[ 社会現象 ]


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『とある夕べ、モールっ子たちとともに』

19歳のセルフィアは、ジャカルタのプラザスナヤン3階のベンチに座っている。ときおりハンドバッグを開いてはエリクソンT28S携帯電話を取り出して番号を押しているけれど、電話はつながらない。視線を左右に走らせ、そしてまたエスカレータを注視する。「あたし、友達を待ってるの。」かの女はそう言う。

プラザ、モール、ショッピングセンターはひとつの時代のモニュメントとなっている。つまり「消費」時代のモニュメントだ。どの時代にも独自のモニュメントが存在する。ポストモダニズム風に言うなら、個々の時代の「神殿」。それらの建築物はその時代の精神を満載したシンボルだ。鉄道駅、王宮、あるいはシンガポールのオーチャード通りのような左右に商店街を従えた大都市の歩道などは、人々の態度や行為に間接的なインパクトや影響を与える。現今のプラザやモールもその例にもれない。
メトロポリタン風消費精神がエチエンヌ・アイグナー、ジャンニ・ベルサーチェ、チェルッティ1881、オスカー・デラレンタ等々有名ブランドのショーケースの狭間にその姿をきらめかせている大都市の公共スペースの中で、プラザスナヤンは十分にひとつのケーススタディたりうるものだ。さっきの娘は恥ずかしげに「友達」と言ったデートの相手、つまり恋人をまだ待っている。「ここで会う約束をしたのよ。」と語るかの女は、つかの間のインタビューを拒まなかった。

ゲスの腕時計が、手入れの行き届いたきれいな肌の右腕にまきついている。かの女はとある有名秘書アカデミーの第三スメスターに通っている学生だ。この日のような週末の土曜日は、通称フィアと呼ばれているかの女はプラザやモールで時間を過ごす。映画を見、ショッピングし、カフェに座って時間を過ごすのだ。家へ帰るのは深夜を過ぎてから。
フィアは最低月一回、衣服、香水、化粧品を買う。その買い物のためだけに、かの女は月150万から200万ルピアの金を使う。5人兄妹の三番目であるかの女は、毎日の小遣いとして15万ルピアを財布に入れる。父親はクラパガディンエリアで財団法人を経営しているそうだ。「買い物が多くなると、仕方なく自分のお金を使うの。三つの銀行にあたしの預金があるのよ。」フィアはそう言う。


週末のプラザスナヤンは普通の日よりもにぎやか。来店客の大半は若者で、みんなきれいなかっこうをしている。
まだ十代の女の子5人が二階のスタジオ21から出てきた。普通科高校生のかの女たちは、映画を見たり、メジェン(訳注=意味は下の本文内に説明されています。)のためによくここへ来ると話す。グループの一人、リサが言うには、映画の切符やら飲み物そしてポップコーンを買うのは回り持ちだそうだ。自分の番が来ると最低でも30万ルピアは持ってこなければならない。
14歳のエンディはまた違う。プラザは、たいていまだ中学生である同年代の仲間たちとの接点になっている。「家にはまだ帰ってない。友達に誘われて学校からまっすぐここへ来た。たまたま今日誕生日の友達がいるから。」と話すエンディ。かれらはよくここへ来て時間をつぶすそうだ。主目的が時間つぶしで、買い物でないために、持って来るお金も少ない。「多くても3万ルピア。」とエンディは言う。


プラザスナヤンはエクスクルシブさという点でいまだに上位にあることから、ジャカルタ外の人々にとっては興味深いサンプルなのだ。見るかぎりでは、来店客もみんな上流層で、均質という印象。1990年代半ばにオープンしてまだ古くないと言えるプラザスナヤンは、中央ジャカルタや南ジャカルタに前からあったプラザインドネシア、ブロックMモール、ポンドックインダモールなどを補完するものだ。
「このプラザはブティックプラザです。ターゲット市場は中の上階層。イメージとしては25から35歳のヤングエグゼキュティブ。」スナヤンスクエア・リーシング部課長代理のジョアン・アンディオノはそう説明する。
一階のほとんどは国際的ブランドで占められている。二階三階の店舗は国内製品を売っている。店舗のテナント料は米ドル建て。一階店舗のテナント料金はひと月平米あたり80〜110ドル。かなり高いと言えるが、プラザスナヤンのテナント入居率は高く、250ある店舗区画は98%が埋まっている。
ジョアンによれば、スナヤンというロケーションがこのプラザのために選ばれたのは、特に南ジャカルタの消費者をターゲットにしたためとのこと。南ジャカルタには既に他のプラザがあるが、ターゲット階層が異なっており、スナヤンプラザは中の上階層に密着しているそうだ。


ブルジョアイメージは言うまでもなくモールが先天的に持っている性質だ。ライフスタイルに関する諸研究を読むと、19世紀ヨーロッパのブルジョア階層アーケードとマスプロ製品が販売される大型ショッピングセンターという少なくともふたつのルーツをモールは持っていることがわかる。そこはある種の消費の宮殿だ。
曲面を形成できる鉄素材の発見に伴う建築界の進歩がモールに更なる発展をもたらした。視覚的に壮大な効果を生む層状のアトリアが造られた。来店客(発展初期はたいてい富裕層の女性だった)はそこで豪奢な品物に囲まれ、貴族のような扱いを受けた。

モールやショッピングセンターはアーバン社会の形成と歩を一にし、そのあとで密かに、多分大勢の人には自覚されない、価値観の浸透が進行した。少なくともそれは「街へ行く」理由を人々に与え、続くフェーズではそれが主婦へとシフトしたにせよ、それはひとつの解放を意味していた。キャピタリズム拡張の予期せぬ産物だったその解放はまた同時に、お金を使うこと、お金を浪費すること、新しい品物への夢を満たすことなどに対する解放をも意味していたのである。その段階で需要は、でっちあげられるものとなった。
同時に豪奢なアトリアや与えられた自由で、モールもポストモダニズム構想者がよく言うように「ライフスタイルシアター」のひとつとなった。人は見るためにそして見られるために、装いいっぱいにそこへ集まる。若者言葉で言うところのメジェンがそれなのだ。

もちろんアーバン社会の公共スペースが生み出した行動現象は若者だけのものでない。モールへ行って見てみれば、主婦もオジサン、オバサンもみんな多かれ少なかれ類似のボジションにいる。
プラザスナヤンで買い物をしていたワティ夫人31歳は、一週間で150万ルピアを使うと語る。かの女は買い物に関する姿勢を「わたしの主義は品質と満足」と話す。かの女の趣味はアメリカ製とドイツ製の靴や服のコレクションだそうだ。
プラザスナヤンでのワティ夫人のスナップショットは、大都市における日々のライフストーリーのもっとも表層にあるひとつに過ぎない。著名な実業家の娘で姉妹のもうひとりとともに、親しい人々の間でファッションハウス「ルイ・ヴィトン」製品のファナティックなファンとして知られているかの女は、外国へ出るたびに必ずその製品を追い求めている。
自分で買ったものから忠実なお得意さんにもらったものまで、かの女たちが収集したそのブランド品がとても多いために、このファミリーの自宅の一室はまるでミュージアムのよう。それが「ルイ・ヴィトン」ミュージアムでなくてなんだろう。


ライフスタイルに関する研究で既に古典に属す思想は、商店やモールでのショッピングとは品物を手に入れてそれを所有するというだけでなく、「アイデンティティを買う」ことだというものだ。現代社会の標語で言えば「あなたはあなたが消費するもの」。そのようなショッピング行動において人は品物に対してのみならず、嗜好、イメージそして自分をどの種の社会階層にイメージ付けたいのかといったことを選択する。
ショッピング行動とは品物をパッパッパッと取り上げることに限定されず、その全プロセスからモールのベランダにあるカフェに立ち寄ってカプチーノを飲んだりすることまで含んでいる。
ほとんどすべてのモールがそんな贅沢さを備えている。ジャカルタから遠く、コーヒーを飲む快適でエアコンの効いた場所を探すだけでも困難な小都市のパースペクティブから見れば、ジャカルタでのそんなライフスタイルの進化レベルは相当に目を見張るものである。
プラザスナヤンでカフェはブランド店の間にある。一階にあるのはアメリカの有名なアイスクリームショップ「ハーゲンダッツ」。
「ブランドものブティック巡りをした後でカフェに入ってのんびり座るのは、ある種の威厳を感じさせるものだ。」とハーゲンダッツのマネージャー、アントニウス・ヤヌアルは言う。その店へ来るのは普通のヤングエグゼキュティブでなく、事業家やシニアマネージャーだそうだ。さまざまな味のアイスクリームを販売しているこの店で、一度に150万ルピア使った客があった、とかれは物語る。
ある小売店のエグゼキュティブをしているイルファン・クリスタントは、スーパーマーケットやモール客のクラス分けについて論評する。下層消費者は月収75万ルピア以下、中流は75万から300万ルピアとするなら、プラザスナヤンは月収3百万ルピア以上のマーケットセグメントを対象にしている、と。


そのようなビジネス計算の外で、再びライフスタイル研究の諸思想を引用するなら、モールというのは「民主化」プロセスにおけるものを含めて、実は社会の解体をある形で行うものなのである。
ある人のステータスや職業が何であろうと、あるいはまったく職に就いていない失業者であっても、モールの中では平等。つまり買い物、ウインドーショッピング、他の客を見るといった行動において。モールはしばしば、貧富老若に関してオープンで民主的なアリーナだと言われている。
そんな分類の外での差異はもはや顕著ではないように見える。たとえばモード。世界にはもうずっと昔から、男女のスタイルをはっきり区分しない男女共通型ファッションが出現しているではないか。

大勢の人にとっての公共スペースであるモールが影を落とすメトロポリタンライフを背景に、テレビの華やかなスクリーンにいつも登場するセラブリティは、有名でない人に比べてよりたくさんお金を使うかと言えばかならずしもそうでない。実は有名でない普通の人の方がたくさんお金を使っていたりする。
コレオグラファーで歌手のデニー・マリッは仲間へのロビイングの場としてモールを利用している、と語る。同じアーティスト仲間のイングリッ・ウィジャナルコと一緒のところをインタビューしたデニ−は、注文のほとんどはここでもらっている、と言う。
デニーはこのプラザで、せいぜい歩き回り、観察し、カセットを買う程度の時間しか費やさない。さまざまなものを買うために支出する金額はたいてい20〜30万ルピアだ。イングリッの話しも同様で、買い物の支出は一定じゃない、と言う。そのときかの女は20万ルピアで買った靴を持っていた。


きっとあなたもその名を知っている二人のセラブリティと、そこへふたりの中学生の友人とやってきた13歳のシャスキアを比べてみよう。ファーストフードレストランの前でマルーン色の携帯電話で話しているシャスキアは、会話にかかりきり。ふたりの友人はほほえみながらシャスキアを見守っている。
シャスキアは自分で一週間におよそ百万ルピアを使うと自認する。「最低週一回はここへ来る。映画見て、食べて、服や靴買って、時には友達におごってやって・・・・」と口調は軽い。
ある外資系会社のマネージャー、ラフマン45歳は妻と子供ふたりを連れている。こんな週末には家族で外食に出かけて、50万ルピアほど使う。突然何か買い物の必要が出れば、また違ってくる。妻が服や化粧品を買いたくなれば予算は2〜5百万ルピアになる。

都市公園は高層ビルの建設で押しやられ、消えていった。その代わりいつもにぎやかで空調のきいたモールがあちこちにできた。それらのモールはまた新たなソサエティを生み出した。シャスキア、ラフマン、セルフィアそしてそのほかもっと大勢の人々は、メトロポリタンライフのシンボルたるモールっ子たちなのだ。
ソース : 1999年12月26日付けコンパス


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『犯罪に対して抵抗するのか、それとも運命に身をゆだねるのか』

おそろしげな顔つきをしたごろつきの一団が、南ジャカルタ市トゥベッ地区グダン・プルルのブロックQ住宅区にやってきた。ナイフを腰にさした者、チェーンや棍棒を手にした者たちもその中にいる。

かれらの身支度や振舞いから見て、その数十人のやくざ者たちはことを起こしにやってきたのに間違いないだろう。通行人をゆすったり、また時にはこの一帯の住民が騒ぎの相方になるよう挑発してくる。幸いなことにこの住宅地区に住むひとたちは、よく結束して地域の治安維持に努めた。
住民間で決めた申し合わせにしたがって、ごろつき集団を最初に目にした者は鍋、フェンス、電柱などを繰り返し打ち鳴らす。その音が聞こえた他の住民は男も女も、音のよく響くものを手当たり次第に打ち鳴らして隣近所に警報を伝える。家中で騒々しく大きな音を立てるほうが良い。

この物理的な力で対抗しない抵抗方式は効果があった。住民が一斉にフェンス、電柱、鍋などを打ち鳴らして作り出す喧騒を前にして、数十人のやくざ者たちは即座に四散して姿を消した。住民の一致団結して犯罪に立ち向かおうとする姿勢が、かれらに恐怖をもたらしたのだ。
「ここはいま平穏な住宅地だ。ここに来てことを起こそうとするごろつきはもういない。」地元有力者ハナフィはそう述べる。

ジャカルタのスディルマン通りにあるホテル、ル・メリディアンの経営者が取った方法は少し違っている。ホテル前にある歩道橋で市民がしばしばやくざ集団の強盗や恐喝の被害を受けていることを知った経営者は警備員を雇った。歩道橋の周辺を毎日、6人の青色帽子にユニフォームをまとった男たちがガードするようになった。一人二人が常に橋の上に立ち、残りは橋の下で警戒に当たる。

都民にとって、犯罪行為に出会うのはまるで時間の問題ででもあるかのようだ。誰もが、どこででも、被害者になっておかしくない。
弁護士のOCカリギスは5月末のある日、トマン立体交差の赤信号で自分の乗ったメルセデスに赤い斧を持った少年たちが近寄ってきたとき、ただ呆然と口をあけているほかどうしようもない出来事を体験した。渋滞する往来の真っ只中で、少年たちはほんの数秒のうちに、メルセデスの両サイドについているミラーをこじり取ったのだ。周辺に居合わせた人たちは、そのサイドミラー強奪犯罪を目の当たりにしたはずなのに、それにたいして何かをしようとする人は誰もいなかった。他人のために危険なことに関わろうとする都民はいないようだ。まして、関わったら斧でどやしつけられないとも限らないのだから。
雑魚犯罪者たちは仕事が終わるとすぐに逃げ去り、喧騒の交通ジャングルの中に消えた。「その犯行はあのように威嚇的な手口で、あっと言う間に平然と行われた。とんでもないことに、かれらはその犯行を公衆の目の前で行って見せた。」カリギスの言葉だ。
カリギスひとりではない。ネネン・サルミア、アミル・シャムスディン、ルディ・ロント、ステファヌス・ハルヤントら法律家、ハムダン・スルファのような国会議員らをはじめとするさまざまな社会集団の数千人が、同じような被害を受けている。ギギのボーカリスト、アルマン・マウラナも自分の車のサイドミラーをあっさりとこじり取られた経験を持っている。
犯罪は繰り返されているが、警察が手をこまねいているわけではない。いやそれどころか、犯罪者をその場で射殺するような厳しい対応を取っているというのに、赤斧団犯罪は首都から姿を消す気配がない。
「ジャカルタの犯罪レベルはもう身の毛のよだつ段階に達しているため、ジャカルタがぞっとする恐怖の街の度合いを深めている、という説に200%賛同する。それは街中にあふれる実態が明らかに証明している。」弁護士ムリヤ・トドゥン・ルビスは説明する。
「タクシーに乗った女性が車のトランクルームに隠れていた強盗に襲われるようなことが起こるこのジャカルタを、ぞっとする場所と言わないで何と言えばいいのだろう?夜中に車を追突され、車から降りたところを事故のふりをした強盗が待ち受けて金品を奪い去るようなことにぞっとしないで、何にぞっとするのだろうか?喉の渇いたバスの乗客が、隣に座った男に飲み物をもらい、それが実は毒だったとしたら、あなたは鳥肌が立たないだろうか?その乗客は死ぬかもしれないのに。」


ジャカルタの金持ちの間では、いまやボディガードを使うのが当り前になっている。個人の身辺警護サービスを提供する会社も急増している。更に企業の多くも警備員数を増やし、おまけに会社周辺の保安のためにやくざ者を使ったりもしている。かれらの力のおかげで会社周辺は比較的平穏であり、盗みや強盗事件は発生していない。
ルビス自身もいくつかのイベントの際に個人ガードサービスを使ったことがある、と認める。だがそれは、大物ぶるためでなく安全のためだそうだ。ジャカルタの治安は本当に危険なレベルにあり、弁護士であり人権運動の活動家でもあるかれは、自分の身辺に漂う危険にも敏感だ。だが個人ガードサービスや警備員数の増加が、ジャカルタの治安の悪さ、恐ろしさに対する真の解答でないことに、かれも同意する。状況を改善するための本来の道は、国の保安機構が治安の維持に真剣に取り組むことだ。政府も絶対的な安全状態を創造するため、その方策として幅広い雇用創出を推し進め、失業者が犯罪にはしるのを減らさなければならない。

ところが実態はそれどころか、いまやヴィジランティ(武装自警団)現象が起こっている、とムリヤ・ルビスは言う。そのトレンド化に伴って、ますます多くの民間人市民や警備員が武装してヴィジランティ部隊に参加するのが広まっている。民間での武器売買が自由に行われていることが一般市民の武装を容易なものにしているが、その一方で、自由な武器売買が銃を使った犯罪の発生増を促している。
「このヴィジランティ・トレンド現象を純粋にとらえるなら、不安と焦燥の感覚がもっと広がるのがあるべき姿ではないだろうか?他でもない、南米の国々ではヴィジランティ自身が問題発生の源になっているケースがある。インドネシアがこのヴィジランティに関して、新たな時代に入りつつあることをわたしは懸念する。」ムリヤのコメントだ。
「殺人や威嚇に使われる効果絶大の銃火器や刀剣類に関して、警察はすぐに継続的な武器狩りをはじめるべきだ。公共エリア、特に市場や交通ターミナルなど人の集まる場所で、警察は取り締まりを積極的に行わなければならない。」法律専門家アフマッ・アワルディンはそう語る。


富裕階層とは異なり、一般庶民はジャカルタの犯罪の脅威を前にして、運命に身をゆだねることしかできない。夜中に職場から帰宅する勤労者、特に女性にとっては、恐怖が既に暮らしの一部となっている。ましてや首都の行政当局が安全快適な公共ファシリティを用意することに無関心なのだから。バス停は、暗くて照明もなく、犯罪の危険に満ちている。そして夜間の公共交通機関に対する行政的配慮はなにもないため、夜働く人たちはありあわせの交通機関を利用するしかない。
恐怖から逃れるために、かの女たちは夫や恋人と一緒に、あるいは同僚と集団になってバスを待つ。「夜中にグロゴルを通って帰るのって、ほんとに怖いのよ。でも目をつけられないように、全然怖くないって顔をしてるだけ。」金曜の夜、北ジャカルタ市プルイトのマタハリ・デパートに勤めるインドゥリはそうインタビューに答えた。二週間に一度の夜間シフトが決められており、インドゥリは夜中に帰宅せざるをえない。「女子従業員はみんな、できれば朝のシフトだけで働きたい、と思っているわ。」と希望を述べる。
インドゥリの帰宅ルートがプルイト〜グロゴル〜コタという強盗犯罪多発ルートであるため、不安はいやがうえにも高まる。既に多くのエリアがごろつき溜まりとして認定されているのに、この地域だけはいまだに曖昧であり、街灯も切れていて暗い。

アトリウム・スネン脇でインタビューした、化粧品会社レブロンのスーパーバイザーをしているレッノの話しも同じ調子だ。夜のジャカルタの恐怖はもうずっと以前から感じているが、警察に期待をかけても何も変わらず、安全を回復してくれる人がいるとは信じられないために、レッノは結局あきらめている。「わたしは全然気にかけていないふりをしてるだけ。怯えてるように見られたら、悪いやつを引き寄せるだけだから。もうどうしようもないのよ。警察も知事も関心を払おうとしないしね。今は強盗がどこにもいる。安全な乗り物なんかないのよ。」黒のブレザーをきちんと着こなしたレッノは、かつては治安が良いとされていたエアコン特別バスや電車への信頼も色あせたことを指摘した。
犯罪の被害者にならないための方策をかの女たちも考える。スリピ・ジャヤ・モールの従業員ヤニとロフィは、バスに乗るときは最小限の装身具しか身につけないようにしているし、ロフィは夫かファミリーのだれかに迎えにきてもらうようにしている。

メガモール・プルイトの従業員でチュンパカ・プティに住むヌルは毎日、職場から夜9時に帰らなければならない。プルイトから小型乗合アンコッで西ジャカルタのグロゴル立体交差の下へ行き、そこで東ジャカルタ市プロガドン行きバスに乗り換える。
夜に帰宅する大勢の人が集まってくるその交差点には交通警官がひとり警備に当たっているとはいえ、グロゴル地区はヌルの胸に恐怖を掻きたててくる。それはヌルがもう何度もそこで犯罪事件を目撃しているからだ。「不安だけど無理して帰ってます。怖れてしまったら勇気は出てこないでしょ。」
かの女は友人たちと、暗いフライオーバーの下で仕方なくバスを待つ。フライオーバーには電灯が設置されているが、その夜、灯りは消えていた。だから人々は比較的明るい場所に集まって群れをなした。かれらがそこでバスを待たなければならないのは、プロガドン、カンプン・ランブタン、ブロックM方面のバスがそのフライオーバーからおよそ二百メートル離れたターミナルに入らないからだ。フライオーバーの下で客を乗降させた後、それらのバスはターミナル手前のUターン路で方向転換して、引き返していく。「そのターミナルは夕方から夜には閑散としてるよ。」とバジャイ運転手は語る。

中央ジャカルタ市ウィスマ・ダイナーズクラブにある世界食糧プログラムのオフィスに勤めるウィタは、毎日夫が迎えに来るので怖い思いをしないですんでいる。とはいえ、かの女は護身用として、万一に備えて小型ナイフを携帯している。「ジャカルタの様子にはもう慣れっこだけど、ひょっとしてひとりで帰らなきゃならなくなったときの用心に、いつも持ち歩いてるの。まだ一度もそれを使うような事態に遭遇していないのはラッキーだけど。」
中央ジャカルタ市スネン地区のキミアファルマ薬局の前でバスを待っていたラニは、夜タングランまで帰るのはもう慣れており、怖いという感じはほとんどしなくなった、と語った。ところがそれ以上あまり多くを語ろうとせず、じりじりとそこから離れて行った。
夜中にそんな場所でインタビューをしかけてくる記者を『犯罪者かも知れない』と推測し、「怖くない。」と口先だけで語ったことは、大いにありうることではないだろうか。
ソース : 2002年7月28日付コンパス


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『失業と仲間選びの間違いが強盗のもと』

勤勉は利口のもと。ところが、間違った仲間選びと長い失業生活が実は強盗のもとだったのだ。雑魚クラスからピストルクラスの路上犯罪者に「なぜそんなことを・・・・」と投げかけた質問に対してかれらが語った自らの経験の大半がそれを示している。

「なんでコカコーラ交差点(訳注=Letjen Suprapto〜Perintis Kemerdekaan通りとAhmad Yani通りが交わる交差点で、その南西角にコカコーラの倉庫があったことからその名で呼ばれている。コカコーラ倉庫は移転していまはない。)でやるのがみんな好きなのか、俺にもよくわかんねえ。俺自身の経験だと、あそこはほんとに楽なとこだよ。付近の住民が邪魔しに来ることもねえしな。俺たちがやったあとはおとなしくしてることをみんなよく知ってんだ。」7月7日以来首都警察留置所に入っているフランシスクス・ドウ21歳の談。
「やる」とフランシスクスが言うのは、ナイフや斧、あるいは玩具のピストルを使って強盗を行うことにほかならない。その危険ポイントで大勢の強盗が警察に捕まったり撃たれたりしているのを、かれはよく知っている。
「ほら、中にいる俺のダチは昨日あそこで捕まったばかりだ。俺が捕まったとき、あいつは住民のカンプンに潜り込んで逃げおおせやがったのに。」そのフローレス族の血を引く若者は、首都警察暴力犯罪ユニットの狭い部屋を指して言う。かれの友人マッ・アティブ別名ジャマルは、調書作成の終了プロセスをしゃがんで待っている。

フランシスクスは5人の仲間と一緒に一台のセダンを囲んだとき捕まった。かれの役割は玩具のピストルを運転者に突きつけること、ジャマルの役割は運転者が仕方なく差し出す携帯電話を取り上げることだった。
「赤斧はもう時代遅れだ。玩具のピストルの方が早い。被害者はすぐ怖がる。格好が本物そっくりだからな。あのピストルは仲間と金を出し合って、ジャカルタフェアで俺が7万5千ルピアで買ったもんだ。」とはいえ、やっと4回目(うち三回はコカコーラ交差点)の強盗でもう捕まってしまったフランシスクスは、「やる」のはもう懲り懲りだ、と言う。
「捕まるとき、警官の撃った弾丸が耳の近くで外れたのは運が良かった。弾丸は上に行ったけど、俺の足は力が抜けた。ほんとに怖かった。しばらく耳がおかしかったけど、もう元に戻ったよ。要するに俺はもう懲りたってことだ。これからは首都警察のボクシングジムで練習だけする。教官はまた受入れてくれるようだしな。拘置所の強制労働も終わったから、いまはボクシングの練習で時間をつぶしてるよ。」

タンジュンプリオクのとある高校をフランシスクスが二年で中退したのは、高校生間のタウランにかれがよく加わったことから2000年に放校処分を受けたためだ。六人兄弟の四番目であるかれは、船員を職業にしている兄と二人でプリオクに住んでいる。兄はしょっちゅう航海で、義姉は子供の世話で忙しい。「だから俺はほとんどぶらぶらうろついてる。止める者はいねえよ。親はタングランで運送クーリーやってる。」と語るフランシスクスは、「カトゥロ」 (訳注=katro、度胸がなくて馬鹿面をしている者に交際仲間が投げつける揶揄)と馬鹿にされたので強盗仲間に入ったと告白する。ところが当時、放校処分のあとでかれは首都警察ボクシングジムで練習生として月35万ルピアの給料取りになっていたのだ。「俺のランクは7番だった。」とかれは誇らしげに語る。

はじめかれは、タンジュンプリオク・バスターミナルで名の売れたピアンに誘われて見物だけした。その犯罪集団が携帯電話を奪うたびに、フランシスクスは毎回1万から3万ルピアのおすそ分けにあずかった。仲間の行動を何回か見学した後、かれは自分も行動に加わりたい、と申し出た。まずは車を囲む役どころだ。その後間もなく、かれは刃物やピストルを被害者に向ける役を与えられるようになった。その役を演じるたびに、かれには毎回10万から15万ルピアの金が手に入った。「でも携帯電話機が誰に、またはどこに売られるのか、俺は知らねえ。特別にそれを売り捌く係りのやつがいるんだよ。」
交差点にいる特定の者に仲間がよく金を分けていたことをフランシスクスは認める。「あれは治安当局の人間だ、と仲間は言ってたが、ほんとかどうか俺は知らねえ。面倒がねえように保安料を出すのはあって当然のことだがよ。俺はそいつと話したこともねえし、仲間にそいつのことを聞いて回ったこともねえ。みんな、てめえの領分を持ってるし、他人のことを騒ぐ必要なんかねえんだ。仲間の本名や家の場所だって、仲間同士みんな知ってるってわけでもねえんだから。俺たちゃチュンパカプティで会うことだけ約束してるんだ。」
仲間の間で警察や住民に捕まる者が出た場合、それは本人だけの問題になる。「俺が留置されてる間、面会にきたやつなんかひとりもねえ。家族さえこのことは知らねえさ。俺の家を知ってる仲間だって、俺の家族に知らせに行くのは絶対嫌だろうから。おまけに強盗になったなんて、俺も恥ずかしくてよ。だけど他の仲間みたいにヤクに手を出さなかっただけまだ良かったよな。強盗やる俺の仲間はほとんどみんなヘロインをやってる。俺は違うぜ。」調べろ、とでも言うように、フランシスクスは両腕を差し出して見せた。


ジャマルディン別名ベモ35歳、レノ別名スラエマン24歳。ふたりのストーリーはまた違う。警察に逮捕され、拘置所で日を送っているブンクル出身の二人の男は、懲りたし恥ずかしい、と思っている。ベモはジョクジャ出身の女を妻にし、子供が三人ある、と言う。かれが拘置所に入って三日目に、妻はジョクジャの両親のもとに帰った。
「あとになって離婚を申し出てきたら、ほっとこう。でも俺が出るのを待っててくれるのなら、ブンクルに連れて帰る。ジャカルタじゃもう暮らせない。ブンクルへ帰って薪拾いして暮らしたいよ。」とのベモの談。
ベモとレノは7月4日、タナアバン〜パサルミング・ルートのメトロミニ604の中ですりを行ったときに捕まった。レノは自分を捕まえた群衆のリンチを浴びて全身あざだらけとなった。乗客のかばんを安全カミソリで切って携帯電話を盗んでから、ふたりはメトロミニから飛び降りて逃げようとしたが、被害者の叫び声がアトマジャヤ大学前バス停でバスを待っていた群集を動かし、レノは捕まってリンチされたのだ。
「俺はもう何ヶ月も失業していて、仕方なくすりをやった。前はブカシ県チカランの靴製造会社で働いてたけど、くびになった。その後マヤサリ・バスで車掌の仕事を誘われてしばらくやったが、俺を誘ったやつが石油燃料値上げ反対デモにちょくちょく行って、結局仕事をやめたので、俺もやめちまった。」 と語るベモ。一方レノは、すりをやったのは出来心だった、と告白する。「俺はパサル・チュンカレンで衣料品カキリマ商人をしてる。品物はタナアバンで仕入れる。捕まったとき、ほんとは俺はベモの家へ行こうとしてたんだ。」「被害者のかばんを切り裂いた安全カミソリはあんたのものだった。なんでそんなものを持ち歩く?」と尋ねると、かれは膨れ面をし険しい口調で言った。「カミソリは爪を切るためにいつも持ち歩いてんだ。」
目つき鋭く、しぐさも粗野なその若者は、結婚して二ヶ月目だ、と語る。「女房はもうブンクルへ戻った。俺が捕まったらだれが食わしてやるんだ?」学歴は中卒だというレノは語る。「調書作成はもう終わったのか?」との質問に、かれは不満を全身に漂わせて答えた。「被害者は示談はしないそうだ。それどころか、俺が厳罰を受けるように、と呪った。ああ、もういいや。身をゆだねるだけだよ。検察と法廷に移されるのを待つだけだ。」


長い失業とますます困難を深める就職状況が首都の犯罪多発の一因であるのは、どうやら確かなようだ。おまけに路上犯罪者の多くは都民でなく、地方からの上京者がほとんどであるらしい。
首都警察一般捜査ユニットのチーフであるラジャ・エリスマン副警部正は、2002年上半期(1月〜6月)に取り扱った路上犯罪は676件、容疑者数987人だ、と説明する。捕まった犯人のうち31人は民衆のリンチあるいは警官に撃たれて最終的に死亡している。犯人たちはたいてい中学高校中退者で、且つ上京者なのだ。警察が見知っている「古顔」はせいぜい5%に過ぎず、「新顔」はたいていジャカルタ生まれでない。犯人たちは一様に、故郷には職がなく、ジャカルタでの失業生活が長いことから、路上犯罪を行った、と自白している。難しいのは、この国の政府高官や実業家たちが自分のことばかり考えるのに忙しく、民衆の働き口を用意することなど念頭にないということなのだ。
ソース : 2002年7月28日付けコンパス
ライター: Ratih Prahesti Sudarsono


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『不法出稼ぎ者 〜 偽パスポートから海岸の死体まで』

去る11月19日、マレーシア政府が国外追放した2千5百人のインドネシア人不法労働者受渡しのためにジョホールを訪れたヤコブ・ヌアウェア労相は、受渡し式におけるスピーチでインドネシア側の事情をざっくばらんに披露した。
「わたしどもは仕方なく外国に仕事を求めています。今現在3千6百万人が職を求めているのです。」会場をその瞬間沈黙が覆ったのは驚きのせいだろう。どうしてインドネシアからあんなに大量に不法入国者がやってきて労働しているのかについて、マレーシアの政府と国民にオープンに打ち明けた労相のあけすけな姿勢は、その日の労相の作戦だったにちがいない。

労相によれば、現在合法的にマレーシアで働いているインドネシア人は65万人にのぼる。では不法就労者はどのくらいいるのだろうか。統計は存在しないが、80万人という説がある。不法就労者は合法労働者の2〜3倍という説を立てる者もいる。そうなれば100万人を超える。ともあれ、インドネシア、マレーシアの両政府はその点に関する公式見解をいっさい差し控えている。
両政府はそれぞれの事情のせいで、この問題をできるだけ避けようとしているように見える。はっきりしているのは、11月19日現在、インドネシア人不法労働者がジョホールのプカン・ナナス・デポに1千7百人抑留されており、かれらは12月8日に国外追放されるということだ。
ヌアウェア労相は社交辞令なしにマレーシア政府に対し、国外追放される者たちの罪を免じ、合法労働者として受け入れてはどうか、と提案した。なぜなら、マレーシア政府も基本的には農園や建設の労働力を外国から受け入れざるをえない状況にあるからだ。

労相の率直さは、出稼ぎ者問題の処理における政府の誤りを認めている点にも表れている。
「出稼ぎ者問題の根の8割は国内にある。募集から始まってイミグレ等々。国内での手続きがきちんとできていれば、このような問題は起こっていないはずだ。」と、2千5百人の不法入国者追放について労相はコメントしている。
ジョホール州パシルグダン港からインドネシアの軍艦二隻で祖国に向けて追放されるこの受渡し式に多忙を割いて労相が出席しに来たのは、インドネシア政府、特にゴトンロヨン内閣労働省の最初のコミットメントとしての姿勢を示すためだったのだろう。
「どうあろうと、かれらはインドネシアの子たちなのだ。イミグレの抑留デポで辛い目にあっているのを見るにしのびない。かれらは法を犯した。マレーシアにいてはならない者たちだ。やむにやまれず不法入国せざるをえなかったかれらに対して、われわれは国民としての配慮を与えてやらなければならない。」


労相の率直さは賞賛に値するが、それだけで十分とは言えない。出稼ぎ者問題の根の8割が国内にあると言う以上、どこからそれらの問題に手をつけていくのか知っていなければならない。
労相によれば、最大の問題は外国で働く方法に関する知識をインドネシアの民衆に十分持たせていないことだそうだ。その結果、外国で働きたい者は周旋人の手中に落ち、まだ何になったわけでもないのに欺かれ、搾り取られる。斡旋会社はただ利益を取れるだけ掘り尽くそうと、民衆の無知の上にあぐらをかいて、乗りかかってくる。
ハリー・ヘリアワン・サレ住民動員局長は、「省に登録されている斡旋会社は三百前後にのぼるが、そのすべてが良い会社というわけではなく、当局では選別を行って、中には外国への労働者派遣を禁止したところもある。」と語っている。もしかれらが出稼ぎ者の募集を正しく行っていれば、現状のような不法出稼ぎ者問題が起こるはずはない、との労相の意見だ。
出稼ぎ者問題の根源は、一般的に言って、斡旋会社の行動にある。かれらは県レベルの支店や代理店を持っておらず、ましてや村落レベルには何のネットワークもない。結局チャロと呼ばれる周旋人を使って出稼ぎ者を募集することになり、被害者が誕生する。まだ何もしないうちにひとり頭一千万ルピア前後の金を要求し、仕事の内容、出稼ぎ先国の法規や習慣などについての情報はろくに与えない。就労契約についての説明もない。

不良斡旋会社や周旋人がいるのと同様に、不良出稼ぎ者つまり身勝手な出稼ぎ者もいる。かれらは外国で働くためにはパスポートや労働許可などの書類完備が必要であることを認識していながら、そんなことは無視してもぐりこもうとする。どんなリスクに直面するのか知っているというのに、不法入国をあくまで行おうとするのだ。
かれらにも言い訳がある。公的な斡旋会社を通して合法的に入国するのは費用が高いし、すぐに出発できるわけでもない。
「だからわたしは各州政府が住民に告知するよう後押しするつもりだ。マレーシアに非合法で入国してはいけない。規則は守らなければならないのだ、と。」どのような広報をおこなっていくのかという詳細説明はないが、労相はそう述べている。


モ・ジャエラニ東部ジャワ州労働局長の説明では、同州政府はかなり具体的なコンセプトを持っているようだ。
話しでは、東部ジャワ銀行が海外出稼ぎ者のファイナンシングについて斡旋会社と関わりを持つらしい。以前は斡旋会社が全費用を負担したが、今では東部ジャワ銀行が出稼ぎ応募者に貸付け援助を行うので、かれらが海外に出発するときは借金もあるが東部ジャワ銀行に預金もあることになる。
たとえば香港に出稼ぎに行く場合、送込み費用は8百万ルピアと見積もられているので、その金額が年利15%で貸付けられる。シンガポール行きは650万ルピア、マレーシアは4百万ルピアだ。
東部ジャワ州労働局は、斡旋会社に対して東部ジャワ銀行に出稼ぎ者ひとりあたり二百米ドルをデポジットさせる形で介入するようにしたので、貸付金の利率は年10%になった。さらに貸付金返済期間は6ヶ月とされたので金利は5%に下がり、8百万ルピアの5%にあたる40万ルピアの半分は東部ジャワ銀行が援助するようにしたため出稼ぎ者の負担金利はわずか2.5%となった。
「貸付金8百万ルピアのほかに、出稼ぎ者はその10%にあたる80万ルピアの預金を持っている。おまけに東部ジャワ銀行の本人の口座に銀行からの金利援助分20万ルピアが振り込まれるので、かつては出発時に一銭の金も持っていなかった出稼ぎ者は、今では東部ジャワ銀行に百万ルピアの預金を置いて海外に出稼ぎに行けるようになった。」とジャエラニ局長は説明する。


国境地帯でのインドネシア、マレーシア両政府による適切な監視の不在ゆえに、出稼ぎ者の不法入国を招くトラブルスポットも出現する。海岸線が長すぎて、それを監視する軍警察の人数が足りないという理由のもとに。
その結果、海や陸を持ち場とする何十人ものチャロたちの動きを束縛するものもなく、かれらは不法労働者を自由にマレーシアに入れたり、インドネシアに戻したりしている。海チャロは1基または2基の船外機をつけて強力なスピードが出るようにした自分の所有する小舟で不法労働者を渡航させる。
地元でテコンと呼ばれているチャロのやり方の話しを聞き、不法労働者たちが漂着させられた小さな入り江を目にすると、実に憂うべき思いがこみあげてくる。小舟には20人から40人の密航者が、航海上の安全設備の備えもなしに詰め込まれる。浮き輪どころか小さいライトすらないのだ。海テコンも入り江や海岸まで近づいて停泊しようとはしない。舟は海岸から1〜2百メートル沖で停まる。密航者はそこから歩いたり泳いだりして海岸まで海を渡らねばならない。海岸の目印は陸テコンの手下が焚くかがり火だけだ。泳げなかったり、泳ぐのに疲れて沈んだり、波にさらわれたりして生命を落とさなければ、海岸までたどりついた不法入国者を陸テコンがすぐに不法入国者収容場所や不法就労者を注文した雇い主のところへ連れて行く。しかし、陸テコンや雇い主の手に身をゆだねるまで、不法入国者が海岸のマングローブ林や茂みの中に身を隠さなければならないような事態の方がより頻繁に起こっている。

記者が訪れた二ヶ所の小さな入り江には、そこに不法入国出稼ぎ者が漂着したあとが見られた。かがり火の焚かれたあとは暖かく、まだ小さく煙を吐いていた。砂浜とパーム椰子農園や林を隔てる茂みには乱雑な足跡や泥足をぬぐったあとが残され、汚れて踏みしだかれていた。
別の入り江では、海岸の林に小屋があり、そこに三々五々座っていた若者たちは休憩場所だと語っていたが、その場所がジョホールに向かう不法入国者の漂着場所になっていることを肯定していた。

ジョホールまで来た不法労働者たちの話しを聞くと、かれらはひとり2〜3百万ルピアの金を払ってチャロとテコンたちに密入国させてもらったそうだ。陸にたどり着こうと努めているときに、波にさらわれたり沈んだりして生命を落とす出稼ぎ者も多い。ジョホールのインドネシア領事館の観測では、2000年に月平均7体の不法インドネシア人出稼ぎ者と見られる遺体が発見されているとのこと。2001年にはその数字が10体に増加した。海岸や海岸の湿地で見つかった死体が逐一警察に通報され、警察がそれをインドネシア人だとして領事館へ連絡してくるようになれば、その数字はもっと増大するだろう。地元の社会で一般に行われているのは、見つかった死体がひどく傷んでいると、かれらは警察に知らせることなくその場ですぐに埋めてしまうのが普通だからだ。


不法入国者が海岸の死から免れても、だれもが雇い主を得たり、陸テコンの世話にあずかれるほど幸運であるとはかぎらない。不法入国者の多くは、陸でかれらを待ち受けている警察の検問に引っかかり、そのままイミグレ抑留者として収容所へ連行される。それは不法入国をしたからだ。中には農園や建設現場でやっと一ヶ月、あるいは三ヶ月働いたところで警察の検問に引っかかる者もいる。リンギッはまだほとんど貯まっていない。そんなケースで捕まる出稼ぎ者は、パスポートを持っていなかったり、正式な労働許可を持っていないためだ。たとえ形式的にそれらを持っていたとしても、かれらが示せるのは偽造のものだ。
不法就労者から取り上げたパスポートや労働許可はさまざまな様式をしている。パスポートの表紙だけは正式のものと同様に緑色だが、持ち主のアイデンティティの詳細や労働許可内容が記載されたページが偽物なのだ。そのバラエティに富んだ様式には笑わせられる。中には正式なパスポートもあるが、労働許可が無かったり、期限切れだったりする。不法出稼ぎ者が持っていたパスポートがすべてそうなら、心はまだ痛まない。
インドネシアのイミグレーションが発行していない贋物でも、まだ救いがある。心が縮むのは、インドネシア移民局が正式に発行したパスポートなのに、持ち主のアイデンティティが故意に変えられたり、偽られたりしているものだ。
パスポート発行担当官と申請者との間に癒着が見える。それが起こるのは、不法出稼ぎ者が国外退去を命じられて追放された後、またマレーシアにどうしても出稼ぎに行きたいとかれらが希望するためにちがいない。
そのとき、申請者は別の名前で新規にパスポートを申請する。だから出稼ぎ者たちの多くがパスポートの名前に合わせて自分の呼び名を変えているのは、決して不思議でもなんでもないことなのである。
ソース : 2001年12月11日付けコンパス
ライター: Ratih Prahesti Sudarsono


◇◆◇
『荷おろし人足」現象』

この論文は、ジャボタベックにある住宅地区周辺で、荷おろし人足になる周辺住民と住宅居住者との間に現れた社会現象を公平に考察したものであり、起こっていることがらとは、周辺にカンプンを持つ住宅地区の住民が基本的人権を犯され、それどころか地元住民と名乗る一群のひとびとに抑圧されてなす術もないというものだ。

住宅オーナー(外来者)と地元住民という対立二分術語の用法はネガティブな含蓄をもたらしがちだが、荷おろし人足の多くが17歳という年齢の若者であることからすれば、かれらが地元住民か外来者かを区別するのはむつかしい。なぜなら、ジャボタベックの住宅地区開発が進んでからというもの、地元住民と外来者との婚姻融合プロセスは進展しているのだから。かれらが、ただ荷役労働者の仕事を選んだというだけのことなのだ。

社会の中で起こっているこの現象は、もはや経済問題などではなく、法律違反や特定社会階層の基本的権利に対する違反へと深化している。要するに正義、つまり住宅オーナーと荷おろし人足との間に法的な対等性が存在していないのである。一方、地方政府に委ねられた公共ファシリティを含めて宅地開発業者から家を買った住宅オーナーは、建築許可の課金を払い、土地建物税を納め、所得税まで払っているというのに、安全で落ち着いた居住をする権利が守られていない。反対にネガティブな行為をする荷おろし人足は往々にして放任され、経済状態という理由だけで当然とされてしまう。社会生活のさまざまな面に自由をもたらしたレフォルマシが、既に形成されていた法秩序に背いて反動的な行為を生み、それを当たり前とするといったことをわれわれが望まないのは誰しも同意することだろう。われわれが理想としたレフォルマシとは、法の優位を確立させることではなかったのだろうか?
レフォルマシは法の優位を確立しなければならない。つまり、正しい側に味方することであり、弱者や強者のだれを弁護すればよいというようなことではないのである。弱者が過ちやネガティブな行為を行えば、その者は必ず処分を受け、また強者も同じということでなければならないのだ。


この文は荷おろし人足や特定社会階層を侮蔑したり追い込むことが趣旨ではなく、住宅地区居住者を正しいとするものでもなく、ひとつの行為を元々のバランスに位置付けて本来通るべき筋道から外れた行為を正道に戻すことを意図している。他者への抑圧行為は基本的人権違反だ。荷おろし人足がゆすりを行うのを放置すれば、法執行者の立場を弱め、かれらが措置を取ることに迷いを生じさせる。荷おろし人足の圧迫を盛んにさせる客観的インディケーターを見てみよう。

1.金を得る簡単な方法
状況をじっくり観察してみると、特別な技能を必要とせず、本人が選り好みしないで働く意欲さえ持っていれば必ず得られる仕事がセメント運び、掃除人夫、コンクリート塀作り、職工などだ。もし必要なら、政府は町村レベルの行政機構を通して、建築許可申請者、建設業者、建物オーナーたちに、特別な技能を必要としない仕事に一定人数の地元住民の使用を義務付けることができる。だが、荷おろし人足の実態は、物の積み下ろしを強制的に依頼させることで、親方からの圧力や関わり、あるいは仕事の決め事などなしに、もっと簡単に金を手に入れている。
「物を運べばすぐ金になる」という別の記事によれば、荷おろし人足の一日の収入は5から10万ルピアであり、月額にすれば150から300万ルピアとなる。建設労働者や納税義務を負っている企業の若年社員よりはるかに大きい。
そのような巨額の収入を得るかれらは、納税義務があることを知っているのだろうか?そのありさまは、社会の、特に若い世代の勤労意欲を弱めてしまう。『簡単に得た金は容易に出て行く』と言われるが、そんな状況は不健全であり、ばくち、酒、麻薬に浪費される可能性も否定できない。社会の有力者、宗教者、政府、教育者たちは、そのようなネガティブな行為を正さねばならないのだ。

2.役人に厳格さがない
法の執行者は、住宅オーナーや居住者に「事情を理解して、負けてやってくれ。」と頼むのではなく、悪人に対して措置を取る勇気を持たねばならない。そんなことをすれば、荷おろし人足は自分の行為が正当だと感じる。おとなだとか、まだ子供だなどといった見方を持ち込むのではなく、厳格に措置するべきなのだ。他人の権利を犯せば罰せられなければならない。また市民もゆすりや違反行為が起これば、役人に通報する勇気を持たなければならない。たいした金額ではないからと、ネガティブな行為を当たり前として放置し、教育を怠ることは良くない。

3.正義と真理
市民の保護者としての国(ここでは政府と役人)の役割はバランスが取れていなければならない。国が市民に納税意識を要求し、住宅オーナーは周辺カンプン住民に比べて明らかに高額の税を納めるようにと追い掛け回されるが、権利の侵害に関しては、正義や真理にもとづかず、荷おろし人足側が弱者だという理由で得をする。このパラディグマを変えなければ、穏やかな市民の暮らしは求めようもなく、常に不安定な状態が生み出されていくだろう。

4.マスメディアと民間団体(NGO)
声がよく通るマスメディアや民間団体が流すニュースは真実にもとづくべきであり、弱者と強者を区別してその一方を弁護することではない。それは弱者を甘やかすことで一層弱者であることを煽り、またその反対に強者たちが国への納税義務を免れ、資産を安全な場所に移し、私的な懲罰システムを育て、ボディガードや外人警備員を雇って弱者のふりをするように仕向けていく。

5.データの公表
弱者に味方することを選ぶ役人、マスメディア、民間団体らの事実集めは、客観性のない、バイアスのかかった分析を提示するために、問題解決がうまくいったためしがない。そこにあるのは問題をかきまぜることだけだ。現場に存在する事実とは、住宅地区での荷おろし人足の存在は不穏なものだということであり、その客観的なデータ集めは可能なのだ。その一方で、周辺住民に対する教育援助、ビジネスや勤労機会の提供、ファシリティの改善、宗教活動の援助などかれらのレベルを引き上げるための援助活動は同等に公表されてはいない。そこに強調されている事実とは弱者層の無力と格差であって、それをどうやってなくすかというアプローチを学ぶことなく他の集団をボランティア的に働かせ、あるいは弱者層の軽減を助ける集団を浮き立たせることなのである。
ソース : 2001年7月4日付けコンパス
ライター: M.Faizal & Jowi Manche、社会問題研究家


◇◆◇
『不法徴収金に比べものがなくなったとき 』

事業家が資金的な困難に陥ったとき、いちばん簡単ですぐに行える抑制の対象は賃金だ。しかし、会社の資金を膨らませる非効率が、労賃のアップよりは労働者とは無関係なことで起こるのも決して稀ではない。


事業オーナーや重役たちのライフスタイルについて言えば、たくさんの設備が整った豪邸に住み、高級車を持ち、一家で世界周遊の旅に出るような繁栄した暮らしを送っている。一方、事業のバックボーンたる労働者は毎日汗水たらしているが、ときに賃金支払いが遅れることさえある。あるいはインフレを追いかける賃上げすらなく、いつまでも捨てて置かれる。「労働者には汗が乾く前に支払ってやれ」という賢明な言葉は、しばしば事業家が「労働者には汗が血になったら支払ってやれ」ともじられる。

そんな一方で、事業家が納めねばならない巨額の徴収金がある。ビジネス計算上、それは生産コストとは何の関係もない。そんな徴収金が企業の効率をそいでいる。その結果、その幽霊コストをカバーしようとして事業家は労賃の圧縮に向かう。
幽霊コストがどのくらいの金額になるのか、明らかにされたことはない。「名前からして幽霊コスト(biaya siluman)、不法徴収金(pungutan liar)だ。はっきりと計算されたことなんかない。」全国商工会議所のある上級役員の言。
ある事業家は、さまざまな「戦争支配者(penguasa perang)」に支払われる幽霊コストは総生産コストの30%にのぼるだろう、と見ている。なぜなら、「戦争支配者」別名不法徴収者に役所のドアごとに、あるいは大通り沿いにわたって対面しなければならない特定の仕事があるのだから。おまけに職場にまで「戦争支配者」は事業家を訪ねてやってくる。徴収金の種類もさまざまだ。

徴収金に関するまだほやほやの話しはルフト・パンジャイタン商工相が述べたもので、トランス・スマトラ街道をメダンからジャカルタまで陸路とフェリーで走れば、トラック一台が運ぶ商品に対してその一台のトラックは120万ルピアの徴収金を用意しなければならないというものだ。
地方政府が全知全能をふりしぼって地方源泉収益増をはかっている状況下に、北スマトラ州では農園事業者に対する課税、課金が屋上屋を重ねている。同じ項目に対して州政府が課税し、県庁も課税する。この二重課税は不透明な治安状況と物価の急上昇で一層の混迷を招いている。
レフォルマシ時代になったとはいえ、警備費用や許認可手続き、通らねばならない官僚デスクに置かれる封筒などの金銭徴収は依然として盛んだ。それはハイコスト経済を引き起こすばかりか、ビジネスを不確定にさせ混乱をもたらす。


実業界のある大物が、一層ひどくなっている農園地区採鉱地区の治安の乱れについて政府に問題を訴えたところ、その返事は「事業家も治安機構要員を助けてやってくれ。頼むよ。」というものだった。
「よく言うよ。こっちは自分で警備員を雇い、警察にも金をやってる。その上に、なんとまあ、軍にも金をやれ、だと。この国の混乱もいいとこだな。」公的な警備費用はオルバ期の二倍を既に超えている。それらの幽霊コストがなければ、政府はクリーンであり、事業家はその資金を労働者の生産性を向上させるための技能の向上にまわすことができる。どんなに大きな利益が国全体で享受できることだろう。

パーム椰子事業家連盟のデロム・バグン会長は、ハイコスト経済はもうあまり感じられなくなっている、となかば冗談に述べている。感じられなくなったのはそのレベルが下がったからではなく、治安と物価の問題がもっと高いレベルに上昇してきたからだ。
「警備員についても、当方はいつも自警団組織に給料を払っているのだが、いまでは人数を三倍に増やさねばならなくなっている。」それでさえ、街道で徴収されるわけのわからない警備費がその上に乗っかる。
パーム椰子とゴム農園7千haを経営するPT PD Paya Pinangのアリフィン・カムディ社長は、北スマトラでは当たり前のことだ、と笑いながら話す。とはいえ、デロム・バグンもアリフィン・カムディも負担している幽霊コストの概略数字すら示してくれない。

一方、赤字国家会計に加えていま学習段階にある地方自治の実施が、ときに上部法令に違背したり、上部の国庫徴収分とオーバーラップするような新規追加徴収金さえ生んでいる。たとえば健康診断費用は労働省が一度取り、保健省も一度取っている。
環境保護分析のデータは地方環境保護監督庁に対してだけ報告義務があるのだが、無関係のはずのさまざまな役所が報告を求めてやってくる。「いつものことだよ。行き着くところは金だ。」とアリフィン。
北スマトラ州政府以外が徴収する第三者の寄金義務に関する州政令第9号にしても、県庁が二重に徴収している。「この金は自主譲与金なので会計処理に困る。」とデロムがコメントを加える。

誰が徴収しようが、事業家にとっては問題ではない。重要なのは、納めねばならないのが本当は何%なのかが明白で確定したものであることだ、と二人は言う。「税総額は総収入の三割が妥当だ。誰が徴収しようと、トータルは三割を超えてはいけない。われわれ事業家にとっては、ファイナルとして30%を持っていってもらうほうが良い。後はそれを中央と地方とで分配してくれれば良いのだ。」とデロムが言う。


西ジャワ州の繊維事業家は違う歌を同じメロディで歌う。聞くところでは、生産外費用として1億ルピアを用意していた会社が、今では2億ルピアを用意しているという。「いろんな口実でいろんな徴収金が取られる。脅かすのもいれば、やさしく来るのもいる。徴収金は生産コストの30%にのぼる。製品価格がどうなるか、計算してみたらわかるでしょう?」西ジャワ州繊維業者協会のアデ・スドラジャットの談だ。
生産外の徴収金は、会社構内の駐車税、貯蔵タンク課金、会社が建設した橋に対する橋税、州政府創立記念式典協賛金、市や県の創立記念協賛金など。8月17日独立記念日の寄付請求はありとあらゆるところからやってくる。
アデによれば、繊維セクターの事業環境は本当は仮死状態だそうだ。二年間背負ってきた経済負担の嵐はいまだに過ぎ去っていかない。ほぼ倍増した電力基本料金は事業家を打ちのめしたし、軽油価格は6百ルピアから1千3百ルピアに上がり、西ジャワ州の最低賃金は1年で四回も引き上げられた。いま39万ルピアになっているが、それで終わるのだろうか?

事業家が頭を痛める問題は徴収金だけではない。労働争議はその決着をつけるのにかなり大きな費用がかかる。というのは、調査費用を事業家が負担しなければならないからだ。西ジャワ州議会第E委員会メンバーのヘンダ・スルウェンダ議員は、一件あたりの費用は5千万から1億ルピアだろう、と語る。ヘンダによれば、2000年の西ジャワ州の労働争議二百件の中で重いのはほんの一部しかなく、第三者に解決の機会を提供しているだけなのだそうだ。「百件に1億をかけると百億ルピア。事業家と労働者が一緒にそれを負担し、搾取されて損をする。羊がなくなったと訴えたら、牛をさらわれたようなものだ。」
ヘンダ自身も労働争議解決のおいしさを味わっている。敬意を払われ、食事が出され、ガソリン代まで出る。ガソリン代は20万から50万ルピアまでさまざまだそうだ。「第一級行政区の地方議会でこれだ。第二級へ行けばどうなるだろうか?労働省だ、議会議員だ、治安要員だ、といっぱいだよ。」
そんな様子だから、労働者も事業家もフェアな合意を求めて自分たちで問題を解決するよう努力することだ、とかれは奨める。「お互いに牛をさらわれることのないように。」と笑って言う。


アデによれば、徴収金が西ジャワ州繊維会社の競争力を直接的におとしめたそうだ。商品の価値が1千ルピアでも、徴収金のために1千3百ルピアの価格になってしまう。「でも、何を言ってもしようがない。われわれのメンタリティはそうなってしまっているんだ。『チャンスがあればむつかしくしてやるんだ、なんで容易にしてやらなきゃいけないのか?』ってね。」

事業家は労働者を昇格させ、降格させ、解雇する権利を本質的に有している。一方、労働者はデモや一斉ストという最終兵器を持っている。両者の相反する姿勢は、慢性病となって頻繁に双方を害している。労働者がストを行うと事業家は後退して事業を閉め、もっと安全で低コストの別の場所に移転するという代替案を選ぶ。その理由は事業家が障害なしに事業を続けて行きたいからだ。そこで出される質問は、労働者の行動のせいでどれだけ多くの事業家が後退したのかというものだ。
最近の労働者行動の結果事業を閉めた工場の数の詳細を、アデは明示してくれなかった。アデは言う。「最近の労働者行動に対して事業家が腹を立てているのは確かだ。」
協会のデータでは、西ジャワ州には1千を超える会社におよそ3百万人の労働者が雇用されている。アデによれば、政府の法令がころころ変わるために、労働者と事業家は岐路に立たされることになった。だが労働関係の法令の多くは、その方面に経験の乏しい官僚が作ったものだけに、プロフェッショナルなものではない。


事業家協会ジマント副会長は「労働者と企業の良い関係つくりが、頻繁に政府や民間団体などの外部者から干渉される。」と述べる。オルバ期はそれどころか、軍や警察までが労働者と事業家間の労使関係に入り込んできた。従来、企業は政府の法令に従っていれば善良であり、十分とされていたが、それは労働者と企業間のコミュニケーションや対話の余地を狭めるものだった。だから労働に関する政府の法規は、労働者と企業のプライバシー領域にあまり立ち入らないよう改定される必要がある。
「労働者自身が本当の成熟、認識、会社のパフォーマンスへの理解を持ち、あまり要求的でないようにならなければならない。反対に会社側も労働者に対して、たとえば財務や給与面での会社の能力に関連したことで、ガラス張りであるようにしなければならない。もし両者から自覚と善意が生じるなら、対話も起こりうるだろう。それは労使関係を平和的にする。勿論長いプロセスの時間を必要とするが、企業内にそんな風土を作る努力は続けられなければならない。」とジマント副会長はコメントしている。
ソース : 2001年6月24日付けコンパス


◇◆◇
『カリ・ジョド事件、ジャカルタを焦土にしうる国法無効の事例』

半端じゃない。毎晩、最低でも5億ルピアの金が動いている。都庁行政と治安機構の職員は、北ジャカルタのカリ・ジョド事件を、たまたま種族の異なるやくざ同士が抗争した程度にしか見ていない。

カリ・ジョド地区の保安を掌握する1千人をこえるやくざ者、賭博をしにやってくる1千人前後の愛好者、飲食品を売る数百人の露店商人たち、そして賭博と切っても切れない糸で結ばれている売春婦およそ7百人が暑くかび臭い部屋で一人当たり5万ルピアで客を取る。夜毎の賑わいがカリ・ジョドを舞台に繰り広げられている。それらのすべてが、もう数十年にわたって、障害もなく平穏に続けられてきた。
ところが2002年2月22日早暁、家屋に火を放ちあうという格好で暴動が起こった。その事件がなければ、北ジャカルタ市プンジャリガン地区カリ・ジョドにおける賭博と売春という違法行為は、当然のように時代の果てまで続けられたことだろう。しかし、やくざたちが演じた暴力衝突と、おまけに数百軒の家屋が燃やされ、さらには警察官のひとりの目に矢が突き立つにおよんでは、都庁行政府と治安機構が手をこまねいて見ているわけにはいかなくなった。だがしかし、ちょうどそのことのゆえに、市民は大きな疑問を抱くことになった。どうしてカリ・ジョドが数十年にもわたって臆面もなく違法を行う連中に支配されるのをこれまで放置しておいたのだろうか、と。


カリ・ジョドでは、誰も賭博を隠そうとしない。あらゆる種類の賭博があるがままにオープンスペースで繰り広げられている。「大小」「悪魔ボール」「ルーレット」……。売春もそうだ。ここではそれらが堂々たる仕事となっている。違っているのは勤務時間。2月最後の週に三日間の現地取材を本紙が行ったときインタビューした地元民は、「賭博は11時頃始まり翌朝まで続く。売春のほうは24時間フル稼働だ。」と語っていた。
カリ・ジョドは人里離れたエリアではない。トゥバグス・アンケとトゥルッ・ゴンの二つの大通りにはさまれ、またバンジル・カナルとカリ・アンケの二本の川が中を突っ切っているカリ・ジョド地区は、人口稠密で交通繁華な場所なのである。ビーフン、サンダル、衣料品などの生産的な事業も、その地区の中で違法活動とまじりあって行われている。
だから、「そこで何が行われていたのかよく分からなかった。」と都庁行政府や治安機構の職員が言い訳するのは、本当に偽善的でしかない。「どうして賭博や売春がこれまで障害もなく続けてこられたのか?」という質問に対するサンダル工場従業員ナザルさんの答えは、この問題の位置付けを明らかにしてくれる。
「それどころか、警察のパトカーはここへ毎日来るよ。」というかれの言葉は、警察が実態を知らないはずがないことを意味している。
「何のために?」ナザルさんは答えない。実際、かれははっきりとは知らないのだ。「でも、パトカーが来ると、ひとりが降りて誰かと会い、そのあとでまた行ってしまう。」
この地区ははるか昔から「ナショナルATM」というあだ名が冠されてきた。カリ・ジョドの存在がいかに多くの悪徳役人の懐を肥やしてきたかを、そのあだ名が描き出している。それは数十年にわたって続けられてきた。きっと人だけが入れ替わっているのにちがいない。組織はずっと同じものだ。
カリ・ジョド住民のゴシップに登場するのは西ジャカルタ市警察の中堅悪徳職員だ。住民たちは、その男が16年にわたっていつも毎月の金を徴収しに来ている、と言う。賭博と売春の事業一軒あたり二百万ルピア。それほど長期にわたって顔を出すので、住民には知られている。ましてや、堂々と隠れもしないで現れるのだから、当然のことである。マクブル・パドマナガラ首都警察長官にこの話しの確認をしたところ、「その悪徳職員を直接は知らないが、職務権限を悪用する警察職員には厳しい措置を取るので、まずその訴えの真偽を調査する予定だ。」と長官は答えた。

一方、カリ・ジョドからの徴収金を西ジャカルタ市警察署長らに分配しているとの噂のあるブディ・サントソ職員に関する確認も取ることにした。プンジャリガン警察分署のクリスナ・ムルティ署長にカリ・ジョドの徴収金に関する話しを問い合わせたところ、自分も部下もそのような違法な金を受取ったことはない、との返事が戻ってきた。プンジャリガン分署は西ジャカルタ市警察の管轄下にある。
カリ・ジョドにおける賭博と売春のうち、賭博は西ジャカルタ市警管内で最大問題であり、北ジャカルタ市警管内では売春が最大の問題になっている。つまりカリ・ジョドは西ジャカルタと東ジャカルタの二つの警察管区にまたがっているのだ。
「ただ、……」
クリスナ・ムルティ署長は、カリ・ジョドで行われている違法行為が悪徳分子に利用されていることの可能性を否定しなかった。毎週あるいは毎月、徴収金を受取りにやってくる悪徳新聞記者をも含めて…。


火をつけてまわる。カリ・ジョドでギャング間戦争が起こるたびに暴力行為者が示す特徴がそれだ。2月22日早暁の事件は決して初めてのものではない。それ以前に起こったのは1〜2軒が燃やされるというもっと小規模のものだった。燃えたのが数百軒にのぼったことから、行政と治安機構が今回特に関心を示した。ところがその示し方は、バンジル・カナルとカリ・アンケの堤防河川敷に建てられた、誰もが明らかに違反だとわかる建物の撤去という範囲でしかなかった。そんなことで賭博や売春といった別種の違法行為からカリ・ジョドが「きれいになる」と役人たちは期待しているようだ。賭博や売春そのものに対してかれらはいまだかつて何もせず、というより何の措置も取ることができないようだ。

どうしてか?カリ・ジョドは支配者を持っている。「マフィアみたいなものだ。」インドネシア大学修士課程で「北ジャカルタ市ムアラ・バル、プンジャリガン二地区の社会における種族間の関係」と題する論文をまとめたばかりのクリスナ・ムルティ署長はそう語る。
そこには少なくとも5人の大ボスがいる。アグスと手を握っているリリ、Hウスマン、アジズ、バクリ、アフマド・レセッらだ。かれらは賭博を経営しているのではなく、華人系の賭博胴元に場所を用意してやって貸料を取っているだけなのである。場所を用意してやるということは、賭博ビジネスが円滑に行われるよう、保安の面倒も同時に見ているということなのだ。役人も民衆組織も、あるいは他の誰であろうと、そのビジネスを邪魔することは決してできない。
現場の保安のために、それぞれボスたちはかなり大勢の保安要員を抱えている。プンジャリガン署の資料では、Hウスマンの子分が最大で、その数5百人を超える。他はだいたい二三百人という人数で、だからカリ・ジョドの賭博を邪魔しようとする者は一千人を超える命知らずの「保安要員」を相手にすることになる。平均してかれらは毎晩三万ルピアの手当てをもらっている。
保安要員は一般的に、ジャカルタの外から来た者だ。たとえばバンテンやマカッサル、あるいはスラウェシの他地方の出身者で、最初はジャカルタに職を求めてやってくる。ところがいつまでたっても職にありつけず、ついにはカリ・ジョドのボスに抱えられている同郷者を頼ってやってくる。だから、保安要員をリクルートする制度などはない。かれらは受け入れられ、手当てをもらうようになるが、束縛はない。他に職が見つかったり、故郷に帰るといったことでそこを抜けようと思えば、それを邪魔されることもない。カリ・ジョドではそのようにして群集が生まれる。

「保安確保済みの場所」代は一晩1〜2千万ルピアだ。場所の広さと必要な保安要員数のパッケージがその賃貸料を決めている。Hウスマンが受取る最高料金は一晩2千万ルピア。そんな収入をもとに、大ボスの一人アジズはカリ・アンケの川岸に3ヶ月前から四階建ての恒久建造物を建てはじめた。そのビルはほぼ完成しているものの、アジズは警察に逮捕されている。プンジャリガン分署長クリスナ・ムルティが部下を率いて秩序統制処分を行っていたとき、そこの場所で署長に武器を突きつけた為だ。アジズは現在、北ジャカルタ市警察に留置されている。そのビルが何のために建てられたのか、まだ明らかにされていないが、賭博場とするためにそれを造ったと周辺住民は噂している。そのビルはいま、プンジャリガン警察の掌握下にある。


ひとつのエリアを区画化して支配する方法は、カリ・ジョドでだけおこなわれているものではない。区画化して保安要員を配置することで、その区画の中では何でも思いのままに決められる、といったことは、首都ジャカルタの他のエリアでも起こっている。これはつまり、その区画の支配者が国の役割、特に治安機構が果たすべき法執行面でのそれ、に取って代わったことを意味している。ジャカルタのアトマジャヤ大学で法と人権を教えているニコラス・シマンジュンタッ弁護士は、国法が無効にされているそのような状況を、基本的人権の中にあるインピュニティに相当する、と言う。
「実際にはやくざ者である『保安要員』は、国家主権を委ねられている政府の支配を崩壊させており、政府はもはや単独のオーソリティでなくなっている。国家主権を自分の足元に敷く権力組織がたくさん出現している。世人の記憶からまだ消え去らない例のひとつが1998年5月暴動だ。カリ・ジョド事件以後では、クラマッ・ジャティ事件がその例だ。」

法曹実務家ルフッ・パガリブアン氏は「行政や治安機構の悪徳役人との癒着の結果、インピュニティが起こる。」と付け加える。それゆえに法は依然として存在してはいるものの、翼をもがれているために何の力もない。法執行者が一緒になってその翼をもぎ取っているのは、とんだ災難だ。だから、法に背く者たちは役人に金を与えていると感じているため、自分に対して法執行措置が向けられると腹を立てる。「かれらは少なくとも腹を立てる権利がある、と感じているのだ。」とパガリブアン氏は説明する。
遺憾ではあるが、その種のことはジャカルタの生活のあらゆる相で起こってきたし、また今後も続くだろう、とパガリブアンもシマンジュンタッも声をそろえる。日々の市民の感情に触れている例のひとつは、パサル・バル地区の駐車スペースに関連して行われている、あるやくざグループによる地域支配だ。市民が払うべき駐車料金を最初の一時間2千ルピアとかれらは勝手に決めてしまった。しかし都庁の規定では、駐車料金は5百ルピアとなっているし、モールのような時間制でもない。もうひとつ別の例はパッ・オガと呼ばれる交通整理屋の問題だ。都庁はこの問題に最初意欲を見せたが、一貫性を欠いたために問題は解決されていない。このパッ・オガ問題は金額の多寡(たいてい一回2百ルピア)ではなく、場所の権利とその場所でかれらが勝手に決める交通ルールにある。かれらの行動の結果は交通の混雑と渋滞の発生を呼ぶ。なぜなら、かれらはそのことに配慮しているわけではないからだ。かれらにとっての重要事項は、金をくれる運転者を先に行かせてやることであり、それがほかの運転者に危険をもたらすかどうかなど、かれらの知ったことではないのである。

「明らかに犯罪に該当するクラマッ・ジャティ事件は和解で収められてしまった。和解することは良い。しかし、あの事件でさまざまな武器を見せびらかした連中の法的処置はどこへ行ってしまったのか?」ルフッ・パガリブアン氏はそう語る。将来のある日、すべてのインピュニティ事件が一斉に爆発すれば、ジャカルタが焦土と化さないともかぎらない。なにしろカリ・ジョドで行われている特徴が『火をつけてまわる』ということなのだから。
ソース : 2002年3月4日付けコンパス


◇◆◇
『不法移住者は漁村を通る』

西ヌサ・トゥンガラ州東ロンボッのカヤガン港は、タンジュン・プリオッやタンジュン・ぺラッなどというわが国を代表する港に比べればあまり有名ではない。
庶民が保有する小型船が寄港するだけのトラディショナルな港は、一見それほどの賑わいもなく、厳しい警戒も行われていないようだ。治安職員の監視は特定の時間にだけ行われる。外来者はこの地の暑さにねをあげる。

ところが、漁村に囲まれた狭い埠頭だけをインフラに持つこのカヤガン港が、ある日突然オーストラリア連邦警察ならびにインドネシア国家警察の重点監視ポイントのひとつとなったのだ。オーストラリアを目指す不法移住者と密入国者送り込みシンジケートへの対処を目的に、監視の密度は最近倍増している。
東ロンボッのカヤガン港からは、言うまでもなくオーストラリアへの航海が可能だ。しかし東ヌサ・トゥンガラ州の隣の島であるロテからだと3〜4日で到達できるのに比べ、カヤガン港からは7〜10日と距離も日数もより多くかかる。

実際、地元住民の話しでは、不法移住者問題が喧伝されるようになるはるか以前から、この港は何度もトランジット地点として利用されてきたのだ。ところが、2000年3月、インドネシア国家警察は密入国者送り込み事件を摘発した。オーストラリアへ出発しようとしている中東人二百人を乗せた漁船の出港を阻止したのである。
「あのときカヤガン港で何発も銃声がしたので、もうびっくりしたよ。実は、アラブ人を乗せた正体不明の船が海岸にいたんだそうだ。」ムナガ・バリス村の漁民ムラディは物語る。アラブ人を相手にした『捕物劇』は十分に衝撃的なものだったらしい。アラブ人はその地方に観光に来ているものとみんな思い込んでいた。不法移住者などとは想像もしなかったようだ。「だってアラブ人たちはあっちこっちの漁村を自由に出入りしていたんだから。」とヤヒヤが付け加えた。

東ロンボッ周辺の漁村は、密入国者送り込み活動の潜在的根拠地になっている。住民の多くが、船長、船員あるいは船に対する口利きなどを通して、密入国者送り込みに関与している。一回オーストラリアまで送り届けるだけで漁民の木造船に2億5千万ルピアも支払おう、という不法移住者の代理人の申し出に、よだれを流さない者がどこにいるだろう。船を手放せ、という場合には、かれらは目の前に5百万から1千万ルピアの上乗せ金をちらつかせる。
アリンと地元で呼ばれている東ロンボッ住民のハジ・アブドゥル・サリム51歳は、自分は密入国者送り込みの闇ビジネス組織に関わってしまった、と話してくれた。
あるとき、通称マドゥンと呼ばれているアラブ人がやってきて、船を買いたいと言った。コモド島へのツアービジネスに使うのだ、との話だったが、それは本当ではなかった。ロンボッに住む、アリンの友人でマカッサルの事業家から船を買ったマドゥンは、マタラムのホテルに泊めてあった不法移住者を迎えに行った。
「不法移住に関わったと告発されて、わしゃしまいに13日間警察に留置された。ところが不法移住者がホテルから船に移ったとき、かれらの出発手続のためにロンボッ移民局の役人と警察官数人がそこに立ち会っていたのをわしゃ見てるんだ。」

西ヌサ・トゥンガラ州警察のイマム・ハルヤッナ長官は、そのスキャンダルに関与した職員はひとりもいない、と言下に否定した。「当方職員が関与したというデータは何一つ存在していない。」就任後まだ一年未満の長官はそう述べている。長官によれば、東ロンボッ地方は密入国者送り込み活動の無菌地区であり、住民の関わりはカヤガン海岸に打ち上げられた船から中東人を救出するさいに起こっただけだそうだ。
あの事件以来、西ヌサ・トゥンガラを目指す不法移住者は雪だるま式に増えた。2000年3月から2001年6月までの間に835人がからむ8件の事件が摘発されている。そのうちの一部は、国連難民高等弁務官もしくは移住者のための国際機構に既に委ねられている。

密入国者送り込み活動の激しさは、隣の東ヌサ・トゥンガラ地方に比べて、西ヌサ・トゥンガラの方がはるかに目立っている。その地方の治安が良好であることに加えて、社会が開放的な文化を持ち、そして漁村の多くがムスリム社会であることがその現象の基盤をなしている。不法移住者がその地方を選ぶ際に影響を与えている大きな要素が、同じ宗教であるということだ。「わたしらは客を大切にする。ましてや客が、われらの兄弟、アラブ人であるなら、なおさらのことだ。」と語るアリン。
このようにして西ヌサ・トゥンガラは、オーストラリアへの密入国者送り込み代理人たちのおいしいターゲットとなっている。オーストラリアへの密入国者年間およそ1千人という数字とそれは紛れもなく関連しているのだ。


国際犯罪組織が経済利益を狙って密入国者を組織している、という可能性はないだろうか。西ヌサ・トゥンガラを記者団と共に訪れた国警本部のある中堅幹部は「その通りだ。」と肯定した。中東人やインドネシア人による密入国者送り込みはきわめて活発に行われており、そして利益も大きい。一回の送り込みで、1千万から1億ルピアの金が手に入るのだ。
国家警察幹部は警察職員の関与を否定しない、というより、西ジャワ州警察では悪徳警察職員が取調べを受けている最中だ。西ジャワ州レンバン警察署員アグス・サエフディン36歳は、アブ・クアセイから2千万ルピアを受け取ったことを自白している。

西ヌサ・トゥンガラでは、しかしイマム・ハルヤッナ長官が認めるように、シンジケートのメンバーをまだひとりも捕まえるのに成功しておらず、組織を突き止めるのは困難な状況だ。捕まってマタラムのホテルに収容されているのは、シンジケートの被害者なのである。ほとんどが中東出身の不法移住者は、目的地までの費用としてひとり4千〜7千米ドルを支払っている。

記者の質問に対してイマム長官は、不法移住者に関わる問題とその移動経路を示しただけだった。それによれば、インドネシアへやってくる不法移住者の大半はメダン、ジャカルタ、スラバヤ、デンパサルなどで入国し、オーストラリアへ渡るためにマタラムやクパンを目指す。東部ジャワ州警察のスハルトノ諜報部長は、そのルートは確立されたものであるようだ、と言う。マレーシアから来る者はタンジュンバライまで船を使い、そのあとスマトラの陸路沿いにジャカルタに至る。更にスラバヤを経てバリに渡り、そこから西ヌサ・トゥンガラ、東ヌサ・トゥンガラへと移動する。
密入国者の経路をつきとめるのにそれほど困難はないものの、現場要員不足と船の不足が予防措置に対する意欲をそいでいる。「われわれの海はあまりにも広く、一方密入国者は人のいない海岸を選んで上陸し、そこからバスを使って移動する。密入国シンジケートは、ある場所から次の場所への移動をブロークン・チェーン方式で行う。つまりかれらはお互いに仲間を知らないのだ。」と語るスハルトノ部長。
ともあれ東ジャワ州警察は、密入国活動を行っているシンジケートメンバーの名前を洗い出すのに成功した。その情報は、逮捕され、シトゥボンドに収容されている密入国者から得られたものだ。パキスタン人ザザッ・アンワル、インドネシア人スパルディ・リドワン、ダト・ヘリ、マフムド、アルベルトゥス。しかし有力な物的証拠がないことから、かれらを逮捕・留置できる保証はない、とスハルトノ部長は言う。「おまけにインドネシアの法律は密入国者送り込みを規制していないのだから。」

東ジャワにおける四つの不法移住者事件で、地元警察と移民局はたいへんな目にあった。国連難民高等弁務官と移住者のための国際機構からの認定を待つ間、最終的にその二つの機関の負担となる食費・宿泊費が2千万ルピアに達したためだ。
きっと素朴な疑問が湧いてくるだろう。不法移住者がその目的地を目指せるよう、なんで釈放してやらないのだろうか、と。
スラバヤの海軍はそれを行ったことがある。沖合いで不法移住者の船を検問したあと、目的地に向かうことができるようにすぐ解放したのだ。そればかりか、航海中十分なだけの食糧と軽油燃料まで与えてやった。スラバヤ海軍基地のある将校は「ジャワ海で不法移民船を検問したとき、拘束すると面倒なことになる、と思った。手のかかる問題になるだろう。かれらをどこに住まわせ、誰が食わせてやるのか、という問題だよ。」と語っている。
それに関してスハルトノは、「それらの費用は東ジャワ州警察が負担することになる。」と言う。

バリ州警察長官の言葉はその正反対だ。バリ州警察のスティアワン長官によれば、バリ州警察は不法移住者取り扱い経費として、国警本部から3千6百万ルピアの援助を受けているそうだ。長官はその資金の出所がオーストラリア警察であることを知っている。「オーストラリア連邦警察は、不法移住者の対応について、確かに国警と協力を行っている。バリ州警察は不法移民の隠れ家や移動経路に対して、その資金で積極的に対策を講じており、ホテルへの検問さえ辞さない。当方の積極的な対応で、不法移住者はバリにいたたまれずに逃げ出している。バリに不法移住者事件はないことを強調しておく。」との長官の談。
地理的に見れば、バリはオーストラリアへ向かう不法移住者の通り道であるはずだが、かれらはその経路を通りづらいと感じているようであり、それがバリ警察に対する印象を、西ヌサ・トゥンガラ警察や東ジャワ警察とは異なるものにしているようだ。
ならば、不法移住者問題は州によって違っているのだろうか?この問題は他の州ではきわめてややこしいというのに、バリではどうしてそうでないのだろう?
われわれは、スラバヤ海軍がしたように、オーストラリアへ行きたいかれらに「どうぞ」と言ってやりつつ、移住者問題をもっと単純化しようとどうしてしないのだろうか。
ソース : 2002年1月21日付けコンパス
ライター: Jean Rizal Layuck


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『沈没船財宝ハントビジネス』

海底で財宝が発見された、とのニュースが世評を賑わしている。今を去る50年から500年の間に海底深く沈んだ通商物品は、今や何兆ルピアもの価値を持つ財宝としてよみがえろうとしており、それを手にするためのやり方の合法非合法の違いも明確化されつつある。おまけにいくつかの航海路の海底が、莫大な財宝が眠っているかもしれない難破船の墓場ではないかとの期待から、詳しい調査とその利用に関する要望の声も高まりつつある。

「集められた歴史データによれば、海底に埋まっている沈没船はまだ何百隻もある。沈没船の財宝は1980年代から不法利用が既にはじまっていた。1986年にリアウ諸島で、マイクル・ハッチャーが1千7百万米ドル相当のデ・ヘルデルマルセン号の積荷を掠め取った事件の後、政府はやっとこの問題の統制に本腰を入れるようになった。」と語るのは、国民教育省文化総局ヌヌス・スパルディ歴史局長。
あのとき、VOCの沈没船の中でバーガー・マイクル・ハッチャーが発見した16万個の陶器と225本の黄金の延べ棒は、インドネシア政府をはじめ各方面を瞠目させた。続いて、PTムアラ・ウィセサ・サムドラ社も1989年に交付された許可をもとに、およそ1千5百万米ドルの価値を持つ、宋から元に至る時期(960年〜1368年)のさまざまな中国産陶器29,712個をリアウ海域で引き上げるのに成功した。
その同じ年、人には言えないある秘密の場所には、フロール・デ・ラ・マール号の残骸が190億米ドル相当の積荷を抱いて沈んでいる、との噂も流れた。その金額は、なんと1989年度国家予算のほぼ半分に当たる。

沈没船の墓場から得られるドルの糧の大きさに気付いた政府は1989年8月4日付けで大統領令第43号を制定し、「沈没船積載資産の引き上げと利用のための国家委員会」を設立した。その基本的役割は、省庁間調整、サルベージ実施会社に対する許認可手続と活動の監督にある。
大統領令第43号は財宝ハンター業界から好評で迎えられ、1989年8月30日に出された最初の許可以来、24民間会社が既に合法的な許可を手にした。それら発行済み許可の内容は、24箇所の海底と陸地における貴金属・中国産陶器等を内容とする財宝の探査だ。


座標の上には、所在地点とどの時代の積荷かという情報が詳しく記されている。業界事業家のひとりアンディ・アスマラは、事業家はできるだけ多くの相手と仕事および情報のネットワークを持たねばならない、と説く。「必要な場合は地元民からも情報を取ること。特に時折り海底に網を引っ掛けたことのある漁師からも。また地元の役所や外国の関係者とも協力を取り付ける必要も起こる。それどころか、外国へ、中でもオランダのハーグへ情報収集に出かけることすら起こる。」昨年西ジャワ州ブラナカン海域で、タイとベトナムの陶器数千個の引き上げに成功したアンディ・アスマラはそう語る。
世界にある埋蔵財宝地図の中で、インドネシア海域は重要地域のひとつになっている。1987年にアントニー・ソーンクロフトが著した「ザ・ナンキン・カーゴ」に記されたマイクル・ハッチャーの半生とその行動に関する記述によれば、ハッチャーは1972年からマラッカ海峡周辺海域を狙っていたらしい。
1975年、ハッチャーと仲間たちはVOC時代の航海史家と関係を持つようになる。ハッチャーはハーグのアルへメーン・ライクスアルヒーフで古文書を読むのを楽しんでいたそうだ。「ハッチャーはそこでヘルデルマルセン号の沈没地点を見つけ・・・・・更に地学と地理学の専門家マックス・デ・ラムから沈没船発見技術を学んだ。・・・・・・1983年、ハッチャーは発見した陶器がきわめて高い価値を有するものであることを知った。かれは再びリアウ海域に戻り、発見したものを総ざらえし、莫大な価格で競売するのに成功した。」

ヌヌス・スパルディは「マラッカ海峡周辺海域には、たくさんの船が海底に横たわっているはずだ。」と言う。15世紀以降、数多くの文書がマラッカの重要性を当時の航海路のターミナルとしての位置に結び付けて述べている。「ジャワ島北岸の諸海港都市やスラウェシ、マルクの港についての古文書の記載も、マラッカとは別に見ることができる。マラッカ海峡には数十隻の沈没船があり、歴史局職員はその所在推定ポイントのデータを持っている。」


1997年12月に行われた「シルクロード海港に関する学術討論」の結論を読み返してみると、難破船の墓場エリアの推測に間違いはない。「東南アジア地域の中心にあるマラッカの位置は、東アジアや東南アジアとアフリカ、西アジア、南アジアを結ぶ国際・域内の通商路のゲートに隣接していた。」(1997年、テウク・イブラヒム・アルフィアン)
当時、大小の商船はまだ風に頼って航海していた。商品を運搬する最大の容器は北東から風が吹けば南アジアや西アジアを指してマラッカを出帆し、南西風の季節になれば船はマラッカへ、更には中国、極東へと航海した。こうして船は西風や東風を利用して西から東へ、あるいは東から西へと動き、果ては中国や日本、一方ではインド、ペルシャ、アラブ諸国、アフリカからヨーロッパにまで達した。交易商品としては、貴金属、武器、焼き物やガラス器、装身ビーズ、水銀、色布や染織材、じゅうたん、真珠、絹、サテン、陶器、磁器、白檀、こしょう、クローブ、ナツメッグ、亀甲、極楽鳥の羽、錫などが大量に運ばれた。ポルトガルやオランダの武装船はそれら交易品や金貨を大量に運んだと記録されており、また中国ジャンク船も同様で、スマトラやジャワの農林産物と交換するために高価な中国の産品を大量に運んできた。
ジャワの名も重要度を増し、例えばトゥバンの名はグルシッやスラバヤといった要港と並ぶ繁華な港として馬歓が1432年に著した航海記録に登場する。ドゥマッ、プカロガン、チレボン、バンテン、スンダ・クラパも同様だ。1513年、トメ・ピレスは自分が訪れた港の名を記し、それがスンダ王国に属す港かジャワ王国の港かという分類を加えている。15世紀には既に、少なくとも24の海港都市の名が記録に残されている。


沈没船に関して集成されたデータ地図を一瞥すると、そこには驚くべき数字が見出される。財宝を抱えて眠っている可能性を持つ沈没船は、なんと463箇所にのぼるのだ。アンディ・アスマラとシネトロンスターのアンワル・フワディらも、そのデータに間違いはないと信じている。
「事業家数十人の支援を得ている6社で構成している当協会は、海底の資産が眠る所在地点の調査を続けている。中国産陶器やその他の物品は、国際競売所でファインアーツコレクションとして高値が付けられている。」
全国海底資産引き上げ利用事業者協会(Aspibbi)をフワディと共に運営しているアンディは、テルナーテ、バンカ、ブラナカンで既に陶器の引き上げに成功した。他にもジュパラ沿岸やバンカ海域のグラサ海峡で数社が引き上げを行っている。

「中国産の陶器や銭貨、ぞうげなどが入ったコンテナ43本がオーストラリア税関に差し押さえられた。見積もり価値総額はおよそ150万米ドル。インドネシア海軍の調べによれば、それらの物品は清王朝期(1644〜1912年)のもので、ベリーゼ船籍のバージ船第9WBスイスコ・マリーン号とオーストラリア船籍の探査船MVレストレスM号が非合法に見つけたものだ。探査船MVレストレスM号というのはハッチャーの持ち船であることが判明したが、ハッチャーの姿は勿論船内にはなかった。結局その二船と積荷の1万数千個の物品はインドネシア海軍が押収して解明調査を行っている。」政府の最近の姿勢のおかげでこの事実が明るみに出た、と見ているヌヌス局長はそう物語る。
ほぼ時を同じくして、オランダの骨董品市場に出回っている宋時代(960〜1279年)の陶器三千個の合法性を問い合わせる手紙もオランダから文化総局長宛てに届いた。調査の結果それらは非合法引き上げ品の疑いが濃厚となった。
「沈没船から引き上げられた骨董品の輸出はもう長い間続いていたらしい。輸出許可に関連して不正操作が行われていたのはまず間違いない。インドネシア海軍は、グラサ海峡での中国産陶器数千個の違法掠取といっしょに、その事件も糾明している。」専門分野である考古学と自分の役所の権限執行に則して、スタッフと一緒に引き上げ品の鑑定のために海軍に協力しているヌヌスはそう述べている。

海洋法の、中でも第304条に「・・・海で発見された歴史的考古学的物品を保護する職務を有し・・・」と記されているように、インドネシア海軍の責務は重い。その法令に即した海軍の活動の確立こそが、学術調査資料としての歴史的物品保護の絶対条件だ、と歴史局の職員たちは考えている。「ここ一週間、当方スタッフはバージ船第9スイスコ・マリーン号から押収した積荷の鑑定で大わらわだ。他の関係省庁も、海軍の努力を本当はサポートしなければならないはずだ。取り調べ手続きをひねくりまわした挙句、結局放免してしまった外国漁船の事件みたいなことでは駄目なのだ。」
協会メンバーはフェアプレーで行くことに合意している。おまけにアンディ・アスマラとアンワル・フワディは、歴史と考古学研究を行っている大学に対し、引き上げた物品の一部を資料として寄贈する、とも表明している。
「学術的な展示討論会を行って、海底の財宝とは何なのか、ということを世人一般に啓蒙することも考えている。」と二人は語る。これまでKKNスタイルの内緒話しでしかなかった海底の財宝問題がますますオープンになりつつある。担当省庁を通して政府は、その役割が一般大衆の利益に沿うよう支持されることを期待している。既に二十数社生まれた事業家も、決まりを守ることが期待されている。463ヶ所の沈没船推定ポイントは指標だと考えればよいのだ。危険と隣り合わせの、短期間で大金持ちにのし上がるためのターゲットなどでは決してないのだ。
ソース : 2000年6月5日付コンパス
ライター: A Subur Tjahjono, Arbain Rambey, Korano Nikolash LMS, Rudy Badil


◇◆◇
『警察協同組合本部が引き継ぐのは、マネージャーを替えるため』

近々、運転免許証発行事業の経営者が替わる。計画によれば、2002年10月からインドネシア共和国国家警察がみずから、警察協同組合本部を通じてそれを行うようになる。従来運転免許証発行の事業権は、スハルト元大統領の長女シティ・ハルディヤンティ・インドラ・ルッマナがオーナーであるPT Citra Permata Saktiが所有していた。
市民が毎日必要としている手続きを運営する事業者の交代の背景は何なのだろう?トゥトゥッ女史はもう政治パワーを失ってしまったのだろうか?

その理由はどうあれ、運転免許証手続きは議論を呼ぶことがらなのだ。不法徴収金がはばをきかせることに始まって、手続窓口を徘徊する周旋屋の振舞いに至るまで。
運転免許証を手に入れるための公的な手続きは決して複雑なものでない。申請者は住民証明書KTPとそのフォトコピーを用意してくれば良いのだ。更新手続きの場合には、現在有効な免許証とそのフォトコピーも持ってくればそれでよい。そして申請のための費用を窓口に払い込む。新規作成の場合は、続いて理論と実技のテストを受け、その両方にパスしたら、あとは写真と指紋のために呼ばれるのを待つばかりだ。その次は、待つことおよそ一時間でコンピュータが免許証を吐き出してくる。
この方式は全国的に統一されたものであり、コンピュータ化の進んだ各州警察は既にマニュアル方式から脱却している。簡単で早い、より実用的なプロセスなのである。

「かつて警察の人材は限られていたために、この分野でのコンピュータ化を進めるにあたって、民間の力に負うところが大きかった。その結果、トゥトゥッ女史に経営が委ねられることになった。だが今では、警察内部にもコンピュータに明るい人材が増えている。警察は既に能力を身につけており、いつまでも外部の力を借りるような状況でなくなってきている。だから警察が自力で経営する意志を固めた。そういうことだ。」サレ・サアフ国家警察広報部長は先週ジャカルタで本紙にそう語った。自ら経営することで経済的にも有利になり、サービス改善も可能になり、保安も向上する。経営交替による運転免許証手続きへの影響は何もない。そして料金も変更されない。「要はマネージャーが替わるだけだ。」との広報部長の談。
「都民にとっての違いは将来出てくる。計画では、各地区警察署で免許証手続きを行うようになり、現在のような首都警察の一部門が集中的に取り扱う方式から変わる。これは都民に対するサービス向上のひとつに数えられる。他の州警察管下では既に地区警察がそれを実施している。」とも広報部長は語る。
今回の事業経営交替が、PTチトラ・プルマタ・サクティ社長トゥトゥッ女史の個人的要因に発しているのではないか、との憶測を広報部長は否定した。トゥトゥッ女史は1998年にその会社から退いており、既に関係は絶えているそうだ。国家警察とPTチトラ社の間で結ばれた契約は2002年10月に期限が切れる。「今回のことは、都民へのサービス向上が目的であり、既に何年も経験を積んできたわれわれ警察は、必ずこの引継ぎがやりおおせることの確信を持っている。」と広報部長は繰り返した。

警察協同組合本部は免許証発行手続きの業務実施者となり、事業のマネージャーとして機能する。オペレータになるのは警察職員だ。この事業移管によって、警察協同組合本部が全国の免許証発行サービス事業からどのくらいの収入を得るのか、広報部長から情報は得られなかった。「数字は知らない。協同組合の方に聞いてくれ。わたしは組合理事長じゃないんだから。」
ダダン・スティスナ組合理事長に会うことはできず、またその質問に答えられる組合職員もいなかった。しかしこの経営交替が警察にどのくらいの経済利益をもたらすのかは、本質的問題ではない。重要なのは周旋屋がいなくなること、円滑金や不法徴収金がなくなること、手続きの中で故意に難癖をつけて利用者を困難な目に落とさないこと。それらのことに変化が起こらないなら、その経営交替は都民にとっていったい何の意味があるというのだろうか?
ソース : 2002年9月22日付けレプブリカ

訳者後記)10月1日付けレプブリカ紙によれば、首都警察は10月1日からの各市警察への業務分散実施を既に発表していますが、移管されるのはA種(2トン未満の四輪車用)とC種(70cc以上の二輪車用)の更新手続きだけ、とのこと。つまり従来通りダアン・モゴッでの手続きが残されるのは、その他種用の更新ならびに西ジャカルタ市住民に限ってのA種C種の更新。また新規取得は全種について、やはりダアン・モゴッでの手続となるようです。


◇◆◇
『「モールでガブブリッとブカプアサ」の季節』

16時15分、十人はくだらない女子大生たちがジャカルタのプラザ・スナヤンにやってきた。そのうちの三人はクルドゥン姿だ。周囲の人たちへの気兼ねもなしに、かの女たちはふざけあいながらプラザ内に入る。そして、中央ジャカルタ市アジア・アフリカ通りにあるこのショッピングセンターの一部をなしているメトロ・デパートの衣料品カウンターのひとつに向かって進む。

かの女たちは、その場所でブカプアサの時間を待つガブブリッをしながら店内をうろつく数十人、いや数百人のグループや個人のほんの一部にすぎない。そのような風景はプラザ・スナヤンだけでなく、ジャカルタ、ブカシ、タングラン一帯のモールやプラザのほぼすべての場所で目にすることが出来る。
メガ・パサラヤ、スギティガ・スネンのプラザ・アトリウム、ポンドッ・インダ・モール、ブカシのメトロポリタン・モール。いやそれどころかニュース・カフェさえもが、カフェスタイルのガブブリッを提供している。
一部の人たちにとって、モールやプラザでのガブブリッはチョイスのひとつ。ショッピングのためのみならず、高価で豪華な品物を眺めて目の保養、つまりウインドー・ショッピングもできる。これは都民の暮らしの側面に姿をあらわしはじめたひとつのトレンドだ。

否定できない現実として、かつて特定の人たちのものだったモダンなショッピングセンターは、いまやさまざまな社会階層が集まる場所に変わっている。ぶあつい財布の持ち主から経済的余裕のないキチキチ階層まで、そして思春期ABG(Anak Baru Gede)から老齢ABG(Angkatan Babe Gue)まで。言うまでもなくモールやプラザは以前から、とぐろを巻いたり雑談にふけったり、そして今のようなプアサ月にガブブリッをする場所として知らない者はいなかった。


ngabuburit。つまり夕方、ブカプアサの時間を待ちながら、ぶらぶらして時間をつぶすこと。ジャカルタ都民にとってブカプアサ前のガブブリッを行う場所はどこにでもある。家族と一緒に自宅で横になったり、書店で立ち読みしながら時間を過ごしたり、中にはレクレーション施設を選ぶ人もいる。ほかにもモスクで瞑想したり、アルクルアンを読んだり、スンナの礼拝を増やしたりして世俗的環境から離れ、宗教的行為で時間を埋める人もいる。
プアサ月の期間、プラザ、モール、カフェも商売として聖なる月の雰囲気を売る。快適さや涼しさ(最近のジャカルタの暑さをごらん)、そしてさまざまなトラブルに対する安心感を与えてくれる。最近とみにうんざりさせられている、人命さえ奪った爆竹の騒音からも免れていられる。
そのうえ、ディスカウント札が付けられて安く売られているさまざまな商品を見て回るのも、来店客が選べるもうひとつの行動だ。モール、プラザ、カフェの中には、演芸、ブカプアサ対談、ブカプアサ特別メニューなどいろんなプロモーションをオファーしているところがある。プラザ・スナヤンでは毎日、ブカプアサの前にギターとバイオリンの演奏が日替わりで提供されている。ハリラヤ近くになれば、日を決めてガンブス楽団による演奏も行われる。

ニュース・カフェはまた違う。ディタ広報普及担当によれば、ニュース・カフェはひとり1万5千ルピアで食べ放題の、「三人買えば四人分」ラマダン特別メニューが用意されている。南ジャカルタのクマン・ニュース・カフェでも同様で、毎週水曜金曜午後5時に放送されるラジオ・モスレムFM98.8の番組「オブロラン・プアサ」を楽しむことができる。
ブカシのモール・メトロポリタンやスギティガ・スネンのプラザ・アトリウムなどいくつかの場所は訪問客であふれている。プラザ内の店に入ろうとして行列を作っている客の姿はあちこちで見られるし、建物内の通路ではそのど真ん中を半額大安売りの臨時売り場が占領しているために人でごったがえしている。エスカレータに乗る人降りる人もそうだし、リフトにいたってはかなりの順番待ちを強いられる。
メガ・パサラヤやプラザ・スナヤンは少しすいているように見える。来店客のための通路が広く取られているので、客は歩きやすい。「客はじっさい多いよ。通路を広く取ってあるのと建物が大きいので、客があまり押し合いへし合いしているように見えないだけだ。」プラザ・スナヤンの職員のひとりはそう言う。プラザ・アトリウムの警備員マタルリも、プラザ・スナヤンの警備員イルワンも、来店客の増加を認める。「プアサ月に入ってから確かに客の数は増えているが、単にぶらぶらしにきたのか、他の人と待ち合わせるためにきたのか、それとも買い物に来たのか、はっきりとはわからない。自分で見てみたら?」マタルリはビニール袋を手にして歩いている数人のグループを指差した。

現代的ショッピングセンターにあるカフェや食べ物ワルンの多くは、おやつからもっとヘビーな食事までさまざまなプカプアサメニューを用意している。さっきの十人ほどいた女子大生グループのひとりサンティは、「ブカプアサを待ちながら店内を見て回るために、プラザ・スナヤンで待ち合わせよう、とみんなで約束しました。」と話す。プラザの表玄関前の階段が待ち合わせ場所に指定され、みんなはそこに集まってから一緒に店内に入ってきた。
「服や靴やバッグなんか見て回れるし、値段があえば買います。そうでなくても、みんなでついて回るの。」と話しを続ける。
何をしなくとも、衣料品、靴、バッグ、アクセサリーなどあちこちのギャラリーに陳列されている商品を見て回ることで、サンティのような人は落ち着いてブカプアサの時間を待つことができるのだ。

リリ夫人の話しはまた違う。夫人は姉と、プラザ・スナヤンで仕方なくブカプアサの時間を待っている。「家へ帰ろうと思っても、時間が間に合わないの。」ショッピングを済ませたばかりの夫人はそう語る。プラザ・スナヤンのど真ん中、アトリウムの大時計の下に置かれたベンチに座って、夫人は姉と時を待つ。
プラザ・スナヤンの職員によれば、プアサ月に入ってからというもの、来店客はこの二週間増加しているそうだ。ふだんは土日だけたいへんな人出になるが、今は毎日がそんな状態で、いつもよりは10%から20%の増加だと見られている。

プラザ来店客の増加がインドネシアの経済状況改善のあかしかどうか、まだよくわからない。いずれにせよ、1千万都民の中にはコップ一杯の水とありあわせの食べ物でブカプアサを行っている人が大勢いる。プアサは少なくとも、そんな満たされない兄弟たちの暮らしを感じ取ることで、信仰心を持つひとりひとりに教えを与えるためのものなのだ。
ソース : 2000年12月8日付けコンパス
ライター: Pingkan Elita Dundu


[ モールでのブカプアサは闘い]

タン タンタン ドンドンドンドンタン。緑と黄色の制服に黄色の頭飾りを締めた職員がプラザ・スナヤンの三階で打ち鳴らす太鼓の音は、ブカプアサの時を告げる合図。机に置かれた食品を前にして夕方5時半から椅子に座っていた人々は、機械的に食べ始める。暖かい飲み物と軽食を味わう前の祈りは忘れない。
数百人の来店客は、そこで営業している二十五軒ほどの食べ物店に軽食を早々に注文していたのだ。ローカルフード、ブタウィやパダン料理、あるいは西洋、日本、イタリー、韓国のファーストフードなどお好み次第。

そんな場面で幸福を感じるのは席を確保した人たちだ。なぜなら、席を確保できなかった人たちは、先に座っている人たちが席を立つまで、ブカプアサを辛抱強く、立ったままで待たなければならないから。
「遅く来たら、座るところがあるなんて期待しちゃいけない。」来店客のひとり、ユピはそう言う。席を確保したいと思うなら、ブカプアサの30分くらい前にはやってきて、すぐに席を予約しなければならないのだ。
「遅れて来たら立ってなきゃいけないのよ。」と連れのスリがユピの言葉に言い添える。ふたりはとある民間会社に勤める同僚で、ほとんど毎日プラザ・スナヤンでブカプアサを行うのは、オフィスがそこから比較的近いから。
「家に帰るには時間がかかるし、オフィスを出てすぐバスに乗れる保証もない。おまけに道路はすべて渋滞なんだから。」トゥベッに住むユピの談。スリはクジャクサアン通りに住んでおり、『ブカプアサの理想的な場所がこのプラザだ。』ということにふたりの考えは一致している。ほかの来店客のほとんどは、デポッやパムランなど郊外の住民にちがいない。


ほぼ類似の、しかしもっと混雑した光景がみられるのは、ブカシのモール・メトロポリタン。人々は一階や三階にあるドーナツ、ピザ、アヤムゴレンなどの売り場に群れ集まる。ブカプアサの時間に至るおよそ30分間、それらの場所には長蛇の列ができる。一階の売り場からは表玄関を超えて列が作られるので、モールへ入ろうとする訪問客には障害だ。
「プアサ月のはじめから、特にマグリブの時間は毎日お客の長い列ができてる。店員は少ないから、わたしたちはお客をさばくのに大わらわ。土日なんか、もうとてもじゃありません。」とこぼすのはファーストフードの店員デティ。お客があまりにも多いので、食べ終わった客があけた椅子は、汚れたままのテーブルなどお構いなしにすぐ取られる。「時には客同士の奪い合いもありますよ。」とのデティの談。

モールやプラザの食べ物店経営者は、ブカプアサ客が大勢押しかけるこのトレンドを歓迎しているようだ。競争力ある価格は、余裕なし経済階層をはじめ、中流から上の階層にも手が届く。このような状況下に、プラザやモール管理会社のできることはあまりない。かれらは、プアサ月にみんなが快適さと安全の維持を享受できるよう要請するだけ。ブカプアサを行う人は、お好みの食べ物をエンジョイする前に、席を確保するという闘いを覚悟しなければならない。
ソース : 2000年12月8日付けコンパス


◇◆◇
『ラマダンと底を打たないクライシス』

先週金曜日、タングランに住むスライマン46歳は突然、このイドゥル・フィトリが終わるまでタクシー運転手をしばらくやめる、と言い出した。かれは鶏卵鶏肉商人に仕事替えしたいのだ。そのわけは、それらの商品の需要が何倍にもアップするために、はるかに大きな収入が得られるチャンスがそこにあるからなのである。

「もしタクシー運転手の収入だけに頼っていたら、家族が必要とするブカプアサとサウルを十分満たしてやることなんかできっこない。毎日6万から7万5千ルピアの金がいるし、ルバランの準備のための支出はこれからもっと増えていくんだから。」5人の子供たちの父親であるスライマンはそう語る。
タクシー運転手の仕事で手に入る金は、平均して一日5万ルピア。ところが、ラマダン月からイドゥル・フィトリにいたるこのシーズンに鶏卵鶏肉商売をすれば、少なくとも一日10万ルピアの純収入が手に入る、とスライマンは読んでいる。いやそれどころか、イドゥル・フィトリ前の二週間は、もっと大きい収入が得られるはずだ。なぜなら、その期間のジャボタベッ地区における鶏卵鶏肉をはじめ、さまざまな生活必需品の需要が二倍から三倍にはねあがることが経験的に証明されているのだから。物価も急上昇を続けて少なくとも百パーセントは値上がりする。
「わしがそれを知ってるのは、去年友だちに誘われてルバランの二週間ほど前から卵の商売をしたからだよ。二週間でわしは卵から130万ルピアの収入を得た。西ジャワの卵商人を数人と、ジャカルタ、タングラン、デポッ、ブカシの小売商人何人かとの間にもう販売網を築いてある。」とかれは話す。


スライマンの物語りは、民衆の一部が抱える生活苦がどのようなものであるのかということを示す一例にすぎない。1997年半ばにはじまった経済危機は、いまだに終わっていないのだから。生活必需品価格は値上がりを続け、ふつうイドゥル・フィトリ祭礼前に最悪の状況になる。
都内の市場数箇所での観察によれば、今年はラマダン月に入る三日前から物価は上がり始めた。たとえば小麦粉は今年10月末、25キロ入り一袋6万5千ルピアだったのに、今週は7万7千ルピアになっている。砂糖もキロあたり3千3百ルピアから3千8百ルピアに、鶏卵もキロ当たり9百ルピア上がって今では一キロ8千5百ルピアだ。
「驚くことはない。生活必需品の値上がりはプアサ月になれば毎回起こる。いつものことだ。値上がりは更に続いて、ルバラン直前には75%から150%の上昇率になるよ。」中央ジャカルタ市パルメラ市場の鶏卵鶏肉商人アフマッ32歳の談。

食用の牛・水牛の今年の祝祭日需要はジャカルタで一日三百頭、ボデタベッ地区(ボゴール、デポッ、タングラン、ブカシ)で三百五十頭と見込まれている。つまり60日間の総需要としてジャカルタで平常供給の1万8千頭に追加の5千頭を加えた2万3千頭、ボデタベッ地区は平常の2万1千頭に追加の3千頭を加えた2万4千頭が必要とされているという計算になる。冷凍牛肉需要はジャカルタで60日間6千トン(平常の5千トンに追加1千トン)、ボデタベッ地区は平常の950トンに追加250トンで1千2百トン。これはジャゴラウィ地域における60日間の食肉需要が4万7千頭、つまり食肉8千7百トン相当ならびに冷凍肉7千2百トン、総合計15,900トンであることを意味している。
この膨大な量の食肉需要に対しては、国内島嶼間肉牛3万3千頭(食肉6,140トン相当)を手配して75%を満たす計画だ。食用牛は、ランプン、中部ジャワ、ジョクジャ、東部ジャワ、バリ、東ヌサ・トゥンガラ、西ヌサ・トゥンガラ、南部スラウェシの各州から送られてくる。
それとは別に、オーストラリアから飼育用牛3万頭(食肉8千トン相当)と特別クオリティの肉5千トンも輸入される。更に輸入業者もマーケット需要に応じて食肉を輸入する。三月までの輸入量は7千5百トンだ。
国内産食用牛の価格は、今年9月時点でキロ当たり1万3千から1万5千ルピアだった。輸入飼育用牛の方はキロ当たり11,800から12,800ルピア。そして市場の牛肉価格はキロ当たり3万7千から3万8千ルピア、と安定していた。
「あらゆる手を打っており、ジャボタベッと周辺地域でのプアサ、ルバラン、クリスマス、2003年新年と続くこの期間の牛肉供給に不足は起こらず、また大きな価格変化も起こらないことを期待している。」農業省ソフィアン・スドラジャッ畜産育成総局長はそのように述べている。

一方、ジャボタベッと周辺地域での11月12月の鶏肉需要は1日90万羽と見込まれている。この予測は、従来からの実績であるイドゥル・フィトリ前の二週間に需要は倍増する、という要因をふまえたものだ。そのために、60日間の鶏肉総需要は5,850万羽に達する。内訳は最初の20日間が1千8百万羽、ルバラン前の15日間が2千7百万羽、ルバラン後新年までの15日間が1,350万羽という内容になっている。
この鶏肉需要は国内生産で満たされる。西ジャワ州から3,510万羽(60%)、中部ジャワ州から1,170万羽(20%)、ランプン州とそれ以外の州から各々585万羽(10%)という構成だ。鶏肉(ブロイラー)価格はいま現在まだ比較的安定しており、キロ当たり1万3千〜1万4千ルピア。予測では今後上昇して1万7千〜1万8千ルピアのレベルに至るものと見られている。このような価格上昇は、急膨張する需要の後を追う業界の文化的心理的要因のせいで、統制はきわめて困難だ。

またジャボタベッ地域における鶏卵需要は一日750トンと見込まれているが、ルバラン前の三週間は需要が三倍増となり、一日2,250トンに達する。これに基づけば、11月はじめから2003年1月1日までの総需要は76,500トンだという計算になる。鶏卵供給も鶏肉と類似の配分構成で、西ジャワ州から60%、中部ジャワ州から20%、ランプン州10%、その他の州10%となっている。


政府の施策を見れば、イドゥル・フィトリまでの種々の食料品需要に対して品不足は起こらないように思えるが、問題は商人たちが繰り広げる価格引き上げ慣習の存在だ。値上がりが起こるのは、小麦粉、食用油、鶏卵、鶏肉、牛肉、砂糖など、毎年毎年同じ品目ばかりなのである。
値上がりに関して商人たちの口からさまざまな理由が述べられる。需要増の必然の帰結だ、と言う者。供給が停滞するために物流がうまく行かず、そのたびに値上がりのチャンスが開かれるのだ、と言う者。最大の疑問は、そんな生活必需品の値上がりという事実を政府が受入れようとする傾向を持っていることである。これはいったいどうしてなのだろうか?民衆の購買力がきわめて低いということは、わかりきっているはずだ。おまけに生活必需品の品不足は決して起こらない、という保証まで付けば、価格が上がるはずはないように思われる。まして50%を超えるような値上がりなどというものは。
これまで毎年繰り返されてきた経験から政府は何ひとつ学んでいないように見える。もっと奇妙なことに、政府は民衆に対して「値上がりを招かないために、買い溜めを控えるように」とまで要請しているが、民衆が買い溜めをする以前に、価格は統制されることもなく上昇を続けている。
その現実を前にするなら、政府は直ちに適切な政策を用意して物価の激動を鎮静化させるべきなのだ。いまだに終わりのない経済危機が、政府が本気で対応しない口実にされるので、ステップは確実に踏まれなければならない。だから民衆の暮らしは依然として崩壊したままで、購買力も低く、そのために生活必需品を完全に満たすことができないでいる。

物価の鎮静化について目に見える施策がなされないなら、政府の危機感覚への欠如がそこに示されることになる。まして民衆の未来への無関心もそこに明らかにされる。「ラマダン月に急上昇し、ルバランやクリスマス直前まで上がり続ける必需品の価格にパニックになっている民衆のために、政府は市場コントロールの手を何も打たないなんて、想像もできない。」PPP会派のアフマッ・ムコワン議員は批判する。
政府が早急に、ルバランとクリスマスのための食料品需要を満たすことに関連しての供給、在庫その他関連計画を検討する特別閣議を開くことを、同議員は期待している。市場での価格がコントロールできなくなったら、需給バランスを回復させるために輸入のパイプを開くことは選択肢のひとつだ。民衆には、輸入された同種の商品を選ぶチャンスが与えられる。供給は市場の需要レベルに合わせて自動的に調整され、同時に異常な方向に進んでいた価格は輸入品の抵抗を受ける。市場の状況が沈静化すれば、輸入のパイプはすぐに閉じられなければならない。
「そのようなブレークスルーはまだ決して手遅れでない。なぜなら今後の値上がりのチャンスは、特にルバランとクリスマス前の可能性が依然として大きいのだから。だからハリラヤを前にしてパニックが民衆を襲わないように、いますぐその検討を進めるのは間違っていない。」と語るムコワン代議士。
従来の実態を見る限り、イドゥル・フィトリとクリスマス前、およびラマダン月中の必需品価格の激動に対する有効なコンセプトを政府は何も持っていない、という印象が強い。マーケット・オペレーションだけを唯一の武器としているが、それは問題の根本解決を実現するものでは決してないのだ。
問題の根本は、長引く経済危機が民衆の暮らしを一層悲惨にしている、ということであり、その一例が、信仰する宗教の祝祭に必要な諸物資を手に入れることがますます困難の度を増しているという事実なのだ。職を得ることの難しさが、その状況を更に悪化させている。

勿論、民衆の悲惨に対する政府高官や政治エリートが表明するコミットメントを疑う必要はない。しかしそんな表明はしばしば単なるおべんちゃらでしかなく、めったに実現されたこともない。市場の投機商人と闘うことすらしようとしない、という一事がすべてを証明している。
ソース : 2002年11月10日付けコンパス
ライター: Jannes Eudes Wawa


◇◆◇
『ラマダンの季節、ムスリム衣装を着る季節』

イドゥル・フィトリには着飾るという伝統がインドネシア社会にある。一ヶ月間のプアサは、ルバランが来たときの盛大な祝祭をさも当然のように感じさせてくれるが、この慣習は他の大半のイスラム国と少し異なっている。盛大に祝われるのはイドゥル・アドハつまりルバラン・ハジの方なのだ。

「ハディスの中では、イドゥル・フィトリの日に新調の服を着なければならないとは言われておらず、タンスの中の一番良い服を着るように、と勧めているのです。つまり既に持っているものの中で一番良い服という意味なのです。でも一ヶ月間ずっと自分を抑えてきたから、この特別の日を祝うためにみんな新しい服を買うのにちがいありません。」ジャカルタのムスリマ服飾デザイナー、アンネ・ルファイダの言葉だ。
イドゥル・フィトリのための服とは別に、ラマダン月用に特別に衣装を用意する人は、ブカプアサ、タラウィ、コーラン読経などの集まりによく出席する人の中に多い。雰囲気に合わせて、ムスリム衣装が着用される。こうしてラマダン月にムスリム衣装を着る人が激増する。

下層階級がお客のカキリマ商人から一般の商店や上流階層を顧客とするブティックまで、イスラム者にとっての聖なる月に魅力的な姿をしたいと望むお客のために、様々な色やモティ−フの衣装が取り揃えられている。ムスリム・ムスリマ用衣装のラマダン月における販売は、他の月に比べて5倍から10倍に達する。
「今年は去年の二倍の4千着を作る計画です。ほとんどは二〜三着のズボン、上着、クルドゥンのセットで50万から60万ルピアの価格帯です。」都内各所のデパート内にある18店に製品を納めているアンネはそう語る。低価格のものは20万ルピア、そして生産の一割は80万ルピアから最高250万ルピアという高級品までカバーする。「高いものはそごうデパートからの注文ですよ。」とアンネはつけ加える。

娘のモニカと一緒にセッサ・コレクションというブランドでムスリマ衣装のデザインから生産まで行っているグスミ・ジュフリ夫人も楽観的な姿勢を見せる。「ラマダンのはじめから注文が多いのを見ると、今年のラマダンは三割増ではないか、と思います。」かの女は一セット40万ルピアから最高2百万ルピアのムスリマ衣装を4千着前後生産し、ジャカルタのデパート内にある7ヶ所の店を通して販売している。「低価格帯のものは生産を減らしました。うちのデザインがタナアバンの人たちに模倣されるので。でも良いんですよ。人それぞれが己の糧を得るんですから。」
グスミ夫人に言わせれば、購買者は年中ムスリマ衣装を着る人たちでないから、ラマダン月に販売が増えるのは当然だそうだ。「ふだんはムスリマ衣装を着ない人たちが、プアサ月のタラウィや懇親会のために買って着るんですもの。」とのグスミ夫人の談。

服飾デザイナーのラムリは、今年のオーダーは安定している、と言う。「わたしはバリ爆弾テロのインパクトを強く感じている。わたしの顧客の中で観光業界に関わっている人は多いが、外国からの観光客激減でかれらも買い物を減らした。わたしには新しい顧客がたくさんいるので運が良い。」一着50万ルピア以上の製品を売るラムリはそう語る。
15万ルピアから250万ルピアという価格レンジの中で、今年は上流購買層の動きが活発なようだ。バンドンにあるシャフィラ・プロダクション・ハウスのオーナー、フェミーは、「一年間の販売目標の50%は10ヶ月で、そして残る50%はプアサとルバランに向けての2ヶ月で、という設定なんですよ。」と話す。


ムスリム衣装を着たい、という欲求の爆発は、中流から上の階層だけでなく、下層の人たちからも感じられる。従来から繊維製品卸センターとして有名なジャカルタのタナアバン市場でもムスリム衣装販売量の爆発が見られることから、それがわかる。
「さあ、どうぞ、どれでも見てちょうだい。普通のガミス、ガミス・ブカピントゥ、スーツ、なんでもあるよ。デザインもいろいろ、色もさまざま。青、マルーン、オレンジ、緑、紫、全部そろってる。」タナアバン市場のカキリマ商人、セルフィ夫人40歳の口上。かの女は、タナアバン市場に登録されている4千5百人の商人に含まれていない季節カキリマ商人だ。かの女はほかの数百人の季節商人たちに混じって、バジュ・ココ、ガミス、ステラン、ペチ、サジャダ、ムクナなどのムスリム衣装を売って運を競っている。
「3コディ(1コディは20着)まとめて持ってく人も何人かいるし、バラで十着買ってく人もいる。要するにたくさんだわ。あたしゃ、帳面につけきれない。」ラマダンの前日には50着ほど売れた、とセルフィ夫人は述懐する。
最大級の繊維製品卸市場として、タナアバン市場の名は昔から有名だ。そこではさまざまな種類の帽子、女性用アクセサリー、衣服などが売られているほか、衣料品素材も豊富にある。タシッマラヤ刺繍製品の流通ターミナルとしても栄え、国内や諸外国など文字通り世界中にここから送り出されていく。
世間で宗教的ニュアンスの衣装、つまりムスリム衣装への消費意欲が高まっているのと平行して、この広さ8万2千平米の敷地に7,509店舗がひしめきあうタナアバン市場もいまやムスリム衣装センターに変身している。
「去年からムスリム衣装が大幅に伸びています。ブームですよ。以前は、帽子、子供服、バッグ、靴、衣料素材なんかを売ってた商人の大半が、ムスリム衣料品に目を向けて鞍替えし、そしてムスリム衣装商人として雨後のきのこのように百花繚乱ですよ。」タナアバンのNew Ed-In Modeのオーナー、エリの話しだ。

消費者は結局分散した。従来は限られた商店や販売店に向かっていた購買者が、いまやムスリム衣装ビジネスの膨張によって分散し、購入場所のチョイスをたくさん手に入れた。
「去年まで、このタナアバン市場のムスリム衣装販売はうちの天下だったのに、消費者が分散したので、うちのお得意さんは減りました。だから商品もそれにあわせて減らしてます。」と語るエリは、従来の8店を13店に増やして減った顧客の再獲得に努めている。
タナアバン商人はたいてい、インドネシア人にせよ外国人にせよ、お得意さんを持っている。インドネシア人顧客はアチェ、西スマトラ、ランプン、ジャワ、カリマンタン、スラウェシなどからやってくる。またマレーシアやシンガポールなど海外からやってくる顧客を持っている商人もいる。

タナアバンにある商店Bunda Fashionオーナーのラニは、市場での競合を軽減するには、年齢11〜15歳くらいの子供用ガミスやステランを生産すればいい、とアドバイスする。その分野はまだあまりみんなが目を向けていないからだそうだ。
値付けについては、ムスリム衣装は商店や住宅店舗での価格の方が少し高い。一番の廉価もので一着7万5千ルピア。最高は一着20万、つまり1コディで4百万ルピア。しかし果敢にも、一着25万ルピア、コディで5百万、あるいは一着30万、コディで6百万という値がつくものもある。カキリマ商人の方は、デザイン、柄、モチーフ、色、品質、価格などでほとんど違いはないものの、価格だけは一着6万5千ルピアから12万5千ルピアとほんの少し安い。
バンドンのパサル・バルで子供服とムスリム衣装を商っているルディ40歳も、今年ますます隆盛トレンドのムスリム衣装ビジネスを享受している。「在庫をこれまでの二倍に増やしてる。値段は7万ルピア前後で、ブティックに比べたら大安売りだよ。」
ソース : 2002年11月10日付けコンパス


◇◆◇
『神の恵み満ち溢れる月、ディスカウントの満ち溢れる月』

マーケットが世界の隅々に至るパワーとなったとき、商業はすべての人に無差別に関わりを持つ。宗教祭事でさえ資本主義パワーから免れていることはできない。あたかもそれは、人々の消費志向を満たす場であるショッピングセンター、モール、ホテル、レストランなどの勝利を祝っているかのようだ。

ラマダンは恵みに満ちた月。事業家たちはそこから利益をかき集める。商品は、ハイパーマーケットから人里離れた村々の店にまで、大量に流れ込む。利益原理は価格構成から割引による大量販売へと重点を移す。
ショッピングの欲望は、景品をちらつかされて煽られる。こうしてラマダン月はディスカウント月となる。ジャカルタでは、街のあちこちにある大型卸センター、モール、ショッピングセンターだけでなく、ホテル、レストラン、家具店からコンピュータに至るまで、目くるめくラマダン大廉売が降り注ぐ。

あちこちのショッピングセンターは10%から70%のディスカウントだけではまだ足りないようで、今や消費者の興味を引く新たな方法、消費者の持っている古い商品を下取りする買い替え販売を一斉にオファーしている。あらゆるものが下取りの対象になる。アイロン、扇風機、洗濯機、エアコン。なにがしかの金額を加えれば、新品が手に入る。
家具店は以前の値段より大幅に安い価格を輸入家具につけて、大割引競争の真っ只中。前は9千9百万ルピアだったイタリー製皮ソファーはたったの3,980万ルピアに下げられたが、購買見込み客がひきもきらないのはものすごい。
「新聞に広告が載って半日のうちに、前金を渡すからと言って注文した人がふたり。新聞の写真を見ただけだよ。5百万ルピアの前金を取りに来い、と言われてるんだ。」ダヴィンチ家具店の店員は語る。
自動車リース会社もルバラン帰省をねらって、アクセサリーボーナス、価格の割引、一定期間利息割引の割賦契約など、さまざまな購入パッケージをオファーしている。
「ラマダン月にホンダを買うと、景品に上着がもらえるし、他にも抽籤で自動車が当たるんですよ。」とバイク販売業者のリタ。
ジャカルタのホテルも特別価格のラマダン宿泊パッケージを用意している。ホテル・ムリアではサウルの食事付きで一部屋69万9千ルピア。プチェノガンのホテル・レッドトップはスペリアールームが37万5千ルピアで、ブカプアサがひとり4万8千ルピア。ホテル・インターコンチネンタルの予約係エコは「ラマダン期間中デラックスルームがラマダンパッケージで79万9千ルピアです。これは通常料金の135USドルよるはるかにお得ですよ。」と話す。
プラウ・マタハリとプラウ・パンタラへの交通と宿泊をセットにしたラマダン休日パッケージをPTパンタラ社は255万から430万ルピアでオファーしている。今年のルバラン休日パッケージはルバランの一日前である12月5日から12月9日まで。
「お客はたいていそこから次の観光地へ移って行きます。」ある旅行会社職員サエフディンの談。去年のルバランホリデーではさまざまなグループで総勢三百人ほどを連れて行ったが、今年はバリとのすさまじい競争に勝たねばならないそうだ。バリはたいへんな値下げで、125万ルピア払えばジャカルタ〜バリ往復の航空券とバリのホテルでの二泊がセットになっている。「この競争はとても苦しい。」と語るサエフディン。
レストランもブカプアサの料理を用意する。中華料理店やタイ料理店ですらブカプアサ料理をオファーするのだから!JWマリオットのメラニー・ソラグラシアは、「ラマダン月を迎えるために当ホテルはアラビックフードフェスティバルを開催し、中東のメニューとハイティのブカプアサを用意しております。」と述べている。
値段はさまざま。モールのカフェのようにひとり2万5千ルピアという比較的安いものから、ホテル・ムリアのジャヴァ・レストランのビュッフェメニューで10万ルピアというものまである。
時にはラマダンと直接関係ないものすら大売出しとなる。たとえばインドネシア・テレビ学院は、ラマダン月のフレッシュ&ビューティ・セミナーを開催する。担当者のンティムによれば、トップモデルや美容専門家がゲストに招かれるとのこと。一方グロドッ・コンピュータセンターは、通常価格から大幅に値引きしたラマダン特別コンピュータパッケージをオファーしている。
要するに、都民は何を買うにも躊躇する必要がない。この月、店で売られているあらゆる品物にはたいていディスカウントがある。その目的は言うまでもなく、購買意欲を高めるためなのだ。


アア・ギムからアラディンまで
ショッピング観光の街としてバンドンには今、モールからファクトリー・アウトレットにいたる様々なショッピング観光スポットができている。バンドン・インダ・プラザ以外に、この一年間でバンドン・スーパーモールとイスタナ・プラザのふたつが開店した。他にも建設工事が終わってないといえ、この11月はじめにはバンドン・エレクトロニック・センターも営業を開始。来年もバンドンには、ITCクブン・クラパともうひとつ、少なくともふたつのショッピングセンターが増えるものと見られている。

イスラム風ニュアンスを前面に出したラマダンの雰囲気を、バンドンの大半のモールで見ることができる。バンドン・スーパーモールでは、モールの回廊一杯にラマダンバザールが開かれ、ムスリム衣装や礼拝に使われるさまざまなものが売られている。バンドン・インダ・プラザ内のデパートにも、ムスリム衣装や礼拝用具の売り場が特別に設けられている。
ヨグヤ・デパートメントストアは、ムスリム衣装と礼拝用具を店の入口に箱入りで陳列し、値引き札をつけている。こうしてバンドンの各モールは競って、50%から70%の割引を消費者にオファーしているのだ。イスタナ・プラザの広告宣伝担当スタッフ、グラ・グデは「プアサ月の間はファッションフェアを行っており、テナント店は最大70%までの値引きをお客様に提供しています。」と語る。
バンドン・スーパーモールは、20万ルピア以上の買い物をすれば即ルバラン・パーセルがもらえるという景品付き販売を実施している。「景品の抽籤は一部の人しか景品がもらえないので行いません。景品付きだと、規定の金額以上の買い物をすれば誰でももらえますから。」と語るリンダ。
モール管理会社は値引きばかりに頼っているのでなく、いろんな演芸プログラムや社会活動を行って客の誘店に努めている。リンダ・タンピは、バンドン・スーパーモールは「ラマダンの光」と題するラマダン月間プログラムを用意した、と語る。その中で、イスラム的ニュアンスを持ついくつかのプログラムが開催される。ラマダン・バザールは一ヶ月間フル。ナシッ・コンテスト、ルバラン・ファッションショー、ブドゥッ・フェスティバル、人気絶頂のウラマ、アア・ギムを招いての「モールで心のマネージメント」、孤児院の子供たちに対する慈善社会活動など。
「アーティストを招いてのショーもあります。子供向け音楽から歌やコメディなどが演じられ、お客様は買い物しながら演芸が楽しめます。」とのリンダの談。


祝日の連続
クリスマスと中国正月に近いイドゥル・フィトリという一連の祝祭日は、スラバヤのショッピングセンター経営者が渇望するシーズンだ。一大ショッピングエリア、トゥンジュガン・プラザの景品付きセールにそれを見ることができる。
「ハリラヤはもっとも待ち望んでいた日だ。事業主や小売テナントの収穫期だと言えるだろう。」と語るのは、トゥンジュガン・プラザのジェネラルマネージャー、スタンディ。トゥンジュガン・プラザ管理会社にとっても、この時期はできるだけ多くの顧客を誘店するのに大わらわ。それは625テナントの販売アップのための努力なのである。おまけにスタンディが認めるように、今年の第一四半期は低調で、更にバリ爆弾テロの発生でテナントのビジネスにも多少の影響が出ていた。来店客の増加で、テナントのビジネス向上に一役買うことが期待されている。
用意された景品は半端じゃない。ヒュンダイの自動車アトス5台の抽籤は来年だ。他にも、銀行預金、VCDプレーヤ、携帯電話、テレビ、バイクなどがある。景品の抽籤はクーポンシステムで行われる。

この景品付き販売プログラムを成功させるため、トゥンジュガン・プラザ経営者は20億ルピアの予算を、スポンサー数社と共同で準備した。何ヶ月もかけての企画だ。「以前にも似たようなプログラムを行ったが、顧客の反応はきわめて良かった。」と今年も期待をかけるスタンディ。
この景品付きセールの企画の中に、マリサ・ハクといっしょにお買い物、ファッションショー、ゲーム、バザー、スターを招いてのアーティストパフォーマンスなどの催しが組まれている。平均一日6万人のトゥンジュガン・プラザ来店客を10万人に押し上げるのがその目標。それこそ、プアサの力なのではないだろうか?
ソース : 2002年11月10日付けコンパス


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『ホテルからカキリマまで』

現今、ひとに歓喜をもたらす呪われた品物を入手するのはとても簡単。持てる者はホテルやナイトクラブで手に入れる。ふところの淋しい者は路端やカキリマで手に入れる。

ナルコバ(インドネシア語で麻薬と危険薬物を総称する頭字語)は、大都市ばかりか村落部にいたるまで、社会生活の中に浸透している。このハラムな品物の流通は元締めのコントロール下にあり、その売人は監獄の中からさえ携帯電話を使ってビジネスを行う。
売人たちの元の職業もさまざまだ。国家警察本部麻薬犯罪捜査局のデータは、軍人、公務員、警官、大学生、民間職員、農民、生徒、労働者、失業者などがナルコバの売人になっていることを物語っている。2002年の一年間に行われたそのハラムな品物の売買の大半は、1,716人の失業者や民間職員によるものだ。
かれらの学歴もバラエティに富み、小学校から大学までフルレンジ。ただそれらのデータはナルコバ事件容疑者から取られたものであり、実際には捕まっていない者の数のほうがずっと多いにちがいない。犯行のほとんどはインドネシア人によるものだが、外国人の関与も年々増加しており、2001年は50人だったものが、2002年には82人になっている。

従来、向精神薬の生産地はジャカルタ、スラバヤ、バタム、メダン、ポンティアナッ、デンパサル、アンボン、あるいは広州、香港などの外国都市だった。中国の広州から向精神薬は香港を経由してジャカルタ、メダン、スラバヤなどインドネシアの各都市へと持ち込まれ、その一部は更にオーストラリアのダーウインまで流れて行く。
大麻ルートの方は、主要供給元はアチェであり、それがまずメダンへ運ばれて加工される。メダンから大麻はジャカルタへ運ばれ、そこからビアッ、スラバヤ、バリなどインドネシアの諸都市をはじめ日本の大阪にまで送られる。
すべてのナルコバがインドネシアで生産されているわけではなく、たとえばコカインはコロンビアのようなラテンアメリカの産地から送られてくる。ヨーロッパのいくつかの都市を経由しながらインドネシアまでやってくるのだ。
ヘロインやモルヒネはタイのバンコックからマレーシアのペナンへ、そしてシンガポール〜バタムというルートを渡ってくるが、それらの都市はジャカルタまでの経由地でしかない。ジャカルタへ直接送られてくるものも、もちろんある。ジャカルタからそれらはバリに送られ、そこから更にアメリカやオーストラリアのダーウインへ運ばれていくものもある。


インドネシア国内で、生産者から消費者へのルートは元締めが支配している。ナルコバ販売ルートの中で、かれら元締めはベーデー [ BD ]と呼ばれる。ベーデーにもいくつかの階層があり、大元締めから小売人つまり小元締めまでわかれている。消費者価格は経済原則に従い、流通ルートが長いほど価格も高くなるし、生産者と消費者の間が遠ければまた値段が高くなる。
しかし、ジャカルタの元ナルコバ常用者モセス23歳によれば、地域毎に独自の価格スタンダードがあるそうだ。そのレベルはその地域の経済レベルに沿ったもので、経済的に豊かな地区はナルコバの値段も高いらしい。
供給より需要が大きければ、やはり価格は高くなる。反対に需要より供給が大きければ、値段はどんどん下落する。
この違法物品の生産者から消費者への流通には、運び屋がふつう使われる。運び屋はオーダーされたものを送り届けるだけ。この方法を用いれば、元締めの身に危険は及ばない。なぜなら運搬時に捕まるのは運び屋なのだから。

消費者をからめとるために、元締めはその効果が保証済みの手口を使う。モセスが体験したような無料試供がニ三回行われ、カモの身体がナルコバを求めるようになれば、あとはいやがおうでもそれを買い求めにくる。そうなるのを待つばかり。罠にかかったも同然だ。モセスによれば、ナルコバを入手できる場所はスター級ホテル、カフェ、ディスコ、ナイトクラブなどに限らない。カキリマでそれを入手することさえできる、という。
ナルコバ流通ネットワークは自由な身の人間のみならず、監獄に入っている者すら動かすことができる。テクノロジーの発展は元締めたちの仕事をいっそう容易に、そして先端的なものにし、そして法の執行者たちの追跡をますます困難にしている。
ソース : 2003年2月24日付けコンパス


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『ビリヤード、ごろつきの遊びからメトロポリタン・ライフスタイルへ』

整った服装でネクタイを締めた男がひとり、中央ジャカルタ市タムリン通りのサリナ・ビル駐車場に停めたBMWから降りた。男の隣にはタンクトップを着たガールフレンドがひとり。ビリヤード・スティック二本を手にした若いカップルは躊躇も気後れもなくビルの二階にあがる階段へと向かう。高級ビリヤード場Afterhourがそこにある。

店にはビリヤード・スティックが備えられているとはいえ、そのカップルはより満足できるプレーが行えるようにと自分好みのスティックを持ってきた。その夜のAfterhourの雰囲気は言うまでもなく華やぎ。ビリヤードを趣味にするエスタブリッシュメント・ヤングプロフェッショナルたちは首都の真中で情熱を発散させる。盛装、香水、きらめく灯り。それが今のビリヤードの顔だ。
ビリヤードはもはや、ごろつきたちの遊びではない。かつてビリヤードという言葉には、ネガティブなニュアンスが常につきまとった。スコアガールの隠れ売春、賭博、麻薬・・・。ところがこの四年間でビリヤードは中流階層のメトロポリタン・ライフスタイルに変貌をとげた。いつ行っても混んでいる首都圏一帯のビリヤード場を見ればよい。たむろして時間をつぶしたい青年やヤングプロフェッショナルたちにとって、ビリヤードはすでに新しいボキャブラリーとなっているのだ。

中央ジャカルタ市メンテン地区に住む宝飾デザイナーのイメルダ・アユ・トリアナ27歳は、ほとんど毎日Afterhour通いだと告白する。タムリン通りのサリナ・ビルにあるそのビリヤード場でかの女は何時間も時間を過ごしている。
ふつうは夜10時ごろそこへ行って、終わるのは夜中の2時ごろだと語る、唇の近くにほくろのあるこの女性は、何時間も玉撞きをして飽きることがない。ボーイフレンドと夢中で玉を撞いているところをインタビューさせてもらったイメルダは、1994年にシンガポールの学校へ行った時期にビリヤードが好きになったそうだ。
「ビリヤードを再開したのはやっとここ二年くらい。楽しみでやってるだけ。一日働いた後でリラックスするためよ。」との談。
以前かの女は、タマン・スマンギ地区の有名なアレーナBengkelや、タマンリア・スナヤン内のGarduで遊んでいたが、ここ数ヶ月Afterhourで遊んでみてスタッフや従業員、おまけにオーナーまでが常連客にフレンドリーだと感じ、ここが自分に合っているとの評価を抱いたのだ。
一方、西ジャカルタ市のある有名大学の女子学生イスティ19歳は、タングランのスーパーモール・カラワチ一階にあるMenara Clubビリヤード場で休みを過ごす。
「カラワチ近くのわたしの家からはそこが便利なの。明確な活動なしにキャンパスでごろごろしてるよりもずっとマシな時間つぶしよ。ここでは気持ちを趣味に発散することができるわ。」19日の午前中にインタビューしたイスティはそう話す。かの女はビリヤードが好きになってもう二年になる。

ジャカルタ一帯にあるビリヤード場にイメルダやイスティのような女性たちが来ているという事実が、ビリヤードはもはやかつてのようなネガティブなイメージを持っていないことをいっそう確信させてくれる。従来ビリヤード場にいる女性というのはたいてい、さわったり、予約したり、ベッドに誘ったりできるスコアガールたちだったのだ。ところがここ四年間でビリヤードのイメージは改善され、中流階級以上の青年層に好まれるものとなった。
ビリヤード場に遊ぶ女性はもはやスコアガールでなく、ビリヤードがほんとうに好きで、それを趣味にしている人たちなのだ。「ビリヤードとはスポーツと娯楽とライフスタイルがミックスされたものなのだ。」全国ビリヤードスポーツ連合のプトラ・アスタマン会長は本紙にそのように説明している。
中流以上の階層の出であるイメルダは、あまり出費を気にしていない。プレーヤーは一分あたり6百ルピアプラス税金を支払わなければならない。一時間になおせば4万5千ルピアだ。ビリヤード台の使用料だけでその金額であり、長時間遊ぶと必ず出て行く飲み物やスナックの出費はまた別に必要だ。Afterhourのビリヤード台使用料はジャカルタの他の店にくらべて割高。Afterhourの経営者が狙う顧客層がビリヤードを趣味にするエスタブリッシュメント・ヤングプロフェッショナルであるために、それは当然と言える。
バリのスミニャッにあるリゾートホテルにも投資しているAfterhourオーナーのルディWは、「ビリヤードトレンドはメトロポリタン・ライフスタイルの一部としての姿をいっそうあらわにしつつあるため、わたしも友人たちもこのビジネスの投資には躊躇しない。」と語っている。2001年9月のAfterhourオープンは首都圏のビリヤード場の数をにぎわすものではあったが、この店はビリヤードを遊びに人が訪れるBengkelやGarduとはコンセプトがちがう。「ここはバーとひとつになっており、ビリヤードを遊んだことのない大勢の客が無料の台でトライしている。そのトライから娯楽の要素をたっぷり含んだゲームの魅力を発見し、病みつきになる。」とルディは説明している。


首都圏のビリヤード場ではほとんど毎晩来店客が途絶えない。Afterhourには一晩三百人が来店し、週末には四百人を超える。一階と二階に1千平米の床面積をとって置かれた20のビリヤード台の合間を来店客が埋めつくす。
驚くべきは、スディルマン商業センター地区にあるBengkelビリヤードホールの雰囲気。120のビリヤード台を有するこのジャカルタ最大のビリヤード場も、客足が絶えない。正午12時に開店して夜1時半に閉めるBengkelの料金は、夕方5時までが一時間Rp.21,000-でその後閉店までは一時間Rp.24,000-となる。ウイークエンドは閉店時間が午前3時半まで延ばされる。
「ビリヤードが趣味の人はみんな、Bengkelがジャカルタでいちばん広くて大きいビリヤード場だということを知ってます。」Bengkelの広報担当者エステル・リンダ・ワロッカはそう言う。
そのむかし、Bengkelはディスコティック・アリーナとして知られていた。1997年に14の台を備えたビリヤード場が作られ、2年後の1999年に拡張されてビリヤード台は45になり、増加の一途をたどる顧客のために2000年9月には百を超える台が設置されるようになった。Bengkelは若者や大学生をその顧客層としている。とはいえ、ヤングプロフェッショナル層向けにもSport Barという特別の場が用意されていて、料金は一時間3万ルピアと4万ルピア。エステル・リンダの話しでは、週末の夜9時から深夜0時までの間、ウエイティングリストは二百番に達するそうだ。待っている間、たいていの客はスマンギ周辺のカフェで時間を過ごす。「これは想像もしていなかった異常な状況ですよ。」というエステルのせりふ。

タマンリア・スナヤンのビリヤード場Garduも来店客の洪水。ビリヤード台はわずかに23で料金は3万ルピアだが、Garduはいつも来店客でいっぱいだ。そんな状況はGarduの経営者が頻繁に開催するトーナメントと無縁ではない。「これまでトーナメント開催は月8回にものぼったが、今は月2回程度にして賞品をたくさんに増やした。」とGarduマーケティングマネージャーのジュン・ハルトノは語る。
都民のビリヤードに対する関心の大きさを目にして、Garduのオーナーは6月14日、西ジャカルタ市コタ地区のホテル・ジャヤカルタに支店を開いた。「ビリヤード愛好者は増える一途だし、ウエイティングリストに名前が載ってないことがない。」と本人もビリヤードが達者なジュンの談。
スナヤンのGarduは午前10時開店で夜2時閉店だが、コタのGarduは昼12時開店の夜中3時閉店。どうやらこれは深夜まできらめきの消えないコタ地区の賑わいに合わせたもののようだ。


元オペレーション担当国家警察長官代理のプトラ・アスタマンは、ジャデボタベッ地域におけるビリヤード興隆を興味深い現象だと見る。「ビリヤードはジャカルタをはじめ大都市における青年・ヤングプロフェッショナル層にとって独自の趣味や楽しみとなっている。それはライフスタイルになっている。」とかれは語る。
おまけにこの2003年には一ヶ月に二箇所のペースでビリヤード場がオープンしている。カフェの多くも来店客用にビリヤード台をひとつふたつ用意するようになった。その傾向もインドネシアの他の都市に浸透しつつある。
ジャカルタでは、Bengkel, Gardu, Afterhourのほかに、中央ジャカルタ市ブグル・ブサル通りにZoomという名のビリヤード場がある。2002年4月19日に開店したその店は、ビリヤード台が15で料金は一時間2万ルピア、VIP料金は一時間3万5千ルピア。顧客層はクマヨラン、スンテル、クラパガディン一帯のオフィスで働く青年・ヤングプロフェッショナル。
Zoomのマネージャー、ヘンドラTは、店が賑わうのは会社の昼休み時間と退社時間だ、と言う。道路渋滞の中を動くよりも、客たちはビリヤードを遊びながら渋滞が収まるのを待つほうを選ぶ。

2002年7月3日にオープンした南ジャカルタ市パンチョラン地区ガトッ・スブロト通りにあるHanggarは学生マーケットに照準を合わせている。Hanggar経営者は学生だけを対象にしたナインボール競技大会を定期的に開催しているのだ。学生料金はどの日も一時間2万ルピアだが、レギュラー料金は昼間が一時間Rp.23,000-で夜はRp.29,000-。
近くにいくつかキャンパスをひかえたHanggarにはレギュラー台36、VIP台4が置かれ、マネージャーのミルザ・モハンマッは「ほとんど毎日14時から18時までと、18時から24時まででウエイティングリストは50番に達する。」と言う。
南ジャカルタ市パンチョランのウィスマ・アルディロンにことし6月オープンしたB-Sideは豪奢なビリヤード場に分類される。すえつけられているのは9フィートのビリヤード台が25。
タングランにもビリヤードトレンドは出現している。スーパーモール・カラワチ・ショッピングセンターの一階にあるMenara Clubはプリタ・ハラパン大学生、ムナラ・アシアやムナラ・マタハリにあるオフィスで働く勤め人、タングラン地区に住む人々らの需要を満たすものだ。
2001年7月16日にオープンしたMenara Clubは39のビリヤード台を持ち、開店午前10時で閉店は夜中の2時。料金は一時間Rp.24,500-だが大学生や特定機関に対する15%割引の特別料金がある。「ジャカルタとちがい、ここのビリヤード場は昼と夕方が賑わう。顧客層が学生や勤め人だということと深く関連している。」Menara Club副オペレーション・マネージャー、パウルス・ビンタンの談。
そうではあっても、週末には両親と子供たちという一家が連れ立ってビリヤードを遊んでいる風景もよく見られる。Menara Clubのロケーションがスーパーモール・ショッピングセンターの中にあるということとそれは密接な関連性を持っている。
「スーパーモールへ来る人の中には買い物ばかりでなく、ビリヤードやボーリングなどの趣味に向かう人もいます。」とスーパーモール・カラワチのマーケティングマネージャー、ジャニワティは述べている。このスーパーモールには、やはり今トレンド上昇中のボーリング場もあるのだ。

首都圏でのビリヤードの人気と雨後のたけのこのようなビリヤード場の新規開店は多少とも、テレビによるこのゲームの放映が影響を与えている。ANtvは毎週火曜日22:00-23:00にビリヤードゲームを放映しているし、RCTIでも毎週金曜日の00:30-01:30にビリヤードゲームを見ることができる。

「ビリヤードはプレステッジを指向するポジティブなライフスタイルに変貌した。人は単に暇つぶしや玉を撞くことだけでなく、それぞれのレベルに応じて定期的に催される競技会に勝とうとする方向付けが与えられはじめている。」この7月初旬に予定されているナインボール競技会アジア地区大会の開催準備に余念のないプトラ・アスタマン会長の談。
かつてはごろつきや売春などネガティブなことがらと強く結びついていたビリヤードが、いまやメトロポリタンの中流社会に愛好される新たなトレンドとしてイメージアップを果たしたのは言うまでもなく、予想外のことだったのだ。
ソース : 2003年6月21日付けコンパス
ライター: Robert Adhi KSP


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『税は既にあまりにも公正を欠く』

改訂を迫られている2001年度政府予算は、赤字幅を大きく広げる算定条件がやっと決まった。赤字はGDPの3.6%とされているが、国内歳入はまだ不足している。政府は5つの方針をその対策として打ち出したが、その中には、税収引上げが言うまでもなく含まれている。

「現実性がない。」「不公平だ。」という反応が即座に投げかけられた。わたしもその陣営のひとりだ。どうしてか?
税収は年々伸びているが、毎年歳入にはかなりの圧力がかかり、そして「歳入は税収でカバーされる。」と政府がいつも宣伝しているのを記憶しているだろうか?インドネシアのタックスレーショはまだ極めて低いもので、これはもっと引上げられるべきだ、と政府が毎年同じことを嘆いているのは、実に奇妙な光景だ。だから、2001年度会計赤字を埋めるためには、巷ばかりか議員の中にすら大勢いる、納税者番号NPWP未取得者にひもを付けなければならない、と言うのである。そして従順な納税者の気持ちを楽にしてやるために、「税務職員は動物園で狩をするようなことはしない。」との声明を出している。つまり、「既にNPWPを持ち、それによって毎年納税している者をつけ狙ったりはせず、職員はまだ納税したことのない者を追いかける。すなわち納税者拡大を行うのだ。」と語っているのだ。
だが、実態は違っている。従順な納税者に対して税務職員は問題を探しまくり、納税者は無駄に時間を費やされるのが嫌さに、ついには職員が欲する金額を渡す羽目に陥るのである。以前は従順に納税していた者も、結局、その収奪に備えて余裕が残るようにするため、課税収入や利益が小さくなるよう仕掛けする。おまけに、税務職員を野合に誘い込めるなら、納税額をもっと小さくするために、どうして仕掛けをより大きくしないことがあるだろうか。はじめは税を盗んだことが発覚すると制裁を受ける、と恐れていた者も、ついには怖がらなくなる。税務職員はあらゆる帳簿を徹底的に調べ、何ひとつ不正を発見することができなくとも、証明や論理の通らない「御者の議論」的やり方で問題をこしらえてくれるのだから。

納税忌避が存在するもっと根本的な理由は、収入再配分ツールとしての徴税政策とその実施方法がまったく公正を欠いているからだ。収入の大きい者は納税額も大きく、かれが納めた税は、公共のものとして誰もが無料で利用しうる、社会インフラをはじめとする物品・サービスを生み出すのに使われる。金持ちの収入が貧困住民の住む農村部のインフラ建設に使われるなら、それは収入再配分の的を射ており、社会保全網やベンチャー小企業育成に当てられるなら、もっとぴったり的を射ることになるのだが、果たしてわれらの税制はそんな公正な収入再配分を反映しているだろうか?
まったく、「ノー」だ。
国家経済を崩壊せしめたKKN(汚職・癒着・縁故主義)を使って支配者の精神的倫理的弱点をわがものとした金持ちたちがその強欲さを最大限にほとばしらせて以来、公正の欠如は明確な輪郭を伴って世の表面にその姿を表わしているのだ。崩壊したのは国、つまり政府組織の会計であることを強調しておこう。民間組織、つまり悪事をソフィスティケートに企てることのできた部分は今や大金持ちだ。主体的な納税遵守など、心理的には実現しようもない。納税者、中でも潜在納税者は、会計赤字の主因がBカテゴリー銀行の資本再建に使われる政府債券の金利支払いに関わる支出であることをよく知っている。2001年の銀行資本再建金利負担は約78兆ルピアであり、それは650兆の12%を占めていることを誰もが理解しているのである。
それらの銀行はどうして資本再建を必要とするほど経営がおかしくなったのか?それら民間銀行に預けられた民衆の金が、銀行オーナーが所有する会社の資金に使われたためだ。広く世の大衆から預かった金を、銀行家は自分自身に貸し付けたのである。そのやり方は、自分さえ良ければ良いという、好き勝手なものだった。資金も持たないで大きな会社を作ることができ、会社の資産をマークアップしたり価値を膨らませたりしたことで、工場をたくさん持つことの他に現金もたくさん持てた。そんな会社が金利の支払いや借入れ元本の分割返済を行う能力を持たないのは明らかだ。こうして債権は焦げ付く。預金者が自分の金の引き出しを求めると、銀行家自身が所有する会社の中で焦げ付きが起きているため、銀行はそれに応じることができない。ほとんどすべての銀行で預金の引出しが大量に発生し、取り付けから暴動へとエスカレートするのを政府は恐れ、こうして128兆ルピアの中銀流動資金援助ローンBLBIが下された。このBLBIでさえ、会計監査庁によれば悪用されたという。会計監査庁はその8割について、返済責任者がはっきりせず、つまり誰も責任を負わないものだと述べている。言い換えれば、その金は政府の所有権が消滅してしまったものなのだ。その穴埋めをするのは誰なのか?納税者だ。
納税者はどんな悪事を犯したのだろうか?なにもしてはいない。悪いのは誰なのか?自分の懐のためにBLBIを悪用した連中だ。BLBIを掠め取った連中よりは貧しい多くの納税者が、掠取者をさらに金持ちにするために貢がされているのだ。

BLBIの話しはそんなものだが、では銀行資本再建についてはどうだろうか。貸付金が焦げ付いた銀行は金利収入も滞ってしまった。銀行には適正な金利収入が入らないのに、経費は休みなく出て行くので、銀行は大赤字になる。赤字欠損は銀行自身の資本金を食いつぶす。そのため、あまりにも壊れてしまった銀行の多くは閉鎖させられた。銀行閉鎖に際して、大衆が預けた金は全額がその所有者に戻されなければならない。誰が払い戻すのか?国会の承認により、政府は自己の負担で払い戻すことに決めた。その金を政府はどこから手に入れるのか?このような出来事からなにひとつ享受することもなく、そして何か悪いことをしたわけでもない納税者からだ。
閉鎖や倒産の憂き目にあった銀行は、全従業員を解雇しなければならず、そうするに当たっては、労働法規で決まっている巨額の退職金を従業員に支払わなければならない。誰が支払うのか?国会の承認によって、また政府が行う。政府はどこからその金を得るのか?銀行を閉鎖に追い込むまで銀行の金を不明瞭にしてその利益を享受した連中に加わったこともない、何も知らない、罪のない納税者だ。
資本金がマイナスになっている銀行がある。適正資本比率CARが−25%から+4%の範囲にある銀行は、それが4%を超えるよう、政府が資本再建を行う。資本再建という言葉から、ひとは現金注入を想像するが、政府にそんな金はない。だから銀行は政府から債券つまり借金を認定する証明をもらう。その金額は借方に置き、貸方は資本金とし、そんな計算手順で資本金を評価資産で割れば4%になる。政府は一銭も金を支出しなくて良い。ところが、政府は資本再建銀行に負債を負ったことを表明したので、金利支払いの義務が政府に生じる。金利は毎月現金で支払われねばならないが、決して小さい金額ではない。資本再建総額650兆ルピアに対して金利率を12%で計算すれば、年間78兆ルピアと出てくる。誰が払うのか?国会の承認で、これまた政府だ。政府はその金をどこから得るのか?何も知らず、罪もなく、一緒になって銀行をかじったりしなかった納税者からだ。

コングロマリットたちは多くの国営銀行に巨額の借金を持っている。その借金の返済が滞った。コングロマリットたちは、債務元本の分割返済分どころか金利さえ支払う能力がない。だから新たな合意を求めて銀行と協議した。嘘っぱちだとしても、まだ理屈の通るだけのものを打ち出して、その借金は「リスケジューリング」というカッコ良い名前をつけて扱うことにした。つまり分割返済期間を、とてつもなく長い期間にまで延長したのだ。当時、ある噂が広まったことがある。とある著名コングロマリットの手下で、自分自身大口をたたくのが得意なミニコングロマリットが、国営銀行との間に借金返済滞納問題を起こし、巧みに政治力があるような印象を相手に与えて、85年後に完済するよう債務再編を行ったというのだ。しかもひじょうに低い金利率で。受け取れるべき金利が受け取れなくなった、この機会損失はだれが負担するのか?これも、何も知らない納税者だ。
コングロマリットは自分の銀行から巨額の米ドルを借金しているが、そのクレジット返済が滞った。その理由は、米ドルを借りたときのレートが1ドル2,400ルピアだったのに、ルピアレートの暴落で16,000ルピアまで下がり、そして8,000前後まで上がったが暫くそのままだったから、と言うのである。おかげで借金の返済が止まり、銀行には穴があき、その穴を政府が埋めた。その返済に替えて会社を引き渡せ、と政府は滞納債務者に要請した。後にそれらの会社は、もとのオーナーが再び経営するようにと、かれらの手に戻された。法的には、もはやかれらの所有ではないにもかかわらず、自由に経営するよう委ねられたのだ。明らかにかじられたのである。滞納債務の支払いに充ててさしだされた会社の評価額さえ、徹底的に膨らまされた。政府はそれによって完済されたものとした。だから1年半の間に価値は平均で4割も下落したのである。一番目立った事例は、シャムスル・ヌルサリムを債務者とするディパセナ海老養殖場のケースだ。国際的な会計監査会社クレジット・ファーストボストンの報告を根拠に、政府は20兆ルピアの評価額でそれを受け取ったが、金融界再建庁も別の国際的会計監査会社プライス・ウオーターハウス・クーパーズからの監査報告書を受け取っており、それによればディパセナの価値はゼロだった。政府はその20兆を呑み込まねばならない。もし、よしんば極めて贔屓目に見て、後日それが1兆ルピアで売却できたとしても、19兆の損は政府の負担となる。政府はその金をどこから手に入れるのか?またまた納税者からだ。
大統領自身ですら、シャムスル・ヌルサリム、マリムトゥ・シニバサン、プラヨゴ・パンゲストゥに触れてはならない、とのポリシーを表明したが、それは「かれらは会社の魂である偉大な事業家だから、自分の興した事業から引離されてそこに空白が生じると、その事業は崩壊し、会社は倒産する。」という大統領の部下が差し出した正当化に乗ったからだ。あんな事業主がいまだに偉大だと思われているのだ!米ドルの為替変動に備えもせずにドル負債を抱えるような事業家を想像できるだろうか。だから為替ヘッジも行わず、そのためドルが2,400ルピアから10,000ルピアまで上がったから損するのは当たり前で、その損害は全納税者が負担しなければならないというのか。大勢の大衆納税者の中には、為替変動に備えて対策を講じている数十万人の中小事業家がいるというのに。
中小の事業家たちは合意したスワップ・プレミアムを払って先物の米ドルを買い、ドル借入れのレートを確定している。かれらは政府に面倒をかけることもなく、非常に長期の先物で買った1ドル3千ルピアのレートに基づいて、借入れ元本の分割返済を期日通りに、契約通りの金額で完済している。そんな、善意で注意深く、スワップ金利もきちんと払おうとし、強欲でもなく、滞納債務などなにひとつ持たないで、誰に負担を及ぼそうともしない事業家たちに対する褒美はいったい何なのか?強欲と偽りと愚かさで政府に数百兆ルピアの損をかけた悪徳コングロマリットたちがあけた穴埋めのために納税という罰を浴びせられるのだ。

既に見たように、2001年度の資本再建金利だけで78兆だ。もっと多くの銀行が崩壊して資本再建の対象になるなら、悪くもなく罪もなく、経済危機で資産の多くを失った納税者の負担は一層重くなる。公正を欠くこのような状況の中で、それでも平気で徴税アップの努力が強められている。納税者はひそかに全額納税などしないようなやり方で反抗しないのだろうか?そんな状況のすべてをよくご存知の議員の中にNPWPを持っていない人が大勢いるのは不思議なことなのだろうか?この問題を良く理解している議員たちの多くが、個人資産の報告を委員会に提出しないのは不思議なことなのだろうか?

継続的税収アップに現実性がない、と言ったわたしの理由がそれだ。おまけに、本当に税収アップの意志を持っているのかどうかの疑問さえある。税制専門化フセイン・カルタサスミタ氏がおりにふれて提唱している「NPWP所有者の家にステッカー貼付を義務付けろ。国税職員はステッカーの貼ってない家を訪れて、NPWP登録をさせるだけだ。」というアイデアは一顧だにされない。
国税職員が徴税拡大に本気で取り組もうとしているなどと、どうやって信じることができるだろう。個々のコングロマリットが持っている会社をリストアップし、払い込み資本金を記入して合計を出し、そして自分の金だと言っているその資金を得たのはいつか訊ね、それに関わる税が納められているかどうか調査するようにと、わたしはかつて提案したことがあるが、誰一人としてそれを一顧だにしなかったのだから。
ソース : 2001年5月20日付けコンパス
ライター: Kwik Kian Gie   元経済財政産業統括大臣


◇◆◇
『コンシューマリズム』

1998年半ばに行ったビジネス界のひとびと数十人とのインタビューの中で、わたしは16年間広告業界で活躍しているひとりの会社社長に次ぎのような本題を離れた質問を発したことがある。
「ほとんどの場合、広告が消費パターンを決める刺激となるようにメッセージをイメージ化していますが、それはどのように行われるのか教えてもらえませんか?」
その社長はしばらく沈黙し、そして言った。「本当のところ、テクニカルな問題はデザイン屋にまかせることができるが、鍵は心理学にある。広告戦略のメインターゲットとなる人間の本能は三つあり、これは広く世間で実践されているものだ。ひとつは所有の欲望、ふたつ目は特典やステータスへの欲望、みっつ目はロマンチシズム〜性欲本能であり、それらに向けて魅力をかきたててやること・・・・。」
消費者の需要は自然発生的と信じているひとびとにとって、その答えは心穏やかでないものだろう。だがコンシューマリズムの諸問題を理解しようとレーダーを張り巡らせているひとにとっては、その広告業界者の答えは天からの啓示の一瞬であるにちがいない。

メガロマニア心理学
コンシューマリズムはコンサンプション(消費)と区別されなければならない。人間の歴史は多くの面で、消費(と生産)の歴史だったと言える。食事をするのに、素手の次ぎは葉っぱが使われ、そしてナイフ、フォーク、はしへと変化した。消費とは、あるひとつの社会=経済=文化という文脈における妥当な暮らしを目的に、物品やサービスを使うことに関連するものだ。それは適正な生存に関わっているものであり、コンシューマリズムはそれとは違っている。
大勢のひとびとにとって、コンシューマリズムとは名声を追い求めるようなものだ。そしてベーシックな経済学の書物を読んだことのあるひとにとっては、需要経済の好況さを指し示す支出の一種なのである。広告キャプテンにとってそれは、掘り尽くせない金鉱のようなものだ。そんなコンシューマリズムの実態は、どのように意味付ければよいのだろうか?
要約するとすれば、だいたいこんなものだろう。「コンシューマリズムとはでっち上げられた消費のことだ。」問題は、ある消費がそんなでっち上げ段階に達しているのかどうかをどうやって見分けることができるのか、なのである。例をあげれば、アメリカのテニススターであるセレナ・ウイリアムスは、服、バッグ、靴そして犬のためのアクセサリーをショッピングし続けていると告白している。「わたしは自分が必要としていないもののショッピングをし通しだし、おまけに自分では買ったものをめったに使わないの。」(2001年8月9日付けザ・ガーディアン)

コンシューマリズムとは、ショッピングのためのお金があるなしといった問題ではない。また消費者の本能をもてあそんで巨大な利益を掻き集めるといった問題でもない。ならばどうしてひとは、茫漠たる貧困の大海の中で不条理な価格のブランド品やサービスを買いあさるのだろうか?コンシューマリズムを理解する鍵は、「でっち上げ」消費が涅槃としてどのようにシステム化されるのかという心理学にある。
広告キャプテンたちは、コンシューマリズム対象物品やサービスがそれ自体の中に何の意味も持っていないことを知っている。それがわれわれにエクスクルシブ感覚やプライドを主張させてくれるがために、そしてまたプレステッジやステータスといったことを理由にして、ひとびとは不条理な価格に踊らされる。だがどれほど高価なステータスやプライドもすぐに過ぎ去ってしまうがために、それらすべてが実は涅槃でなかったのだ、という事実すら問題にされない。コンシューマリズムは天の上に天を追い求めることがらであるように見える。人は単に車に乗っているのでなく、ジャグアーに乗っているのであり、また単に服を着ていると感じるのでなく、アルマーニを着ていると意識するのだ。
そのような主張がもたらす強迫観念が、「でっち上げ」消費ビジネス継続の条件となる。それがなければ、ライフスタイルビジネスは滅びるだろう。だからもしわれわれが「でっち上げ」物品やサービスへの需要を抱いていないなら、ライフスタイルビジネスの広告キャプテンたちはそれを生み出すためにいかなる策をも弄するに違いない。端的に言えば、でっち上げでない消費はメガロマニア経済の大敵なのである。
たいていコンシューマリズムの領域はセラブリティ文化とのコンビネーションで決まる。インドネシアでいま引く手あまたの歌手は美容メーキャップのために月一億ルピアを使う。その女性歌手はきっと憧れの源泉となり、また見習うべき模範となる。しかし考えるチャンスを持つひとにとってそのニュースは、とあるコンシューマリストのナルシシズム物語りでしかない。

経済=政治
コンシューマリストはでっち上げ消費を実行することで自分自身に「おめでとう」を言っているナルシシストなのである。セラブリティのように自分の仮面を崇拝する姿がそれなのだ。
コンシューマリズムは社会心理プロセスに関わっているのみならず、経済=政治現象の形をも取る。コンシューマリズムがステータスやライフスタイルに関連するビジネス存続のための絶対条件となっているということは、多くのことがらにおいて当てはまる。付加価値という術語で覆い隠し、ソフィスティケーティッドにすることが好まれてはいるが、その根幹はセントラルなものだ。付加価値という術語が品質に関連せず、プライド感を主張する場で頻繁に用いられるために、経済哲学を学んだことのある人は笑ってしまうのだが、わたしが提起しようとしているのはそのことではない。
この国のコンシューマリズムは単に靴やバッグなどのでっち上げ消費に関わっているどころか、経済=政治問題に関連する腐蝕プロセスにもっと広く関与しているということをわたしは提起しているのだ。たとえばエコロジーを破滅させるスペース・コンシューマリズム、交通渋滞、さらに永遠の問題であるKKN、公共インフラの破壊・・・・。下の表をご覧あれ。

2003年度都知事、副都知事用支出予算 (ルピア)
保健医療費  都知事 1億   副都知事 1億
公用被服費  都知事 6千5百万  副都知事 5千万
飲料軽食費  都知事 2億8千8百万  副都知事 2億5千万
来客面会費  都知事 9千万
公邸土地家屋営繕費  都知事 3千5百万  副都知事 3千万
公邸電気代  都知事 9千2百万
公用車営繕費  都知事 5千2百万  副都知事 5千2百万
通信器具営繕費  都知事 1億2千万
什器購入費  都知事 1億5千万
文化用品購入費  都知事 5千万
新聞雑誌定期購読費  都知事 9千万  副都知事 9千万
ケーブルTV定期視聴費  都知事 5千万  副都知事 5千万
国外公用出張費  都知事 3億5千万  副都知事 1億7千5百万
宿泊費    都知事 1千万
スケジュール日程編成費  都知事 9千万
スピーチ原稿編成費  都知事 8億8千8百万  副都知事 4億1千万
行政・社会費  都知事 33億  副都知事 28億
(副都知事のブランクはデータ未入手。)
データソースは2003年度首都予算案ブック1

大物スピーチ原稿起草者に毎月7千4百万ルピアというのは馬鹿げた予算だし、上の表の他の予算も同様だ。この予算は計画的コンシューマリズムと言って過言ではあるまい。
ジャカルタ首都特別州の2003年度予算案は、総計11.05兆ルピアが250億膨張した11.075兆予算として承認された。(2003年1月29日付けコンパス)
つまり都議会議員のために自動車55台を購入するのを目的とした転用予算だった。

国家経営におけるコンシューマリズムは、グローバル環境下での経済=政治病理学とパラレルであり、そして英知を失った市場システムの過激さに支えられている。たとえば1999年、アメリカ国民は化粧品に対して80億ドルを支出したが、その同じ年、これまできれいな飲料水へのアクセスを持つことのできなかった世界中のひとびとのためにもっともシンプルな施設を建設するに必要な90億ドルを、国連はどうしても手に入れることができなかった。インドネシアの肖像はどうなのだろう?1997年、コンシューマリズムが拡大する一方で14万7千人の幼児が栄養不良で死んでいる。1998年、栄養不良による幼児死亡者は18万人に跳ね上った。その年の30万5千人という幼児死亡者総数のそれは59%にあたる。
この不条理な現象をどう理解すればよいのだろうか?ここにこそわれわれは、コンシューマリズムと経済=政治の関係を見出すのである。この国における暮らしの浅薄化と腐蝕はミリタリズムや暴力といった野蛮な行為のゆえだけでなく、ライフスタイルのためにでっち上げられた消費の中での柔軟で軟弱なさまざまな行為を通しても起こっている。
われわれを打ちのめす経済=政治、文化、心理状況の息苦しさは、汚職の容貌とコンシューマリズムの腐蝕性を真剣に見つめることなしに、解決を見出すことはありえないだろう。KKN、正義、疎外、貧困などの諸問題はそこに根ざしているのだ。
歴史は急がない。しかしいくつかの歴史事件は、どうやらほかのものに比べて急いで起こる必要があるようだ。コンシューマリズムが持つ腐蝕性のベールをはぐ運動は緊急課題なのである。

緊急運動
その運動をはじめた人は誰でも、この国がどうして「閉塞共和国」と呼ばれるにふさわしいかという問題の隠された根を掘り起こすだろう。即効的解決を求めるシニカルな人々の目に映るそのような運動は多分、「ああ、あれは自分が重要だと感じたいミドルクラスの一部の連中の色気だよ。」に始まって「この国の閉塞状況はコンシューマリズム批判運動なんかで克服できるものじゃない。」という非難にいたるさまざまな嘲笑のひとつとなるにすぎないだろう。
そのような嘲笑は単にナイーブであるばかりか、問題解決を大統領府、国会、裁判所といった政治的フォーマリティに担わせようとしているだけのように見える、と敬意をこめて申し上げておこう。
実際にはそれらの機関をコンシューマリズム事業家がいかに容易に買収できるか、われわれは鮮明に記憶している。そしてまた予算がどこへ蒸発し、ビジネス汚職がどこへ流れ込んで行くのかもよく知っている。6軒目の邸宅、数台目の自動車、前歯にダイヤを埋め込むお洒落、シドニーでの週末ゴルフ、そしてでっち上げショッピング・・・・。

コンシューマリズムはもちろん単なるショッピングではない。だがショッピングは、「必要に応じた消費」がすぐに「でっち上げ消費」に変貌する入口なのだ。そしてよく知られているように、この現象のあらたな中心地は、スラム地区、環境保存地区、公共スペースなどを押しのけて建設されたスーパーモールやショッピングセンターなのだ。
すべてのモールがコンシューマリズム中心地になるわけでもないが、コンシューマリズムはスーパーモールの中にとても居つきやすいものだ。そのために、そんな中心地はコンシューマリズムの腐蝕的容貌を明らかにする運動にとっての最初のアリーナとなる。
フランスの哲学者、ルネ・デカルト(1596−1650)は自分の思索成果を有名なコギト・エルゴ・スムという原理に要約した。それをもじったエモ・エルゴ・スムという言葉でコンシューマリズムを動かす衝動の概略を理解できるのではあるまいか。

女性心理分析学者レイチェル・ボウルビーはきっと同性のありさまにうんざりしたにちがいない。「キャリイド・アウェイ:ショッピングの隠れた歴史」(2001年)の中でかの女は、「多くのことがらにおいて、ショッピング(とコンシューマリズム)の歴史は女性の歴史だった。」と自分の発見を記している。かの女の著作の中に見られる多くのことがらの妥当性は、男性(および男女間の関わり)がその現象と無関係でないことを示すものだ。ボウルビーは孤独ではない。フェミニズム論評に現れるさまざまな考察の根幹には、類似の診断が数多く見うけられる。
その発見が正しいものなら、コンシューマリズム現象を変革させることは、女性がその先駆けをつとめるとき、明確な潜在性を浮き上がらせてくる。その女性たちがフェミニズム信奉者かどうかということには関係がない。この要点はきわめてセントラリスティックであり、国家指導行為に直接関係している。
国家的指導性はさまざまな要素を必要とする。カリスマもそのひとつだ。われらが国母(訳注=メガワティ大統領を指している)は、自分で支えきれないように見える、父親の残したカリスマの遺産に恵まれていることをわれわれは熟知している。かの女はすべての問題、ましてやコンシューマリズムのようなシリアスな問題を処理することができない。だからこの運動の先駆けはほかの婦人方やさまざまな女性グループが取るのがよいだろう。

2003年は投資の年だ、と国母はお触れを出した。消費者意識運動のない投資の洪水は、金庫を担いだ大旦那たちによってわが国の生活を腐蝕プロセスに落とし込んで行くだけだということをかの女は忘れている。
この運動はコンシューマリズム文化の筆頭監視人と常々見られているミドルクラス以上の階層にとってのテストケースとなる。かれらができることはたくさんあり、新しい文化階層としてのシンボルがかれらを待ち受けている。ソリシトゥス・エルゴ・スム(われ社会的関心を抱く、ゆえにわれあり)なのだ。
もしかれらの運動が始まったら、われわれは国母とオフィサーたちにふたつのことを要請しよう。ひとつは、軍警そして取締り役人がいかなる方法にせよ、この高貴な草分け運動を妨害しないようにさせること。もうひとつは、もし国母がまだひとを動かせるだけのカリスマを持っているなら、この運動を支持しかつ参加するように全国民に誘いかけてもらうこと。
さらに、でっち上げでない花と消費が存在することを願って・・・・。
ソース : 2003年3月8日付けコンパス
ライター: B Herry-Priyono  研究家、ロンドンスクールオブエコノミクス卒業生


◇◆◇
『へたりこむまでお買い物』

Shop Till You Dropというこのタイトルは、インドネシアで営業しているある外国系銀行がその顧客に対して行ったキャンペーンのタイトルから拝借したものだ。その銀行は数日間のシンガポール旅行という景品を用意した。優勝者のための航空券と出国フィスカル、宿泊と食事、おまけに現地での買い物にお使いくださいとばかり現金のお小遣いまでも。それでこそ、「へたりこむまでお買い物を!」だ。
その銀行は単にインドネシア社会に見られるライフスタイルに応じただけ。このキャンペーンの企画者は、わが国のミドルクラスにとってショッピングが最優先されるべき消費行動であることを熟知していたようだ。たとえをあげるなら、1千万ルピアの賞金は、たとえそれに使えるのが同じ1千万ルピアだったとしてもショッピングのチャンスを与えられることに比べれば、その価値は劣る。

数年前わたしはインドネシアの新聞記者団とともにシンガポールを訪問した。バスの中でガイドにわたしは質問した。訪問するべき書店はどこにあるのか、と。シンガポーリアンのガイドは喜んで教えてくれたが、訪問団の一部メンバーの反応は後進性を暴露するものだった。「シンガポールに来てまで本屋だって?」中のひとりは見下した調子で叫んだ。「電気製品を探すんだよ・・・・・!」

「質素倹約の暮らし」という言葉は日々の交際の中で耳にすることがいっそう稀になっている。だから先週、メガワティ大統領が「質素な暮らしが肝要だ」と述べたが、その表明は重要な意味を持ちうるものだ。ただし大勢の人が楽観的になれないのを責めることもできない。かつてスハルトが「ベルトを締めて行こう」との警句を吐いたことはご存知だろうが、スハルト一族が節倹の実質的なアンチテーゼとなったことは歴史が証明している。
メガワティ個人の暮らしはまだあまり公表されていない。超高価なフォルクスワーゲン・ビートルを所有していることはつとに知られているし、またかつては隣国へショッピングに出かけるのが大好きだったということも有名だ。いまやご本人が望むなら、新たな指導者のイメージを築き上げることもできる。そして国のトップレベルにいるかの女にはまた、質素な生活をすることもできる。それをかの女が実践するなら、それを手本として大勢の人が追従することも確かだ。こうしてメガワティは後世に芳名を残す大統領となる。

贅沢で浪費的なライフスタイルは、わが国の数多い災厄の根源のひとつに数えられる。贅沢指向は金の使い道を生産活動から消費活動へと向かわせる。甘えに満ち、ハードワークを嫌い、快楽主義者となるのを好むのがわが民族だ。外国産高級ブランド品を買うときは、それに輪がかかる。ますます増加する一方の借金を含めて、限りあるわれわれの財産は外国の金庫へと奔流のように流れ去る。
贅沢さは格差を生み出す。エリート層があらゆる面で贅沢なライフスタイルを実践するとき、かれらは富の再配分のために動こうとはしなくなる。富裕層は第三の需要をまかなうために一層巨額の金を必要とする。だからかれらはより高額の給与を要求し、下層階級がぎりぎりの所得で露命をつないでいることに目を向けようとしない。もっとひどいことに、自分の浪費的生活費を補うために富裕層はその地位を利用し、国の富の流れが常に自分の手に戻ってくるよう影響力を行使する。
贅沢は持たざる者の心を妬ませる。貧困はそれ自体、実はそれほど悲惨なことではない。心がもっとも痛むのは、貧しいあなたの眼前で贅沢が見せつけられるときだ。富裕層の贅沢三昧は妬みと憎しみの感情を育む。それが引き起こすであろう結果をおもんばかって、イスラムが浪費的ライフスタイルを認めないのはとてもよく理解できる。

質素はインドネシアを救う鍵のひとつだ。願わくばメガワティは、その表明に対して誠実でありますように。
ソース : 2001年12月29日付けレプブリカ
ライター: Ade Armando


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『自分が何を欲しているのかわかってる』

ジャカルタのとある大型モールの土曜日の昼下がり。わたしが子供の手を引いて歩いていると、やはり子供の手を引いて歩いている高校時代の友人に出会った。ナイトクリームで手入れしていないために「残念」な目の周りのしわを除いて十数年前とほとんど変わっていない姿のわたしを見て、かの女は驚いた。
わたしが「今どうしてるの?」と尋ねようとする前に、ノニ(という名で呼んでおこう)は感心したのか、かわいそうと思ったのか、すぐにチッチッと舌打ちし、おしろいや口紅もつけずに日焼けするがままに放ってあるわたしの顔についてコメントした。
「あんたってどういう人なの?あんたのご主人がもっときれいな子を買い食いしようとしても文句は言えないわよ。化粧は女の務めなのよ!」

そんなコメントが初めてのものでなかったにせよ、恥ずかしさは避け得なかった。色白でほっそりし、ボンディングでまっすぐにした完璧な髪、ぴっちりしたタンクトップシャツに最新型バレリナ靴をはいたノニと並んで歩きながら、わたしは本当に劣等感を感じていた。店内の片隅に見つけた、「ディスカウント70%」と書かれたTシャツを買うのをわたしはすぐにあきらめた。そのかわりにわたしは、三十代以上の女性にとって不可欠なことがらに関するインスタント講座を受けながら、ノニについて化粧品や健康・栄養補給薬品コーナーを回った。
それらの「不可欠」な商品を買うのに十分なお金を持っておらず、またクレジットカードも持っていなかったのはわたしにとってラッキーだった。読むことをおぼえはじめたわたしの子供がお話の本を買う約束を果たすようねだったので、わたしたちは書店の前で別れた。
家へ帰ってからわたしは鏡の前に長い時間立っていた。

犠牲者?
家庭内暴力の犠牲者、構造的国家暴力の犠牲者、あるいはファッションの犠牲者にいたるまで、女性が犠牲者であるという表明はもう聞き飽きた決り文句の繰り返しという印象だ。だがわたしの友人や街で見かける女性たちを見ていると、いやそれどころか鏡の前に立ちつくして目の周りのしわを見ながらナイトクリームをほんとに買おうかしらと考え込んだわたし自身を見ても、その決り文句には真実があるように思える。
美とは何だろう?ミクロネシアや太平洋の島々の女性にとって、美とは大きい乳房の豊満な肉体を指している。だからかの女たちの伝統的衣装は派手な色使いと大きな柄模様で肉体をいっそう大きく見せるようにしているのだ。ところがここ十年間、そのイメージはうつろいはじめている。スーパーモデルやハリウッド映画スターのようなスリムな身体が美しいとされるようになった。ノニやほかのインドネシア女性たちにとって、アジア、ヨーロッパ、アメリカの大多数の女性と同様、トレンド(市場)が変化させた美のカテゴリーは同一のものだ。

やせるための薬、顔の肌を白くするための要素を加えたモイスチャライザー、美容院でのボンディングヘアサービスなどが大いに売れているのは、女性がスリムな身体、白い肌、まっすぐな髪を持つことで美しく見られたいと願うことの論理的帰結であるように思える。
しかし実際には、その反対のことが起こっているのではあるまいか?薬、クリーム、美容院が売れるようにということを目的に、新しい美の定義が作り出されたのではないのだろうか?もしそれが本当なら、その新たな定義に合わせて美しくなりたいと願うわたしたちは犠牲者、つまり単なる大衆消費者あるいは化粧品業界が狙うターゲット市場にされているだけではないのだろうか?
わたしを落ち着かせないもうひとつのことがらは、「化粧は務め」だという表明だ。それはわたしに3Mを思い出させる。フェミニストの友人たちに怒りの電流を放つ3Mとは、manak(子供を産む)、macak(化粧する)、masak(台所のやりくりをする)。出産し、子供を育てるのは職業ではないというのに「女(妻)の生産性の場はどこなのか?」ですって?
子供を育てるのにわたしたちは、いつも余分な出費を必要とする。小学校への入学金が数百万ルピアもし、制服から靴下にいたる言いなり価格で学校が買わせるものも別にある。プレイステーションやタミヤ、あるいは連続テレビ映画で「合法化」された義務玩具の新型こまなど子供のおねだりもまた別にある。そのほかにも、マクドナルドのバーガーがバソ・パッ・クミスの権威を失墜させてしまったために、上昇一途のお小遣い。
美しくよそおうことも、わたしの高校時代の友人が強調したように、ますます義務として「合法化」されている。加えて台所での家政だ。低脂肪の食用油で料理しないあなたは非常識な主婦なのである。ハイコレステロールのインスタント食品産業が溢れる中、主婦は価格の一段高い食材で健康な食事を提供するよう求められている。

女は何千年もの間、非パブリック領域にいることに慣らされてきた。オイコスというギリシャ語に由来するエコノミーは、プラトーによれば、国民(男性)がパブリックの場で政治を行う前に完璧に遂行されていなければならない女(妻)の責任だったそうだ。今日でも買い物や消費が女性に強く関連付けられているのは不思議なことではない。女性心理分析家レイチェル・ボウルビーは、「…ショッピングの歴史は女性の歴史だった。」と述べている。
だが「女性の歴史が単に買い物の歴史でしかない。」というのは本当だろうか?女性は犠牲者でしかないというのは本当なのだろうか?

変化エージェント
女性は犠牲者だという決まり文句に抵抗を感じるなら、その実態をくつがえすのはいまだ。衣、食、住、化粧品、自動車、娯楽などの過剰な消費は、家庭、地域、国のレベルで赤字を生んでいる。
もしわたしたちが健全な知恵を持っているなら、特定の食用油を買うのみならず、何が本質であり、何が飾りなのかを見分けることができる。
ビジネスや宣伝の場で女性は犠牲にされている。だから女性がそれをいま変えなければならない。消費指向のライフスタイルを弱めて行く運動は女性がはじめるべきだ。だって諸費指向の強い商品は女性をメインの目標マーケットにしているのだから。女性が「ノー」と言うのをはじめるべきなのだ。

その方法は?ショッピングを批判的に行うこと。わたしたちがまさか、市場の嗜好に操られているなんて。もし神がわたしに縮れた髪を与えたのであれば、いったいどうして何百万ルピアも払ってその見かけを変えるために美容院へ行かなければならないのでしょう?
ユニークさや個性化は、このグローバル・カンポン(村)で権威ある重要なこと。だからどうしてひとりひとりが自分のユニークさを創出しようとしないのだろう?自然にほころびた高校時代からの古いジーパンを履くのは、工場で人為的に破れ目をつけた新しいジーパン以上に、わたしには権威のあることだ。
30億ルピアのフェンスで阻まれたためにますます稀少になったクトゥパッ・サユルをモナスで買うのが、どうして新たな権威にならないのだろう?同僚がBMWに乗っているのを横目に自転車で出勤することが、誰にできないことがあるだろう。それはユニークであり、新しい権威なのだ。

とても質素で増加する一方の虐げられた貧困層や学校ドロップアウト児童のために、(夫の)収入の一部を苦労して分けてあげるマザー・テレサにわたしたちがなる必要はない。わたしたちはモダンで美しく、権威を持ち、ユニークなライフスタイルを持ち、個性化された自分であろうではないか。市場の嗜好に蹂躙されることを嫌い、需要に則して買い物をする自分であろうではないか。そして顔をあげて言おう。「わたしは自分がなにを欲しているのかわかっている。(水はソーダじゃない)」と。
ソース : 2003年3月8日付けコンパス
ライター: Adeline MT Driyarkara哲学院学生、元ジャーナリスト、一児の母


◇◆◇
『ジャカルタとアジア諸都市の物価レベル比較』

お金をたくさん持っていて、ショッピング好きで、おまけに外国にまでショッピングに出かける『あなた』。いまやあなたにとっては、検討項目がいっぱい!アジア諸都市の物価レベルはもちろんそのひとつ。

あるときあなたはある国で、ここはショッピングが安くできると感じるだろうし、ほかの国ではその同じものが高いと思うだろう。ある都市では、ある物は価格が安いが、ほかの物は高いと感じるかもしれない。一方、ある都市では去年さまざまな商品が安いと評判になったのに、今年は消費者の懐を慰めてくれる商品はもう売られていないかも知れない。

ある国における市場開放のレベルが商品の価格レベルに反映されているということをも含めて、そのようなバリエーションを解明してくれる調査がある。アジアウオールストリートジャーナル誌がアジアの12都市で今回二度目の、ショッピングセンターにある商品とサービスの価格調査を行った。調査結果は商品カテゴリーのその都市における価格レベルが、全対象都市で集められた価格の平均値に対してどのくらい離れているかという対比で表わされている。今回ニューデリーでの調査が取り消されたのは、およそ50の調査対象商品の中でわずか5つの商品しか見つけることができなかったからだ。
調査対象とされたのは、家電品、書籍、化粧品、デザイナー商品、飲食品、時計装身具からインターネットアクセス料金やドライクリーニングに至るさまざまなもの。それらの対象商品は概してブランド品から成っている。ちなみに香水・化粧品カテゴリーの中には、クラリンス・ビューティフラッシュバーム、バイオサーム・ハイドロデトックス・デイリーモイスチャライジングクリーム、ラルフローレン・ロマンスEDTなどが含まれている。
規準はアジア諸都市における価格の平均値だ。この調査結果は次ぎの表1と表2に示されているが、これは消費者物価指数を示しているのでなく、国別の価格レベルを描き出すものだ。表1はカテゴリー別都市別の比較を示すもの、表2は全商品カテゴリーの国別平均値を比較したものだ。

表1
電気製品・コンピュータ  最高シドニー(19%)  9位ジャカルタ(−4%)  最低シンガポール(−8%)
書籍・メディア  最高東京(32%)  3位ジャカルタ(12%)  最低クアラルンプル(−18%)
香水・化粧品  最高ジャカルタ(29%)  最低シンガポール(−12%)
デザイナー商品  最高上海・シドニー(11%)  4位ジャカルタ(2%)  最低香港(−12%)
飲食品  最高東京(29%)  5位ジャカルタ(7%)  最低マニラ(−29%)
時計・装身具  最高東京(20%)  3位ジャカルタ(11%)  最低上海(−24%)
その他  最高東京(37%)  5位ジャカルタ(−7%)  最低クアラルンプル(−34%)

表2
2003年            2000年
東京(19%)          東京(19.8%)
ソウル(10%)         ソウル(13.7%)
ジャカルタ(7%)        上海(10%)
香港(3%)           シドニー(2.9%)
バンコック(−1%)       バンコック(1.8%)
シドニー(−2%)        ジャカルタ(0.19%)
上海(−3%)          マニラ(−0.2%)
台北(−6%)          ニューデリー(−1.4%)
シンガポール(−6%)      台北(−3.3%)
マニラ(−9%)         香港(−8.4%)
クアラルンプル(−11%)    シンガポール(−14.2%)
                 クアラルンプル(−14.4%)

2000年のジャカルタは安いほうから数えて7位だったが、2003年は9位になった。
「ほかのアジア諸都市に比べると、ジャカルタは価格高の街だと思う。」小売企業のマネージャー、イルファン・クリスタントはそう言う。アジアの諸都市へ頻繁に出かけるかれにとって、価格比較は難しくない。ジャカルタで2千万ルピアする、ある有名ブランド腕時計を例に取れば、香港だとそれは1千4百万ルピア前後。高額商品の規準は有名ブランド品だ。
「ブランド品について言えば、ジャカルタは価格の高い都市に入る。一方ありきたりの家庭雑貨を比べれば、ジャカルタは価格の低い都市だ。ここ2年来の庶民の購買力低下がそのような商品の平均的な価格低下を引き起こしている。」


価格の点を言うなら、クアラルンプルはショッピングファンを引きつける街だ。2000年も2003年も、この調査でクアラルンプルが一番安い都市となっている。1998年、ほかの国と同じようにマレーシアもクライシスに襲われた。国内各所での商業エリア建設は33億ドル相当が一時的にストップしたが、三年前に大型モール三軒が完成して多くの商店が店開きした。
「かつては見つけるのが困難だった有名ブランド品が、今ではそれらの店に陳列されている。」というビル建設者・ショッピングセンター経営者協会リチャード・チャン会長の言葉を同誌は引用している。
同時に店舗テナント料金が下がったために、小売商人がショッピングセンターに殺到した。政府も関税や諸税の大幅減税を行った。たとえば皮革製品の関税は20%下げられた。一方コンピュータや周辺機器の関税は10〜30%の低下。

この調査で興味深い点がいくつかあげられる。2000年には廉価3位にいた香港が今回の調査で8位に下がった。一方前回10位にいた上海が今回は6位に上昇している。
インターネットやドライクリーニングなど、その他カテゴリーの価格も上海は(−31%)と安い。クアラルンプルにとって上海は、今のポジションに取って代わる可能性を秘めた手ごわい相手だ。上海は将来最も魅力的なショッピング都市になるかもしれない。


同一商品が場所によってどうして価格が異なるのか、という疑問が出されるに違いない。価格差を引き起こす最大のファクターはまず政府の課す税金。高い税を課す政府は自国の街を価格高にする傾向がある。たとえばルイ・ヴィトン製品が香港より中国で高いのは、中国政府の課税率が中国で大きいからだ。
だがそれ以外にも、価格を高くするファクターはある。為替レートの変動、通商バリヤー、運送コスト。あるいはまた別の重要なファクターとして、ショッピングセンターの地代家賃もあげられる。香港、東京、上海の地代家賃はクアラルンプルより高い。しかし実は、商品の価格レベルはその社会の購買力で決まるという説もある。
「その街での消費者購買力が、ほかのファクターに増して価格決定の重要因子となる。」ロンドンに本拠を置くエコノミスト・インテリジェンスユニット編集長、ジョン・コペステークの談だ。

消費者にとって上の表2はあまり興味深いものでなく、各商品カテゴリーを示す表1の方にはるかに興味が湧くことだろう。コンピュータを買いたい人は、シンガポールへ行くのがよい。だってそこが一番安い電気製品ショッピング都市なのだから。一方、香水・化粧品の購買者は決してジャカルタへ来ないだろう。なぜならそこが価格のもっとも高い都市なのだから。


ジャカルタの各所にショッピングセンターを林立させてきたデベロッパーたちは何を考え、そしてかれらの脳裏には何が浮かんでいたのだろうか?ここ2年ほどの間に、チランダッ、プルマタヒジャウ、マンガドゥアをはじめあちこちの場所にショッピングセンターが建設された。ところがこの調査によれば、ジャカルタは価格高の都市であり、ショッピングの魅力があるようには見えない。別の面からも、多くの事業家が嘆いているように、庶民の購買力はまだ低く、ショッピングへの駆動力はまだまだ弱い。これは例外現象なのだろうか?

飲食品事業者連盟のトーマス・ダルマワン会長は、クライシス後短期間で急速な発展を見せたジャカルタでのショッピングセンター建設の状況に首をかしげる。
「世の中の購買力のアップと同期していないこの展開に、わたしは不安を感じている。」と同会長は懸念を表明する。
食品産業界にとっては特に、食品を扱うショッピングセンターや商店の増加は販売増につながるものだが、世の中の購買力が上がってこなければそれらの販売ポイントで長期在庫が発生するかもしれない。賞味期限を超えれば問題が起こる。そのような事態になるのであれば、ショッピングセンター増加は食品産業界の真の発展には結び付かない。

別の小売業経営者も、世の中の購買力はまだ低いと語る。生産者や小売業界にとって値上げがいかに困難かという事実がそれを証明している。ほんのわずかな値上げでも売上が低下するのだ。
その対策としてかれは新戦術を編み出した。かれは特定商品の価格を2年間据え置きにすることにした。そして生産者への発注のさいにかれは、原料のクオリティを下げるように提案した。従来と同じ原料を使っていれば、価格が上がらないはずはない。購買力がまだ弱い現状で値上げは不可能だから、品質を下げるしかないではないか。

インドネシアで今起こっているのは何だろう?庶民の購買力に依然として元気がない反面、モールがあちこちに建てられ、そしてショッピングをしに大勢が続々と外国へ出かけている。おまけに貧困が国の中のあらゆる間隙を埋め尽くしている。この国はもちろんユニークで、そしてパラドックスに満ちている。
ソース : 2003年7月8日付けコンパス
ライター: A Maryoto


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『プライバシー、ポルノグラフィー、ジャーナリズム倫理』

ピーターパンのアリエルとアーチストのルナ・マヤ並びにチュッ・タリに似た人物のビデオが出回っていることに関する報道では、地方部の印刷メディアのほうがジャカルタで出されているメインストリーム全国紙よりずっと華やかだ。たとえばゴロンタロで発行されているある地方紙の2010年6月9日付け第一面には、世間を騒がせているそのビデオ画像から取られた数枚のカット写真が並べられている。そのようなビデオの内容を公表することは報道倫理規定に違反し、またプライベートな個人生活とポルノグラフィに関する法規にも違反していることをその新聞は理解していなかったにちがいない。翌日の同じ新聞では、普通は倫理規定がより手厚く保護しているはずの一般市民のプライバシーに関わる事件にもセラブリティ関連記事と同じ手法が使われた。ゴロンタロ州ポフワト県のある郡役所公務員の私生活を写したビデオのカット写真がふたたび第一面を飾ったのである。ビデオの内容をカット写真の形で新聞が公表したことによってその公務員の婚約は崩壊し、本人も解雇の恐怖におびえている。
反対に、ジャカルタのメインストリーム全国紙はアリエル似の人物が出演しているポルノビデオのカット写真などまったく掲載していない。新聞に掲載されているのは顔写真・漫画・カリカチュアなど報道倫理規定と法規に抵触しないのが明らかなものだけだ。そこから言えることは、ジャカルタの印刷メディアはこの問題に関して持っている深い理解のおかげで、かれらの報道内容が持つべき限界に対してセンシティブであるということだ。
< メディアの謝罪 >
ジャカルタの印刷メディア界では、センセーショナルメディア二社が携帯電話のカメラで録画されたビデオ画像を掲載したために読者からの抗議と報道評議会からの警告を受けた。2007年8月、児童救援同盟はランカスビトゥンの中学生男女カップルとチバダッの高校生男女カップルが行なっているセックスシーンの写真6枚を掲載した新聞を首都警察と報道評議会に告発した。第一面トップニュースの一部として掲載されたそれらの写真には登場人物の顔がはっきり写っており、記事の中で名前は伏せられイニシャルだけの表示になってはいるものの学校名が明記されているためかれらを探し出すのは難しくない。
インケ・マリス率いるNGOである児童救援同盟はその新聞を2002年児童保護法違反で訴えた。児童保護法第13条には「子供は経済的性的搾取から保護される権利を持つ」と記されている。
同じときに、ジャカルタの別のセンセーショナル新聞も猥褻ビデオのカット写真を掲載したため、法規を犯したとしてポルノ拒否市民の会から報道評議会に訴えられている。2007年9月に報道評議会は両新聞の責任者を呼び、それらの写真を掲載したことに対する謝罪記事を出すよう奨めた。両新聞は第一面に謝罪記事を載せ、そのような素材を二度と掲載しないことを表明した。
法的にそれら未成年の写真の公表は児童保護法第13条に対する違反だが、報道倫理規定に対してもふたつの違反行為を犯している。まずプライバシー、つまり個人生活の尊重に対する違反であり、次に16歳未満の犯罪実行者に適用されるべき未成年児童に関する報道における保護条項が侵されているのである。
< 焦点はビデオ公開者 >
プライバシー問題をあたかも公共問題であるかのように報道するインドネシアのメディアのふるまいは、ピューリタン的インドネシア社会が持っている観念を反映するものである。2008年5月にジャカルタのドクトルストモ報道学院で行なわれた討論会で小説家で批評家のアユ・ウタミは、インドネシア社会にプライバシーはまだ十分理解されていないと発言した。そしてまた、報道機関運営者はプライバシーと公共のふたつの概念の違いに関する国民の認識欠如を再生産する強い傾向を持っていることを指摘した。アユ・ウタミの見解は、インドネシアの報道機関がタイトルから記事内容の全体に至るまで、プライバシーを理解せず配慮も払わない一般大衆といっしょになってはやし立てている従来からの報道姿勢にぴったりあてはまるものだ。プライバシーがらみのできごとを相対的に扱うことを知らない文化の中で、一般大衆の反応の渦に感情的に呑み込まれた記者からはいっしょになって騒ぐお祭り的雰囲気の記事が生み出される。
プライバシー関連のできどとに関する報道の中に、事件の焦点になっている者の本名・職業・住所などが頻繁に公表されている。それどころか、ジャンビ州議会議員が群衆に踏み込まれて服を着る暇もなく裸の胸をさらしている写真を載せた新聞すらあるし、プカロガン地方政府の男女役職者が裸で抱き合っている姿の写っている写真を上半身部分だけ掲載した新聞もある。
外国の報道機関が行なったプライバシー関連報道の実例を見てみよう。2002年10月シンガポールのザストレーツタイムズは、青年カップルがふたりだけの睦事を行なっているところを写した15枚のポルノ写真がインターネット上で公開されているという記事を報道した。それは別れたばかりのカップルの男性がEメールで流したものだが、プライバシーを侵された被害者女性はもとより公表した男性についても裁判所は名前や写真その他一切のアイデンティティの公表を禁じ、報道界もそれに従った。なぜなら、それは元恋人の男性にプライバシーを侵害された被害者女性のプライバシーの権利に関わっているからだ。
恋人女性への嫉妬からその写真を流した男性は4年3ヶ月の懲役判決をシンガポール地裁で言い渡され、裁判所は写真の登場人物に関する匿名性をまっとうした。このように裁判所と報道機関はポルノ写真制作者でなく公開者に焦点を向ける方向性をとったのである。その事件では、制作者のひとりと公開者が同一であったことから、裁判所と報道機関は公開者の身近な人間である被害者女性の名誉を重んじて公開者のアイデンティティすら公表しなかった。男性が公開者として名前を公表されたとしても、一般大衆は容易にその女性を特定することができたに違いない。もし公開者と被害者の間に何の関係もなかったのであれば、裁判所も報道機関も公開者のアイデンティティを公表することに躊躇しなかっただろう。なぜなら犯罪を犯したのはその者なのだから。
ソース : 2010年6月10日付けコンパス
ライター: Atmakusumah Dr Soetomo報道学院教官、ジャカルタメディア放送学校教官、報道オブザーバー