てられ、形態と空間への態度に関する建築学的研究に何回か使われたあとで、1994年に入居した。壁などはシンメトリーでなく、わざと歪ませてある。


家を公共に開放するということは、言うまでもなくリスクを抱えることでもある。なぜなら、ある特定の意図で家を開放したにせよ、来訪者にわずらわせられることは覚悟しなければならないのだから。トゥティ・ヘラティは訪問者の来訪で家がにぎやかになることをよろこぶ。そればかりか、各地からやってきた親しい友人たちや、ギャラリー・チュマラ6で作品を展示したアーティストたちのために、かの女は宿泊施設まで作った。
「根本的にわたしはかれらとおしゃべりするのが好きなのね。もし雰囲気がとても盛り上がって、わたしの方に片付けなきゃいけない仕事がたくさんあったら、わたしはそっとその場をはずして自分の仕事部屋に隠れます。でもわたしに会いたい友人は、簡単にわたしを探し出せるんですよ。」
トゥティは60枚の絵画を持っているが、最初ギャラリーを持つ気はなかった。1991年にトゥティがパリを訪れてサリムに会ったとき、かの女はサリムにジャカルタで展覧会を行うよう申し入れた。TIMに届いた60枚の絵画は、TIMが1億3千7百万ルピアの関税を納めなければならなくなって、販売が断念された。税関は最終的に解決策を授けた。その60枚は一括で販売され、そして公共の利益のために使われること。それが、トゥティがギャラリー・チュマラ6をオープンした縁起物語りだが、はじめはチュマラ通りにあるトゥティの家の客間と中の間がギャラリーに使われた。あとになって、トゥティの家の裏手にあたるHOSチョクロアミノト通り側の隣人がトゥティに家を買わないかと申し入れ、資金がなかったかの女はチュマラ通りの自宅を担保に銀行融資を得てその家を買い、自分と娘のインダCヌルハディのふたりでギャラリーを設計したのだ。

自分の仕事の業績を示すために、そしてその家のオーナーがどんな人間かを示すために自宅を使っているアルディヤント・プラナタと同様、レクスモノもインドネシアの僻地まで客を案内するのに特化し、その評価を得ている旅行代理店のオーナーであることを示すための場としてルマ・ジャワをオープンした。
「わたしは観光業界者であるため、インドネシアの各地を訪れていることを示す必要がある。客とのビジネスに入る前に、わたしは自分が訪れた土地の文化民芸品を保管し、それを示して見せる。文化の保存ももちろん、わたしの夢であり、もう作られていないようなものは個人の所蔵品として保管している。」
レクスモノが事業主の『リモート・デスティネーションズ』はインドネシア在住外国人がメインの顧客。ルマ・ジャワをオープンしたことで、レクスモノは各地方の文化を顧客に紹介できるようになった。そこから地方部への旅行を行おうとする顧客の興味が引き出されてくる。「インドネシアに住んでいる外国人を辺境への旅行に誘うのは、外国に住んでいる人より難しい。だってかれらはここの状況をよく知っているんだから。」と述べるレクスモノは昨年末、およそ50人の米人観光客をスムヌップ海岸に連れて行った。

アルディヤントにとって展示場兼工房のその家をさも住居のように調えるのは重要なことだ。金持ち客の気持ちはそうやって引き寄せるのがこつ。「表が店のように見えたら、人は入りたくなくなる。公職高官や外国人はなおさらだ。かれらは建物を見、わたしがうまく配置した統一感ある陳列品を見たあとで、やっと中に入ってくる。ショールームに入ったあと、かれらは素敵な家に印象付けられ、そして評価を下す。『わあ、コテカだ。アルディヤントの作品はきっとすばらしいに違いない。』とね。」アルディヤント本人がそう言う。
だからハリー・ダルソノが語ったように、もし人をギャラリー、ミュージアムあるいは展示場に来させるようにしたいなら、かれらに歓びや楽しみを感じさせるようにすることだ。そうすればかれらはきっと、またやって来る。
ソース : 2003年1月26日付けコンパス


◎★◎
『わたしの家、あなたの家、みなさんの家』

バラの香りが宙に漂い、花柄モチーフのタペストリーが掛けられた低いテーブルの上に整えられたバラのブーケと同じように、赤を基調にしたその部屋の隅々にまでその香りが満ちている。赤色のソファーとカーペット代わりに敷かれたタペストリーは巧みにマッチし、壁には緑色のクバヤを着たこの家のオーナー、アンナ・バンバン夫人の肖像画がかかっている。机の上には英語のウエディング雑誌が数冊、そしてソファー横のサイドテーブルには写真スタンドやインテリア小物などが置かれている。フェミニンな印象を与えるルマ・カルタヌガラの書斎で客は、会合、会議あるいは会議後のおしゃべりなどを行うことができる。

ジャカルタ最新の動向がそれだ。形式張って堅苦しい印象を与えるホテルや貸し宴会場の雰囲気に飽きて、ひとはもっと親密でパーソナルな雰囲気を求めはじめた。ジャカルタに生まれたそんな場所は、南ジャカルタ市クバヨランバルのルマ・カルタヌガラ、南ジャカルタ市クマン地区のルマ・モルポサやルマ・アレキサンドラズ、デポッ市チガンジュール地区にあるルマ・Sウィダヤントなど、ルマの名が示す通りの住居用家屋なのである。
そこでは新製品発表会、企業の会議、誕生パーティから結婚パーティにいたるまでいろいろな行事を催すことができる。
「ハネムーンをご希望なら、それも可能です。ここにはメインベッドルームがひとつと一回り小さい寝室がもうひとつありますから。」ルマ・カルタヌガラのセールスプロモーションマネージャー、マヤ・タナクスマは説明する。
メインベッドルームは木の床で、ベッドには天蓋がついており、それと同じモチーフに統一したドラペリーカーテンを備えたヨーロッパ風大型ベッドが置かれている。室内にはドレッサー、書きもの机、椅子二脚と衣装たんすがあり、たんすの上にはエチエンヌ・アイグナー製アンチークデザインのトランク二個が載っている。浴室も木の床でバスタブがあり、まるで普通の家にいるようだ。

必要に応じて広間の模様替えもオーダーできるし、あるがままのかっこうで使っても良い。応接間にはソファー1セットと椅子ひとつ、シガールームには大型サイズの革張り椅子二脚と机、そして男性的な印象を与える古い書籍が詰まった本棚がある。食堂は正餐の場所として以外に、会議や会合に使うこともできる。要するにこの家は、80人までの客を収容してさまざまな行事を行うことができるのだ。客の数がもっと多くなる場合は、その家の雰囲気を損ねないようにしつつ、テントを張って対応できる。


クマン・ティムール・ラヤ地区にあるルマ・モルポサは外から一瞥すると、一本の熔樹が留守番をしている空家のように見えるが、ジョクジャ王宮の大門に似せた白いコンクリート塀の裏には、アジア風トロピカルな雰囲気を全体に漂わせる家屋を見出すことができる。
バグス・S・プロトディウィルヨが所有する8千平米の土地に建てられた床面積4千平米の家屋は輝くテラコッタ色の石造りの床で、家の玄関口は中国製の龍の置物、タイのパゴダのレプリカ、スンダ楽器のクチャピ、ボロブドゥル寺院のレリーフや彫像のレプリカ、ミャンマー製黄金の吊ランプなどで飾られており、そこは応接や受付の場所として使うことができる。2002年に行事用レンタルハウスとしてオープンされたこの家は、母屋から切り離された裏にプールに囲まれたジョグロ型ガゼボがあり、壁を取り外してすべて吹き抜けにできるようデザインされた母家の後ろ側からは、そのジョグロが水上に浮かんでいるように見える。
二百人収容可能とはいえ、理想的には30〜40人程度だ、とバグスは言う。なぜならこの家を借りた客たちはたいてい、歩き回ったり、プールの端に立つのを好むのだそうだ。「家の中にとどまろうとするひとはほとんどいないよ。」とのバグスの談。

元ファッションモデル、ラティ・ソエがオーナーの、南クマンにあるアールデコ調の家も、行事用ハウスとして貸し出されている。アレキサンドラズと名づけられた二百人収容可能なこの家の表には、ホストがゲストを迎えるための客間がある。実際のパーティ用広間はその客間に面した中庭にあり、そこにはパーティがいつでも行えるガゼボがある。中庭の隅には人工滝を備えたプールもある。
「このプールはこのままでも良いし、舞台でふさぐことも可能です。」とアレキサンドラズの広報責任者スリ・ワヒユ・レストゥニンシは説明する。プールをそのままにしておき、小道に沿って並べたろうそくに火を灯せばロマンチックな雰囲気が作り出される。プールを舞台でふさぎ、プログラム進行のバックグラウンドにバイオリンとチェロのクアルテット音楽を演奏させることもできる。

もしインドネシアの自然が色濃く漂う家での行事をお望みなら、デポッのベジ地区にある陶磁器実業家F・ウィダヤント所有の家を利用するのもよい。1ヘクタールの土地の上に建つその家屋を世話する責任者エンダ・ウィボウォによれば、その家はたいてい家族の集まり、誕生日、学生の送別会、アリサン、ダルマワニタご婦人方の会合などに使われるが、中にはのんびりするためにそこへ来る人もいるそうだ。
床、壁にはじまって部屋部屋に置かれたウィダヤント制作になる陶磁器作品や、かれのコレクションが陳列されている各部屋の調度に至るまで、その家の主人の『署名』はいたるところに見つかる。もしも宿泊をお望みなら、もともとは米倉だった寝室小屋が提供される。

それらのレンタルハウスは当初、そのオーナーが住んでいたものだ。ルマ・アレキサンドラズのオーナー、ラティ・ソエがその家を貸すことになったのは偶然からだ。かの女が自宅で行った行事に招かれた友人たちの間から、家を貸してほしいというリクエストが来たのである。「わたしどもは結局、この前の9月から一般への紹介をはじめました。」ワヒユ・レストゥニンシは語る。
昔アンナ・マトバニの名で知られた歌手、アンナ・バンバンがかつて夫婦で住んでいた個人の住居、ルマ・カルタヌガラも同じだ。インハウスマネージャーのシンタ・ルディヤンタは、アンナが友人たちを何度か招待するうちに、友人たちからその家を借りたいとのリクエストを受けるようになり、最終的にさまざまな行事用として一般に貸すようになった、と語る。
1970年以来ルマ・モルポサに住んでいたバグスも類似の体験を物語る。その家はひとりで住むには大きすぎる、とだんだん感じるようになり、結局その家の根幹をなす三つの広間はあまり使われなくなってしまった。おまけに、建物に木材をふんだんに使っているその家屋の世話をする15人の従業員にかかる費用も小さいものでない。「最初わたしはこの家でよくパーティを開いた。そのうちたくさんの友人が、この家を使わせてほしい、と言い出した。そこで考えたよ。人に使ってもらうよりも、家の補修のために金をとって貸すほうが良い、と。」というバグスの告白。さまざまな行事のアレンジの世話がひとりではやりおおせないと思ったのでバグスは、食事メニュー設定、サウンドシステム、照明やステージセッティング、客の駐車の世話から警備のアレンジまで、ヒュイゼ・ヴァン・ウエリ社をイベント・オーガナイザーに誘うことにした。
ルマ・ウィダヤントはまた違う。1997年にオープンしたその家は最初、ウィダヤントが制作した陶磁器作品のモデルハウスだった。その後、やってくる客の中から、自分の行事のためにその家を借りたい、という声が出はじめ、結局最初は陶磁器見学と陶磁器制作学習プログラムだけだったものが、行事用レンタルハウスへと発展した。土日の公開プログラムは別にして、いまや毎週、10人から30人程度の集まりが平均週三回そこで開かれている。


プライベートな雰囲気のサービスがそれらの行事用ハウスとして利用される家の強みのひとつ。そしてルマ・ウィダヤントにはインドネシア風家庭料理が別の強みになっている。サユールアサム=アサムジャグン、アヤム・スウィル、プルクデル・タフ、プチャッ・ジャントゥンピサン、イカントンコル・バレタン、ルンペイエ、サンバル・チョンブランなどさまざまなインドネシア風メニューからなるセットで10万ルピア前後の値段。料理はウィダヤント制作の食器で供される。

ルマ・カルタヌガラには専門の料理人スタッフがおり、アジア、インドネシア、ヨーロッパ料理が供される。ビュッフェ形式でも客が個別に料理を注文する形式でも可能。それどころか、ワインまで添えられた正餐すら、そこで用意してくれる。
6百平米の土地に建てられたその家のキャパシティは80人前後だが、テントを張ればもっと大勢を収容することもできる。『家』がコンセプトであるため、朝食をとりながらの朝の会合、昼食会、夕方のティ―、そして宿泊まで含む結婚式などに利用されている。「わたしどものコンセプトはお客様に家庭の雰囲気を提供することですので、家という性格から外れないように心がけております。この家にあるものはすべてアンナ夫人の私物でして、さまざまなところへ行ったときに収集されたものです。」と語るシンタ。家という性格から外れないという精神は、壁にかかった絵画、クリスタル燭台、灰皿、食事やお茶を供するときの道具類にいたる細かい点にまで、行き届いている。蘭をはじめバラや百合、その他さまざまな生花は、常にどの部屋にも絶やされることがない。

最高のサービス提供をめざしてルマ・アレキサンドラズは、バレットパーキングを用意し、食事の世話は料理専門家ウイリアム・ウォンソを起用する。「食事はメニュー次第ですけど、たいていひとり10万ルピアを超えます。」とワヒユ・レストゥニンシは語る。メニューを開くと、『フランス風ダック胸肉燻製のメロン添え』や『ほうれん草クレープのスモークサーモン載せ』などが目の中に飛び込んでくる。


行事用レンタルハウスの需要は増加するだろう、とバグスは確信している。アットホームな雰囲気を提供してくれる上に、プライベートな雰囲気や実用性、保安などといったものまで手に入るのがその理由。「多分、自分の家はパーティの場所として使うのに大きさが足りないのだろう。ホテルだと何事も堅苦しくて不自由な感じがするが、ここだとひとはアットホームになれる。そして何でも調えてくれる便がある。」バグスはそう語る。
ワヒユ・レストゥニンシも類似の楽観論を語る。よりパーソナル、より親密、そして自由で自然な雰囲気を求めるひとが増えているから。だがそのプライベートな家という印象を維持するために、ワヒユはその家屋が毎日客に使われることを望まない。家には手入れを受け、世話され、きれいにされ、そして息をつく時間も与えられなければならない、と言うのだ。

それらのレンタルハウスはプロモーション知らずだが、その情報は口コミで広まっている。それらの家にとってパブリック宣伝は無縁のものだ。なぜならそれらは、パーソナルな雰囲気、親しみなどを特徴とする住居としてあり続けることを目的にしているのだから。
ソース : 2003年10月12日付けコンパス


◎★◎
『路上の苛酷さに適応する』

座席を確保してバス乗車をエンジョイしようとしなくても良い。ムアラアンケでサービス業をいとなんでいる会社の販売担当であるイカ27歳の意見はそうだ。「座席の確保には苛酷な闘争が必要なの。わたしは座席が手に入らないことのほうが多い。だから手に入れたもので楽しむっきゃないのよ。」

午前6時、イカは南ジャカルタ市タナクシルの自宅からブロッMを目指して家を出る。ブロッMからはエアコンなしのPatas ( 訳注=cepat dan terbatas特別急行 )バスでムアラアンケへの移動を続ける。 ふだん膝上丈のスカートにハイヒール姿のかの女はいつも、バスがターミナルに入る前に乗り込むよう努めている。イカのような乗客は、停車禁止エリアにいるために徐行しているバスを小走りに追いかけて飛び乗る技術をいやでも身に付けさせられる。だがそんな努力も、座席確保を保証してくれない。ほっそりした身体つきのかの女は、座るよりも乗降口付近で押されながら立つことのほうが多い。
家から会社までの通勤時間は2時間半くらい。「わたしなんかまだ良いほう。ムアラアンケに勤めている友人たちの中で、ビンタロやパサルミングから来るひとは朝5時に家を出てるんだから。」
帰宅にもっと時間がかかるのは、退勤時間帯における交通渋滞のせい。夕方5時に会社を出たイカが家に戻れるのはたいてい夜8時半。
「バスの乗降口付近じゃなくて中ほどに立てる場所が取れたときは、乗っている間小説を読めるわ。」と語るイカはいま妊娠4ヶ月。ふだん同じバスに乗り合う乗客同士で親しくなっているから、通勤は必ずエンジョイできる、とも語る。

勤労者が郊外に居住して毎日都心部へ通勤するというパターンは、大都市での一般的現象だ。厳しい就職競争と土地や借家の高値という環境の中で、職場と住居の近接をはかるのは容易でない。「就職はむつかしいし、職場に近い下宿や家は高い。だから遠いところからでも通勤せざるを得ない。」北ジャカルタ市プルイッ地区の会社員ユニアルティはそう話す。
しかし遠くても交通がスムーズであるなら、短い距離なのに渋滞するのとは話しがちがってくる。職場と住居の間の遠近は意図して選択した結果だが、渋滞は道路利用者にとって選択の余地のないプレッシャーなのだ。
JICAの調査によれば、パサルミングからマンガライまで9キロを、1985年は22.5分で到達できたものが、2000年では58%もアップして35.6分となり、カリドラスからガジャマダ通りまでの14.6キロは、29.5分から51.7分へと75%も余分に時間がかかるようになっている。


経済の中心であると同時にインドネシア最大の交通渋滞都市でもあるジャカルタで働く数十万のひとたちが、スムーズでない道路交通に時間とエネルギーの多くを吸い取られながらも、プロフェッショナルな成果を示すことができているのは賞賛にあたいする。
都民の生産性はジャカルタの道路状況に強い影響を受けている、とインドネシア大学心理学者ウィルマン・ダフランは言明する。エネルギーを回復させるための休憩時間が路上で費やされれば、生産性が影響を受けないはずがない。
路上でのストレスは社会的な人間関係に緊張をもたらす。「その緊張のせいで、些細な摩擦でさえコンフリクトに発展する可能性を持っている。」インドネシア大学社会学者パウルス・ウィルトモの談。
路上で費やされる時間があまりにも多いことは、家族生活にも影響を与えずにはおかない。子供に対して十分な関心と一体感を注ぐ代わりに、両親の時間とエネルギーは路上で使い果たされてしまう。家族の接触にあてられる時間の減少が、たとえば携帯電話のような間接的人間関係で代替可能なものかどうか、まだ十分な議論がし尽くされていない。
渋滞を取り込んで会社からの退勤時間を遅らせるパターンも活発だ。渋滞に会わない帰宅時間を待ちながら、家族と一緒でない、自分だけで行う趣味も盛んになっている。スポーツやリラクゼーション活動、そして都心部にあるカフェや娯楽施設の退勤時間以降の賑わいなども。

こうして週末の休日が、家族のための日となる。だが、休日の渋滞、特に行楽地に向かうルートで起こる渋滞は、レクレーションがもっと大きなストレスの影につきまとわれる結果をもたらす。その一方で渋滞は、インフォーマルセクターの経済チャンスとして利用されている。路上の物売り、乞食、交通整理屋たちが、渋滞の中に糧を求める。ドライバーたちは挙句の果てに、駐車や高速道路利用のときだけでなく、カンポンの道を曲がるさいにも、往々にして金を払わされることになる。

言うだけ言っておこう。音楽を聴いたり、自家用車の中から携帯電話をかけてビジネスしたり、といった快適な活動を行って、路上の渋滞や紛乱からのストレスを篭絡できるのはほんの一握りのひとでしかないことを。エアコンのきいた自家用車内で音楽を流せば、運転の緊張もすこしは解きほぐれる。ましてや運転手が運転してくれて、リラックスして音楽を楽しめるならずっと良い。
しかし道路利用者の大多数は、そんな快適な自家用車の中にいない。かれらは嘆かわしい状態のバスに詰め込まれたり、やけくそスタイルで運転するオートバイに同乗しているのだ。だが人間は、状況が生み出すプレッシャーに対する適応能力を持っている。心理学者ジョー・ルメセルは、ジャカルタの道路利用者も適応行為を行っていると確信している。かれらはアナーキーな路上の状況に適応せざるを得ないのだ。「交通渋滞がストレスを生むのは疑いもありませんが、そんな状況が反復されれば、ひとびとは生き残るためにそれに適応しようとします。」とジョーは説明するが、そんなプレッシャーの中で生き残るために社会が使うメカニズムとはどのようなものなのだろうか?


規則無視の交通、警官が見張っていなければ機能しない交通信号、暴力的で身勝手な運転者。それらは正常な状態ではないのだ。
「ひとは異常な状況への適応を強いられる。結局かれらは生き残るために、異常なふるまい、攻撃的で身勝手な行為を選択する。」とウィルマンは言う。
交通規則は無視され、路上は文化を見失い、礼節を忘れたかのような社会の性格を映し出す。「トーキョー、ソウル、バンコックとどの都市にも渋滞はありますが、渋滞の中でもひとは秩序を守り、ルールに従っています。」と語るジョー。

交通規則は警官が監視してそれを守らせる場合にしか機能していない。たとえば、西ジャカルタ市クブンジュルッ通りをいっぱいにしているミクロレッ運転手たちは、混雑ポイントを整理する警官がいれば、のろのろではあっても交通は流れるようになると確信している。道路利用者の規律はどうして交通規則を監視してそれを守らせようとする警官の存在に依存しているのだろうか?
異常な状況からのプレッシャーの中で、社会の秩序がひとりでに発展することは期待できない、というのがウィルマンの意見だ。「自分が公平に扱われていると社会構成員が感じ、また規則が正しく執行されるようにする警官がいるところで、はじめて社会が秩序立つようになる。しかしいまの警官や陸運局職員がそんな法執行のお手本になり得るだろうか?容易ではない。かれらの給料は十分じゃないんだ!」ウィルマンはそう強調する。
同じ調子で、規律不在は道路構造がもたらした文化遺産だという意見をパウルス・ウィルトモは説く。今ある交通システムは安全を感じさせない。路上犯罪に対して安全でなく、規則が公平に執行されないために安全感がない。

道路利用者は、自分が規則を守ると規則を破る者に横取りされるため、しばしば怖れを感じている。「ジャカルタの路上で礼儀正しい運転者になると、自分の車を走らせる場所がなくなってしまう。」自分でよく車を運転する南ジャカルタ市クバヨランラマに住むヤスミン30歳はそう語る。
規律不在の社会的メンタリティがインドネシアの諸都市における交通紛乱の原因だという説をジョーは否定する。路上で花開いている乱暴者の性質は、路上でひとを人間的にしない交通システムの結果だとかの女は言うのだ。
「これは既存の構造的状況が形成した文化パターンであり、だから社会の文化を悪者にするのは間違っている。構造が改善されてはじめて秩序立てが可能になる。」そう語るパウルスは、構造的な渋滞の最大の責任は国、つまり規則を作る機関と政府にあると考えている。なぜなら構造を作ることができるのは国だけだから。

自家用車での外出を好む都市社会は、既存の構造状況が形成した文化パターンだ。安全感と快適さを備えた公共輸送機関を国が提供できないがために、自家用車使用を優先する文化はいっそう強固になっていく。国家開発企画庁施設インフラ担当長官代理スヨノ・ディクンは、乗物よりも人間の移動を重視している諸外国のポリシーに強いポリティカルウイルを見出だしている。そのような政治的観点からは、ひとを路上で人間的に扱う政策が生まれてくる。
ジャカルタでは、交通渋滞は単なる交通問題を超えた、もっと広くて根深い問題だ。交通渋滞は同時に、政策策定者の思考システムが渋滞していることをも示している。経済社会政治システムにおける企画マネージメントが猥雑であることの見返りとしての渋滞なのである。
いまやジャカルタの道路は、首都が都民に対して与えている苛酷さをいちばん明白に映している鏡なのだ。
ソース : 2003年11月1日付コンパス
ライター: Nur Hidayati


◎★◎
『気を狂わせる交通渋滞』

首都圏住民の通勤時間は日を追って長くなるばかりだ。ブカシ住民のひとりは、都内スリピ地区にある会社まで二時間かかるが、四年前は45分で着いていた、と言う。またかれの同僚のひとりは、ジャカルタ〜チカンペッ高速道路とチャワン〜トマン高速道路とはもう縁を切ったと言っている。つまり、かれが都内循環高速道路を使わなければならない場合は、チャワン〜タンジュンプリウッ〜グロゴル〜トマンと迂回して来るのだ。距離も遠いしガソリンの無駄使いでもあるが、時間はそのほうが早い。
高速道路のブカシ〜チャワン区間とチャワン〜トマン区間の交通渋滞が、いまやすさまじいものになっているのは周知の事実。朝だけでなく、昼も夕方も変わらない。土曜日でさえ、昔は空いていたというのに、いまではたいへんな渋滞になっている。幹線道路や動脈路での渋滞発生も、ますます頻繁に起こっている。だからいま、ジャカルタで車を走らせるのは、忍耐力をテストされているのと変わらない。なぜなら、どんなに寛容な人間でも、絶え間なく巻き込まれる気を狂わすような渋滞に気持ちがくさくさすること請け合いだからだ。

投げつけあうクラクションの響きの合間に、悪態や呪いの言葉が聞こえるのはしょっちゅうだ。「この野郎、道をあけろ!」渋滞する東ジャカルタ市デウィサルティカ通りを通行中のミクロレッM−06の運転手が、自分の前にいる車に向かって吐き捨てるように言う。かれにしてみれば、その車が自分の走行を邪魔しているように思えるのだ。
「いま路上にあるのは、『くそ』『犬野郎』などといった汚い言葉ばかりだ。ひとは路上で怒りっぽい性格に変身している。道路状況があんなだから、気持ちの余裕が失われてるんだ。道路はぎゅうぎゅう詰めで、ちょっと車をこすったくらいでもなかなか収まりがつかない。」東ジャカルタ市チリリタン地区に下宿している会社員パンジャイタン27歳の談。かれによれば、デウィサルティカ通りとオティスタ通りのふたつの大通りを抜けて、チリリタンからカンプンムラユへ行くだけで一時間かかるそうだ。「乗合バスに乗ってそのくらい。オートバイだと15分くらい早い。でも早朝の道路が空いている時間帯だと、その距離はわずか10分で走り抜けることができる。」疲れてげんなりした表情が、そう語るかれの顔に浮き出ている。

交通渋滞。毎日の仕事や所用での移動のために交通機関を利用する必要のあるジャカルタ都民にとって、その言葉はますます脅威の度を深めるばかり。ブカシ、ボゴル、デポッ、タングランというジャカルタ近郊衛星都市の発展につれて、ジャカルタとの間の交通往来も増加の一途をたどっている。あるブカシ市ビンタラの住民は、高速道路つまり東ポンドッグデ線を通らなくなってしまった。かれはいまや、ポンドッコピ〜イグスティグラライ〜チピナンを経てバスキラフマッ通りの端からカサブランカ通りを目指すルートを取っている。「金を払って高速道路を使っても、会社まではやはり2時間かかる。早朝に出社する必要がある場合は、ラワマグン料金所から都内循環高速に乗り、アンチョル回りでスリピからスマンギへ出る。」との談。
高速道路でだけ渋滞が起こっているわけではない。一般道路ではもっとひどい状態だ。幹線道路ですら、スディルマン通りからタムリン通り、そしてメダンムルデカバラッ通りまで、昼間、夕方そして夜になっても渋滞は続く。朝は幸運にもスリーインワンがある。
ジュラガナン通りからスルタンイスカンダルムダ通り、メトロポンドッインダ通りを経てポンドッピナン交差点に至る動脈路でも状況は似たようなもの。「だから交通渋滞にぶつかりたくなかったら、朝は5時から5時半の間に家をでること。夜は10時から10時半ごろになれば、交通はスムーズになる。」南ジャカルタ市ビンタロに住むバンバンはそう語る。
ジャボデタベッ交通総合基本計画調査第一フェーズの結果に見られるように、さまざまなルートにおける到達所要時間は下表の通り長くなる一方だ。

ルート              距離(キロ)   1985年の所要時間   2000年の所要時間
パサルミングからマンガライまで   9.0        22.5分        35.6分
TBシマトゥパンからモナスまで  13.9        38.2分        48.9分
チルドゥッからマエスティックまで  3.9        15.9分        25.0分
カリドラスからガジャマダまで   14.6        29.5分        51.7分

1985年、パサルミングからマンガライまでの9キロは、平均時速24キロで22.5分で走破できたが、2000年では平均時速が15.2キロにダウンし、時間は35.6分もかかるようになった。
交通渋滞はさらに、列車踏み切り事故の可能性を高めている。鉄道公社PT KAIジャボタベッ第一操車区のザイナル・アビディン広報課長は、ジャポタベッにある全6百箇所の踏み切りの中で、事故発生の不安が高まっている踏み切りは増加している、と語る。それは、踏み切り近くで客待ちする乗合自動車やオートバイオジェッが多いためだ。「渋滞するとひとは焦る。自動車が線路上にいるときに列車がやってきても、自動車は前進も後退もできない。渋滞は踏み切り事故を増やしかねない。」同課長はそのように説明する。


首都警察交通局の公式データによれば、2002年の自動車台数は4,596,368台で、道路総延長は6,628,481メートル。すべての自動車を一台一台路上に並べると、身動きできる余地はほとんどない。2003年の今現在、自動車台数は6,506,244台になった。この激しい増加をご想像いただきたい。内訳としては、1,464,626台が自家用車を含む乗用車、449,169台がトラック、バスは315,559台でオートバイは3,276,890台。二輪車も四輪車もやむことのない増加を続けている。150万台前後しかなかった1990年代とは雲泥の差だ。
「ひとが自動車を買うのを規制するのはとても困難だ。自動車の購入は自然な行動であり、それは継続的に行われる。なされねばならないのは交通マネージメントなのだ。」ナウファル・ヤヒヤ首都警察交通局運輸課長はそうコメントする。激しさをつのらせている渋滞がもたらすインパクトは、石油燃料の消費増とあらゆる自動車に対するメンテナンスの増加であり、それらすべてが交通コストを押し上げている。

ジャボデタベッ交通総合基本計画調査の第二フェーズでは、ジャボデタベッ地区の交通渋滞が引き起こす損失は、自動車の走行自体で2.7兆ルピア、長引く走行時間が生み出す社会損失が2.47兆ルピアと算出された。つまり首都圏で発生している交通渋滞は5.44兆ルピアもの経済的損失をもたらしているというのだ。2020年までに交通渋滞が解消されなければ、経済的損失の累積は70.3兆に達する。
注目すべきもうひとつの問題は、家族関係に与えるインパクトである。両親は早朝に家を出て、夜中に帰宅する。交通渋滞が収まる時間を待ちながら、オフィスやカフェで仕方なく時間をつぶしているヤングエグゼキュティブたちは大勢いる。家族、中でも子供たちのためにどれだけの時間を割くことができるのか、想像にあまりある。
ソース : 2003年10月23日付けコンパス
ライター: Nicholash Korano, Susi Ivvaty


◎★◎
『乗入れ規制が交通渋滞を解きほぐせるのか?』

チャワン料金所から都内循環高速道路に入ってくる数台のバスは、左側に傾いでいる。それは、路線番号P6カンプンランブタン〜グロゴル線、路線番号P4プロガドン〜ブロッM線、路線番号P16カンプンランブタン〜タナアバン線などのバス。乗客はぎゅうぎゅう詰めで足の踏み場もない。「アドゥ〜ッ、足を踏まれた!」P4バス乗客のひとりが叫ぶ。ジャカルタのとある夕べ、退勤時の光景。
最初、クブンナナス料金所から高速道路はスムーズに流れていた。それが、流れが遅くなって詰まりはじめ、マンパンを過ぎればもう車でびっしり。バスを閉じ込めて、ひとりしか乗っていない車が数珠つなぎだ。突然一台のキジャンがP4バスの鼻先に入ってきた。とっさにののしり声が運転手の口をつく。

都内バスをはじめとする公共輸送機関の運転手の目には、路上を広く占拠する自家用車数の多さが公道での渋滞の原因をなしていると映る。その自家用車ドライバーたちを何台かの40人乗り都内バスに集めてみてごらん、路上の車がどれだけ減ることか・・・・。
「バスだったら大勢運べる。みんながバスに乗ろうとすれば、路上の渋滞なんかなくなるよ。」P98バス乗務員ダルマの弁。
反対に自家用車ドライバーの一部は、公共輸送機関がしばしば交通渋滞を引き起こしている、と考えている。乗客を好き勝手な場所や道路のど真ん中で乗降させたり、交差点や交通繁華な地点で客待ち停車している乗合い自動車は多い。
歩道や路上で好き勝手に物売りをしているカキリマ商人にその責を帰するひともいる。ボゴール街道、マトラマン大通り、チプリル市場やチプタッ市場、あるいはスネン市場周辺などがその好例だ。カキリマ商人たちは自動車のための一車線だけを残して道路を堂々と占拠している。おまけに、渋滞ポイントを目の前にして続々とオープンしているモールやプラザの存在が、交通渋滞の要因にバラエティを添えている。
結局、年中起こっているジャカルタの交通渋滞の原因はもつれた糸のまま。ひとはただお互いを非難しあうばかり。

しょっちゅう起こる交通渋滞が通行時間を長くしていることは言うまでもない。一車線の最大キャパシティは時速45〜50キロ走行で1千9百台というのが理想的だが、都内で継続的に時速45〜50キロで走行するのはまず不可能だ、と首都警察交通局運輸課長で交通オブザーバーでもあるナウファル・ヤヒヤ警部は語る。ジャカルタの道路における交通量は膨大なものであり、自動車の走行速度がゼロとなる飽和状態目指してさらに増加を続けている。


ジャカルタの自動車台数の増加はもちろんすさまじい。首都警察交通局のデータでは、2003年の自動車台数は6,506,244台。乗用車1,464,626台、貨物運搬車両449,169台、バス315,559台、バイク3,276,890台というのがその内訳。2002年の総数はまだ4,596,368台だった。
乗用車というのはセダン、ジープ,ステーションワゴン、ミニバス、ミクロレッ、サバーバン、救急車、霊柩車、コンビ等。貨物運搬車両に属すのはコンテナトラック、トレーラー、貨物トラック、消防車、ピックアップ、レッカー車。バスに区分されるのは普通バス、マイクロバス、ダブルデッカー(今はもう存在しない)。バイクはスクーター、オートバイ、その他。
1999年に乗用車は18,147台増加し前年増加数から4割増だったが、バイクの増加は14,073台で前年の増加数から6割減となった。2000年の乗用車増は112,244台と前年から6倍を超える伸び。バイクは20,908台の増加。
ところが2001年にバイクの激増が起こった。333,510台の増加は前年のほぼ16倍。四輪車も107,478台の増加。2002年の四輪車台数増は41,918台、バイクは223,896台。2003年は9月までで乗用車が65,839台、バイクが365,811台の増加。
そんな数字を見せられるわれわれは、ため息のつき通しだ。陸橋やトンネルなどの道路建設が自動車の増加とどれだけバランスが取れていないか、議論の余地もない。都内の道路はいまだに全長7千6百数十キロ前後しかないのだ。

首都警察交通局車両番号証明書課長ヌルハディ警部は、STNK(車両番号証明書)とBPKB(自動車所有者手帳)の新規発行申請は毎月増加の一途だ、と言う。だがそれ以外に、ジャカルタからボデタベッ(訳注=BODETABEKボゴール〜デポッ〜タングラン〜ブカシ、首都郊外地区を指す)やその他の地区へ転出する車も多い。ジャカルタで購入しジャカルタのSTNKを持っているが、ジャカルタで使われない車もある。
去る9月の実績を見ると、ジャカルタから他交通局管区への転出は1,885台で、ボデタベッ内が425台、それ以外が1,460台。購入された自動車がある時点で一斉に使われ始めるわけでもない。
「ガレージには1台しか入らないのに、車を三台も持っている人は多い。結果的に路上駐車が起こる。車を全部使っているわけじゃないが、道路に渋滞が起こるのは同じだ。」ジュマルノ南ジャカルタ管区交通局統合サービスセンター長の談。
自動車購入を禁止するのは不可能だ。「経済状態が向上すれば、それは自然に発生する。できるのは路上での規制だけだ。」と語るナウファル警部。その規制のひとつがスリーインワン。その件に関連して首都警察は、スリーインワン実施時間内外でのスディルマン通りの交通状況を調査したことがある。チェースプラザ付近にモニターカメラを置いて一日の交通状況を調べたところ、スリーインワン時間帯での交通の流れはたいへんスムーズだったことが確認された。スリーインワン違反者への厳重な罰則を行えば、ドライバーたちはそのエリアへの乗り入れにもっと慎重になるだろう。
「スリーインワンが失敗だなどと、いったい誰が言ってるのかね?問題にされるべきはジョッキーの出現であり、それは政策上の副産物だったが解決策はかならずある。スリーインワンを夕方も行うことをどう思うかと聞かれたなら、わたしは当然賛成だ。賛成しないはずがない。別の方法として、たとえば駐車料金を高くする、というのがある。一時間の駐車料金が1万ルピアになれば、自家用車の使用を考え直すひとが増えるだろう。その方法は実施可能だが、反生産的かもしれない。インドネシアのような発展途上国では、スリーインワンはかなり優れた政策だとわたしは思う。」ナウファル警部はそうコメントする。

首都警察交通局副理事のシャフルディン副警部正は、路上走行が許される自動車を製造年で規制することもできる、と言う。また自動車の性能検査を実施することでも可能だ。道路走行に不適当な自動車は路上通行してはいけない。しかし国民も行政側も、その政策を受け入れる準備がまだできていないようだ。
「バリとバタムでは、自動車の走行規制がうまく行っている。製造されてから10年を超えた自動車は走行禁止。道路のキャパシティが不足しているという理由で、バリでは成功している。ジャカルタではどうだろうか?都民はそれをはじめることができるだろうか?」
イルザル・ジャマル都庁開発担当補佐官は、大量高速輸送機関を建設することでの公共輸送改善と自動車規制の実施は同軌させなければならない、と語る。2004年年初に運行が始まるバスウエーとやはり2004年に建設が開始されるモノレールは、大勢の人を自家用車から公共輸送機関に移行させ得るものと期待されている。
バスウエーつまり専用車線バスの第一フェーズは、ブロッMからコタまでの12.9キロを通る。トランスジャカルタ社は一台で30の座席に立ち乗り55人の収容能力を持つ特製バス50台の準備を進めており、そしてまた施設建設は全21箇所のバス停のうち19箇所(2箇所は完成済み)が大車輪で進められ、遅くとも2003年末には完成が予定されている。
4億ドルを投じて造られるモノレールの第一フェーズは、トゥベッからサハルジョ通り、メンテンダラム、カサブランカ通り、アンバサドル、ダルマラサクティ、ムナラバタビア、カレッ、クブンカチャン、タナアバンセントラル、プトジョ、モナスから終点ハルモニーという全長24キロのルートを通る。その単線工事の完成は2006年が予定されている。
ソース : 2003年11月1日付けコンパス
ライター: Susi Ivvaty


◎★◎
『スリーインワン、遊び半分プログラム?』

西ジャカルタ市クドヤ地区のある民間会社に勤めるスラメッ49歳は、都庁が乗車人数規制エリア制度つまりスリーインワンの時間を増やす計画をしている、と聞いてがっくりした。「はあ?なんだって?間違ってんじゃないの?朝だけでもジャカルタの交通渋滞は何も良くならないのに、もっと時間を増やす?都庁はおかしいんじゃない?」スラメッはそう言う。
スリーインワンを筆頭に、都庁の交通行政は遊び半分だ、とかれは思っている。「わしの記憶じゃあ、チャワン〜グロゴル高速道路が開通したとき、そこを通ろうという車は数少なかった。みんなガトッスブロト通りの方を通ってたよ。高速道路があまり使われないもんで結局都庁は、渋滞緩和という名目でスリーインワンの実施を了承したんだ。」
四人の子供の父親であるかれは毎日、ガトッスブロト通りを通って会社へ通勤している。ほかに誰も乗っていない車で、乗車人数三人未満の車の通行が禁止されているエリアをどうやって通り抜けるか、という問題とかれは毎日闘っているのだ。

時にはジョッキーを雇うこともある、とスラメッは物語る。ジョッキー二人に払うのは普通3千から5千ルピアだが、それよりもクニガン交差点でとぐろを巻いている三人の警官の目をかすめる方がよっぽど多いと告白する。「警官はたった三人だけ。そこを通過する自家用車はいっぱい。大混雑している中で全部の自家用車を調べることなんかできやしないよ。そんなことをすれば交通渋滞がひどくなるばかりだ。」
スリーインワンが始まって以来、乗車人数違反で警官に停められたのはわずか二回だけだ、とスラメッは語る。二回とも和解方式で決着させた。「そんな状況で、時間をもっと増やそうというのか?朝ですらうまくいかないのに、夕方がうまくいくわけがない。朝のスリーインワンを知恵をしぼって違反しているやつは、夕方も同じようにやるに決まってるよ。疑問の余地なしだ。」スラメッは自信たっぷりに意見を述べる。


乗車人数規制エリア制度つまりスリーインワンの時間帯を増やす都庁の計画に驚いたのはスラメッひとりではない。スディルマン通り周辺の民間企業に勤めるヘンドラ・アリフィンも、朝のスリーインワンプログラムが交通状況を改善する方向には役立っていない、と言う。「道路は渋滞しっぱなしでスッキリしない。エリアの中では、ひとりしか乗っていない車が目の前を通っても警官は何もしない。ましてやそれが赤ナンバーの公職高官だったらなおさらのこと。」
ジャカルタ都民フォーラムのコーディネータ−、アザス・ティゴール・ナインゴランは都庁の姿勢を批判する。「朝のスリーインワン政策の見直しをしようともせずに、都庁は16時30分から19時00分までの時間帯を実施時間に加えようとしているが、その新たな時間帯の追加は道路交通の渋滞と混乱をいっそう激しいものにするおそれがある。今でさえ、適切な代替公共輸送機関がないために、車内にひとりふたりしか乗っていなくても、ひとは自家用車を使うことをやめようとしない。いまの交通の混乱を都庁が本気で改善したいなら、スリーインワンを含めたすべての交通プロジェクトやプログラムおよび政策の見直しをまず行うべきであり、バスウエーを含む新たな計画はすべて延期しなければならない。首都の公共輸送事業を破壊し、交通混乱を引き起こすのに大きな役割を担っているのは都庁交通局自身だ。首都の交通問題解決のための代替システム作成に関して都民に問いかけしたことなど一度もない。今回のスリーインワン時間帯追加のように、あるのは目標と詳細のはっきりしない部分的なプロジェクトを打ち上げるばかり。おかげで、施行されるジャカルタの交通整備プロジェクトは、問題のトータル的解決には向かわず、個々の政策がたがいに効果を打ち消しあっている。」

ひとつの政策が世間で賛否両論を生むのは普通のことだ。このスリーインワンの時間延長計画も同じこと。スディルマン通りに勤める西ジャカルタ市クラパドゥア住人、シシリア35歳はその計画を肯定的に評価する。「スリーインワンは悪くないわよ。乗車人数規制の規則を都庁がどこまで本気で執行するか次第。適切な大量公共輸送機関を用意してやれば、ひとは徐々に自家用車から公共の交通機関に移って行くんじゃない?」
元都議会第C委員会議長で、現第D委員会メンバーのアマルラ・アスバ議員も、スリーインワン時間延長計画に賛成だと語る。そしてプログラムの整備改善と大量公共輸送機関設置が急務であると強調している。
本当はスリーインワンの是非が問題なのではないのだ。都民にとっては、ジャカルタから交通渋滞をなくすのにどうすれば良いのか、ということが問題なのである。
ソース : 2003年5月8日付けコンパス


◎★◎
『スリーインワンという名の両刃の剣』

2003年4月20日は、自動車に乗っている人数での通行制限を行うスリーインワンと呼ばれる交通規制地区を都庁が設けて、いつの間にやら11年が経過した日だ。その間スムーズな交通は実現せず、スリーインワン・ジョッキーという新しい問題を生み出しているというのに、都庁はその方針をさらに続けようとしている。それだけでなく、これまではガトッスブロト通り、スディルマン通り、タムリン通りで朝6時半から10時まで行われていた規制をこんどは夕方4時半から夜7時まで追加しようとしているのだ。

都庁が何をしようと、ジャカルタの交通が休日や日曜日の朝のようにスムーズに流れることは、決して保証されないだろう。ジャカルタの交通渋滞はもはや慢性病となっており、そして問題は総合的な対応の不在なのである。
首都の交通状態の悪化に伴って、さまざまな分析と解決案が投げかけられた。交通渋滞は道路総面積と車両台数のバランスが崩れているのが原因だ、ととらえるひとがいる。道路幅の拡張や新道路建設で問題を解決できると言うのだ。また一部の人は、都庁があまりにもルーズに自動車所有を許可する結果、自家用車の数が増えすぎたので、自家用車の台数を制限するのが渋滞解消の最善策だ、と言う。毎月市場に新車が登場し、ジャカルタの住民がそれを買っているのは、たしかに否定できない事実である。国内では何万台もの四輪車が生産されているのだ。

『自家用車の数を制限するのは妥当性に欠ける。なぜならこれはジャカルタの公共輸送システムが不完全なところから浮上してきた問題なのだから。』と考えるひともいる。もしも公共輸送機関が『安全、快適、時間に正確』となれば、ほうっておいてもひとは自家用車を買わないのではあるまいか。公共輸送機関が現状のようなありさまでは、政府が自家用車の使用を禁止したり制限したりするのは、決してうまく行くはずがない。ましてや自動車業界が、新車にせよ中古車にせよ、自動車購入の便宜をはかっているのが実態なのだから。
自家用車の増加は、都民のふところ具合が良くなったからということの結果ではなく、都民が公共輸送機関の利用に疲れ、げんなりし、安全さも快適さも享受することができなくなっているためなのだ。整然と秩序だった都市開発などどこにもなく、おまけに公共輸送に携わる運転手の傍若無人のふるまいが交通コストを押し上げている。
自家用車ドライバーたちに秩序も規律もないことが渋滞の原因だという議論もある。ほかの車の前に出たいドライバーは、自分のいまいる車線、右側車線、左側車線という三つの車線を使っている。

乗車人数規制エリア制度の延長が話題になって二週間たったいま、スディルマン通りに変化は見られない。午前10時前の道路状況は普段よりも少し空いている。取締まる側を注意して見ていると、ひとりあるいはふたりしか乗っていない車をときおり警官が止めているシーンが見られる。その仕事を手伝うべき都庁交通局職員の姿はどこにもない。結果的に、ひとりしか乗っていない多くの車が、規制エリアにどんどん進入して行く。
そんなドライバーたちが警察に捕まったときの処理をどのように行っているのかよく分からないが、たいていのひとが2万ルピアから2万5千ルピアを警官に渡す『和解方式』を採用しているように思える。規制エリアに入る手前の道路上には相変わらず、乗車人数が三人になるようにドライバーに付き合うサービスを提供するジョッキーの姿がたくさん見受けられる。
取締まりが厳重でないために、規制エリアにゆうゆうと入って行く違反自家用車も多い。警官が見張っているといっても、かれらはガトッスブロト通り、スディルマン通り、タムリン通りの角に立っているだけなのだ。


コンセプトの中でこの交通規制エリア制度は、公共大量輸送サービスの改善とセットにされていた。そうであるなら、公共輸送機関が三つの幹線道路を通る都民の移動の足をもっぱら供給していたはずだ。ところが現実には、11年前に約束された公共大量輸送機関がいまだに実現していない。それはサブウエーからバスウエーへと、先行き不明な転変を続ける話題の域を出ていない。
先週のジャカルタ交通討議会でプラギ・プログラムのマネージャー、ジャック・スマブラタは、乗車人数規制つまりスリーインワンは、首都の行政商業中心地区における人と車の移動のトータルバランスを目指した交通規制政策のひとつでしかない、と述べた。11年前、この政策はトライアルの出だしからとても厳重に開始された。ドライバーも規定を守り、乗車人数が三人になるようにと女中や子供を乗せることまでした。中には道端で同乗者をひろうドライバーもたくさんいた。
そして一年後、この規制エリア制度は、のちにスリーインワン・ジョッキーとして知られるようになるひとたちへの新たなジョブの創出という展開をもたらした。新しい問題というのがそれだ。都庁はかれらジョッキーを、規制エリア入り口一帯にいる社会福祉問題障害者と定義付けた。

規制エリア制度実施前、ラッシュ時間帯における幹線道路上の自家用車内にいる乗車人数は、ひとり45%、ふたり37%、三人10%、四人4%、五人以上4%というものだった。制度開始後14ヶ月たった1993年6月、自家用車の割合は以前の85.9%から69.2%へと減少した。それは公共輸送機関の比率が14.1%から30.8%に増加したことを意味している。
乗車人数単位での車両台数は、規制時間外の三時間で20,658ユニットだったものが、規制時間帯では12,109ユニットへと41.4%減少し、ブロッM〜コタ間13.6キロ(いまは12.9キロになっている)の自家用車による到達所要時間は、規制時間外の43分に比べて時間内の35分という成果を示した。それは時速19.0キロから23.3キロへという平均時速の向上を意味している。
ところが、それらの成果は多くの障害の出現で2002年まで維持されることはなかった、とジャックは語る。規制エリアを避けて代替ルートを求める車がエリア外に大きな渋滞を引き起こしたこと。最低3千ルピアで相乗りサービスを提供するジョッキーの出現。また自家用車が住宅エリアで同乗者を求め、月額1万から2万5千ルピア、あるいは一回3〜4千ルピアの有料サービスを行うようになったことなど。


それらの要因が規制エリアでの自家用車利用増に大きい影響を与え、道路交通の効率は悪化し、政策の実施効果が失われた、とジャックは分析する。
イルザル・ジャマル都庁開発担当補佐官も効果があがっていないことを認める。「朝の規制実施はほとんど効果がない。だが都庁は時間の追加を計画している。従来は朝だけだったが、こんどは夕方の帰宅時間帯にも実施する予定だ。」スティヨソ都知事一行がコロンビアのボゴタへ交通行政スタディツアーに出発するのを一週間後に控えた最終準備ミーティングのあとでイルザル補佐官はそう語った。
効果がないのを知りながら、なぜ時間を増やそうとするのだろうか?ルスタム・エフェンディ交通局長は「効果があがるようにわれわれがしていくのさ。」と答えた。
ジャカルタ都民フォーラム執行部コーディネーターのアザス・ティゴール・ナインゴランは、夕方に規制時間帯を追加しても交通渋滞緩和は実現しないだろう、と語る。朝の時間帯で規定に従わない自家用車ドライバーは夕方も同じようにするはずだ。代替路に入ったり、ジョッキーを使ったり、高速道路を使ったり。大量公共輸送機関を用意して自家用車の使用減をはかるという援護策が伴われないかぎり、規制時間帯を増やすことがどのようなインパクトをもたらすかは想像にあまりある。
2005年首都都市整備総合計画でも、一日あたりの交通量は252万トリップになることが想定されている。交通往来の量的増加は道路への負担をもたらす。既存キャパシティの限界にその負担が近付けば、快適、安全、経済性の欠けた道路交通を生み出す交通渋滞が引き起こされる。都庁が出した首都の持続的開発ストラテジーの中で、交通渋滞のベースになっている問題は交通インフラの増加が自動車の増加に追いついていないことだと概論できる、と述べられている。言い換えるなら、交通渋滞は需要に対する供給サイドの弱さを示すインディケーターだ。
自家用車が公共輸送機関よりも道路スペースを浪費することは認めなければならない。例を示すなら、50人を運ぶのに公共輸送用大型バスが一台あれば可能だが、自家用車でそれだけの人数を運ぼうとするなら少なくとも6台は必要だ。バス乗客ひとりあたりの道路スペース占拠は0.75平米だが、自家用車だとそれが3.3平米になる。道路利用者の公衆道徳レベル、道路インフラ、交通機関の不足不備は別にして、各所の路上で交通渋滞を引き起こしているバックグラウンドがそれなのだ。

ジャカルタの道路行政サービスも憂うべきレベルにある。自動車は年間9%も増加しているというのに、道路面積の増加は5%しかない。1990年の車両台数1,649,037台は1994年に2,252,925台になった。ジャカルタの交通整備は手のひらを返すように簡単にいくものではないし、それはもう壊滅状態だという声もある。首都の交通渋滞緩和のために乗車人数規制エリア制度を継続し、実施時間帯を増やすのは、両刃の剣のようなものだ。
あとはスティヨソ都知事、交通局長、公共輸送事業家たちのボゴタにおけるスタディツアーの結果を待つばかり。混乱のきわみである首都の交通行政を改善し、ジャカルタを人道的な都会に作り上げるよう、戻ってきたかれらの気持ちがまだフレッシュなあいだにリマインドさせる必要があるだろう。もはや俄仕立てで断片的な交通整備コンセプトを産み落としているときではないのだ、と・・・・。
ソース : 2003年5月8日付けコンパス


◎★◎
『スリーインワンを避けるのに大わらわ』

自家用車一台の中に最低三人が乗車していなければならないというスリーインワン政策の違反者に対する法的処分が始まって二日、それが与えたインパクトは並外れたものだった。朝10時と夜7時を過ぎた乗車人数制限区域を含めて、全首都のいたるところに渋滞が発生した。いちばんたいへんな目にあったのは、言うまでもなく制限区域近辺に勤めているひとたちだ。

たとえばジョコ・ルロノ。かれはいつもの習慣を変えなければならなかった。タムリン通りにあるウィスマ・ヌサンタラのオフィスに着けるよう、かれは朝5時45分に家を出た。なぜなら東ジャカルタ市ポンドッコピ−に住むジョコは、チピナンにある学校に子供を送り、そこからプガデガンに行って子供をおろし、そのあとかれと妻はテンデアン〜クニガンを経てガトッスブロト通りのテルコム社屋横の道に出てくるのだ。
二人しか乗っていなくとも、従来クニガンの制限区域入り口だけが監視対象だったので、かれは区域内をそうやって走行していた。ところが今度は区域内がすべて対象となったため、かれは自動車を妻の会社に預けざるをえなくなった。そこからかれはメトロミニS−604に乗ってウィスマ・ヌサンタラの前で降りる。エグゼキュティブがびくびくもののメトロミニに乗らなきゃならない!
普段からパリっとしたかっこうをしているかれは、退社後またメトロミニで妻を迎えに行く。ふたりにとって面倒なのは、夜7時を過ぎなければ帰宅できないこと。「二時間も待つと、まるで三年も待ったように思える。」とジョコは言う。

タムリン通りの銀行職員スシ・イスワンディ29歳もたいへんな目にあっている。これまでかの女はいつも夫が自家用車で送ってくれていたが、26日午前6時、ブロッMターミナルのトランスジャカルタバス停にかの女の姿があった。
「こんな状況って、わたしたちには難儀よ。わたしが『どうしても送って』って言えば、夫はたいへんなことになるじゃない。それでジョッキーなんか使えばまた出費が増えるし。」ファトマワティ通りに住むかの女はそう語る。実は、スリーインワンが区域内前面施行となって以来、相乗りジョッキー料金はそれまでのひとり2千ルピアから近距離で3千ルピア、遠距離だと最高で1万ルピアにまで上がっている。警官に捕まるリスクも別にある。「あんな公共バスに乗るのも不愉快だし。早起きして、座れるように早く行って並んで・・・・。」スシはそう本音をもらす。

制限区域を避けて代替路を通るのは多くの人が行っている。結果は、代替路が車でびっしりの大渋滞。スディルマン通りの銀行職員スギオノがジョッキーを乗せたのはそれが理由だった。災難にも、かれは警官に捕まった。ところが幸運なことに、警官は違反切符を切らず、制限区域から出て代替路を通るようにかれに命じた。
スリーインワンをあしらう別の方法は、グラハ・ブアナタラインダプルマイ(BIP)に入居している事務所に勤める職員たちが行っている、ガトッスブロト通りを通るやり方。会社は夕方6時に終わるが、かれらは夜7時まで事務所でぶらぶらしている。そのビルの警備員、スルヨノは「外に警官がいるかどうかを事務所の連中が頻繁に聞いてくる。いたらかれらはじっと待ってる。」と語る。問題は、帰宅時間を遅らせると、電気の使用量が増えること。当然それは会社の経費増となる。グラハBIPに事務所を構えている会社は、電気使用時間をビル側と決めているのだから。

スリーインワン時間延長のインパクトは多くの会社が深刻に受け止めている。会社の中には結局、勤務時間を適応させたところがある。石油天然ガス執行庁は、それまで朝7時半から夕方4時までだった勤務時間を、朝7時から夕方3時半までと27日から変更した。ほかの会社に勤める大勢の社員たちも、会社の繁忙時間にスリーインワンが実施されていることを嘆息する。かれらは社外でのミーティングや顧客訪問などといった社用の外出が困難になったのだ。「社外で何かあるときは、仕方ないのでオフィスボーイを連れて行ってますよ。」ジャムソステッ広報員プラスティオ・ジャティの弁。


嘆きのビジネスマン
スディルマン〜タムリン沿いのビル管理者たちからも、テナントのビジネス活動に障害が起きていることで、苦情が出されている。プラザBIIのデワント・プルウォウトモ、ビル管理部長は、スリーインワン実施の三週間前に主に外国人の入居顧客からその影響に関する質問が相次いでいた、と語る。かれらは朝9時から10時ごろ、クライアントとビジネス交渉のためのミーティングをよく持つし、スディルマン〜タムリン界隈のよそのビルに用事があって出かけることも多い。
心配なことに、デワントもジョコ・ルロノも、多くの入居企業が事務所の移転を考えはじめた兆候を既にとらえている。「ビル経営者に大きな損失をもたらすだろうことは言うまでもない。」と語るジョコ。オフィスビルのテナント募集が難しくなっているのも不思議はない。プラザバピンドのビル経営をしているPT Gunung Sewu Inti Management のビルディングマネージャー、ブンタラン・ウィビサナによれば、制限区域外からビルへの出入りはどのようにできるのかという質問をテナント希望者のほとんどがしてくるのに大わらわで答えているそうだ。スリーインワンを避けてビルに出入りできるルートを誰もが気にしている。
制限区域にあるオフィスビル経営者は、初期ステップとして裏門を通るアクセス路を拓こうとしている。プラザBII,ムナラタムリン、BPPT応用技術研究庁、インドネシア銀行そしてさらに多くのビル経営者たちがそれを行っている。「当方のテナント顧客の苦境を都庁に訴えることをいま検討している。どうであれ、共通利益のためなのだ。」デワントはそう言う。プラザBIIには40社が入居し、駐車場は1千台の収容能力がある。ムナラタムリンは60社が入居し、駐車場は6百台の収容能力。BPPTは11の役所と民間会社が入り、駐車場は1千から1千5百台収容可。

スリーインワンの別のインパクトは大勢の社員の遅刻。ウィスマキョーエイプリンスとプリンスセンターオフィスビル群の駐車場係員は、多くの職員が朝10時を過ぎてからやってきて、夕方4時前に帰っていく、と述べている。


近道
いちばん普通で、しかも都庁が望んでいることは、代替路が利用されることだが、常に容易であるとは限らない。悪化の一途をたどる交通渋滞を突破するつらくて長い闘争のほかに、オフィス街の裏にある狭い小路を巧みに運転しなければならない。おまけに制限区域周辺のオフィスビルがみんな裏道から入れるようになっているとは限らない。そのためにかれらは職場に到達するために、多くのオフィスビル駐車場を出たり入ったりしなければならないのだ。グラハBIP内の会社に勤めるひとの例を見てみよう。
ガトッスブロト通りに面しているそのビルは別の出入り口を持っておらず、帰宅しようとする社員はどうしても制限区域に乗り入れざるをえない。だからビル敷地内から出たかれらはビルのすぐ右隣にあるウィスマ・アルゴマヌンガルの方へ車を走らせる。これはきっとキチガイ沙汰なんだろうが、仕方がない。早く家へ帰るためには、びっしり大渋滞している交通の流れへの逆送をあえて挑むのである。ちょっと通してもらうだけ。そうしてそこを出たらSCTV社に入る。やっとそこからオフィスビル街裏の道を抜けて代替路へと進んで行くことができる。そのためにかれらは駐車料金を4千ルピアも支出しなければならない。スリーインワンから逃れるために。
SCTVから出ればほっとする。少なくともカレックニガン通りを経てドクトルサトリオ通りに行けるから。そしてそこから渋滞を突破する闘争がはじまるのだ。カンプンムラユ方面、ラスナサイド〜マンパン方面、カレッ〜パサルバルからタナアバンやプジョンポガン方面に向かう、サトリオ通りを端から橋まで埋め尽くした大渋滞を。ガトッスブロト通りにあるマンディリ銀行、ムナラジャムソステッ、ムナラムリアやスディルマン通りのウィスマメトロポリタンなど、裏に出られるルートを持っているビルで働くひとびとも、同じ問題を体験する。
ムナラジャムソステッの駐車場運営者ダニは、朝の代替路の渋滞に嘆息した。「午前6時半からマンパンの代替路は車でびっしり。オジェッでサーベイしてきたけど、二度と通りたくないね。こりごりだ。」


渋滞の移転
起こっている難儀を見て、大勢の都民が夕方のスリーインワン実施政策の効果に疑問の声をあげている。なぜならこの政策は、ひとが家を早く出て、夜遅く帰るようにしていることが明白だから。すべての自家用車利用者がトランスジャカルタバスに乗ることを期待するのはむつかしい。なぜなら専用車線を走るそのバスはブロッM〜コタ間ルートしか運行していないのだ。ブカシ、デポッ、タングランの住民はどうやってトランスジャカルタバスの停留所にたどり着けばよいのか?容易ではない。並外れた渋滞のせいで時間がかかるだけでなく、費用も余分にかかる。
ブカシのビンタラに住むひとの例を見よう。かれはフィーダーバスに乗るためにラワマグンへと向かう。家を出てベチャに乗り、ポンドッコピーまでのアンコッに乗り継ぎ、やっとラワマグンへ向かう。トサリ・バス停に着いた時点でかれはもう片道9千ルピアを使っている。もし自家用車なら一週間分の燃料費に10万ルピアあれば十分なのだ。
より深刻な別の問題は、早朝に家を出て夜中に帰宅しなければならないことが、家族メンバーの間の関係を損なっていくという不安なのである。
ソース : 2004年1月28日付けコンパス


◎★◎
『バスウエー、都民へのニューイヤープレゼント?』

最近、スディルマン〜タムリン〜マジャパヒッ〜ガジャマダそしてハヤムウルッ通りに沿って、急ピッチの工事が進められている。さまざまな工事は尻に火がついたような忙しさ。植木を犠牲にして中央分離緑地帯にバス停留所を設け、既存の歩道橋のコンクリートを削ってその停留所に向かう階段を造り、バス専用車線とほかの車線を隔てるセパレーターを敷設し・・・・。こうして道路の混雑は激しさを増すばかり。

ここ二年間の首都都市開発について話す場合、バスウエーへの言及なくしては完璧と言えない。それは都庁ならびにその管下の諸官庁がジャカルタの公共輸送システムと交通パターンを改善するという約束を述べ立てるばかりである一方、都民は首都の交通渋滞が軽減すらされないのに辟易しているからだ。
バスウエーのことはまだご記憶にあるだろうか?十年前に流産した実績を持つ南ジャカルタのブロッMからジャカルタコタまでのバス専用路線を作るという建設プロジェクトによく似た計画を、都庁は二年程前、正確には2002年1月に打ち出した。2003年も終わりに近づいた11月半ば、全長12.9キロのそのルートを通行するひとはきっと、バスウエーの話題を口にしたに違いない。なぜならそこでは、いまやバスウエー工事がまっさかり。バス停やバス専用路線のための歩道橋や接続階段などといったインフラ建設に、工事作業者たちはかかりきりなのだから。

南ジャカルタのパンリマポリム通りからシシガマガラジャ通りを経てスナヤン地区にある青年の像ロータリーに至る道路の中央分離緑地帯は、地面が掘り返されて目を覆いたくなるありさまだ。現場作業者の話しでは、車線を広げるために中央分離帯は元の幅から1メートル削られる予定だそうだ。さらに総延長1.5キロのその路線は左右両端も70センチの幅で削られるとのこと。
スディルマン通りからタムリン通りにかけては、中央分離緑地帯の数箇所がトタンで覆われているのを目にする。ただ一箇所だけトタンに装飾が描かれているが、ほかの場所は生地のまま。それらのトタンは、バスウエー建設工事がそこで行われていることを示している。
道路に緑陰を作っていた直径40センチを超える巨木は切り倒されたようだ。それより小さい木は基礎工事の掘り跡に覆われてあとかたもない。おまけにハルモニー、ガジャマダプラザ、プラザハヤムウルッ、ホテルメルキュール、ラジャマス前からコタ駅にかけての一帯では、トタン板が緑地や川を見えなくしている。

パンリマポリム通りからスディルマン通りを経てコタに至るルートのあちらこちらでは、たとえばスナヤン第一ゲート、首都警察本部前、マンディリ銀行ビル前のように、ノックダウン方式バス停留所の土台工事で鉄杭が打ち込まれている。一方、ダビンチビル、ダナモン銀行、ホテルメルキュールの前では、鉄杭が打ち込まれたあと、鋼鉄製階段の設置工事が始まっている。階段設置工事の一部をなす既存の歩道橋の一部を削ってその階段につなげる連結工事も進められている。
ルスタム・エフェンディ首都交通局長は、バスウエー施設建設工事の中に歩道橋やバス停の建設が含まれている、と語る。既存の歩道橋は、中央分離緑地帯に造られるバス停に下りていけるよう、デザインしなおされた。鋼鉄製のアクセス階段は1対9の比率で特に設計されたものだ。既存の歩道橋は1対2の比率。当初計画にあった21のバス停アクセス歩道橋の中で19箇所が建設される。アクセス階段はショッピングセンターにあるエスカレータのような格好になるが、それは動かない。「建設工事期間中、中央分離帯にある工事現場は保護板で覆われるが、それは作業者の安全を図るのが目的だ。」ルスタム局長はそう語る。

すべて公共の場におけるスムーズな交通の実現という目的のためだそうだが、本当だろうか?交通現場では話しが違っている。その建設工事は新たなトラブルを生んでいるのだ。バス停の建設とバスウエー専用車線セパレーター敷設は、首都の心臓部の交通渋滞に拍車をかけている。そのルートは交通量のとても稠密な路線であり、毎日大渋滞から免れようもないという状況をその工事がもっとひどいものにしている。スディルマン〜タムリン通りが三車線でさえ渋滞しているというのに、それが二車線になればどうなるのか、考えるまでもないことだろう。歩道橋にアクセス階段を連結する工事も別の問題を生んでいる。毎日その歩道橋を使っている都民の足に障害を与えているのは明らかだ。その路線沿いに植えられていた木が切り倒されるのも、都市美観を損なう別の問題だ。交通渋滞緩和、交通アクセス促進、都市美観の維持などと称していることの実態がこれなのか?
伐木は明らかに、「豊かな緑」というスティヨソ都知事のジャカルタ緑化プログラムに矛盾している。インドネシア銀行敷地周辺の三本の木が切られたときの騒動は記憶にあるだろうか?あの事件は法廷にまで持ち込まれた。英国大使館構内の年経た熔樹が刈られた事件は?そしてマンガラワナバクティ前にある公園に広告塔を建てたときの伐木は?手のひらを返すような、バスウエーのための伐木はいったいどういうことなのだろうか?
イルザル・ジャマル都庁開発担当補佐官は、美観とは個々人の感覚の問題だと見る。すべての人間の美的感覚が完全に一致するのはむつかしい。バス停と歩道橋の建設が、好むと好まざるとにかかわらず、何物をも犠牲にしないということはありえない、とかれは確信している。すべての抗議を聞き入れなければならないわけではないのだ。
イルザル補佐官は、木は切り倒されておらず、掘り起こされて都庁公園局の種苗園で養生されており、可能な限りバス停の合間に植えなおされることになっている、と安心させてくれる。マウリツ・ナピトゥプル都庁公園局長は、緑地整備はジャカルタのマクロ交通システム建設というより大きい命題のために一歩譲っており、伐木は避けようのない、仕方ないことなのだ、と説明している。


何回も変更を重ね、最終的にコロンビアの首都ボゴタで行われているバスウエーが採用されることになったが、そのコンセプトにしたがってブロッMターミナルからコタ駅までの間に、鋼鉄製歩道橋を備えたバス停が、ホテルメルキュール、プラザハヤムウルッ、ガジャマダプラザ、ハルモニー、首都警察本部、ウィジョヨセンター、ラトゥプラザ、アルアズハルモスクの前で建設される。
インドネシア銀行、サリナ、ホテルウエスティン、ドゥクアタス、スティアブディ、ウィスマダルマラ(ダビンチとダナモン)、BRI銀行、BPNのバス停はコンクリート製歩道橋で、一方、ラジャマスと国立博物館のバス停には横断歩道型のペリカンが造られる。

バスウエー建設資金は全額が都庁会計でまかなわれるのでなく、スポンサーからの出資が一部ある、とルスタム局長は説明する。コタ駅、サリナ、BPNのバス停工事に民間のスポンサーがついているというが、その三箇所の工事に誰がスポンサーとなり、いくらの出資がなされるのかはまだ非公開とされている。
それ以外は2003年度予算と追加経費予算が都庁会計でまかなわれる。バスウエープロジェクトの予算は当初の540億ルピアから1,180億に膨れ上がった。2002年度予算に540億ルピアが計上されたが、支出請求40億ルピアの中で実際に使われたのは24億ルピアだけだった。2003年度予算では862億ルピアの追加申請が出され、そして予算修正でそれが1,180億に膨れ上がったのだ。
一方バス停は、建設コストに応じて三つに区分される。15億ルピアのAタイプはコタ駅、ラジャマス、国立博物館、ホテルウエスティン、ブロッMターミナル。5億ルピアのBタイプはインドネシア銀行、サリナ、プラザインドネシア、ドゥクアタス、スティアブディ、ウィスマダルマラ、BRI銀行、首都警察本部、ウィジョヨセンター、ラトゥプラザ、アルアズハル。5億ルピアを切るCタイプはホテルメルキュール、プラザハヤムウルッ、ガジャマダプラザ、ハルモニー。


10月から12月までの三ヶ月間でバス専用レーンのインフラ建設が完了できる、と都庁は楽観的。全21箇所のバス停のうち19箇所(2箇所は完成済み)と歩道橋(うちふたつはエレベーター完備)、そしてバス専用車線とほかの車線を分離するセパレーター工事がその期間に行われるのだ。
バスウエーは12月に実現するのだろうかという不安が心をかすめる。過去を振り返って見てみるなら、「〜だそうだ」に満ちたプロジェクトに疑念が生じるのは避けられない。というのは、バスウエープロジェクトが延期を重ねてきたためだ。
昨年2月に約束された最初のソフトローンチングは昨年末まで延ばされた。都民は騒がずにその日を待ったが、2003年1月になっても何もはじまらない。都庁はふたたび約束を繰り返す。5月、6月、8月、そして2003年12月と。
とはいえ、施設建設工事の進展を目にして、運行開始は2004年1月に延びるのではないかとの懸念が頭をもたげてきた。イルザル補佐官は専用バス路線による高速大量輸送が2004年1月に実現すると楽観的なコメントを出している。

バスウエーが12月にスタートするというのは信じがたいところだ。現場を見ればわかるように、バス停はまだその姿を見せず、車線を分離するセパレーターの敷設もまだ終わっていない。そしていま入札プロセスの只中にある専用バス55台の製造予定もはっきりしていない。
「12月だと言ってるけど、もう耳にたこよ。絶対できるわけないわ。11月中旬になろうとしているのに、まだバス停もできてないし、セパレーターを敷設するそうだけど、それもまだよ。」タングランに住むユリアニ38歳の談。
バスウエーが実現しそうにないことを心配しているのはユリアニだけではない。ブロッM〜タンジュンプリオッ路線バスの乗客ウィスヌ40歳も、都民が12月からバスウエーを享受できるようになることはないだろう、と確信している。「名前からしてbus wae (訳注=waeはスンダ語で「〜だけ」の意味)だ。このプロジェクトはバスウエーじゃなくてバスワエなんだぜ。」と駄洒落にしてひやかす。
東ジャカルタにある私立大学学生で、チルドゥッに住むリアンティ25歳も、2003年末にジャカルタをバスウエーが走るという話しに疑念を抱く。「でっち上げよ。それって高官たちの単なるプロジェクトじゃない。今年できなくても来年はまた新会計年度がある。来年でもプロジェクトはできるし、予算はきっと増額ね。」チルドゥッからカンプンランブタンへのバスの中で、かの女はそう語った。

都民だけでなく、都議会PPP会派のアリ・イムラン・フセイン議員も懸念を表明する。バスウエープロジェクトは本来、緊急事項であるはずだ、とかれは言う。ところがこのプロジェクト実施を受け持っている都庁交通局に真剣さが足りない。だからアリ議員は、プロジェクトがこれ以上延期されず、都民が早急にそれを享受できるよう、本腰を入れて進めて欲しい、と要請する。首都警察本部前のバス停建設工事を抜き打ち視察したときにスティヨソ都知事が少々怒りを示したのもうなずけることだ。そのとき都知事は、1月にはバスウエーが運行していなければならない、と明言している。これはきっと、首都圏住民へのニューイヤープレゼントであるにちがいない。
バスウエー建設工事は2003年12月に完了させるよう最大限の努力を払う、とルスタム局長はふたたび公約した。ノックダウン方式のバス停建物はいまワークショップで作成中であり、あとは現場で組み立てられるばかりになっている、と言うのだ。
首都ジャカルタに完璧な公共輸送の企画はいままでなかった。都知事の望むバスウエープレゼントを、はたして都民は2004年のニューイヤーに手にすることができるのだろうか?
ソース : 2003年11月19日付けコンパス
ライター: Pingkan Elita Dundu, Stefanus Osa Triyatna


◎★◎
『整然とした秩序のなんと美しいこと』

炎熱が首都ジャカルタを炙る。
5月9日金曜日、スディルマン通りにあるホテルメリディアン前バス停の周辺に30人ほどの人が立っている。コタ方面行き都市バスが一台、バス停の近くに止まった。それまで立っていた群衆は突然はじけて、われ先にバスに乗り込もうとする。車内の乗客に向かって「もっと奥へ詰めてくれ!」と叫ぶ車掌の声が、空きスペースの争奪に群衆をいっそう駆り立てているようだ。60歳代の女性がひとり、不注意からか、乗降口の近くで転んだ。そんな老女などまるで知ったことじゃないとでも言うかのように、バスは動き出す。
しばらくして空車タクシーが三台、そのバス停に近付いてきた。群衆はまたはじけて、そのタクシーを手に入れようとする。整った服装に身を包んだ数人の若い女性たちの口からため息がもれた。タクシーを確保できなかったのだ。客の乗っていないタクシーがまた一台やってくると、同じことがまた起こった。タクシーの奪い合いがまた繰り返された。

ジャカルタでそんな出来事は、頻繁に起こるものではない。都民があれほど焦るのは珍しく、ふだんはそんなドラマチックな争奪戦に至らない。とはいえ、あのような出来事は、公共輸送に関連するあらゆることがらが現状よりもっと秩序整然となるように行政側が規制を行い、また新システムを作って、公共輸送機関や公共交通を統制するように反省する材料としてふさわしいものである。

首都の都市交通はだれの目にもきわめて乱脈に映る。そのように評されるのは、人間がエアコンなしバスの中にまるで動物のようにぎゅうぎゅう詰めにされている状況がいつまでも改善されないためだけでなく、そのバス自体もたいへん効果的に大気汚染を拡大させているからだ。往々にして窓ガラスすら無くなってしまっているバスともなれば、お涙もの。
さらに、乱脈と評されるわけは、誰でもそこで商売し、ストリート音楽稼ぎをし、こじきをしてかまわないから。そしてまた、乱脈と評されるのは、PPDのような都市バス会社が、いつも年間数十億ルピアの赤字だと自認しているから。こりゃたいへんなものだ。
都市バス内で頻発する犯罪も、たいへんスリリング。すり、催眠術師、刃物を持った犯罪者たちがバス内を自由に徘徊し、さからう者は誰であれ容赦しない。いまでは、不良生徒たちが気ままに悪事を行う舞台にさえなってしまった。金曜日に東ジャカルタ市で起こったように、刃物を手にした少年たちは悠々とバスを乗っ取り、乗客の金品を強奪し、女性の身体に触ったりしたのだ。かれらはあらゆる社会倫理上の決まりをひっくり返してしまった。


都市バス経営者は、バスサービスのレベルとマネージメントの改善を目指してドラスティックな対応を取れ、という要望が自然と高まる。陸運交通行政者も、乗客の恐怖をなくすために何らかの措置を講じなければならない。
都市バスは都市の核のひとつなのである。乱脈な都市交通問題が、緊急を要する、真にシリアスなことがらだと思っている都市バス経営者はいるのだろうか?都市バス設置と運行が公共サービスのもっとも基本的なアスペクトのひとつなので、そこで最大限のサービスが提供されなければならない、と思っている行政官庁はあるのだろうか?
交通問題観察者が、ジャカルタの公共輸送をニューヨーク、東京、ロンドン、香港、シンガポールなど世界の大都市と比較したがるのはフェアでない、との声が各界から聞こえてくる。それらの国は、まず国内秩序と社会倫理の構築に成功しており、そして経済も十分統御されている。ところが、それらの都市と比較せずとも、ジャカルタの首都行政は支離滅裂な状況の悪循環から脱け出す能力を日増しに失いつつある。

ジャカルタの公共輸送システムに見られる支離滅裂さは、何十年にもわたって錯綜した状況の結果であり、また社会の中に溶け込んだ習慣の結果でもある。そしてそれらの要因のもっともベースになっているものがインドネシア社会全般に染み渡っている規律の欠如であることは論を待たない。
たとえば順番待ち。あとから来た者は、自分を相手にしてもらえるのがほかの人よりあとになる、という認識がインドネシア社会にない。その結果、公共輸送機関を待つとき、あとから来た者は前に割り込もうとする。先に来ている人は割り込まれたくない。公共輸送機関を待つときの先頭争いはこうして起こる。その結果として、バス停の位置が移動する。
公共バスの運転手がそんな状況に合わせようとするために、事態は悪化する。バスは所定の位置に止まらず、乗客の群れに応じて停車する。


インドネシア社会にあるもうひとつの悪弊は、住民が都市型ライフスタイルに適応できていないことだ。ひとびとは村落部のライフスタイルを誤った形で都市に持ち込む。もっともそれが顕著なのは、バスから降りるときの振舞い。乗客はたいてい交通規則などおかまいなしに、目的地にできるだけ近い場所でバスから降りようとする。村では自分の家の前でバスを降りることも可能だろう。都市部でそれが行われたなら、われわれが既に目にしているような、高速道路上でバスから人が降りるというシーンの展開だ。
もうひとつあげるなら、駐車問題。村落部では場所も余裕があり、交通往来も激しくないので、駐車場所に神経を使うことはない。しかし都市部でそんなことをすれば、混乱疑いなし。
そして現実にそれが起こっている。ただ単に、目的地にできる限り近い場所で駐車したいがために、ひとびとは駐車禁止標識を無視する。だが都市生活においては、必然的な交通上の障害が存在する。世界の諸都市でも同様、どうしても歩かなければならない部分がある。地下鉄から出ると、目的地に到達するために数ブロックを歩くのは当たり前なのである。

概してジャカルタや他の国内諸都市に住むひとびとは、都市に住む村人とよく言われる。ひとびとが「田舎での暮らし」文化をジャカルタや他の都市で実践する限り、どの行政府であれ、いかなる交通システムを実施するのもむつかしい。
それは別にして、ジャカルタ都民の多くが貧困ライン下で生活している。だから交通問題は高いものにつくのだ。まず第一に整備されるべきは都市バスや鉄道といった公共大量輸送機関である。それが快適でないがために、都民は自家用車の使用にはしる。それが、あらゆる面にわたって、過密と支離滅裂の交通状況へと誘う元凶なのである。
ソース : 2003年5月12日付けコンパス


◎★◎
『ジャカルタのバスターミナルはまだまだ不備』

ジャカルタにあるすべてのバスターミナルとその周辺地域の状況はいつも同じ。無秩序と渋滞だ。たいていのターミナルは、その周辺一帯に市場が形成されている。バス運転手の多くはバスターミナルに入りたがらない。なぜならそれは時間の無駄だから。乗客はターミナル出口近辺でバスを待つ。こうしてターミナルは乗客がバスを待つ場所でなくなり、バスの駐車場と化す。

「カンプンランブタンに入るのを面倒がる運転手は多い。中途半端だからな。チャワンから高速に入ったら、パサルボに直行だよ。」先週、カンプンランブタンでインタビューしたマヤサリバクティ・バスの運転手はそう語った。
運行路線はカンプンランブタンまでなのに、チリリタンまでしか行かない運転手もいる。そうなると、カンプンランブタンへ行きたい乗客は乗り換えしなければならない。その結果は、交通費負担の増大。

チリリタン・バスターミナルに代替するものとして計画されたカンプンランブタン・ターミナルは、州間長距離バス、州内長距離バス、都市バスのハブとして設定された。14.1ヘクタールというジャカルタでもっとも広い面積を有するこのAタイプターミナルは、ジャカルタで最高レベルのバスターミナルなのだ。だが実態は、多くのバスがターミナルに入ろうとしない。例をあげれば、グロゴルから来るパタス6、ブロッMから来るコパジャ57、タナアバンから来るパタス16、ブカシから来るパタス9B、その他もろもろ。
「運がよければ、だよ。時々は入るけど、同じように時々入らない。」と乗客のひとりは言う。バス運転手があげるターミナルに入らない理由はたくさんだが、中でもメインは水揚げの追求。なぜかと言えば、ターミナルに入ったバスは順番待ちをさせられるから。勝手にターミナルから出るというわけにいかない。順番待ち義務はバス運行者たちにとって時間の無駄使いであり、つまりは稼ぎが減ることにつながる。二番目の理由はターミナルでの徴収金、特に非公式のそれ。そしてその次は、バスの運転手にも糧を他人と分かちあうという理由がある。他人とはつまり、ミクロレッやKWK(コペラシ・ワハナ・カルピカ)などアンコッの運転手たちを指している。
チリリタンで降ろされた乗客たちは、カンプンランブタンまで運んでくれるアンコッ03番に乗る。行政側は運行路線ルートを守らないバス運転手を処罰しているが、アンコッ運転手たちはしばしばそれに対して抗議の矛先を向ける。

同じAタイプターミナルであるプロガドン・バスターミナルの話しはまた違う。バス運転手がターミナルに入りたがらないのは、オーバーロード状態だからだ。3.52ヘクタールの広さしかないプロガドン・ターミナルが州間長距離バス4百台、州内長距離バス6百台を受け入れるには無理がある。ターミナルに出入りする7千人の乗降客も別の問題を投げかける。都市バスは大型(マヤサリバクティやPPD)中型(メトロミニやコパジャ)アンコッ(ミクロレッやKWK)が数千台にのぼるのだ。
3.52ヘクタールの土地も、オフィス、店舗、緑地、テルコムサービス店などが共用している。
ターミナルのバス出入り口で目にするのは無秩序。見た目の心地よさも、そして安全感もない。ここ、プロガドン・ターミナルにおける犯罪発生率は高い方に属している、と本紙のデータは示している。ひったくり、恐喝、詐欺、麻薬使用。プロガドン警察署もほとんど毎日、ターミナル一帯でごろつきに対する手入れを行っている。

都庁陸運局システム開発副局のDAリニ副局長によれば、プロガドンとカンプンムラユの二ターミナルはオーバーロードしており、カンプンムラユ・ターミナルは秩序回復のために整備しなおす必要があるとのこと。
実際、カンプンムラユ・ターミナルはラワマグン・ターミナルと同様、本来のターミナルではなかった。ラワマグン・ターミナルは最初、州間長距離バスのただのトランジット場所でしかなかったのだ。プログバン・ターミナルが開業すればプロガドンとラワマグンのふたつは閉鎖されることになる。「それはもちろん段階的に行われる。都内のバスターミナルに対する新しい秩序立てがなされることになる。」とリニ副局長は説明する。


陸運ターミナルに関する1995年度第31号運輸通信大臣令には、乗客ターミナルとは乗客の乗降、同一あるいは異なる輸送モード間での乗り継ぎ、公共輸送機関の到着・出発時間の管理を行うための道路運送施設である、と定義されている。
バスターミナルはその機能によってABCの三タイプに区分される。Aタイプターミナルは州間長距離バスや国境通過バス、州内長距離バス、都市バス、村落バスへのサービスを取扱い、BタイプはAタイプから州間長距離バスと国境通過バスが抜かれたもの、CタイプはBタイプから州内長距離バスが抜かれたものとなっている。ジャカルタでCタイプターミナルにはお目にかからない。(訳注=都庁交通局の資料では、カンプンムラユとラグナンの二ターミナルがCタイプとなっている。)
いまジャカルタには、乗客ターミナルが20、貨物ターミナルが2ある。Aタイプターミナルとしては、プロガドン、カンプンランブタン、カリドラス、ルバッブルスの四つ。面積1.1ヘクタールのタンジュンプリウッ・ターミナルはBタイプだが、現実に州間長距離バスも入っており、負荷オーバーに見える。タンジュンプリウッ・ターミナルには州内長距離バス38路線、州間長距離バス16路線が入っていて、そこからボゴール、スカブミ、チラチャッ、プルウォクルト、マドゥラなどへと向かって行く。Bタイプターミナルはプリウッ以外に13箇所ある。ブロッM(7.1Ha)、グロゴル(1.4Ha)、スネン(0.9Ha)、コタ(0.4Ha)、ピナンランティ(2.3Ha)、クレンデル(0.4Ha)、ラワマグン(1.2Ha)、マンガライ(0.4Ha)、パサルミング(0.9Ha)、ムアラアンケ(0.02Ha)、チリリタン(2.1Ha)、カンプンムラユ(0.5Ha)、ラグナン(0.05Ha)がそれだ。
ラワブアヤ・ターミナル(10,03Ha)とジョグロ・ターミナル(0.5Ha)のふたつの乗客ターミナルはまだ稼動していない。リニ副局長は、ラワブアヤはカリドラスに取って代わる計画で、企画エンジニアリングの最終プロセスに入っている、と説明している。
タナムルデカ・ターミナルとプログバン・ターミナルは現在、貨物専用ターミナルで、プログバンに残っている10.9ヘクタールの未使用の土地に、プロガドンを代替するAタイプ乗客ターミナルが造られることになっている。

理想を言えば、ターミナルは乗客に快適さを提供しなければならないのだが、既存のターミナルは支離滅裂であるのが実態だ。駐車しているバスは所定の位置を守らず、ゴミは随所に散らばり、小便くさいトイレはほったらかし。
プランギ財団交通プログラム研究員のアンディ・ラフマは、ターミナルは乗客の移動と必要性の節目をベースにして企画され、建設されるべきだ、と語る。ターミナル建設もジャカルタの交通システム建設の中に統合されなければならない。多くの俄ターミナルの出現は、ターミナル整備が非効率であることを示している。罰則に関する明白で確たる決まりがない。
実は、交通局はターミナル整備計画を既に持っている。たとえばカンプンランブタン・ターミナルでは環境美化のために、緑地を増やしてそこを手入れしようとしている。先週、商人たちの抗議を排除して、ターミナル内にある154の露店・売り場を撤去した。
「あの措置は、ターミナル総合整備計画に沿ってのものだ。」とヌラフマン交通局副局長は説明した。
ソース : 2003年9月17日付けコンパス
ライター: Susi Ivvaty


◎★◎
『前科者の恐怖とオプルオプル 〜 都市バス乗客、ジャカルタの機微』

「バスの中で犯罪をはたらく度胸がないってわけじゃねえんだ。しかしもう悔い改めて、いまではみなさんが手を差し伸べてくれるのを期待している。一枚や二枚の千ルピア札でみなさんが貧乏になることなんか絶対にない!」カンプンムラユ〜ブロッM路線を走るパタスバスの中で、こわい顔をした『おもらい』屋がそう怒鳴った。
金をもらうために一斉にバスの中に入ってきた前科者だと名乗る四人の男たちは、恐喝めいたその言葉を何度も繰り返した。色あせてしわくちゃの衣服。刺青だらけの身体は垢まみれ。長くのびた指のつめは真っ黒。おそろしげな目つきにばさばさの蓬髪。そしてくさい。かれらを相手にしたいと思う者などいない。
おそろしげなのは、見た目だけではなかった。かれらが持ってきた紙も、バス乗客をぞっとさせるものだった。それもそう。フォリオサイズ半ページのその紙はありきたりのものではないのだ。それは、チピナン刑務所やサレンバ刑務所が発行した出所状。いったい本物だか、偽物だか、それとも本物だが偽物というアスパルなのか?(訳注=aspal:asli tapi palsuの略語。オリジナルの用紙や印章などが使われているが、関係者が流用して作ったもので、当該官庁の管理台帳に登録されていない。当局はもちろん偽物と見なす。) 明白なのは、チピナンやサレンバ刑務所の名前を聞いただけで、乗客の目の前にいるのがどんな人間か想像がつくというもの。
あちこちの路線に乗っている乗客たちの話しによれば、そんな金もらい稼ぎの手口は2000年の終わりごろから盛んになったらしい。『前科者』たちは、ひとりは前扉から、他の者は後ろ扉から一斉にバスに入ってくる。中に入るとかれらは、刑務所を出たが帰郷する金が必要だ、と物語る。しかし普通の乞食のように行儀良く同情をひこうという印象からはほど遠い。かれらの声音や立ち居振舞いは威嚇的だ。
そのようなテロは乗客、特に女性を不安にする。「前科者をこわがらない人なんかいないわよ。どう?」プロガドン〜グロゴル線パタスバスを毎日使う女性会社員プル30歳はそう反問する。だから乗客はそんな恐喝者の相手になるよりは、適当に金を渡す方を選ぶ。

21歳のヤティと友人たちの体験は、寄付を募るという仮面をかぶってかれらが行う犯罪行為のひとつの例証にあげることができる。チプタッにあるシャリフ・ヒダヤトゥラ国立回教大学学生でカンプンランブタン〜プロガドン線マヤサリ・パタスバスをいつも使うかれらは、前科者に金をやるのを拒んだ結果、指輪を進呈しなければならなくなった。ヤティによれば、その『おもらい』屋たちは本当に帰郷の金を必要としている前科者ではないことがわかっているそうだ。毎日同じ連中と同じバスの中で顔を合わせるのだから。だからヤティはもう金をやる気がない。するとかれらは、ヤティの指についている指輪を渡すよう要求した。そのときバス内は満員だったが、その犯罪者に対抗する勇気のある者はいなかった。

ひとつの問題が解決されないのに、またバス内で金をせびる新しい手口が登場した。エアコン付きパタスバスで稼ぎをする『おもらい』屋は、元麻薬常用者でファトマワティ薬物依存症治療院でのリハビリ費用が足りないという様子を示して見せる。治療のための金集めという口実は、実際に乗客から金をかき集める手段として成功している。『おもらい』屋はキャンディ包装紙のビニール袋の口を開いて差し出しながら、乗客の前に立つ。5分もすれば、乗客は気恥ずかしくなってついには金を与える。
車掌や運転手たちバス乗務員は、何もできない、と告白する。車掌のブユンが言うには、おどしがこわいので自分には禁じる度胸がないが、本当は乗客が自分たちの安全を脅かす恐喝者にスクラム組んで立ち向かうべきだ、とのこと。「おれに立ち向かえと言われたら、そりゃこわい。だって毎日同じルートを通ってるんだ。あいつらはそれを知ってるんだから。」ブユンはそう言い訳する。


バス内の保安に政府が手をつけるのを困難にしている理由のひとつは、バス内犯罪を市民が届け出たがらないこと。奇妙なことに、都庁社会テンションインパクト統制センター事務局常勤担当員ラヤ・シアハアンはその話しを知らないし、前科者の顔をした恐喝者が多数にのぼっていることも、刑務所側は認識していない。バンバン・クリスバウ、サレンバ刑務所長は9月13日、それを記者から聞かされてはじめて知った、と認め、刑務所の名を汚す出来事に遺憾の意を表した。
「前科者が刑務所から出たら、刑務所はかれらを調べる権限を持たない。まして社会復帰する者の数は毎月60人にのぼる。かれらの振舞いを当方が統制するのはむつかしい。かれらが刑務所を出るときに支度金を与えるような特別予算はない。金をもらう者があるとすれば、もう係累のいないジャカルタ外の地方出身者に対して個人の金を与えるようなケースだ。」と所長は語る。
前科者の顔をしてバスで金をせびるのは、新しい稼ぎのテクニックであり、バリエーションのひとつだ、と所長はコメントする。このモダン時代に出所状の偽造はわけないことだ。どんなに複雑な署名でも真似ることは可能であるにちがいない。バンバン所長はそう見解を話すが、グスマン、チピナン刑務所長の意見は違う。かれによれば、出所状の偽造は難しいので、多分使われているのは本物であり、たくさん複製を作って市民を脅すのに使われているのではないか、とのこと。このメトロポリタン都市の犯罪はきわめて複雑化しており、あらゆる可能性が現実のものにされている、とかれは言う。


バス乗客の苦難は恐喝だけにとどまらない。乗客の快適さと安全に責任を負うべきバス運行者に由来する問題もある。ジャカルタの都市バス利用者は、車掌が叫ぶ「オプル、オプル」という言葉を耳にしたことがあるはずだ。バス一台の乗客全員を別のバスに移すこのオプル(訳注=operはオランダ語のoverに由来する。球技などでボールをパスする際に使われるケースが、語の用法としてはきっと分かりやすい。)は、本人が意識するかどうかは別にして、乗客にたいへん迷惑なものなのである。
とある夕方、ブロッM〜タナアバン線のコパジャバスに20人ほどの乗客がいた。中のひとりは、バナナとパパイヤをそれぞれ大きな籠にいっぱい詰めた荷物を持っている果物商人。シンプルッ動脈路を通っているとき、突然車掌が叫ぶ。「オプル、オプル。タナアバン行きはここで降りる。バスは陸橋下までしか行かない。」つまりそのバスはスリピ・フライオーバーの下までしか行かないということだ。
それを聞いた乗客は不平をつぶやき、車掌に文句を言う。果物商人も例外ではない。しかしかれらは車掌の指示に従うだけで、異なる行動を取る者はいない。こうして面倒事がはじまる。タナアバンへ行く乗客はスリピで降りて別のバスに乗り換えなければならないのだ。
乗客は降りようとして、続々とバスの扉に詰め掛ける。車掌が早く降りろと叫びつづけるので、かれらも焦る。お金は問題じゃない。別のバスに移るときに金を払う必要はないからだ。しかしこの面倒なこと。赤児と幼児を連れた母親がパニックになってどれほどあたふたするか、想像にあまりある。重い大きな籠ふたつを降ろし、別のバスにまた持ち込まなければならない果物商人のたいへんさ。それは明らかに乗客から快適さを奪っている。乗客がみんな都民で、首都の諸般を知っているならまだしも、地方から来たひとが乗っていたならどうだろう。目に映るのは困惑した顔。終点に着いたのだろうか?本当はまだなのに・・・・。
もっと奇妙なのは、突然バスプールに運ばれた乗客の体験談。客に一言の断りもなく、バス乗務員は好き勝手にバスをプールに回送した。バスの中には何人もの乗客が乗っていたというのに。
スタント・スホド、インドネシア交通ソサエティR&D部長は、いま市民は他の方法がないために、バス乗務員の行為にただ従うだけという傾向が強い、と語る。乗客にとっては「要は目的地に着くこと」であり、安全や快適さを期待していない。乗客数(需要)に対するバス台数(供給)が、厄介を強いてくるバスの状況を乗客に諦めさせている筆頭要因なのだ。
ソース : 2001年9月24日


◎★◎
『首都ジャカルタのバス停コミュニティ』

夜は一千万、昼間は一千二百万というジャカルタの人口は、この都市に対して大きな負担を強いている。そして適切な計画性に欠けたお粗末な公共運送行政は状況を一層悪化させており、おかげで都内や都市間での都民の移動を、腹立たしいと言わないまでも不快なものにしている。

ここ数年、高速マストランスポート機関(地下鉄の一種)建設のアイデアが進行しているものの資金が用意されたこともなく、都庁にそれを実現させようとの強いイニシアティブもないようだ。はっきりしているのは、今現在都民にとってそのような運送機関は高嶺の花だということだ。そんな状況下だからこそ、首都ジャカルタの猥雑な交通秩序を整備するためのもっとも客観的な対策が、公共バスの活用を図ることなのではあるまいか。
地下に高速マストランスポートを建設するのに較べれば、安い。インフラとしての道路は既に存在しており、社会はそのテクノロジーを既に自家薬籠中のものとしている。そんな背景は、都内での公共バスを使ったトランスポーテーション改善のための力を都庁に与えるはずだ。


公共バスを牽引力とした公共運送システムについて話すなら、バス停のことを忘れてはならない。都民がバスを利用して容易に目的地に達するようにするために、まずターミナルが、次いでバス停が建設されなければならない。バス停が適切に配置されることで、公共バス利用者は目的地に近い場所での乗降が可能になる。
適切に配置され、整備の行き届いたバス停でなら、利用者は乗り降りに難渋することもなく、足を挫く心配もなく、また街中の暑熱や土砂降りの雨を避けながら、自分の乗りたいルートのバスが来るのを座って快適に待つことができる。そんな状態が理想ではあるが、都内にあるバス停の現実は、中高生が落書きするためのキャンバスであり、浮浪者の心地よい寝床であり、そしてカキリマ商人たちにとって必ずもうかる商売の場としてふさわしいものになっている。言い換えれば、公共バス利用者の乗降待合の場所としてすこしもふさわしくないバス停をよく目にする、ということだ。
その結果、都内のバス停利用者コミュニティのマジョリティが、他校の敵を待ち受けている中高生の群れであったり、バスには乗らない買い物客を自動的にコミュニティメンバーの一員に引き込んでしまうカキリマ商人であったり、交差点で何時間も唄おもらい乞食で金を求め、疲れきって眠りこけているストリートチルドレンなどだったとしても、不思議がることはない。まして激しい雨が降れば、目的地へのルートからそれてやってきたバイクの群れが、思いもかけず付近一帯のバス停の主となる。
バス停コミュニティの第一級メンバーであるはずの公共バス利用者は、多くの権利を削られたマイノリティにされている。だからバス停コミュニティは、交通機関の乗降待合を活動のメインとするコミュニティから自然と逸脱していくのだ。都内各所のバス停では、利用者の乗降活動は二義的なものでしかない。物売りが荷をひろげて居座れば、バス待ち行動はそれに負け、利用者は路肩や歩道に身を退いたり、それどころかピーク時間帯になれば車道の真中にまであふれてしまう。
百八十度反対の極端な例もある。寂れて灯りもない夜のバス停は、麻薬取引にふさわしい場所だ。夜間シフト勤務の勤め人たちは、明るくて警備員も何人か並んでいるオフィスの門の外でいきおい公共バスを待つようになる。安全感のはるかに低い場所をあえて選ぶ人はいない。そんな背景が運送システムを猥雑に乱し、期待する形でのシステム運営が行われなくなるのも無理はない。渋滞が起こるのは当り前なのだ。では、わたしたちはいったい何ができるのだろうか?

従来首都の規定を作ってきた人たちが持つパラディグマは自家用車利用者により多くの利益を与えるものだった。つまり環境意識や社会性に較べて利益指向の印象をより強く与えるパラディグマだったということだ。例のひとつをあげれば、適切な都市大量運送システムの建設は行わない一方で、有料道路の建設はどんどん進められた。バス停に関連付けて言うなら、見れば判るが、たいていのバス停はオフィスビルの入口からわざと15乃至20メートル離され、そのオフィスビルに出入りする自家用車の邪魔にならない位置に置かれている。おまけに、そのビルからバス停に至る徒歩者の適切なアクセス路すら考慮されていないことが状況を一層悪くしている。

お粗末なバス停シェルターのデザインも、当然存在しているはずのバス停コミュニティがそこを十二分に活用していない原因をなしている。公共バス利用者がそこでバスを待つのは、厳しい日射がさえぎられ、土砂降りでも濡れない、といった快適さを期待するからだ。ところが現実に起こっているのは、ありあわせのデザインで適当に作られたバス停シェルターに座っている利用者の背中を雨が濡らし、午後二時の厳しい日射が思う存分頭を照らしつけ、さらにろくな照明もない夜にそこに入ればハリネズミのような不安が神経を蝕む状況なのである。

自家用車優先パラダイムが変えられなければならないのは明らかだ。公共運送機関利用者の優先をファーストプライオリテイにしなければならない。それは都庁の行政オーソリティにとってのみならず、従業員の安全な通勤が確保されるべく、関連するすべての民間セクターにとってもなんら違いのないものだ。
更に、バス停シェルターのデザインも期待される十分な機能が発揮されるべく、もっと考慮が加えられなければならない。それらがなされてはじめて、公共バス利用者は再びバス停コミュニティの第一級メンバーの座に返り咲くことができるのだ。
ソース : 2001年2月28日付けコンパス
ライター: Prabham Wulung  インドネシア大学建築学学生、バス停利用者